アストラル・オース〜白い羽根の君に誓う、最強勇者の恋〜 のすべてのチャプター: チャプター 51 - チャプター 59

59 チャプター

第51話 出ない炎、消えない力

「なんでだよ!なんで出ないんだよ!」 腕から剣へ、力を押し込んだ感触は確かにあった。なのに、差し向けた刃の先には何もない。青い光は鋼に薄く残ったまま、迫ってくる黒い影を押し返してはくれなかった。 息を吐き切った喉がひりつく。もう一度吸おうとした胸を、呪いの痛みが内側から締めた。途切れた呼吸をつなぐより早く、頭上で甲高い笑い声が跳ねる。「あれぇ? 今、何かするつもりだった? かっこよく構えて、それでおしまい?」 ルキュは崩れた石壁の上で、足をぶらつかせていた。顔を向けかけた俺の右側で、別の羽音が膨らむ。近い。胸元へ伸びる爪を見て、俺は踏み出した足を横へずらした。 靴底で石の粉がじゃりっと鳴る。アストラル・オースを斜めに立てると、爪が刃を擦って外へ流れた。手首を返し、がら空きになった胴へ打ち込む。悪魔は床を転がり、後ろから来た一体の足を巻き込んだ。 剣は動く。狙った場所へ、少しの狂いもなく届く。それなのに、さっきの技だけが出ない。 淡い星の紋章へ目を落としかけた、その一瞬だった。倒れた悪魔の陰から、もう一体が低く飛び出した。左の肩口へ爪が迫る。刃を戻すには近すぎた。「しまった!」 背後で大きな羽音が重なり、金色が視界の端に広がった。「天柱の矢(アストロアロー)」 ミユウの声とともに、光の矢が俺の頬のすぐ横を走った。肩を引いた俺の前で、悪魔の胸に金色の光が突き立つ。爪の先が空を掻き、その体は後方の石壁へ弾き飛ばされて動かなくなった。 止めていた息が、ようやく漏れた。ミユウが左隣に足をつき、六枚の金の翼を狭める。頬にかかった黄金の髪も払わず、きゅっと唇を結んで俺を見た。「お兄さん、剣ばっかり見ないで。わたしの声、聞こえてる?」「ああ、聞こえてる。次が来る、少し左に」 正面の二体が左右に分かれた。一体は俺へ、もう一体はミユウの翼の外側へ回り込もうとする。二人の間を広げられたくない。俺は彼女の前に半歩出て、剣を低く構え直した。「そこを動かないでください」 ルゥの声が羽音を裂いた。俺たちの足元を避けて水が走り、砕けた床の溝で白く波立つ。悪魔の爪が届く寸前、水はせり上がって二体をさらい、続く影ごと壁際へ叩き流した。 飛沫が熱を持った頬を打った。冷たさに瞬きをした向こうで、黒い翼が水に押し伏せられる。俺は剣先を下げず、流れの縁から突き出た爪を弾いた
続きを読む

