夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった のすべてのチャプター: チャプター 101 - チャプター 110

380 チャプター

第101話

「お前……」怜央は、思わず言葉を失った。莉乃が目的のために自分に薬まで盛り、さらには何食わぬ顔で自分のスマホから紗和に電話をかけ、怜央と寝たことをわざと聞かせていたなど、夢にも思わなかった。紗和の様子があれほどおかしかった理由を、怜央はようやく理解した。あの電話さえなければ、今は許してもらえなくても、莉乃の邪魔がなくなれば、いつか紗和の心を取り戻せると信じていた。だが結局、怜央は最も愚かな過ちを犯し、紗和をさらに深く傷つけてしまった。あれほど辛辣な言葉を浴びせられたのも当然だった。怜央には紗和を責めることなどできなかった。「だが、分かっているだろう。俺はお前と離婚できない。御堂ホールディングスの社長でなくなれば、お前の会社の資金調達も上場も後押しできなくなる」続けて、怜央は言った。「すまない。わざとじゃない。あいつが……」だが、莉乃に薬を盛られたとは言えなかった。下手をすれば、紗和が警察へ通報し、莉乃が不利な立場に追い込まれるかもしれない。怜央は息を整えた。「全部、俺が悪かった。二度としないと約束した直後に、その約束を破るべきじゃなかった。本当にすまない」以前の怜央は、決して謝ろうとしなかった。紗和にどれほどひどいことをし、彼女のお腹の子を失わせ、自信も尊厳も踏みにじってきたというのに、一度として謝ったことはなかった。まるで、それが紗和の払うべき犠牲であるかのように。それなのに、ほんのわずかな間に何度も謝罪を口にした。自分の過ちを悟ったからではない。紗和が本当に自分のもとを去ろうとしていると、ようやく気づいたからだ。彼女に深く愛されているという、以前の絶対的な自信はもうなかった。怜央は初めて、紗和を失うことに恐怖を覚えた。紗和は怜央を見つめ、答えた。「離婚したことは、しばらく伏せておけばいいわ。これからは、もう何の関係もない他人になるの。わざわざ公表する必要もないでしょう。上場記念のセレモニーが終わったら、私はフォトンテックの海外部門に異動して、向こうに常駐するつもり。御堂家の人たちには、海外出張に行ったとでも説明しておけばいいわ。連絡先も消す。私のほうからマスコミに離婚を明かすつもりもない。その代わり、もう二度と会わない。お互いの人生にも、一切関わらない」紗
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第102話

紗和はきっぱり断るつもりだった。だが、怜央がいつまでも居座ってすがることにうんざりし、返事をせず、蔑むように一瞥した。「そんなに汚れた身体で、いつまでここにいるつもり?出ていってくれる?」怜央はひどく落ち込んだ。しかし考えてみれば、莉乃と関係を持ったうえ、その声まで電話で聞かせてしまったのだ。誰だって汚らわしいと感じるだろう。これ以上、紗和の感情を逆なでしたくなかった怜央は、数日距離を置くことにして部屋を出た。自分は怪我を負い、そのうえ立て続けにさまざまな出来事が起きている。紗和が部屋から締め出すのも無理はない。冷静になれば、自分こそ今も愛している男だと思い出すはずだ。8年もの愛が、突然消えるはずなどない。今度こそ紗和を大切にしよう。以前の関係に戻り、紗和がまた子どもを授かれば、つらい記憶もすべて忘れさせてやれる。今度は決して、その子を失わせたりしない。そう信じきっていた怜央は、執事に別の寝室を用意させた。最近はあまりにも多くのことが起きた。自分も少し気持ちを落ち着ける必要があった。紗和はそのまま仕事を続けた。しばらくすると、千鶴子から、晴翔の食べられないものや生活習慣を使用人に教えるよう呼び出された。晴翔は、屋敷の2階の隅にある部屋へ移されていた。宗一郎は、今回の一件を機に晴翔を元の家へ帰さず、インターナショナル幼稚園も退園させ、郊外にある幼稚園へ転園させると決めていた。そのため、引き継ぐことがたくさんあった。すべてが夢のようだった。大切に育ててきた子が、突然、夫の隠し子だと分かった。莉乃が御堂夫人の座を奪うための道具だったかと思えば、今度は御堂家の犠牲にされようとしている。紗和は晴翔に対して、いくらかの申し訳なさと哀れみを感じていた。部屋を出ると、晴翔が扉の前に立っていた。そして階下へ落ちたボールを指さした。「ママ、ボールを取ってきてくれる?」紗和は驚いた。莉乃に言い含められてから、晴翔は紗和を「おばさん」としか呼ばなくなっていた。それなのに、急に「ママ」と呼んだのだ。胸の奥に残っていた柔らかな部分が、かすかに揺れた。紗和は急いで階段を下り、ボールを拾おうとした。ところが次の段へ足を踏み出した瞬間、小さなガラス玉を踏んだ。足を滑
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第103話

