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第57話:そう思ってたのに

last update Veröffentlichungsdatum: 15.08.2026 22:57:04

***

玲が店を出る間際のことだった。

エマは、彼が差し出した名刺を見て、一度だけ手を止めていた。

「こちらは、結構です」

仕事用のメールアドレスはすでに渡した。

神崎財団への連絡も、必要であれば事務局を通せる。

これ以上、個人的な接点を増やす理由はない。

そう思って断ろうとした。

けれど玲は、名刺を引かなかった。

「捨てていただいても構いません」

穏やかな声だった。

「必要になった時だけ、使ってください」

その言い方が、妙に玲らしく感じた。

強く押しつけるわけではない。

けれど、受け取るところまでは譲らない。

エマは少し迷ったあと、名刺を受け取った。

「……分かりました」

白いカードには、神崎玲の名前と、本人へ直接届くメールアドレスが記されていた。

普段使っているものなのか。

限られた相手にしか渡さないものなのか。

エマには分からない。

ただ。

八年前には必要のなかったものが、今は自分の手の中にある。

それだけが、ひどく不思議だった。

「では、失礼します」

玲が頭を下げる。

「お気をつけて」

店の扉が閉まり、ベルの音が小さく消えた。

エマは手元の名刺を見つめた。

捨ててもいい。

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  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第58話:遠くに置いてきたもの

    ***翌日のカフェは、昼前から賑わっていた。観光客の女性たち。近所の常連客。海沿いを散歩していたらしい夫婦。カウンターの奥では、奏がコーヒーを淹れている。相変わらず目立つ。背が高く。整った顔立ちで。本人が意識していないのに、女性客の視線が自然に集まる。「店長さん、今日もいます?」若い女性客がスタッフへ尋ねる。その声を聞いた奏が、少し困ったように笑った。「普通にいますよ」「写真お願いしてもいいですか?」「ほかのお客様が写らなければ」「やった」女性たちが楽しそうに笑う。エマは少し離れた場所で、トレーへカップを並べながらその様子を見ていた。奏がモテることは、今さら珍しくない。町でも。観光客にも。本人が望めば、誰かと付き合うことだって簡単だろう。昼を過ぎた頃。アルバイトの女の子が、バックヤードから戻ってきた奏へ声をかけた。「店長、今日このあと予定あるんですか?」「どうして?」「さっき時計見てたから」「それだけ?」「デートですか?」店内のスタッフが笑う。エマもつられて、小さく笑った。「奏さんなら、ありそうですね」何気なく言った。本当に。それだけのつもりだった。けれど。奏の視線が、一瞬だけエマへ向いた。笑っている。なのに。その目の奥に、ほんの少し寂しそうな色が浮かんだ。エマの胸が、僅かに止まる。「残念。仕入れ」奏はすぐにいつもの顔へ戻った。「市場の人と話すだけ」「なんだ」アルバイトの女の子が笑う。「店長、もったいないですよ」「何が」「絶対モテるのに」「仕事してください」奏が苦笑し、話はそこで終わった。けれど。エマの中には、さっきの視線だけが残った。知っている。奏が自分へ向けているものに。たぶん。ずっと前から。それでも。気づかないふりを続けてきた。気づけば。何かを返さなければならなくなる気がしたから。エマには。それができない。***午後。休憩に入り、エマはテラス席へ出た。海はよく晴れている。青の中に。薄い銀色が混じっていた。恋愛。その言葉は、自分からひどく遠い。逃亡生活は、まだ終わっていない。事件も。犯罪組織も。最後の一枚も。何一つ解決していない。いつまた居場所を変えることになるかも分からない。そんな自分が。誰かを好きにな

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第57話:そう思ってたのに

    ***玲が店を出る間際のことだった。エマは、彼が差し出した名刺を見て、一度だけ手を止めていた。「こちらは、結構です」仕事用のメールアドレスはすでに渡した。神崎財団への連絡も、必要であれば事務局を通せる。これ以上、個人的な接点を増やす理由はない。そう思って断ろうとした。けれど玲は、名刺を引かなかった。「捨てていただいても構いません」穏やかな声だった。「必要になった時だけ、使ってください」その言い方が、妙に玲らしく感じた。強く押しつけるわけではない。けれど、受け取るところまでは譲らない。エマは少し迷ったあと、名刺を受け取った。「……分かりました」白いカードには、神崎玲の名前と、本人へ直接届くメールアドレスが記されていた。普段使っているものなのか。限られた相手にしか渡さないものなのか。エマには分からない。ただ。八年前には必要のなかったものが、今は自分の手の中にある。それだけが、ひどく不思議だった。「では、失礼します」玲が頭を下げる。「お気をつけて」店の扉が閉まり、ベルの音が小さく消えた。エマは手元の名刺を見つめた。捨ててもいい。そう言われた。けれど。すぐに捨てることはできなかった。***その夜。仕事を終え、自宅へ戻ってからも。名刺はバッグの内ポケットに入ったままだった。シャワーを浴び。簡単な食事を済ませ。テーブルへスマートフォンを置く。何となくバッグを開くと、白いカードが目に入った。神崎玲。八年間。その名前を、自分から探さないようにしてきた。SNSも見ない。ニュースも追わない。玲がどこにいるのか。どんな仕事をしているのか。誰と付き合っているのか。知ろうとしなかった。知れば、気持ちが戻ると思っていた時期もある。けれど。時間が経つにつれ。それは少しずつ違うものになった。戻りたいという気持ち自体が、遠くなっていった。逃亡生活の中で。誰かを愛するという感覚も。誰かと未来を考えることも。一つずつ、自分には必要のないものとして置いてきた。だから。今、玲の名刺を見ても。昔の恋人へ連絡するという感覚ではなかった。むしろ。そのことが少しだけ寂しかった。八年前なら。この名前を見ただけで胸が苦しくなった。声が聞きたくて。触れたくて。今すぐ会いたくて。どうし

