ログイン朝、いつもより早くオフィスに着いた。エレベーターホールには、まだ数人しかいなかった。瑠衣は鞄の内ポケットから白い封筒を取り出し、もう一度指先で角を確かめてから、人事部へ向かった。
廊下を歩く足音が、いつもより大きく聞こえた。窓の外はまだ薄曇りで、ガラス越しの光が床にぼんやりとした線を描いていた。すれ違う社員に会釈をしながら、瑠衣は自分の歩調が普段より少し速いことに気づいた。 人事部のドアをノックする。中から返事があり、瑠衣は入室した。担当者はデスクの向こうで書類を整理していたが、顔を上げると笑顔で椅子を勧めた。 封筒を差し出す。担当者は中身を取り出し、目を通していく。ページをめくる指の動きが、途中で一瞬止まった。「そうですか……お疲れ様でした」 それ以上は聞かれなかった。担当者は表情をあまり変えないまま、手元のファイルを開いた。朝、いつもより早くオフィスに着いた。エレベーターホールには、まだ数人しかいなかった。瑠衣は鞄の内ポケットから白い封筒を取り出し、もう一度指先で角を確かめてから、人事部へ向かった。 廊下を歩く足音が、いつもより大きく聞こえた。窓の外はまだ薄曇りで、ガラス越しの光が床にぼんやりとした線を描いていた。すれ違う社員に会釈をしながら、瑠衣は自分の歩調が普段より少し速いことに気づいた。 人事部のドアをノックする。中から返事があり、瑠衣は入室した。担当者はデスクの向こうで書類を整理していたが、顔を上げると笑顔で椅子を勧めた。 封筒を差し出す。担当者は中身を取り出し、目を通していく。ページをめくる指の動きが、途中で一瞬止まった。「そうですか……お疲れ様でした」 それ以上は聞かれなかった。担当者は表情をあまり変えないまま、手元のファイルを開いた。「最終出勤日は本日で、有給は残っている分すべて消化という形でよろしいですか」「はい」「社会保険の手続きについては、後日書類をお送りします。離職票の発送先は、今のご自宅で間違いありませんか」「はい、それで大丈夫です」 担当者はパソコンの画面に何かを入力しながら、次々と項目を確認していった。退職金の概算、貸与物の返却、最終給与の振込日。瑠衣はひとつずつ相槌を打ちながら、その声を聞いていた。窓の外で、誰かの話し声が遠く聞こえた。 説明が一通り終わると、担当者は手を差し出した。「社員証をお預かりします」 瑠衣は首から下げていた社員証のストラップに手をかけた。留め具を外す間、指先が少しだけ震えた。ケースから取り出し、担当者に手渡す。 担当者はそれを小さなトレイに置いた。カードの表面に印刷された自分の顔写真が、蛍光灯の光を反射している。入社したばかりの頃に撮った写真だった。今の自分より、少し硬い表情をしている。「では、これで手続きは以上です。長い間、お疲れ様でした」 瑠衣は椅子を
朝、いつもの時間に出社する。パソコンを立ち上げ、メールを確認する。新着はほとんどなかった。企画関連のフォルダを開いてみたが、更新は何もない。最終更新日の欄には、先週の日付がそのまま残っていた。 今日も、企画会議への招集はなかった。カレンダーには空白が続いている。瑠衣は自分のデスクの周りを見渡した。資料の山は昨日よりも減っていた。片付けるべきものが、もうあまり残っていない。引き出しの中を確認しても、急ぎで対応するべきものは見当たらなかった。フォルダのアイコンを一つずつクリックして、開いては閉じる作業を、しばらく繰り返した。デスクの端に置いたマグカップの底に、飲み残しの茶が薄く沈んでいた。 午前中は、後輩への引き継ぎ作業に充てられた。使っていたフォルダの整理方法、取引先とのやり取りのテンプレート、過去の資料の保管場所。ひとつずつ説明していく。後輩はメモを取りながら頷いていたが、途中から質問が減っていった。教えることがなくなっていくのが、自分でもわかった。最後に残っていたファイルの共有設定を変更し終えると、後輩は軽く頭を下げて自分の席へ戻っていった。 昼前、コピー機の前に立つ。頼まれた枚数を打ち込み、開始ボタンを押す。紙が排出される音を聞きながら、瑠衣は画面に映る自分の順番待ちの表示を見ていた。順番が来るまで、他にすることがなかった。