警察沙汰になれば、悪質な事件として大きく扱われ、深刻なスキャンダルに発展しかねない。第二に、千鶴子にとって晴翔は血のつながったひ孫だが、紗和は所詮よそ者だった。御堂家の人間が身内をかばうのは当然であり、紗和に公平な扱いなど期待できるはずもない。千鶴子は、奥で療養している宗一郎にこの騒ぎを知られることも恐れていた。警察が来れば、隠し通すのは難しい。救急車を待つ間、紗和は怜央の袖をつかんだ。「警察に通報して。お願い。これは事故じゃない。わざと人を傷つけたのよ」怜央がスマホを取り出そうとすると、千鶴子がその手を押さえた。「怜央、通報してはいけない。本当に紗和の不注意なのよ。足元を見ていなかったのだから、誰を恨めるというの?たとえガラス玉が落ちていたとしても、子どもが遊んでいただけで、悪気などなかったはず。それに晴翔はあなたの息子なのよ。何を優先すべきか、よく考えなさい」怜央の顔が曇った。「だが、紗和はこれほどの怪我をしている。何もせずに済ませたら、あまりにもひどい」千鶴子は老いた顔を紗和へ向けた。「紗和、私の顔を立てると思って、どうかこれ以上騒ぎを大きくしないでちょうだい。納得できないなら、私が晴翔に代わって謝るわ。あの子はまだ小さくて、何も分かっていないのよ。大人のあなたが、子ども相手にそこまでしなくてもいいでしょう。今は医療も進んでいるんだし、怪我をしたなら治療を受ければ済むことよ。こんなことで大騒ぎする必要なんてないわ。生きていれば、誰だって転ぶことくらいあるでしょう。階段だって、そこまで高かったわけじゃないんだから、大怪我なんてするはずないわ。少し休めば、また立てるようになるわよ」紗和の頬を涙が伝った。「本当に痛いんです。両脚の感覚もありません。些細なことではありません。2階からでも、落ち方次第では死ぬことがあります。もし私が死んでも、些細なことだと言うんですか?」千鶴子の顔色が変わった。「いつまで泣いているの!たとえ死んでも、御堂家が立派な葬儀を出してあげます。自分の不注意でしょう。誰を責めるつもりなの!」その本性を目の当たりにして、紗和は初めて、千鶴子の顔が底知れない悪意に満ちているように感じた。以前から見下されてはいたが、ここまでひどくはなかった。最近、怜央が起こした騒ぎまで
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第104話