第52話 星の剣が応える時

「ほらほら、もっと楽しませてよ。」 掲げた剣の向こうで、ルキュが指を振った。上空に群れていた影が散り、一つが俺の肩越しに急降下する。風を裂く音の先には、ミユウの金色の翼があった。「危ない!」 ミユウが翼を畳んで身を引く。俺はその前へ踏み込み、頭上の剣を斜めに振り下ろした。 靴底で石の粉が滑った。それでも腰を落とすと足が止まり、刃だけが狙った場所へ走る。悪魔の爪を断ち、その影を斬り抜けた剣は、ミユウに触れるはるか手前で静まった。 痺れた指に、柄の硬さが残っている。力任せに振ったときのように、腕を持っていかれることもない。これほどの力を、自分の手で止められた。その手応えが、冷えた身体の奥を熱くした。「ありがとう、お兄さん!」 無事な声に頷く間にも、別の影が迫る。刃を返して迎え撃つと、頭上からさらに羽音が重なった。斬っても斬っても、穴から降りてくる数が減らない。「おぃ、ルゥ!早くなんとかしろ!」「剣を止めずに聞きなさい。思い出しました」 足元を水が走り、左から飛び込んできた悪魔を押し戻した。頬へ散った飛沫の冷たさに息をのみながら、俺は空いた場所へ踏み直す。「古文書にあった、伝説の勇者の技です。名はアストラル・ノブァクレスト。ただし、力を注ぐだけでは発動しないと記されていました」「どうすれば出せるんだ」「何を守るために、その剣を振るうのですか」 次の爪を受け止めた拍子に、胸の奥が縮んだ。息が浅くなる。押し返そうとしていた腕から余分な力を抜き、剣を傾けると、敵の爪が刃を滑った。崩れた懐へ踏み込み、一息で斬り払う。「お兄さん、右にもいる!」 ミユウの声が近い。視界の端では、六枚の翼が広がっていた。ルゥも俺の反対側へ回り、水を足元に引き寄せている。 俺が息を整える間も、二人は敵から目を離していなかった。 さっきまで、その背中に守られていた。助けられなければ立っていられなかったくせに、俺一人で何とかしようとして、また二人の姿を見失いかけていた。 柄を握り直すと、ミユウがこちらを見た。唇を結び、俺の言葉を待っている。「ミユウ、右を頼む。ルゥは左を」「うん。お兄さんは前を見て」「わたしたちが作った隙です。無駄にしないことですね」 いつもの言い方に、強張っていた喉がわずかに緩んだ。 二人がくれた時間を使おう。守られるだけで終わりたくない。同
続きを読む

第53話 不器用なプロポーズ

「はにゃっ?!」 ミユウの笑顔のすぐ脇で、黄金の翼が光をこぼした。傷ついた石床に落ちた輝きは、触れる場所を探すように揺れてから薄れていく。肩へ手を伸ばしたときには、そこにあったはずの顔が、俺の胸よりも低い位置に下がっていた。 黄金の髪を銀白色が染め直していく。長かったドレスの裾も光にほどけ、その下から見慣れた黒い服が現れた。ミユウは足元を確かめ、慌てて背中へ手を回す。指先に触れた白い翼は小さく、羽ばたかせても髪の先をわずかに揺らすだけだった。「あれだけ戦ったのです。力を使い切ってしまったのでしょう」 ルゥにそう言われても、ミユウは背中から手を離さなかった。羽根の感触を確かめるように指を動かし、それから、何もつかめなかった手のひらを見つめる。「さっきまで、できてたのに……」 もう一度翼に力を込めたらしく、肩が持ち上がった。けれど足は床から離れない。小さな踵が浮いて戻るのを見て、俺は差し出しかけた手を止めた。すぐに助ければ、できなかったことを突きつけてしまう気がした。「わたしも、お兄さんと戦えたのに」 黒い服の裾が、指の間でくしゃりと潰れた。俺を見上げようとした瞳が途中で伏せられる。唇を結んでも息が震え、こらえきれなかった涙が頬を伝った。「こんなちっぽけで弱いわたし、嫌い」 その言葉を聞くほうが、泣き声を聞くよりつらかった。 俺には、さっきまで隣にいたミユウと、今目の前にいるミユウの間に、そんな境目はなかった。手を握り返してくれた温もりも、共に戦いたいと言った声も、まだ身体に残っている。小さくなったこの手から受け取ったものを、どうして本人だけが、なくなったことにしてしまうんだ。 強かったぞ、と言いかけて飲み込んだ。それでは彼女が惜しんでいる姿ばかりを褒めることになる。今、俺の前で泣いているミユウに届く言葉が欲しかった。「じゃあ、俺がこうすればいい」 足裏の石の粉を踏みしめ、彼女の背丈まで屈んだ。疲れの残る膝を曲げると、制服の布が張った。片膝をつき、もう逃げ場をなくすほど近寄らないように、少しだけ間を残す。 濡れた睫毛が、何本か束になっていた。拭いてやろうとした俺の手を見て、ミユウが息を止める。その頬へ指を添えるまでに、俺のほうも一度、呼吸を整えなければならなかった。「そんなに泣かないで。お姫様」 口にした途端、耳が熱くなった。けれど、照
続きを読む

