娘が「ママ」と呼ぶ女を、私は知らない のすべてのチャプター: チャプター 91 - チャプター 100

104 チャプター

第91話 そこに住む人

「うん。今のおうちより少し小さくて、お庭があって……近くに公園があるおうち。パパが、スマホで写真見せてくれたの」 真帆の胸の奥で、冷たい塊がどっしりと沈んだ。 避難した夜、菜月宅の床の上で見つめたあの不動産パンフレット。沙耶のアトリエから二駅隣にある、一戸建ての分譲地。悠人は本当に、あの写真を七海に見せていたのだ。「そのおうちにね……行くの。八歳になったら」「そこには……誰が住むの?」 真帆が問いかけると、七海は上目遣いに真帆の顔を見た。その瞳には、真帆の表情を探るような、恐る恐るの色彩が混ざっていた。「……パパと、七海と……沙耶ママ」 言葉が、静かな部屋の中に落ちた。 真帆は呼吸を止めた。 分かっていたはずだった。あの夜の資料整理で、悠人の描いていた未来像に自分の名前がないことは知っていた。それでも、娘の口から直接「沙耶ママと住む」という言葉が出た瞬間、胸の開いた傷口に冷水を流し込まれたような痛みが走った。「ママは……?」 真帆は声を絞り出した。自分の声が、自分のものではないように遠く聞こえた。「ママのことは……お父さん、なんて言ってたの?」 七海は真帆の指を、小さな手でぎゅっと握り返してきた。「パパね……『ママはお仕事がとっても大事だから』って言ってた」「お仕事……?」「うん。『ママはもっと大きなお仕事をするから、遠くに行っちゃうかもしれないんだよ』って。『ママは忙しいから、一緒には来られないかもしれない』って……」◇ 真帆の背筋を、冷たい刃で撫でられたような寒気が駆け抜けた。 悠人は、七海に対して真帆を「悪者」としても「死んだ人」としても語っていなかった。 悠人は、真帆が病気になるとも、事故に遭うとも言っていなかった。もっと穏やかで、反
last update最終更新日 : 2026-10-08
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第92話 あと四日

 七海が真帆の胸の中で、鼻をぐすぐすと鳴らしながら呟いた。「なぁに?」「八歳のお誕生日……ママも来たら、だめなの……?」 七海の素朴で、無邪気な質問。「お写真屋さんも、新しいおうちも……ママも一緒に来ればいいのに……。どうしてママは、お仕事に行っちゃうの……?」 真帆の胸が、激痛で引き千切られそうになった。 七海は、父親の言葉を信じ切っていたのだ。ママが自分を置いて仕事に行ってしまうのだと、本気で寂しさを耐えていたのだ。 真帆は七海の頭を深く抱きかかえ、その柔らかい髪に顔をうずめた。「行かないよ」 真帆の声は、自分でも驚くほど低く、確かな力強さを帯びていた。「ママはね、どこにも行かない。お仕事で遠くに行くこともない。絶対に、七海を一人にしてどこかに行ったりしないよ」「ほんとう……?」「ほんとう。ママはずっと、七海の隣にいる。約束する」 七海は真帆の服の生地をギュッと掴み、安心したように大きく息を吐き出した。 真帆は七海の小さな身体を揺らしながら、暗い部屋の壁を見つめた。 悠人が描いた未来図を、絶対に実現させてはならない。 あの子を、「壊れない家族」を作り直すための都合の良い人形になどさせない。◇ 午前十時過ぎ。 七海がテレビの児童向け番組に夢中になり、ソファの上で大人しくなったタイミングを見計らい、真帆は静かに部屋を出た。 マンションの狭いベランダへ通じるサッシを開け、外へ出る。 曇り空から湿った風が吹き抜け、真帆の薄手のカーディガンを揺らした。手すりに寄りかかり、スマートフォンを取り出す。 通話履歴から、水城沙耶の番号をタップした。 呼び出し音が二回鳴り、すぐに接続音が聞こえた。『……もしもし、篠宮さん?』 沙耶の声は、先日のファミリーレストランでのやり取
last update最終更新日 : 2026-10-08
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第93話 八歳まで、あとわずか