紗和は痛みのあまり、顔から血の気を失っていた。本当に痛く、恐ろしくてたまらない。両脚はもう、自分の意思ではまったく動かなかった。スマホを返してもらうことも、救急車に乗ることも、すべて他人の手に握られている。夫である怜央とその家族に、人生そのものを絡め取られ、息もできないような感覚だった。晴翔を許したくはない。だが千鶴子は、救急車を止めることで紗和に許しを強要した。胸が張り裂け、血の涙が流れそうだった。紗和はこれまで、一度だって晴翔を粗末に扱ったことはない。莉乃の身勝手な欲望のせいで捨てられたのに、晴翔は紗和こそ元凶だと思い込み、これほど憎んでいる。実の子のように愛し、心を尽くして何年も育ててきたというのに。それでも怜央の言葉が事実であることは、紗和にも分かっていた。警察へ通報しても、晴翔が法の裁きを受けることはない。刑事責任を問われる年齢ではなかった。さらに厄介なのは、通報すれば怜央と御堂家の利益を損なうことだった。怜央は紗和の目の前で晴翔を乱暴に打ち、血が出るほど罰しようとした。晴翔の気持ちなど、怜央にとってもどうでもよかったのだ。そもそも愛していない子だからこそ、紗和の怒りを鎮めるためなら、どんな罰でも与えられた。だが紗和には分かっていた。本当に罪深いのは子どもではない。人形を糸で操るように、背後から晴翔をそそのかした莉乃だ。それなのに夫である怜央は、元凶の莉乃を決して責めようとしない。晴翔は母親にかわいがってもらえなくなり、寂しさのあまり、つい紗和にいたずらをしただけだと思われるだろう。莉乃を叱ることさえしないはずだ。あのときもそうだった。莉乃がわざと紗和を蹴り、流産させ、大量出血で死にかけたというのに、怜央は「わざとではない」の一言で故意の傷害をなかったことにした。ここまで来て、まだ分からないはずがない。通報したところで、何が変わるというのだろう。自分に何を決められるというのだろう。自分を傷つけた者は、いつも何の責任も負わず、自由に暮らし続ける。紗和は涙を流しながら、笑みを浮かべ、示談書に署名した。それは、苦痛と絶望が入り混じった笑みだった。5年間、夫婦として共に暮らしてきた怜央。その怜央は、千鶴子が救急車を呼ばせまいとするのを目の前で
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第105話

二人の体格に大きな差はなかった。だが伊織は若い頃、治安の不安定な地域へ留学していたため、余暇にボクシングを習っていた。研究一筋の彼にとって、それが唯一の趣味でもあった。怜央は殴られて鼻血を流した。伊織はその襟をつかんで引き起こし、怒鳴りつけた。「この人でなし!よくも紗和に麻痺が残るほどの怪我を負わせたな!この畜生が……」伊織は東都に広い人脈を持っていた。病院へ向かう途中、焦るあまり検査部門の責任者へ連絡を入れており、すでに紗和の検査結果を知らされていた。苦しみのあまり、ほとんど理性を失っていた。普段の伊織なら、人に手を上げることなどない。だが怜央のような男を相手にして、指導者としての体面など気にしていられなかった。怜央はもともと頭の中が混乱していた。伊織の怒声を聞き、紗和が本当に取り返しのつかないほど傷ついたから殴られたのだと、ようやく理解した。弁解しようと口を開いたが、声が出なかった。何を言えるというのか。事件の真相が御堂家の外へ漏れることはない。伊織も、おそらく何も知らないだろう。紗和が自分で足を滑らせたのだと言い逃れることはできる。だが、伊織が信じるだろうか。怜央には、紗和と伊織がどこまで親しくなっているのか分からなかった。ただの同志のような関係だとは、どうしても思えない。二人の間には、きっと特別な感情がある。なら、紗和はここ数日、莉乃から受けた屈辱も、電話越しにあんな声を聞かされたことも、すべて伊織に話しているのだろうか。殴られて切れた怜央の眉尻から、血がまぶたを伝って流れ落ちた。怜央は瞬きをして、真実を口にした。「紗和が育てていた子だ。俺の隠し子が、俺の知らないところで階段にガラス玉を置き、ボールを拾わせた。紗和はそれを踏んで、階段から転げ落ちた」伊織は以前、紗和から結婚生活について相談を受け、晴翔の本当の出自も聞いていた。だが、それ以外のことは知らなかった。その言葉を聞いた途端、全身から力が抜けた。まだ5歳の子どもが、どうしてわざとそんなことをするのか。しかも紗和は、その子を育ててきた母親ではないか。怜央は首を横に振った。「俺だって、こんなことは望んでいない。ここまでひどい怪我になるとも思わなかった……」伊織は核心を突いた。
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第106話