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第56話:完璧に仕事だった

    『神崎様本日はお忙しいところ、わざわざお立ち寄りいただきありがとうございました。先ほど事務局より、今後の制作スケジュールについて共有をいただきました。現場で確認が必要な事項が発生した場合には、こちらからご連絡いたします。引き続き、よろしくお願いいたします。朝倉エマ』短い。完璧に仕事だった。余計な一文もない。自分から会話を続ける余地さえ残していない。それなのに。玲は、しばらく画面から目を離せなかった。自分の名前を。彼女が入力した。自分へ送るために。たったそれだけのことへ、胸の奥が熱を持つ。おかしい。分かっている。これまで何千通、何万通とメールを受け取ってきた。世界中の経営者。政治家。投資家。アーティスト。会いたいと連絡してくる人間など、いくらでもいる。それなのに。朝倉エマから届いた数行を。玲は、もう三度読み返していた。画面の下に返信欄がある。今度は。理由がある。返信できる。『こちらこそ、ありがとうございました。』打つ。『何かあれば、いつでもご連絡ください。』そこまで入力して。玲の指が止まった。いつでも。仕事の意味では自然だ。けれど。自分が書くと。それ以上の意味に見える。少し考え。そのまま送った。送信済みの表示が出る。それだけで。妙に落ち着かない。既読という機能はない。返事が来る必要もない。仕事の挨拶なのだから。それなのに玲は。数分後、また画面を見た。何も来ていない。当然だった。自分から会話を終わらせる文章を送っている。それでも。何か一言。返ってこないだろうかと思っている。そんな自分に気づいて。玲は静かに目を閉じた。重症だ。***翌朝。加瀬が玲の執務室へ入った時。玲はすでに仕事を始めていた。「おはようございます」「おはようございます」いつもの声。いつもの表情。デスクには資料が並び、昨日までと何も変わらない。加瀬は予定を読み上げ始めた。「十時から投資委員会、十一時半からシンガポール——」玲のスマートフォンが震えた。その瞬間。加瀬は言葉を止めた。玲が、話の途中で画面を確認したからだった。普段なら。加瀬が予定を読み上げている最中に、通知へ視線を落とすことなどほとんどない。玲自身も。画面を見てから気づいた。違う。エマで

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第55話:難しいですか

    ***それから。東京へ戻る新幹線の中でも、玲はほとんど仕事をしていた。未読の資料を確認し、海外チームから届いたメールへ返信する。午前中の会議で保留になった案件には指示を出し、来週のスケジュールを組み直す。普段と変わらない。少なくとも、隣に座る加瀬から見れば、そう見えるはずだった。ただ。一つだけ違うことがあった。玲は、何度もスマートフォンの連絡先を開いていた。朝倉エマ。夕方、本人から受け取ったメールアドレス。仕事用。緊急時の連絡のため。それ以上の意味はない。分かっている。それなのに。画面に名前が存在することを、何度も確かめてしまう。今までは、会いたいと思っても港町へ行かなければならなかった。カフェへ行き。彼女が働いている時間でなければ、会えない。けれど今は。文章を打てば、届く。たったそれだけのことが。玲には、思っていた以上に大きかった。「神崎さん」隣から声がして、玲は画面を伏せた。「何ですか」「来週の港町ですが」加瀬がタブレットをこちらへ向ける。「現状、火曜日から木曜日まで海外との会議が続いています。金曜日であれば、午後に移動できる可能性があります」玲は表示された予定を見る。「午前には行けませんか」加瀬が黙った。その沈黙に、玲は顔を上げる。「難しいですか」「難しいというより」加瀬は珍しく、言葉を選んでいた。「神崎さんがそこまで港町での滞在時間を確保される必要があるのかと」玲は答えなかった。加瀬は続ける。「財団としての協賛は決まっています。現地担当者もおりますし、神崎さんご自身が毎週確認されなくても、進行上の問題はありません」正論だった。「それでも、行きます」「……承知しました」加瀬が予定表へ視線を戻す。けれど。数秒後。「朝倉さんの企画をご覧になるためですか」玲の指が止まった。「そうですが」答えると、加瀬が僅かに息を吐いた。「いえ」「何ですか」「以前の神崎さんであれば、『現地確認のためです』とお答えになったと思いまして」玲は何も返せなかった。確かに。少し前までなら、そう答えていた。***自宅へ着いたのは、夜遅くだった。シャワーを浴び。書斎へ入る。いつもなら、そのまま仕事を続ける。けれど今日は、椅子へ座って最初に開いたのが仕事のメールではなかった