「水城さん、落ち着いてください!」 真帆は受話器を強く耳に押し当てた。『落ち着けるわけないでしょう……っ!』 沙耶の声はガタガタと震え、激しい動揺に包まれていた。『莉央は……七歳の誕生日から、たった四日で亡くなったんです! 八歳の誕生日を迎えることができなかったの……! あの人は……七海ちゃんが八歳になる前に……莉央が生きられなかった時間の続きを……全部やり直そうとしている……っ!』 沙耶の言葉が、真帆の頭の中で昨日までの資料と重なり合った。 九年前の事故。莉央が七歳で亡くなった日。 悠人が七海の八歳の誕生日に選んだ旅行先――『翠ヶ湖』。 そして、写真館の予約票に書かれた『7月10日』という日付。 並べてみると、単に新しい家を買い、生活を組み替えようとしているだけでは説明しきれない一致だった。 七海が莉央の年齢を追い越す、その直前。悠人は八歳の誕生日に、九年前と同じ場所で何かをしようとしている――真帆には、そうとしか思えなかった。『止めなきゃ……っ』 沙耶が喘ぐように叫んだ。『八歳になる前に……止めなきゃダメです! あの人は……あの場所で……九年前と同じ場所で……何かをするつもりだわ……っ!』「あの場所って……翠ヶ湖のことですか?」『……あ……』 沙耶の声が、怯えで引き攣った。『九年前……莉央が死ぬ前の晩に泊まっていた、水山荘……。あの人は……あそこに……』 沙耶の過呼吸が激しくなり、言葉が続か
last update最終更新日 : 2026-10-09
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第94話 最後の瞬間

 七海の隣に座ってしばらくすると、沙耶からもう一度電話がかかってきた。真帆はベランダへ出て、アルミの手すりに指先を置いた。 薄曇りの空から吹き下ろす風が、真帆の髪を乱し、スマートフォンのマイクにゴトゴトと低い風切り音を混ぜ込んでいた。通話の向こう側で、沙耶の短く荒い呼吸が少しずつ落ち着いていくのが聞こえる。『……すみません、取り乱してしまって』 沙耶の声はかすれ、遠かった。「いいえ。……水城さん、九年前の事故のこと、もう少し詳しく教えてもらえますか」 真帆はスマートフォンの画面を耳に強く押し当てた。「悠人は、あなたが車内で取り乱して急ハンドルを切ったと言っていました。警察の記録にもそう残っていると。でも……さっきあなたが言ったことと、少し違いますよね」 ベランダのサッシ越しに室内を見ると、七海が菜月の用意した絵本を膝にのせ、静かにページをめくっていた。あの子に大人たちの暗い声を聞かせるわけにはいかない。真帆はベランダのドアを数センチだけ残して閉め、背中を壁に預けた。『……忘れていたことなんて、最初からなかったんです』 沙耶は静かに言った。『ただ、自分が覚えている感触と、あの人が繰り返し言っていた説明が……どうしても重ならなくて。自分の頭がおかしくなったんだと、そう思い込むしかなかったんです』「自分が覚えている感触……?」『はい。……あの日、私たちは前日から翠ヶ湖の宿に一泊していて、その帰りでした。莉央の七歳の誕生日を祝うための旅行でした。でも、私はその旅行に出る前から、もう限界だったんです』 沙耶の言葉が、ひとつずつ、冷たい水滴のように真帆の胸に落ちていく。『あの人は若い頃から、私の友人の連絡先や、仕事のスケジュール、着る服の好みまで、全部“家族のため”と言って管理しようとしました。私が少しでも自分の意見を言うと、“僕がこんなに家族を考えているのに、君は協力してくれな
last update最終更新日 : 2026-10-09
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第95話 私にも同じことを