紗和は一日中、意識を失っていた。夢の中で、紗和は幼い頃のように駆け回っていた。だが突然、両脚が少しずつ透け、やがて跡形もなく消えてしまう。耐えがたい悲しみに呑まれ、眠ったまま涙を流し続けた。眠りの底で、すでに検査結果を悟っているかのようだった。紗和にとって、その両脚はかけがえのないものだった。裕福な家庭に育ったわけではないが、それを恥じたことは一度もない。両親に会ったことがなくても恨まなかった。健康な身体を授けてくれたからだ。紗和は自分のすらりとした脚が好きだった。どうか、この脚を奪わないでほしい。目を覚ますと、真っ先に両脚を見た。脚は消えていない。だが、温度も触覚も、何一つ感じなかった。もう動かせないのだ。反射的に身を起こそうとした瞬間、胸を激痛が貫いた。わずかに動くだけで傷が引き裂かれ、息さえできない。息が詰まり、紗和は大きく目を見開いた。涙があふれ、喉から声にならない嗚咽が漏れる。「私の……脚……」病室へ来た伊織の耳に、乱れた呼吸と痛ましい泣き声が飛び込んできた。「落ち着いて、紗和。胸を怪我している。ゆっくり呼吸するんだ」声は届いているはずなのに、紗和の震えは止まらない。目を真っ赤に腫らし、涙に濡れた顔からはすっかり生気が失われていた。処置室から戻ったばかりの怜央も泣き声を聞き、すぐ病室へ駆け込んだ。伊織が紗和を落ち着かせている。見るに堪えないその姿に、怜央の顔もこわばった。すべては自分が招いたことだ。それでも、莉乃を追及するつもりはなかった。「すまない……紗和、本当にすまない」怜央は何度も謝った。呼吸をわずかに整えた紗和は、かすれた声を振り絞った。「出ていって……あなたの顔なんて、一生見たくない」目を覚まして最初に向けられた言葉が、それだった。怜央の目からも涙がこぼれた。まだ検査結果を伝えてさえいない。紗和は目を閉じたが、震えは止まらなかった。死者のように冷えた下半身を、もう感じることができない。伊織は上着を脱ぎ、彼女の足を包んだ。怜央は、伊織が自分の悪口を吹き込んだのではないかと疑い、前へ出て弁解した。「紗和、子どもの異変に気づけなかった俺が悪い。だが、お前を傷つけるつもりなんてなかった。必ず償う。だから、どうか許してくれ」紗和の唇から、
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第107話

だが、その愛はもう二度と戻らない。自分こそが上に立ち、この恋を支配していると思っていた。しかし、愛を与えることも取り戻すこともできるのは紗和だ。支配していたのは怜央ではない。紗和だった。その愛を必要としていたのは怜央のほうだった。彼は紗和の愛を強く求め、代わりになるものをどこにも見つけられない。だが、それに気づいた時には、もう遅すぎた。一方、莉乃は怜央が手配したファーストクラスに乗り、悪態をつきながら国外へ到着していた。腹を立てているのは、怜央が自分と一夜を過ごしたあと、まるで相手にしてくれなくなったからだ。長く女を抱いていなかった怜央なら、快感を覚えれば自分と同じように、二人の情事から離れられなくなると思っていた。薬が強すぎて怜央はほとんど意識を失っており、まともに交わったとは言い難かった。それでも莉乃は、男女の仲を深めるきっかけにはなると信じていた。目を覚まし、昨夜の出来事を理解すれば、きっと自分なしではいられなくなると。ところが怜央は莉乃を求めるどころか、連絡まで拒否した。その時、目の前に豪華なショーケースが並んでいるのが見えた。返事をして機嫌を取る気がないのなら、現金で埋め合わせてもらえばいい。そう考え、高級ブランドが集まる百貨店へ入った。世界でも有数の高級ショッピングセンターで、大勢の客が買い物を楽しんでいた。莉乃は真っすぐエルメスの売り場へ向かった。木と透明なガラスで仕切られた棚には、最高級のバッグがずらりと並んでいる。数千万円もするバッグを、一度に5つも6つも選んだ。それでも物足りず、支払いを終えたら次の店でも買い物をするつもりだった。会計でバッグから家族カードを取り出し、得意げに店員へ差し出す。しかし、カードを通した端末には、冷たいエラー表示が現れた。莉乃は眉をひそめた。「まだ終わらないの?」次の買い物へ急いでいるのだ。店員から決済できないと告げられると、たちまち腹を立てた。「そんなはずないわ。世界中で使えるカードよ。あなた、やり方を知らないんじゃない?責任者を呼んで」やがて、がっしりした体格の男性責任者が現れ、もう一度端末を操作した。「お客様、このカードは利用停止になっています。ほかのカードはお持ちでしょうか」莉乃は無能な店員を怒鳴りつけ、時間を
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第108話

