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54話「最後の確認」

作者: 団紡るう
last update publish date: 2026-08-08 07:00:07

 朝、いつもの時間に出社する。パソコンを立ち上げ、メールを確認する。新着はほとんどなかった。企画関連のフォルダを開いてみたが、更新は何もない。最終更新日の欄には、先週の日付がそのまま残っていた。

 今日も、企画会議への招集はなかった。カレンダーには空白が続いている。瑠衣は自分のデスクの周りを見渡した。資料の山は昨日よりも減っていた。片付けるべきものが、もうあまり残っていない。引き出しの中を確認しても、急ぎで対応するべきものは見当たらなかった。フォルダのアイコンを一つずつクリックして、開いては閉じる作業を、しばらく繰り返した。デスクの端に置いたマグカップの底に、飲み残しの茶が薄く沈んでいた。

 午前中は、後輩への引き継ぎ作業に充てられた。使っていたフォルダの整理方法、取引先とのやり取りのテンプレート、過去の資料の保管場所。ひとつずつ説明していく。後輩はメモを取りながら頷いていたが、途中
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  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   60話「新しい場所」

     朝、灯火書房の前に立った。大きな看板もなく、三階建ての古いビルの一角だけが事務所になっている。ガラス扉の向こうに受付があった。  外から見るより中は明るかった。入口脇には新刊の見本が数冊並び、奥からコピー機の作動する音が聞こえる。人の気配はあるのに、どこか静かな会社だった。 「本日から資料整理・事務補助として勤務する和久井瑠衣です」  名乗った声が少し硬い。瑠衣は一度だけ指先を握り直した。「藤堂さんがお待ちです」  案内された廊下を、背筋を伸ばして歩いた。  奥から、きびきびした足音が近づいてきた。五十代半ばほどの女性が立ち止まり、瑠衣を上から下まで一度だけ確認する。 「藤堂です。今日からよろしくお願いします」 「よろしくお願いします」 「新人だからって、甘やかすつもりはありませんからね」  瑠衣の背筋がさらに伸びた。 「……とはいっても、初日だから無理はしないでくださいね」 「はい」 「分からないことがあったら聞いてください。忙しそうに見えても大丈夫ですから」 「はい」 「あと、お昼はちゃんと食べてくださいね」  藤堂は真顔だった。眉一つ動かさない。 「新人教育って、最初が大事ですから」  瑠衣は一瞬、返事をするのを忘れた。 「……ありがとうございます」 「いえ。仕事ですから」  そう言って朱音は資料の束を抱え直した。表紙が少しずれている。 「それと、分からないまま進めるのが一番困ります。遠慮しないでください。聞かれたほうが私も助かります」 「分かりました」 「それから、冷房が寒かったら言ってくださいね」  そこまで聞いて、瑠衣の肩がようやく下がった。 「はい」 「では、資料室へ行きましょう」 案内された部屋の扉を開けた瞬間、紙の匂いがした。  棚が壁際を埋めている。ファイルは背表紙をこちらに向けて並んでいるものもあれば、横倒しになったものもある。机の上には封筒、綴じられた契約書、新聞の切り抜き。床際にも箱が重なり、通路だけが細く残っていた。窓は一つしかなく、午後になる前なのに部屋の奥は少し薄暗い。  古い紙の乾いた匂いに混じって、インクのような匂いもする。誰かが少し前まで作業していたのか、机の端には開いたままのホチキスと、切り取られた紙片が置かれていた。天井近くの換気扇が低く唸り、紙の

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     朝、灯火書房の前に立った。大きな看板もなく、三階建ての古いビルの一角だけが事務所になっている。ガラス扉の向こうに受付があった。 外から見るより中は明るかった。入口脇には新刊の見本が数冊並び、奥からコピー機の作動する音が聞こえる。人の気配はあるのに、どこか静かな会社だった。「本日から資料整理・事務補助として勤務する和久井瑠衣です」 名乗った声が少し硬い。瑠衣は一度だけ指先を握り直した。「藤堂さんがお待ちです」 案内された廊下を、背筋を伸ばして歩いた。 奥から、きびきびした足音が近づいてきた。五十代半ばほどの女性が立ち止まり、瑠衣を上から下まで一度だけ確認する。「藤堂です。今日からよろしくお願いします」「よろしくお願いします」「新人だからって、甘やかすつもりはありませんからね」 瑠衣の背筋がさらに伸びた。「……とはいっても、初日だから無理はしないでくださいね」「はい」「分からないことがあったら聞いてください。忙しそうに見えても大丈夫ですから」「はい」「あと、お昼はちゃんと食べてくださいね」 藤堂は真顔だった。眉一つ動かさない。「新人教育って、最初が大事ですから」 瑠衣は一瞬、返事をするのを忘れた。「……ありがとうございます」「いえ。仕事ですから」 そう言って朱音は資料の束を抱え直した。表紙が少しずれている。「それと、分からないまま進めるのが一番困ります。遠慮しないでください。聞かれたほうが私も助かります」「分かりました」「それから、冷房が寒かったら言ってくださいね」 そこまで聞いて、瑠衣の肩がようやく下がった。「はい」「では、資料室へ行きましょう」 案内された部屋の扉を開けた瞬間、紙の匂いがした。