『緩やかな右カーブに入った時でした。私はブレーキを踏んで、速度を落とそうとしていました。その時……助手席側で、何かが大きく動いたんです』 真帆は息を殺した。『何かが視界を遮って……その直後に、ハンドルが急に重くなって、自分の意思とは違う方向に大きく取られました。私が急に切ったのか、それとも……何か別の力が加わったのか……』「悠人が……ハンドルを握ったの?」 真帆の問いに、沙耶はすぐには答えなかった。 風の音だけが二人の間を通り抜けていく。『……わかりません』 沙耶の声は、苦しげに落ち込んだ。『本当に……わからないんです。あの瞬間、助手席のあの人の手が伸びてきたような気もするし、私がパニックになって押し戻そうとして、自分でハンドルを切りすぎてしまった気もする。……数秒の間の出来事で、車はガードレールを突き破って、そのまま崖下に落ちてしまいました』 真帆の手の中で、スマートフォンがじっとりと汗ばんでいた。 沙耶自身も、あの瞬間に何が起きたのか、物理的な先後関係を確信できていない。自分が取り乱して事故を引き起こしたのか、それとも悠人の手が伸びてきたことが引き金になったのか。 ただ、助手席側で「何かが動いた」という感覚だけが、九年間、沙耶の皮膚の奥に残り続けていたのだ。◇『病院で目を覚ました時、私は肋骨と足を折っていて、動くこともできませんでした』 沙耶の回想は続いた。『莉央が亡くなったと知らされて、私が叫び出そうとすると、ベッドの脇にいた悠人さんが、私の手をぎゅっと握りしめて……静かにこう言ったんです。“お前が取り乱して急ハンドルを切ったんだ”“俺は止めようとしたけれど、間に合わなかった”って』「悠人が……そう言ったのね」『はい。何度も
last update最終更新日 : 2026-10-10
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第96話 九年前の空白

 真帆はベランダの壁に後頭部を預け、薄曇りの空を見上げた。「え……?」「悠人はね、私が仕事で遅くなった日や、七海を注意した日だけを残していたの。私が何を言われて怒ったのか、そこは録音されていなかった」 真帆の胸の中で、点と点がつながっていく。 九年前の沙耶に対しても、いまの真帆に対しても、悠人は同じことをしていた。 何が起きたか分からない曖昧な部分へ、自分に都合の良い「正しい説明」を置き続けていた。 九年前、沙耶に対して行ったこととまったく同じ手法が、いま、真帆の身の上にも再現されようとしていたのだ。◇『……篠宮さん』 沙耶の声が、静かな決意を帯びて響いた。『八歳になる前に……七海ちゃんが八歳の誕生日を迎える前に、あの人を止めなければいけません』「ええ」『あの人は……九年前と同じ場所で、同じやり方で、今度こそ“壊れない家族”を完成させようとしています。七海ちゃんが八歳になれば、莉央が生きられなかった時間の先へ進めると思っているんです』「七海は……誰かの身代わりじゃないわ」 真帆はきっぱりと言った。「あの子はあの子自身の人生を生きてる。誰かの失われた過去をやり直すための道具なんかじゃない」『はい……。私、ずっと……事故の時のこと、自分だけが間違って覚えてると思っていました。自分が狂っていたんだと……。でも、今はそれすら分かりません。あの日、あの車の中で本当に何が起きたのか……』 沙耶は深く息を吸い込んだ。『でも、一つだけはっきりしていることがあります。あの人は、家族を自分の思い通りにするためなら、他人の記憶も、感情も、全部上書きしてしまう人です。……私、もう二度と、あの人の言葉に自分の現実を渡したくありません』 通話が切れた。
last update最終更新日 : 2026-10-10
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第97話 戻らない準備