排出トレイに積み重なっていく紙の枚数を、なんとなく目で数えていた。 自分の席に戻り、パソコンの画面を開く。カーソルが点滅するだけの、空白のドキュメントが表示されていた。キーボードに指を乗せたが、何も打たなかった。しばらくして、画面を閉じた。窓の外に目をやると、ビルの谷間を横切る雲が、ゆっくり形を変えていた。 昼休み、給湯室でお茶を淹れていると、背後から声がした。 「先輩」 振り返ると、梨香子が立っていた。手にマグカップを持ち、いつもより明るい表情をしている。 「はい?」 「今回のことで思ったんですけど」 梨香子は少し笑って
月曜日、出社してすぐに社内システムを開いた。読書支援システム企画のページ。担当者一覧を確認する。 自分の名前がなかった。 スクロールを戻す。もう一度、担当者欄に目を通す。別の社員の名前が、瑠衣がいたはずの位置に入っていた。日付を見ると、金曜日の夕方に更新されている。時刻は十七時五十八分。終業時刻の直前だった。 周囲を見渡す。誰もこちらを見ていない。いつも通りキーボードを打つ音、電話の応答、コピー機の作動音が重なっている。誰かが説明に来るのを、少しの間待った。誰も来なかった。 瑠衣は画面を閉じ、自分のメールボックスを開いた。担当変更の通知は届いていなかった。もう一度確認する。送信済みトレイも、迷惑メールフォルダも見た。何度確認しても、結果は同じだった。カーソルを画面の上で行ったり来たりさせてから、瑠衣はマウスから手を離した。 椅子に座り直し、今日の予定を確認する。空いている時間に、別の資料整理の依頼が入っていた。それを開き、作業を始めた。パソコンの画面に表示された作業内容は、いつも自分が任されていたものとは、少しだけ性質の違う仕事だった。ファイルの並び順を整えるだけの作業に、いつもより時間がかかった。 午前の間、瑠衣は与えられた作業を淡々とこなした。誰かに話しかけられれば返事をし、頼まれれば手を止めて対応する。表面上は、いつもの月曜日と変わらなかった。ただ、企画の話題が近くで交わされるたびに、自分の耳がそちらへ向くのを感じた。会話に加われるわけではないとわかっていても、体は勝手に反応した。 午後になると、瑠衣の仕事は雑務中心に変わっていた。会議資料のコピー、ファイルの整理、議事録の清書。読書支援システムの企画会議には、招集がかからなかった。廊下の向こうで会議室のドアが閉まる音を、自分の席から聞いた。ドアの磨りガラス越しに、動く人影がいくつか見えた。コピー機の前に立ち、紙が排出される音を数えながら、瑠衣はその人影の輪郭を見るともなく見ていた。 正木が近づいてきて、瑠衣のデスクの脇に立った。「悪い」 瑠衣は手を止めた。「俺じゃ、戻せなかった」 瑠衣は顔を上げ、口の端を少しだけ持ち上げた。「大丈夫です」 それだけ言うと、また手元の資料に視線を落とした。正木はしばらくその場に立っていたが、やがて何も言わずに自分の席へ戻っていった。椅子に座る音が
月曜日、いつもより早く目が覚めた。カーテンの隙間から差す光がまだ弱く、部屋の輪郭がぼんやりしている。瑠衣はしばらく天井を見つめてから、体を起こした。 支度をして家を出る。駅までの道はいつもと同じだった。信号待ちの人の数も、コンビニの前に立てられた幟の色も、何ひとつ変わっていない。それなのに、電車に乗る足取りが、どこか重かった。 オフィスに着くと、朝のミーティングがすでに始まろうとしていた。席につくと、周囲の社員がそれぞれの前に資料を置いていく。瑠衣の前だけ、何も置かれなかった。 配布が一巡したところで、隣の席の社員が自分の手元を見て、はっとした顔をした。「あ、ごめん。瑠衣さんの分……」 立ち上がり、自分の資料を半分に折って差し出してくる。「余分がなくて。あとでコピーしてくるね」「大丈夫です。ありがとうございます」 瑠衣は受け取りながら、相手の顔を見た。申し訳なさそうな表情に、悪意らしいものは何もなかった。単純な数え間違いだろう。それだけのことだった。 だが、こういうことが最近続いている。会議の予定が直前で変わり、案内が来ないままだったこと。共有フォルダから自分だけ外れていたこと。