第54話 守られる喜び

「おぉ、勇者さま!」 神殿へ戻った俺たちの前に、白い衣が駆け寄ってきた。靴底を通して伝わる石床の硬さに、ようやく足を止める。ルゥの祈りがまだ胸に残っていて、ミユウと交わす次の言葉を探していたところだった。 一人の声に、奥の神官たちも顔を上げた。欠けた柱の間から次々に人が現れ、足音が高い天井に反響する。見覚えのある広間には壁の崩れた跡が残り、窓から差す光の中を細かな埃が漂っていた。「勇者さま!」 「救世主さま!」 差し出される手に応じるだけで精いっぱいだった。衣の袖口は汚れ、爪の間に土が入り込んでいる。そんな手で俺を迎え、ほっとした顔をされると、何を返せばいいのかわからなくなる。「俺はそんな大層なことしてない」「おぉ、人間界の勇者さまは大層ご謙遜でいらっしゃる」 首の後ろがむずむずした。否定しても、また褒められそうだ。 そのとき、学校の制服の袖がわずかに引かれた。ミユウが隣から神官たちを見上げている。銀白色の髪が頬にかかり、黒い服の背で小さな白い翼が縮こまっていた。 俺に集まる声の中で、彼女が口を開きかけ、閉じた。 ここにいる人たちの無事を、きっと誰より喜びたいはずだ。それなのに、自分の立つ場所を探すような仕草をさせたまま、俺だけが礼を受け取っていたくなかった。「ミユウ一人に任せず、みんなのできることを分けてほしい。ここの守りも、修理も」 神官は俺の顔を見て、静かにうなずいた。軽い返事をしなかったことに、少し肩の力が抜ける。彼はミユウへ向き直ると、衣の裾が床につくのも構わず膝を折った。「ミユウ殿、我々は少し、あなたに甘えすぎていました。勇者さまのお考えの通り、強く拒否されるからと言って何もしないのではありません」 低い声が、最後にかすれた。神官は膝に置いた自分の手へ一度目を落とし、それからミユウを見つめ直した。 袖を握る指に力がこもった。隣を見ると、彼女の唇が震えていた。答えようと吸った息が喉でつかえ、頬を涙が伝っていく。「神官さま。でも わたし」 神官はその先を急かさなかった。ミユウが息を継ぐのを待ってから、入口へ掌を向ける。 壊れた石飾りの向こうに、淡い光が見えた。薄い幕を幾重にも重ねたような輝きが、入口から外壁に沿って続いている。崩れた部分を塞ぐその光を、ミユウも瞬きを忘れたように見ていた。「この神殿に、最も魔力の強い者
続きを読む