 午前十一時半。七海が菜月のリビングで絵本を読んでいる間、真帆はスマートフォンを手にベランダへ出た。朝の欠席連絡だけは菜月が学校へ入れてくれていたが、今日から先のことは、自分の言葉で正式に伝えなければならない。今回の避難を一時的なものにせず、戻らないための壁を一つずつ作る必要があった。◇ まず、七海の小学校へ電話をかけた。 真帆はスマートフォンを握りしめ、菜月の部屋の狭いベランダで呼び出し音を聞いた。 湿った風が、真帆の髪を揺らす。 数回の呼び出し音の後、教頭先生が出た。「あ、篠宮です。七海の母です。急なご連絡ですみません」『ああ、篠宮さん。こんにちは。七海ちゃん、体調はいかがですか?』「教頭先生、実は……家庭の事情で、今日からしばらく七海を休ませます。……いえ、病気ではありません。夫との間で別居の手続きを進めていまして」 受話器の向こうで、教頭先生が息を呑む気配がした。 真帆は迷わず、準備していた言葉をハッキリと口にした。「今後、夫が単独で校門にお迎えに来たり、七海を連れ出そうとしたりしても、絶対に引き渡さないでください。お迎えは私か、妹の長谷川菜月のみで行います。下校時の付き添いも、私が行きますので」『承知しました。事情を記録して、担任と学童にも共有します。お父様がいらした場合はその場でお渡しせず、まずお母様に確認を取ります。変更届についても、ご案内します』「ありがとうございます。よろしくお願いします」 続いて、学童保育所へ電話をかけた。 出たのは、七海が学童へ来なかった日に電話をくれたベテラン指導員の吉岡だった。「吉岡先生、篠宮です。以前、学童のお迎え許可者カードに『水城沙耶』という名前が登録されていた件ですが……」『はい、お父様が登録された……』「その登録が外れたままになっているか、確認してください。それから、今後は夫の篠宮悠人が一人で迎えに来ても、私に連絡するまで七海を引き渡さないでください。緊急連絡先も、私と妹
last update最終更新日 : 2026-10-11
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第98話 境界線

 午後一時。 真帆は菜月の部屋のローテーブルで、持ち出してきた重要書類のコピー作業を進めていた。 七海の保険証、母子手帳、真帆名義の銀行口座の通帳、戸籍謄本。そして、共用端末に残っていた偽アカウントと送信済みメッセージの画面、五月十三日のスマートロック記録と悠人本人の宅配便受領記録、室内写真の比較画像を印刷した紙。 それらを三つのファイルに分け、一つは自分が持ち歩くバッグへ、一つは菜月に預け、もう一つは弁護士への相談用に保管した。 万が一、悠人が家に押し入ってきて荷物を奪おうとしても、証拠と書類が分散されていれば立ち直ることができる。 作業がひと段落した頃、真帆のスマートフォンが短く震えた。 画面を見る。 表示されていたのは、水城沙耶の番号だった。 真帆は一瞬躊躇ったが、通話ボタンをタップした。「……もしもし、水城さん」『……篠宮さん、沙耶です』 沙耶の声は、先ほど電話で話した時よりも幾分落ち着いていた。だが、声の裏側には、自分という存在が篠宮家を脅かしてしまったことへの、消えそうにない罪悪感が漂っていた。『七海ちゃん……大丈夫ですか?』「ええ。妹の家にいます。学校や学童にも連絡して、お迎えや緊急連絡先の変更をお願いしました」『そうですか……よかった……』 沙耶は安堵の息を漏らした。 真帆は静かに、だが線を引くトーンで言葉を継いだ。「水城さん。ひとつ、お願い……いえ、約束してほしいことがあります」『はい……なんでしょうか』「今後、七海に直接連絡したり、学校や習い事の場所に会いに行ったりすることは、絶対にやめてください。七海へのプレゼントや手紙も、一切受け取れません」 電話の向こうで、沙耶が息を詰めた。 真帆は容赦なく言葉を重ねた。「あなたが悠人に騙されていた被害者であることは理解しました。でも、あ
last update最終更新日 : 2026-10-11
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第99話 家族三人で