「放して!触らないで!助けて!」莉乃は甲高い声で叫んだ。鈍い音とともに、顔に拳を叩き込まれた。目の前に火花が散る。叫べば叫ぶほど、殴打は激しさを増した。男たちは金属製のナックルをはめており、一撃ごとに凄まじい痛みと深い打撲を残した。莉乃の全身から汗が噴き出した。拳だけではない。頭にも身体にも容赦なく攻撃が降り注ぎ、尻まで蹴りつけられた。最後には、叫ばなかったのではなく、痛みで声を出す力さえ失っていた。頭にかぶせられているのは男物の上着らしい。安い酒と煙草、濃い汗の臭いが染みついていた。声からして相手は三、四人。強いアフリカ系の訛りがあり、移民か不法入国者、あるいは路上生活者なのだろう。年齢は40歳前後に思えた。鼻を突く悪臭から、そばに路上のごみ箱があると分かった。ここが彼らのねぐらなのかもしれない。周囲にはごみが積み上がり、汚物まで残っている。きらびやかな街の底で切り捨てられた人々だった。莉乃が身につけていたブランド品は、乱暴にはぎ取られた。腰が冷たい夜風にさらされる。屈辱と怒りで頭が真っ白になった。ごみの中で、これほど乱暴に踏みにじられたことなど一度もない。攻撃のたび、身体の奥まで激しく揺さぶられ、内臓が悲鳴を上げているようだった。このまま、ここで死ぬのだろうか。整形した鼻も、定期的に美容注射を受けている顔も、数十万円の服も、千万円を超える宝石も、大切に手入れしてきた身体も――自分は選ばれた、高貴な女のはずだった。だが今は、そんなものは何の役にも立たない。ごみの山に押さえつけられ、なすすべもなく蹂躙されていた。甘い香りをまとっていた身体は、今や汚れと悪臭にまみれ、力なく横たわっていた。「惨め」という言葉だけでは、今の姿を到底言い表せなかった。長い時間が過ぎたころ、男たちは莉乃を引きずり出し、そのままごみ集積場へ投げ捨てて逃げていった。莉乃は冷たいコンクリートの上に倒れていた。全身には紫色の痣が無数に浮かび、少し動くだけで砕けた骨が軋むように痛んだ。脚は折れ、内臓までひどく痛む。下半身には何の感覚もなかった。しばらくして、激痛に耐えながら頭の上着を外し、スマホを探した。見つからない。男たちに盗まれたのだろう。指にはめていたダイヤの指輪も、高級腕時計もブレス
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第109話