チャットで送ったメッセージに、返事が来るまでの時間が、以前より少しずつ長くなっていること。ひとつひとつは些細で、指摘するほどのことでもない。誰かに聞かれれば、気のせいだと答えるしかないような小ささだった。 折られた紙を開き、皺を伸ばす。会議はもう始まっていた。 午後、企画の振り返り会議が招集された。会議室に集まった顔ぶれは、いつもと同じだった。上司が持ってきた資料をテーブルに置き、開かないままそこに手を乗せている。「今回の件は、チーム全体として情報共有に課題がありました」 静かな声だった。誰も反論しない。空調の音だけが、会議室に響いていた。 上司は資料の表紙を軽く指で叩いてから、続けた。「途中で違和感を持った人はいませんでしたか」 部屋の中をゆっくり見回す視線が、一人ずつの顔の上を通り過ぎていく。誰も口を開かない。瑠衣も黙ったままだった。喉の奥に何かが引っかかっているような感覚があったが、それを言葉にする方法がわからなかった。 沈黙が続く中、正木が小さく手を上げた。「違和感はありました」 全員の視線が正木に集まる。「ただ——」 そこで言葉が止まっ
土曜日、いつもの時間にインターホンが鳴った。玄関を開けると、灯が革靴を脱ぎ、いつもの位置に揃える。「こんにちは」「こんにちは」 灯は鞄を持ったまま、そのまま書庫へ向かった。階段を上る足音が、二階の奥へ消えていく。瑠衣はその足音を数えるように聞いてから、台所へ引き返した。 シンクの前に立ち、蛇口をひねる。水音が響く中、棚から急須を取り出した。棚には似たような缶が二つ並んでいる。ひとつは普段使っているもの、もうひとつは先週買い足したばかりのものだった。買い足したときは、まったく違う場所にしまうつもりだった。忙しさにまぎれて、結局隣同士に並べてしまっていた。 蓋を開け、茶葉をすくう。急須に入れ、湯を注ぐ。手順はいつもと変わらなかった。頭の中では、朝のメールのやり取りが繰り返し流れていた。返信の来ないチャットの画面。空欄のままだったスケジュール表。それらが順番に浮かんでは、また同じところに戻ってくる。窓の外で鳥の声がしたが、それすら遠く感じた。 湯気が立ちのぼる。瑠衣はふと、自分の手元に目を落とした。手にしている茶筒の柄が、いつも使っているものと違っていた。「あっ」 声が漏れたときには、もう湯を注ぎ終えていた。急須の中で、見慣れない色の茶葉が開き始めている。瑠衣は茶筒を持ち直し、蓋に書かれた文字を確かめた。棚の二つの缶を見比べる。よく似た形をしていて、朝の忙しさの中では取り違えても不思議はなかった。急須の蓋を開け、中を覗き込む。今さら茶葉を取り出すこともできず、瑠衣はそのまま蓋を戻した。茶葉の香りだけが、いつもと違う立ち方をしていた。 湯飲みに注ぐ。いつもより色が少し濃かった。盆に乗せ、書庫へ向かう階段を上る。一段ごとに、湯飲みの中で茶がわずかに揺れた。踊り場の窓から差す光に、湯気が一瞬白く光った。 書庫の扉を開けると、灯はいつもの椅子に座り、本を開いていた。棚に並んだ本の背表紙が、午後の光を受けて淡く並んでいる。湯飲みを机に置くと、灯はページから顔を上げ、口をつけた。 一口飲んで、動きが止まる。「今日は、少しだけ味が違いますね」 責める響きはなかった。ただ事実を確かめるだけの声だった。瑠衣は湯飲みを見つめ、頭を下げた。「すみません。別のものを入れてしまいました」「大丈夫です」 それだけだった。灯はもう一口飲んでから、本に視線を戻した。ペ
企画は修正案のまま正式に進むことが決まった。会議の終わりに部長がそう告げると、会議室の空気が少しだけ緩んだ。誰かが小さく息を吐く音がする。正木は資料を閉じ、椅子の背にもたれかかった。ペン先でテーブルを軽く叩き、天井を見上げる。 その安堵の中で、梨香子だけが違った。ノートパソコンを閉じる音が、他の誰よりも大きく響いた。ファイルを乱暴に鞄へ押し込み、聞こえよがしに言った。 「結局、地味な企画になっちゃいましたよね」 誰も反応しない。 「絶対あっちの方が話題になったのに」 部長は書類をまとめている。正木はパソコンの画面を見たままだった。瑠衣も自分の資料をファイルに戻す手を止めなかった。