 午後三時。 安全の確保と、手続的な防壁の構築をすべて終えた上で、真帆はついに悠人へメッセージを送る決意をした。 あの夜、家を出てから。 悠人からは家を出た夜から何度か「どこにいるの?」「心配してるよ」「三人で話そう」とLINEが届いていたが、真帆はすべて既読をつけずに無視してきた。 感情的な問い詰めや、LINE上での説明合戦に入るつもりはなかった。議論を始めれば、悠人はまたあの滑らかな論理で真帆の言葉をすり替え、真帆を「ヒステリックで支離滅裂な妻」へと追い込んでくるからだ。 真帆はノートパソコンの画面で文章を作成し、推敲を重ねた上で、短く悠人のLINEへ送信した。『七海と一緒に、安全な場所にいます。しばらく家には戻りません。七海との面会や連絡も、当面の間は拒否します。今後のやり取りは、すべて書面か代理人を通して行ってください』 感情的な怒りの言葉は一切排除した。 ただ、事実と拒絶の意思だけを込めた一文。 送信ボタンを押すと、画面上の文字が「送信済み」となった。 真帆はスマートフォンをテーブルの上に置き、深く息を吸い込んだ。 これで、宣戦布告は完了した。 悠人がどう反応するか。怒り狂って電話をかけてくるか、警察に捜索願を出すと脅してくるか。真帆はどんな攻撃にも耐えられるよう、身体を固くしていた。 しかし。 わずか五分後に届いた悠人からの返信は、真帆の予想を遥かに裏切るものだった。 画面がポッと点灯し、悠人からのメッセージが表示された。『真帆。急にいなくなって、本当に心配したよ。でも、無事でよかった』 真帆は眉をひそめた。 怒りの気配すら微塵もない。文章は続き、画面を埋めていく。『君をここまで追い詰めてしまっていたなんて、僕の配慮が足りなかったよ。本当にごめんね。仕事のストレスや、家庭のことで君がどれだけ大変だったか、僕が一番理解してあげなきゃいけなかったのに。 僕が全部悪かったんだ。君を不安にさせるような言動があったなら、何でも謝るよ』 昔の、優しい悠人だった。
last update最終更新日 : 2026-10-12
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第100話 逆の現実

 真帆の手の中で、スマートフォンが小さく震えていた。 完璧な謝罪。 完璧な撤回。 自分に非があったと素直に認め、真帆の自由を返し、優しく復縁を求めてくる姿勢。 もし、真帆が九年前の事故に残る不自然さや、偽アカウントの証拠、そして物件資料が示すものに気づいていなかったとしたら。「私が考えすぎていただけかもしれない」「夫は本当に反省して、やり直そうとしてくれているのかもしれない」と、その優しさにほだされ、家へ戻ってしまっていたかもしれない。 証拠を突きつけられた後でも、悠人は怒鳴るのではなく、以前と変わらない「優しい夫」の顔で、真帆に戻るよう促してきた。 その優しさこそ、真帆が長いあいだ自分の違和感を飲み込んできた理由の一つだった。 真帆は冷え切った目で画面を見つめ、返信を打たずにスマートフォンを伏せた。 テーブルに伏せた端末の光が消えると、部屋には急に生活の音だけが戻ってきた。キッチンの換気扇、冷蔵庫の作動音、隣の部屋で菜月が衣類を畳むかすかな音。悠人のいない場所には、説明を求められない静けさがあった。 真帆は両手を膝の上に置いた。以前なら、返信しないこと自体に罪悪感を覚えていたはずだ。相手が謝っているのに無視する自分は冷たいのではないか、と。今は、その反射のような罪悪感が胸の奥に浮かぶのを、ただ見送ることができた。 揺らぎはしなかった。 真帆はもう、その優しさだけを根拠に悠人の言葉を信じて戻ることはできなかった。◇ その頃。 自分の造形教室の準備室で、アコーディオンカーテンを閉め切って座っていた水城沙耶のスマートフォンが、静かに振動した。 沙耶は震える手で画面を取り出した。 準備室の棚には、子どもたちが乾かしている紙粘土の動物や、切りかけの色紙が並んでいた。ついさっきまで聞こえていた教室の笑い声はもうなく、残っているのは絵の具と糊の匂いだけだった。 沙耶は作業台の端に手をつき、指先に力を込めた。自分が七海へ近づいたことも、境界を越えたことも消えない。それでも、もう悠人の言葉だけを現実の基準にしてはいけない。そう決めたばかりだった。
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