第55話 君が家族と笑う日

「おぉ、これは。勇者さまのご家族、ようこそいらっしゃいました」 母さんの相槌に、葵の声が重なる。修理の槌音にも負けない声で、妹は結界の光を見上げた。「ここって異世界ってやつだよね?あの漫画の!」 その目が俺の隣で止まり、銀白色の髪から覗く小さな白い翼へ移る。「妖精?!本物!」「天使だよ。それから……俺の婚約者の、ミユウ」 言った途端、家族の顔を見づらくなった。けれど、俺までうろたえてどうする。黒い服の裾を握るミユウのそばへ寄ると、彼女は俺を見上げてから、家族へ向き直った。「お兄さんに、いつも助けてもらってて……だから、ご家族にも会いたかったの。お兄さんと会えてよかったって、お礼を言いたくて」 母さんが返事をしかけた横から、葵が顔を出す。「ねえ、一緒に遊ぼうよ。何するのが好き?」「クッキー、作りたいけど……わたし、焦がしちゃうから」 同じ高さにある顔を見つめるミユウの手を、葵が取った。「失敗しないクッキーの作り方、教えてあげるよ」 神官に台所の方角を教わるなり、葵は歩きだした。ミユウが困ったように俺を振り返る。「あ、ちょっと」「あ、こら、キッチンまた焦がすなよ」「ベーっ」 二人を追おうとした俺の袖を、母さんがつまんだ。「家の鍵かけたかしら」 「火消してきたかしら」 空いた手でポケットを探っている。外出の途中で何度も聞いた声だった。石の柱の下で聞くには妙なのに、袖を引く指の力までいつもどおりで、俺はようやく母さんの顔を落ち着いて見られた。 美咲は柱の裏を覗き、天井の奥へ目を細めている。「映画のセットにしては本格的ね」 撮影現場を見る顔から、俺に目を戻した途端、眉が寄った。「その金髪、学校に何て言うつもり?」「俺が染めたんじゃないって」 神官たちの前で髪の小言を食らうとは思わなかった。勇者と呼ばれていても、姉に襟を直されるのを避けきれない。 父さんだけは壁の継ぎ目や窓の外を静かに見ていた。「我々は今まで、日本の実家で食事をしながら野球中継を見ていたはずだ。ここは現代日本じゃないことはわかる。」 俺が台所の方をうかがって顔を戻すと、父さんと目が合った。ミユウを紹介したときにも感じた視線に、背筋が伸びる。俺は傍らのルゥを、ここへ呼んでくれた相手だと紹介した。「うちの馬鹿息子が大層ご迷惑をかけたようですね」 ルゥは少
続きを読む

第56話 白い服と、涙のあとの笑顔

「どうした?!ミユウ!」 肩へ添えた手に、細かな震えが伝わった。黒い服の襟元には銀白色の髪が貼りつき、小さな白い翼が寝具を押している。息を吸おうと開かれた唇からは、掠れた音しか出てこない。目の前にいる俺を通り過ぎて、その視線は部屋の暗がりを探していた。 何を見たのか。どこか痛むのか。尋ねたいことが喉につかえたが、ミユウの口元がまた震えるのを見て、言葉を飲み込んだ。高い天井の聖紋も、月明かりを透かす白い垂れ布も、今は彼女を安心させてくれない。俺は顔を近づけ、視線が戻ってくるのを待った。「お兄さん、いる?」「いる、ずっと」 制服の袖を探っていた指が、俺の手を掴んだ。爪の先が食い込む。その痛みを受け止めていると、強張った指がわずかにほどけ、今度は小指だけを握り直した。手首に細い吐息がかかる。肩の震えは残っていたが、俺の顔を見つけた目が、ようやくそこに留まった。 大丈夫だと、何度でも言ってやりたかった。けれど、その言葉のあとでまた息を詰めたら、俺はどうすればいい。慰め方を探すほど、自分の声で彼女の苦しさを覆ってしまいそうで、繋いだ手に少し力を返すことしかできなかった。 寝台の縁から下ろした足に、石床の冷たさが沁みてくる。毛布を引き寄せるための片手さえ、今は惜しかった。ミユウが目を閉じても、指はときおり俺を確かめた。そのたびに握り返し、腕の置き方を変えながら、垂れ布の向こうが明るむまでそばにいた。 翌朝の小食堂には、焼けたパンと温かなスープの匂いが満ちていた。母さんが皿を寄せ、美咲が葵の口元についたパン屑を指摘する。石の壁に響く家族の声を聞いていると、夜の暗がりがようやく背中から離れていく気がした。「ミユウ、このジャムおいしいよ。昨日のクッキーにも合いそう」 葵が差し出した小皿の前で、ミユウのスプーンが止まっていた。呼ばれたことに気づくまで、少し間がある。「……うん。あとで、食べたい」 笑おうとした口元が、すぐに下がった。昨日は焼き上がったクッキーを自分から差し出していたのに、今朝は隣の葵へ何か言いかけても、膝へ目を落としてしまう。向かいの父さんも、そのたびにパンをちぎる手を止めていた。 食事のあと、父さんに呼ばれ、俺とルゥは窓辺へ寄った。夜中の様子を伝えると、ルゥは食卓に残るミユウを見て、声を落とした。「ミユウは九百年にわたり、ひとりで人々を助け
続きを読む