「怜央くんに見られたら、どうするの?」莉乃は、これほどの屈辱を味わったことがなかった。邦彦も、それを聞いて思い直した。彼は名家の人間ではない。若い頃、国内で絶大な権勢を誇っていた九条家の運転手をしていただけだ。当時任されていた車は、国内に2台とないほどの高級車だった。長く運転しているうちに、邦彦は自分まで金持ちになったような錯覚を抱き、一人娘の莉乃にも大きな期待を寄せるようになった。名家で働いているのだから、自分も半分はその世界の人間だと思い込んでいたのだ。主人に気づかれないよう高級車に娘を乗せ、よくドライブへ連れ出した。邦彦の最大の望みは、莉乃が名家へ嫁ぎ、ただの運転手である自分も、一気に当主の義父に成り上がることだった。彼はそういうドラマを好んで見ていた。頭の悪い御曹司が、太って鈍いシンデレラに恋をするような話だ。自分の娘は、そんな世間知らずの女たちよりはるかに優れていると思っていた。莉乃は幼い頃から要領がよく、母親が早くに家を出ても父を恨まず、二人で支え合って生きてきた。邦彦は幼い娘に繰り返し言い聞かせ、莉乃も自分こそ名家へ嫁ぐ運命の女だと信じ込んだ。莉乃が成長すると、邦彦は貯金をはたいて家を売り、娘をインターナショナルスクールへ通わせた。幼いうちから名家の夫候補を捕まえさせるためだった。そこで莉乃は怜央と出会い、彼が人違いをしているという秘密を知った。それ以来、父娘はあらゆる手を使って怜央を操った。2年もたたないうちに、九条家は複数の高収益事業への投資を成功させ、資産を飛躍的に増やして国外へ移住した。邦彦も同行し、引き続き九条家の運転手を務めた。莉乃だけは、怜央と国内で学びたいと言って父と絶縁したふりをし、その後何年にもわたって怜央から金を吸い上げた。私費留学の費用も、すべて怜央に負担させていた。もともと父娘は、騙しやすく気前のいい御曹司から金を搾り取るだけのつもりだった。だが怜央が御堂家の後継者となり、御堂ホールディングスの社長に就くと、何としても彼を手に入れようと企むようになった。今回の事件で、その計画を台なしにするわけにはいかない。複数の男に乱暴された女だと知れば、怜央はきっと嫌悪する。邦彦にも、それはよく分かっていた。眉を寄せ、娘に尋ねた。「それなら、これからどうする?治
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第110話

怜央はひどく落ち込んでいた。紗和の言葉があまりに鋭かったこともあり、反射的にその場から逃げ出したくなった。もともと対立が起きれば、時間を置いてやり過ごすのが怜央のやり方だった。今回もただの夫婦喧嘩で、紗和が落ち着けば収まると思っている。怜央が出ていくと、紗和は少しずつ平静を取り戻した。鼻のチューブから酸素が送り込まれ、鎮痛剤も効き始め、ようやく楽に呼吸できるようになった。「伊織さん、私の脚は……もう駄目なの?」紗和は悲しげに尋ねた。彼女が悲観していることは、伊織にも分かっていた。この病院の医師には、これほど重い骨折を治療する手立てがなかった。だが伊織は、一つの病院の判断だけで諦めるつもりはなかった。両親や親族、知人まで、持てる人脈をすべて使い、紗和の検査結果を東都随一の整形外科医へ送った。その医師は手術自体は可能だと答えたが、危険性が極めて高いため、保存療法を勧めた。保存療法で元どおりに回復できるかと尋ねると、見通しは厳しいという。奇跡が起きなければ、以前のように歩くことはできない。伊織が絶望しかけていた頃、雅人から一人の外科医を紹介された。SNSで知ったのか、共通の知人から聞いたのかは分からないが、どうやら事情を耳にしたらしい。わずかな望みを抱いて連絡を取り、検査結果を送ると、その医師は同じような症例の手術を成功させたことがあると答えた。初めは誇張ではないかと疑った伊織も、学術データベースや医学機関の情報を調べ、相手が世界的に名高いアメリカの脊椎外科医だと知った。確かに、これほど重い症例を手術で治した実績がある。伊織はすぐに、そのことを紗和に伝えた。「連れていって」紗和は感情をあらわにして言った。手術で治る可能性があるなら、賭けてみたかった。自分が身体の自由を失った姿など受け入れられない。紗和は昔から自分に厳しく、そもそも進んで下下半身不随になりたい人などいるはずがない。伊織がうなずき、出発の準備をしようとしたところへ、怜央が突然入ってきた。「紗和、俺がアメリカへ連れていく。手術を受けるには、アメリカのダイソン医師を訪ねるしかない」伊織はすぐ答えた。「ダイソン医師とは、もう連絡が取れている。私が紗和を連れていく」怜央の目が暗く沈んだ。紗和に出ていけと言われ、憎ん
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