  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   59話「仕事として」

     求人票を見返す日が、何度か続いた。机の引き出しから取り出し、蛍光灯の下で文字をなぞり、また戻す。何度目かの夜、瑠衣は求人票の端がすでに柔らかくなっていることに気づいた。折り目の部分が、指の圧で白く筋になっている。手にするたび、同じ場所に視線が落ちる。その繰り返しの中で、瑠衣はある夜、パソコンを開いた。  応募フォームの画面には、いくつもの入力欄が並んでいた。氏名、経歴、志望動機。カーソルが点滅する志望動機の欄で、指の動きが止まった。エアコンの音だけが、静かな部屋の中で低く続いている。窓の外を、遠くの電車の音が一度だけ横切っていった。  しばらく考えてから、文字を打ち込んでいく。書いては消し、また書き直す。何度目かの文面で、ようやく手が止まった。 「広告代理店に勤務していた際、資料整理や企画業務に携わっていたため、貴社の業務に活かせると考えました」  打ち終えた文章を、もう一度読み返す。灯の名前は、どこにも書かなかった。個人的な関係を示す言葉は、一文字も入れなかった。文面を三度読み直し、誤字がないことを確かめてから、画面を見つめたまま、瑠衣はしばらく動かなかった。それから、送信ボタンにカーソルを合わせ、押した。画面が切り替わり、受付完了の表示が出る。それだけのことに、思ったより長く目を落としていた。パソコンを閉じたあとも、しばらく机の前に座ったままだった。 数日後、スマートフォンに着信が入った。灯火書房の採用担当者からだった。面接の日程を告げる声を、瑠衣はメモを取りながら聞いていた。通話を切った後、カレンダーアプリにその日付を入力する。予定の欄が、久しぶりに文字で埋まった。  面接当日、瑠衣は指定された住所へ向かった。ビルの入口に掲げられた社名を確認し、自動ドアをくぐる。ロビーはガラス張りで、朝の光が床のタイルに反射していた。受付で名前を告げると、案内の社員が奥へと導いてくれた。案内の社員は歩きながら、簡単にフロアの説明をしてくれたが、瑠衣の意識は半分、周囲の景色に向いていた。  廊下の両側には、ガラス張りの資料室がいくつも並んでいた。棚には古い書物と、電子端末が並列に置かれている。紙の匂いと、機械の静かな稼働音が混じり合っていた。ラベルの貼られた資料の背に、几帳面な文字で

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  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   57話「自分で探す」

     退職して数日が経った。瑠衣はハローワークの窓口で、渡された求人票に目を通していた。蛍光灯の下、順番待ちの番号札を握ったまま、掲示板に貼られた案内をひとつずつ確認していく。壁際の椅子には、同じように番号札を持った人が何人も座っていた。誰かの子どもが、母親の膝の上で退屈そうに靴を鳴らしている。 窓口に呼ばれ、担当者の前に座る。持参した職務経歴書を差し出すと、担当者はページをめくりながら、ところどころで小さく頷いた。マウスを操作し、画面に条件を打ち込んでいく手つきは慣れたものだった。「経験はありますね」 担当者はそう言いながら、別の紙をめくった。求人票の束の中から、条件に近いものをいくつか選び出していく。「ただ、希望条件が……」「もう少し若ければ、というところもあって」 瑠衣は求人票の給与欄と勤務地の欄に、順番に目を通した。どれも、これまでの経験とはどこかずれがあった。担当者はパソコンの画面をもう一度確認し、別の業種の求人をいくつか印刷して手渡してくれた。紙の温かさが、まだ機械から出たばかりであることを教えていた。「こちらも一度、見てみてください」 瑠衣は頷き、頭を下げた。「ありがとうございました」 窓口を出て、外の光の中に戻る。手にした求人票の束を鞄にしまい、そのまま次の面接会場へ向かった。何件か面接を受けたが、返事はどれも似たような形だった。担当者の視線が履歴書の生年月日の欄で少し止まる、という同じ動作を何度か見た。面接室を出るたびに、瑠衣はエレベーターの中で自分の姿を鏡に映し、スーツの襟を軽く整え直した。落ち込むより先に、当面の生活をどうするかを考える必要があった。 スマートフォンでフードデリバリーのアプリをダウンロードし、必要な情報を登録した。自転車の後ろに配達バッグを取り付け、街へ出る。最