第57話 明日を誓った、その夕暮れに

 昼間の白い服から着慣れた制服に戻り、袖口を整えると、肩の力が少し抜けた。回廊を染める夕日の中で、母さんと美咲が明日の婚礼に使う花をのぞき込んでいる。花瓶を置いた台の後ろには、壁を斜めに走る亀裂が残っていた。その前で聞き慣れた声が交わされることが、不思議で、離れがたかった。「ミユウ、城の外に綺麗なお花畑見つけた。遊びに行こうよ」 葵に手を取られ、ミユウが困ったように俺を振り返った。銀白色の髪の間からのぞく頬は緩み、背中の小さな翼が、行きたい気持ちを隠せないように浮いている。引かれるままに踏み出した足が白い服の裾を揺らすのを見て、俺も笑った。「俺もすぐ行くからな」 葵が花畑の方角を言い残す。二人の後を追おうとしたところで、父さんの声が背中に届いた。「龍夜。本当にここに残るんだな。勇者として生きることまで、引き受ける覚悟はあるのか」 父さんの目が一度だけ俺の胸元へ落ちた。答えを急かされないことが、かえって胸に重かった。回廊の向こうでは葵が何か言い、ミユウが声を立てて笑った。あの笑い声のそばで暮らしたい。そのために必要なことを、父さんに言われるまで考えていなかったわけじゃない。「ミユウと、ここで暮らしたい。守るために戦うことも、誰かに任せて逃げるつもりはない」 父さんは唇を結んだまま俺を見ていた。隣から伸びた母さんの手が袖に触れ、布越しに腕を包む。「無理はするんじゃない」 うなずいても、その手はすぐには離れなかった。美咲が俺の肩を軽く叩き、いつもの調子を探すように口元を上げる。「葵をよろしくね。あんたも、ちゃんと戻っておいでよ」 ルゥと回廊を曲がると、家族の声が遠くなった。袖の温かさだけが取り残されたようで、腕を下ろすのをためらう。振り返ればまた足が止まりそうだったから、先に行った二人の笑い声を思い出して歩幅を広げた。 城門の外では、夕風が頬に冷たかった。右手へ続く道をたどると、花の茂みの前で細い道が分かれている。白いものが見えて近づいても、薄明かりに浮かぶ花の房だった。城壁の影が長く伸び、行き先を教えた葵の声ばかりが、妙にはっきり耳に残る。「葵、ミユウ。どこだ?」 返事を待つ間、茂みをこする風の音が大きくなった。こんなに呼んで聞こえないほど遠くへ行ったのか。ルゥと顔を見合わせ、奥の小道へ踏み出しかけたときだった。「にいちゃーーん!!」 
続きを読む

