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13話

Author: 団紡るう
last update publish date: 2026-09-19 07:00:50

 依子から連絡が来たのは、前に会ってから四日ほど経った午後だった。今度はお茶ではなく、少し相談したいことがあるという。愛音が指定された時間に朝桐家を訪ねると、依子は玄関まで出てきた。

「急に呼び出してしまってごめんなさいね」

「いえ」

「この前の話とは少し違うの。私だけではどうにもならなくて」

 依子はそう言って愛音を居間へ通した。前回と同じ席には茶器が並んでいる。その横に、薄い封筒と数枚の書類が重ねられていた。

「実は主人の会社の契約書なの」

 依子が封筒から書類を取り出した。紙の端は何度も触れられたらしく、少しだけ丸くなっている。

「数字が合わないところがあるみたいでね」

「数字ですか」

「ええ。契約金額と、別紙にある支払い予定の金額が合わないの。主人も担当の人に確認しているんだけれど、向こうは計算に間違いはないと言うのよ」

 依子は一枚目を愛音の前へ置いた。

「こちらが本契約。こっちが追加分。合計すれば同じになるはずなのに、最後の数字だけ違うの」

 愛音は書類を手に取った。紙は少し厚く、印刷された数字が細かく並んでいる。契約金額、支払日、内訳。視線を上から下へ動かしながら、指先で欄の位置を追った。

「何度も見たんだけれどね。主人も担当者も、数字ばかり見てしまっているのかしら」

 依子の向かいには剛生もいた。眼鏡を外して机の上の書類を見ている。

「私も計算し直したが、どうにも分からなくてね」

 剛生はそれだけ告げると、愛音の手元へ目を向けた。

 愛音は返事をせず、二枚目の紙をめくった。最初の金額へ戻る。もう一度、別紙の数字を追う。合計欄で指先が止まった。

「ここです」

 依子と剛生ごうせいの視線が同じ場所へ集まった。

「この金額、前のページと同じ数字になっています」

「ええ。それが?」

「こちらの追加分を足す前の金額です」

 愛音は二枚の紙を横に並べた。

「本契約の金額が一千二百万円。追加分が三百万円です。だから合計は一千五百万円になります。でも、この欄だけ一千二百万円のままです」

 依子は身を乗り出した。

「……本当だわ」

「でも、下の支払い予定は一千五百万円になっています」

 愛音は指先を少しずらした。

「だから計算そのものが間違っているというより、この欄だけ書き換えられていないんだと思います」

 剛生が書類を引き寄せた。

「なるほど」

 愛音はさらに下の欄へ目を移した。

「それと、支払い予定の日付も見たほうがいいと思います」

「日付?」

「はい。追加分の支払い日が、本契約の支払い日と同じになっています」

 剛生が二枚を見比べた。

「……確かに同じだ」

「追加契約なら別の日になるのか、それとも同日にまとめるのか。そこだけ確認しておいたほうがいいと思います」

 依子はしばらく黙っていた。指先が書類の角に触れ、そのまま止まる。

「でも、私たちは何度見ても分からなかったのよ」

「数字を追うときに、前のページと比べただけです」

 剛生は一枚目と二枚目をもう一度並べ直した。

「確かに、こうすると分かりやすいな」

「最初からこうして見ればよかったんだが」

「助かったよ」

「いえ」

 依子は愛音を見ていた。

「……そう」

 依子は書類へ目を戻した。

「つまり、契約自体がおかしいわけではないのね?」

「そこまでは分かりません。ただ、数字が一致していない場所と、確認したほうがいい場所は分けて考えたほうがいいと思います」

「そういうことね」

 依子は頷いた。先ほどまで書類を持て余していた手が、今度は一枚ずつ端を揃えていく。

「担当者にもう一度確認させるわ。数字だけ直せば済むのなら、それでいいもの」

「はい」

「こういう書類を見るのは嫌にならないの?」

「必要なら見ます」

「そう……」

 愛音は机の上に残った紙を揃えた。封筒へ戻す前に、最初の契約書と追加分の順番を確認する。折れた角を指で伸ばし、重ねていく。

「この二枚は一緒にしておいたほうがいいと思います。後で別々になると、また分かりにくくなるので」

「そうね」

 依子は封筒を差し出した。

「お願いしてもいいかしら」

 愛音は書類を受け取り、順番を揃えて入れた。封筒の口を閉じる。剛生はその手元をしばらく見ていたが、やがて椅子を引いた。

「この件は私のほうで確認しよう」

「ええ。そうしてちょうだい」

 剛生は封筒を受け取り、立ち上がった。

「西条さん。今日はありがとう」

「こちらこそ、お時間をいただいてありがとうございました」

 剛生は軽く頭を下げ、居間を出ていった。

 扉が閉まる音を聞いてから、依子は残った茶を一口飲んだ。

「あなた、案外しっかりしているのね」

 愛音は湯呑みへ目を向けた。

「そうでしょうか」

「ええ。少なくとも、書類を見るときは頼りになるわ」

 依子はそう言って、空になった湯呑みを茶托へ戻した。

「前は、家のことをきちんとしている人だと思っていたけれど」

 愛音は黙っていた。

「こういうこともできるなら、話は少し変わってくるわね」

「……はい」

 依子はその返事を聞くと、ほんの少しだけ首を傾けた。

「人付き合いが得意でなくても、こういうところで役に立てる人はいるものね」

 愛音は答えなかった。

「表に出ることだけが、家のためになるわけではないでしょうし」

 依子の指が茶托から離れた。

「それに、航生の仕事もこれからいろいろあるでしょう。誰かが書類を見てくれるだけでも、余計な手間は減るもの」

「そうですね」

「あなたなら、そういうことを嫌がらずにしてくれそうね」

 愛音は依子を見た。

「必要なことなら」

「そう……」

 依子の口元に、今度は先ほどまでとは少し違う笑みが浮かんだ。

「それなら、考え方を少し変えてもいいのかもしれないわね」

 愛音は何も答えなかった。

「今度、主人にも紹介しておくわね」

「ありがとうございます」

「きっと一度話しておけば、何か頼みたいことが出てくると思うの」

 愛音は湯呑みを持ち上げた。

「分かりました」

「また何かあったら相談させてちょうだい」

「はい」

「それと……」

 依子は立ち上がった。

「この前の話も、またゆっくりしましょう」

「はい」

 玄関へ向かう途中、依子がふと足を止める。

「あなたも、少し考えておいてちょうだい」

 愛音は依子を見た。

「何をでしょうか」

「……いろいろよ」

 それ以上、依子は続けなかった。

 靴を履き、扉が開く。

 愛音は一歩下がって見送った。依子が門の向こうへ消えるまで、その場を動かなかった。

 居間へ戻ると、机の上には何も残っていない。茶器を片づけるため、愛音は湯呑みを手に取った。

 指先に薄い茶渋の跡がついている。水で流してから布巾で拭き、茶托と重ねる。

 最後に、依子が持っていった封筒のあった場所へ目を向けた。

 そこには、紙が擦れた跡だけが残っていた。

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