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第54話:電話番号でなくても構いません

    少し考える。「電話番号でなくても構いません」玲は先に付け加えた。「仕事用のメールでも。エマさんが負担に感じない方法で結構です」その時。カウンターの向こうで、千早さんの手がほんの僅かに止まった。玲には分かった。聞いている。そして。玲がどこまで仕事のために話しているのかを、測られている。以前なら。他人からどう見られているかなど気にもならなかった。今は。千早さんにどう見られているかすら、少し気になっている自分がいる。「本当に、緊急時だけですか」エマが尋ねる。声音は穏やかだった。けれど。それ以外には使わないでほしい。その線引きは明確だった。「はい」玲は答えた。少なくとも、今は。理由もなく連絡すれば。エマはすぐに距離を取る。それくらいは分かっている。「……分かりました」エマはカウンターへ戻り、小さなメモ用紙を取った。その様子を待ちながら。玲は、妙に落ち着かない自分へ気づいた。たかが、メールアドレスだった。財団担当者へ聞けば、共有されている可能性すらある。それなのに。エマ自身から渡されることを。玲は待っている。ペン先が止まる。エマが戻ってきた。「こちらです」差し出された紙。短い仕事用のアドレス。指が触れることはなかった。「ありがとうございます」玲は紙を受け取った。それだけで、胸の奥が静かになる。そこへ。「神崎さん」入口付近から加瀬の声がした。「そろそろお時間です」エマが、そちらを見る。加瀬の顔には、いつもと変わらない職業的な表情がある。けれど。玲には分かった。珍しいものを見るような目をしている。地方のカフェへ予定をずらして立ち寄り。現場の一スタッフから。自分で連絡先を受け取っている玲。加瀬が驚かない方がおかしかった。「今行きます」玲は答えた。それから、一度迷って。名刺入れを取り出す。「こちらも」差し出したのは、通常の財団用名刺ではなかった。玲本人へ直接届くメールアドレスが入ったもの。限られた相手にしか渡さない。エマが名刺を見て。少しだけ眉を上げた。「神崎さんご本人へ、ですか」「僕が確認した方が早い内容もあると思いますので」また。仕事を理由にした。今度は、自分でもはっきり分かった。エマは数秒だけ迷い。「承知しました」と受け取った。

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第53話:連絡体制について

    *** ジャンから送られてきた写真を閉じたあとも、玲はしばらくスマートフォンを手にしたまま動かなかった。白いカップ。ラテの表面に浮かぶ葉。その向こうに見える、あの海。エマの姿は写っていない。それでも、写真を撮ったジャンの向かいに彼女がいたのだろうと考えると、胸の奥が静かにざらついた。『彼女が参加する子どもたちの企画について、もう少し詳しく教えてくれない?』その一文も、画面を閉じたあとまで残っている。ジャンが興味を持っているのは、エレナに似た女という一点だけではなくなっている。朝倉エマが何を考え、何を描き、どういう企画を作ろうとしているのか。そこへまで視線を向け始めている。それが、どうにも面白くなかった。「神崎さん」加瀬の声に、玲は顔を上げた。会場となっている建物の前には、すでに車が待っている。「このまま駅へ向かえば、東京での次の会議には予定どおり間に合います」「そうですね」玲はスマートフォンをポケットへ戻した。そのまま車へ向かう。数歩。歩いたところで、足が止まった。加瀬も止まる。「……十分ほど、時間をください」「はい?」珍しく、加瀬が聞き返した。玲は腕時計を見る。「十分です」「何か現地で確認事項が残っていましたか」「一つだけ」「主催者側の担当者でしたら、先ほど——」「カフェへ行きます」加瀬の表情が、ほんの少しだけ止まった。仕事中に感情を顔へ出す人間ではない。それでも、長く玲のそばにいるからこそ、完全には隠せなかったらしい。「……朝倉さんのところへ、ですか」「はい」「何か、急ぎのご用件が?」玲は一瞬、黙った。ある。そう言おうと思えば、理由はいくらでも作れる。実際、地域企画の制作は始まっている。スポンサーとして確認事項が発生する可能性もある。だから。「連絡体制についてです」と答えた。加瀬は玲を見た。一秒。二秒。何も言わない。その沈黙が、玲には少しだけ居心地が悪かった。「何ですか」「いえ」「何か言いたそうですが」「申し上げてよろしいのであれば」加瀬は慎重に言葉を選んだ。「神崎さんが、現場協力者の連絡体制をご自身で確認されることは、これまでほとんどなかったと思いまして」玲は視線を逸らさなかった。正しい。通常であれば、財団担当者がやる。玲本人が地方のカフェ

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