第58話 誓いの指輪、閉ざされた帰り道

 ミユウの唇から、息になりきらない声が漏れた。寝具を握る指が少しずつ丸まり、白い服の胸元に深いしわを寄せる。布団の脇に出た小さな翼は、何かを振り払おうとするように震えていた。 窓の向こうでは風が鳴っていた。昼間のぬくもりを失った石壁に囲まれ、寝台だけがひどく頼りなく見える。俺は制服の袖を引き上げ、ミユウの頬に張りついた銀白色の前髪をそっと撫でた。そばに立つルゥが、眩しくないよう燭台を遠ざける。 指が額に触れた瞬間、ミユウが飛び起きた。「葵!」 俺はすかさず抱きしめた。背中へ回しかけた腕をずらし、傷と翼を避けて体を支える。寝具の下にこもっていた熱が伝わってきたのに、俺の首筋へ触れた指先は冷たかった。「葵は隣の部屋で母さんと寝てる。大丈夫だ」 ミユウは戸口を見つめた。俺の声が届いていないのかと思った頃、制服をつかむ手に、いっそう力がこもった。「でも、さっきまで……手、つないでたのに。葵、ちゃんといる?」「ああ。朝になったら、一緒に会いに行こう」 彼女は唇を噛み、俺の胸へ額を押しつけた。無事だと何度言っても、夢の中で離れた手は、まだ彼女の中で見つからないのかもしれない。俺は続きを急がず、細い肩が上下するのを待った。胸の呪いが鈍く疼いたが、身じろぎして、この腕までほどけると思わせたくなかった。 小さなノックの後、父さんが入ってきた。寝台へ近づく足が途中で止まり、俺にしがみつくミユウへ目が留まる。ルゥに向けた声は低かった。「心的外傷後ストレス障害ではないか」「シンテキ?それは現代日本の呪文ですか?」 父さんは説明しかけるように口を開いた。しかし、ミユウの顔を見て唇を閉じ、視線を床へ落とした。「なんでもありません」 父さんまで言葉を選んでいる。そのことが、聞き慣れない言葉より胸に残った。俺はミユウの手を包み直した。指の力が少し緩んでも、廊下で物音がすると、また制服が引かれる。「お兄さん、寝ちゃっても、ここにいてね」 うなずくと、彼女はようやく目を閉じた。俺はその後も椅子へ戻らず、寝台の縁で体を支え続けた。腕の中の呼吸が深くなるまで、蝋燭の芯が焦げる匂いと、窓を鳴らす風だけが長い夜を少しずつ進めた。 翌朝、カーテンの裾に明るい線が差した。 隣室から葵の声が聞こえたとき、ミユウは俺より先に顔を上げた。扉のところに現れた葵を見つめ、差し出された手
続きを読む

第59話 帰れない家族と、眠る言葉

「ちょっと!帰れないってどういうことよ!」 美咲の声が石の壁に跳ね返り、俺たちの間へ戻ってきた。美咲はその響きにも驚いたように唇を閉じ、青白い光の消えた場所を見返した。踏み出しかけた足が止まる。そこにはもう何もなく、窓から差す明かりが床の石目を照らしていた。ついさっきまで帰り道の開くはずだった空間を、俺も目で探してしまう。 母さんの手が葵の肩に置かれた。父さんは床を見つめてからルゥへ顔を上げたが、その口が開くより先に、美咲が息を吸った。「映画のクランクアップだって明日なのよ!女子高生俳優、初めてランウェイを歩くって今すっごい注目されてるのに!」 言い終えた美咲の喉が、小さく上下した。いつもなら胸を張って話すことなのに、今は誰かに引き止めてもらいたいような声に聞こえた。指先が落ち着かずに擦れ合い、やがて片方の手でもう片方を握り込む。俺へ向けられた目が、すぐにルゥへ移った。 明日には帰れる。その前提が崩れるだけで、姉の声はこんなにも変わってしまう。祝ってもらったばかりの俺には、なおさら返す言葉が見つからなかった。ここへ来てよかったと思ったまま帰ってほしかったのに、今、その帰り道さえ渡してやれない。 隣から花の匂いがした。ミユウのドレスに残る婚礼の香りが、場違いなくらい優しかった。「明日の算数の小テストで平均点取ったら、タケルくんが告白してくれるのに!」 葵は母さんの手の下から身を乗り出していた。俺と目が合っても、いつものように照れて笑ったりしない。唇の端をきゅっと引き結び、返事を待っている。その真剣さに、喉まで出かかった曖昧な慰めが引っ込んだ。 葵にとっての明日は、ただ日付が変わることじゃない。教室へ行って、小テストを受けて、好きな相手の言葉を待つ一日だ。俺が何も言えずにいるうちに、葵の視線が下がった。母さんの手を探した指が、見つけるなり強く絡みつく。「わたしも、今日中には帰れると思ってたよ」 母さんは葵の指を包んだまま、美咲を見た。何か言おうと口を開き、結局、そのまま閉じる。その頬にもさっきまでの柔らかさはなかった。「葵ちゃん……大丈夫?」 ミユウが葵へ近づこうとして、傷をかばうように一度足を止めた。白い翼が背中でこわばり、ドレスの裾だけが遅れて揺れる。葵は顔を上げたが、うなずかなかった。代わりにミユウの手元へ目を落とし、母さんのそばへ少し寄
続きを読む
前へ
123456
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status