  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   56話「途中ですから」

     瑠衣は靴を脱ぎ、廊下を歩いた。廊下の照明は控えめな明るさで灯り、壁に映る自分の影が、いつもよりゆっくり動いているように見えた。今朝、同じ廊下を出勤のために通ったときとは、足の運び方がまるで違っていた。リビングのドアを開けると、灯がソファの端に座り、本を読んでいた。顔は上げなかった。ページをめくる音だけが、部屋の中に静かに響いている。「ただいま帰りました」 「お帰りなさい」  灯はそう答えたが、視線は本から離れなかった。瑠衣は鞄を床に置き、灯の向かいに腰を下ろした。革張りのソファが、体の重みでわずかに沈む感触があった。照明の明かりが、灯の横顔に薄い陰影を作っている。窓の外はすでに暗く、庭の木々の輪郭がガラスに滲んでいた。 瑠衣はしばらく、ソファの背に体を預けたまま動かなかった。何かを話そうとして、言葉が出てこなかった。喉の奥に、言葉になる前の何かが止まっているような感覚があった。灯も何も聞かなかった。ページをめくる指の動きだけが、規則的に続いている。時計の音と、紙の擦れる音だけが部屋を満たしていた。壁時計の秒針が、静かな部屋の中でひときわ大きく聞こえた。棚に並んだ本の背表紙が、間接照明の光をわずかに反射していた。  テーブルの上でスマートフォンが震えた。画面を見ると、真衣からのメッセージだった。開くと、スクリーンショットが一枚添付されている。梨香子のSNS投稿だった。  「今日、先輩が辞めました〜 お疲れさまでした!」という文字の下に、花束の絵文字がいくつも並んでいる。コメント欄には「お疲れさまです」「新しい道、応援してます」という言葉が続いていた。投稿には、いつもの梨香子らしい明るいスタンプも添えられていた。  瑠衣はその画面をしばらく見ていた。特に表情は変わらなかった。指先で画面をスクロールし、いくつかのコメントを目で追ってから、また最初の投稿に戻った。誰かが「次のステージも応援してます!」と書き込んでいるのが目に入ったが、それ以上読み進める気にはならなかった。画面の明るさだけが、薄暗いリビングの中でやけにはっきりして見えた。 スマートフォンを、テーブルの上に伏せて置いた。  置いた直後、今度は着信音が鳴った。父からだった。出

  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   3話「鍵」

    「ブーケトスのお時間です!」 司会の声が会場に響いた。テーブルから立ち上がる女性たちの気配。瑠衣も立ちかけた。「お客様はご着席でお待ちください」 スタッフが笑顔で近づいてきた。丁寧な声だった。意味は一秒で理解できた。「……わかりました」 ブーケが空中を飛んだ。歓声が上がった。拍手が起きた。瑠衣の円卓だけが、切り取られたように静かだった。 しばらくして、真衣側の友人席から男が一人やってきた。グラスを持ったまま、ふらついた足取りで。酔っていた。「ねえ、君いくつ?」 瑠衣を見て、気さくに話しかけてきた。「二十九です」 男は数秒、止まった。「え」「二十九歳です」「おばさんじ

  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   2話「人生最悪の日、乾杯」

     招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。 "披露宴開始 13:00"  式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。  駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。  歩いて、何度か立ち止まった。 (あれ、なんで私こんなことしてるんだろう)  もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。  それより心にあるのは"無"だった。  感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。 (一番バカなのは、私かもしれない) 受付に並んで、順番が来た。 「江品家で招待されている、江品瑠衣です」  スタッフの女

  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   1話「婚約破棄の夜」

     瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。  "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した  玄関に靴が多い。  父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。  リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで

  • 結婚式の端っこで、君と乾杯を   7話「変な人」

    金曜日の夜、玄関を開けたら革靴があった。なぜか少し安心した。その事実に気づいて、すぐ気づかないふりをした。スーパーの袋を台所に置いて、地下書庫に向かった。灯は先週と同じ場所にいた。棚の前に立って、背表紙を眺めていた。「こんばんは」「こんばんは」それだけだった。いつも通りだった。夕食を作りながら、考えた。先週来た。今週も来た。偶然が二回続くと、習慣に近い。灯が「普段は別の場所に住んでいて、本が読みたいときだけ来る」と言っていたの

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