誰の返事もない会議室に、梨香子の声だけが浮いたまま消えていった。梨香子は誰かが振り向くのを待つように、しばらくその場に立っていた。誰も振り向かなかった。 鞄を肩にかけ直し、先に会議室を出ていく。扉が閉まる音が、少し強かった。残された社員たちの間に、気まずさとも安堵ともつかない沈黙が漂う。誰かが小さく咳払いをして、それを合図に皆それぞれの席へ戻っていった。正木だけは、閉まった扉をしばらく見ていた。資料の束を、もう一度揃え直していた。 昼休み、給湯室でお茶を淹れていると、背後で足音が止まった。振り返ると梨香子が立っていた。腕を組み、湯気の向こうから瑠衣を見ている。 「先輩、部長に何か言いました?」 瑠衣は蛇口を止め、首を振った。 「言っていません」 「でも正木さんには何か言いましたよね?」 責める口調ではなかった。本気で確かめているだけの声だった。目には疑いも敵意もなく、ただ確認したいという色だけが浮かんでいる。だからこそ、瑠衣は答えに詰まった。マグカップを両手で持ったまま、湯気の行方を目で追うようにして間を置いた。 「企画について聞かれたので、思ったことを話しただけです」 「思ったこと、ですか」 梨香子はその言葉を繰り返した。責めているわけではない。ただ、自分の中の何かを確かめるように、口の中で転がしている様子だった。 「私、あの企画に結構自信あったんです。俳優さんの伝手も
駅前のベンチに座った。 キャリーケースを足元に置いて、スマホでホテルを検索した。最寄り駅周辺、今夜から、一名。画面に価格が並んだ。一泊八千円。一週間で五万六千円。一か月で……計算したところで閉じた。 ネカフェでもいい。足さえ伸ばせれば。いや、足を伸ばしたい。今日一日立ったり座ったり、笑い声を聞いたり無視されたり、それだけで体が限界に近かった。 ポケットから鍵を出した。 メモを見た。相沢灯。住所。知らない地名。 今日初めて会った人間の家の鍵が、手の中にある。状況だけ取り出すと相当おかしい。しかし今夜の選択肢を並べると、これが一番まともだった。「……行くか」 独り言が出た。誰もい
「ブーケトスのお時間です!」 司会の声が会場に響いた。テーブルから立ち上がる女性たちの気配。瑠衣も立ちかけた。「お客様はご着席でお待ちください」 スタッフが笑顔で近づいてきた。丁寧な声だった。意味は一秒で理解できた。「……わかりました」 ブーケが空中を飛んだ。歓声が上がった。拍手が起きた。瑠衣の円卓だけが、切り取られたように静かだった。 しばらくして、真衣側の友人席から男が一人やってきた。グラスを持ったまま、ふらついた足取りで。酔っていた。「ねえ、君いくつ?」 瑠衣を見て、気さくに話しかけてきた。「二十九です」 男は数秒、止まった。「え」「二十九歳です」「おばさんじ
招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。 "披露宴開始 13:00" 式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。 駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。 歩いて、何度か立ち止まった。 (あれ、なんで私こんなことしてるんだろう) もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。 それより心にあるのは"無"だった。 感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。 (一番バカなのは、私かもしれない) 受付に並んで、順番が来た。 「江品家で招待されている、江品瑠衣です」 スタッフの女
瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。 "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した 玄関に靴が多い。 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで







