บททั้งหมดของ 娘が「ママ」と呼ぶ女を、私は知らない: บทที่ 71 - บทที่ 80

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第71話 莉央に似た子

 沙耶は顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。 その瞳には、深々とした陰影が宿っていた。「莉央は……」 沙耶の声は、壊れものを扱うように慎重で、小さかった。「お絵かきが大好きな子でした。休みの日はいつも、リビングの床に画用紙を広げて、クレヨンや水彩絵の具で描いていました。上手な絵というわけじゃないけれど……色を混ぜるのが好きで、自分の好きな色ができると、嬉しそうに私のところへ持ってきて……」 沙耶の目元が、一瞬だけ柔らかく弛んだ。 そこにあるのは、間違いなく一人の母親が、愛しい我が子を思い出している時の表情だった。「七歳の誕生日の直前……『何がほしい?』って聞いたら、髪留めがほしいと言ったんです。それまで髪の毛を飾るようなものに興味を示さなかった子が、お友達が着けているのを見て羨ましくなったみたいで……『透明で、星がついた青いのがいい』って」 真帆の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。 青い星の髪留め。 七海が真帆に隠して頭に着けていた、あのプラスチックの髪留め。 沙耶は、亡くなった娘が七歳の誕生日に欲しがっていたものを、そのまま七海に買い与えていたのだ。「誕生日の旅行の帰りに……事故が起きました」 沙耶の膝の上で、両手が固く握り締められた。指関節が白く浮き上がる。「事故のあと、病院で目を覚ました時……莉央がもういないと知らされました。私は身体中を骨折していて、動くこともできなくて……。病室にやってきた悠人さんは、ただ静かに私を見つめていました」 沙耶の首筋に、青い筋が浮き出た。「あの人は……責め立てるような声ではありませんでした。静かに、淡々と……『お前が取り乱して急ハンドルを切ったからだ』『お前が家族を壊したんだ』と……毎日、私の耳元で囁き続けました。警察の取調べでも
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第72話 代わりにした

 真帆は静かに、だがはっきりと沙耶の目を見つめた。「七海に、莉央さんの続きを見ていたのね」 沙耶の身体が、ビクッと跳ねた。「七海が七歳になって、莉央さんが亡くなった年齢に追いついたから……あなたは七海に青い髪留めを渡し、絵本を贈り、七海の中に莉央を探していたんでしょう?」 沙耶は言葉を失い、真帆の視線から逃げるようにうつむいた。 真帆の問いかけは、沙耶が自分の心の一番深い場所に押し込めていた、醜くも切ない願望を容赦なく暴き立てていた。「違います……と言いたいけれど……」 沙耶の口から、掠れた声が漏れた。「否定……できません……」 沙耶は両手で顔を覆い、しゃくりあげた。「七海ちゃんを見るたび……目元や笑った顔を見るたび、胸が張り裂けそうでした。『莉央も、こんなふうに笑っていた』って……その先も、見たくなってしまって……。七海ちゃんに莉央を重ねていた……。『沙耶ママ』という呼び方を受け入れてしまったのも、私が、そう呼ばれたかったからです……!」◇「七海ちゃんは……莉央じゃないのに……っ」 沙耶はテーブルに突っぷすようにして泣き崩れた。「分かっているんです……あの子は、あなたと悠人さんのお子さんで、莉央とは違う一人の女の子だって……! なのに、私……あの子の優しさに甘えて、お菓子をあげたり、内緒の約束をさせたりして……あなたから母親の場所を奪うような真似をして……っ! ごめんなさい……ごめんなさい、真帆さん……!」 静まり返った喫茶店の片隅で、沙耶の痛烈な
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第73話 事故の記憶

 沙耶が、小さく震える声で言った。「私……ずっと、自分がおかしくなって事故を起こしたんだと思っていました。でも……これを見てほしいんです」 沙耶はスマートフォンの画面を操作し、真帆の方へ画面を向けた。 そこに表示されていたのは、過去のメールの送信履歴の画面だった。 宛先は『お姉ちゃん』。沙耶の実の姉宛てのメッセージだった。 日付は、九年前の七月十日――あの事故が起きた日の、午前八時十五分。 翠ヶ湖の宿を出て、帰路につく直前の時刻だった。 画面に刻まれた本文を、真帆は視線を凝らして読んだ。『今日、旅行から帰ったら、悠人に離婚したいって伝えるつもり。もうあの人の監視と支配には耐えられない。莉央を連れて家を出る準備をするから、少しの間、お姉ちゃんの家に置いてもらいたい』 真帆の息が、止まった。◇ 事故の日の朝。 沙耶は、すでに悠人との離婚を決意し、姉に援助を求めるメッセージを送っていた。 少なくとも、「事故のあとに初めて夫婦関係が壊れ、離婚へ向かった」という悠人の語り方とは違っていた。 事故が起きる前から、沙耶は悠人の過剰な管理と支配に耐えかね、離婚を切り出す準備をしていた。 そしてその帰路の車内で、沙耶は離婚を切り出し――そして、事故が起きた。「私……忘れていたわけじゃなかったんです」 沙耶の声は、どこか遠くを見つめるように静かだった。「ずっと……この送信履歴が携帯に残っていました。警察には『口論でパニックになって急ハンドルを切った』と悠人さんが説明して、私自身も頭を打って混乱していたから、あの人の言葉を信じるしかなかった……。でも、私には最初から離婚する意思があったんです。あの人は……家族が壊れるのを阻止しようとしていた……」 真帆の背筋を、冷たい氷の刃が駆け抜けた。 九年前の事故。 沙耶が離婚を切
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第74話 消えた十四分

 静まり返ったリビングで、電子レンジのデジタル時計が刻む緑色の数字だけが、無機質に時間を進めていた。 午後二時十分。 真帆はダイニングテーブルにノートパソコンと共用タブレットを並べ、冷えたお茶のグラスを脇に置いた。先ほどまでバイパス沿いの喫茶店で向かい合っていた水城沙耶の、涙に濡れた顔と掠れた声が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。『あの時も……悠人さんが、間に立って、周りに説明していたんです』『私は車内で口論になって悠人さんが手を伸ばしてきたと言ったのに、周りからは沙耶が取り乱して暴れたと伝わっていて……』 九年前の事故の裏側。そして、二年前からの偽アカウントによる双方へのなりすまし。 これまでに分かった範囲だけでも、悠人は二人へ違う説明をしていた。沙耶には「家庭を捨てる冷酷な妻」としての真帆を、真帆には「娘を奪おうとする危険な前妻」としての沙耶を語り、その間で双方の事情を知る人物として振る舞っていた。 真帆は画面上のスプレッドシートを開き、指先をキーボードに乗せた。 真帆が怖いと感じたのは、実際に起きた出来事と説明の間に、少しずつ違う情報が混ぜられていくことだった。何が事実で、何が誰かの説明なのか。それを自分で切り分けなければならない。 真帆は、出来事そのものと、あとから誰かが与えた説明を同じ欄に置かないようにした。日付、時刻、記録。まずは自分の目で確認できるものだけを、一つずつ拾っていく。 真帆が最初に指を止めたのは、以前確認したスマートロックの解錠履歴と、防犯カメラのデータだった。 五月十三日の水曜日。真帆は都内のオフィスで終日会議、七海は小学校、そして悠人は「横浜で終日研修」と言っていた日の午後。 スマートロックの記録には、午後二時四分に手動で鍵が開けられ、十四分後に施錠された履歴が残っていた。しかし、その十四分間の防犯カメラ映像だけが、クラウドから綺麗に削り取られていたのだ。 真帆はスマートフォンを取り出し、過去のメールフォルダを開いた。五月十三日に届いた通知を、日付で絞り込んでいく。 ほどなく、宅配業者から届いた受け取り完了通
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第75話 半年前の写真

 真帆は指先の冷たさを忘れるように、固く拳を握りしめた。 ノートパソコンの画面に、別の画像ファイルを読み込ませる。 真帆は、共用端末に残った偽アカウントのやり取りをもう一度調べた。別のアカウントから真帆へ送られた画像がある。受信側では、未承認のメッセージとして開かないまま残っていたものだった。 開いた途端、真帆は手を止めた。寝室のベッドとクローゼットが写っている。誰かが留守中に撮ったのか。そう思いかけて、ナイトテーブルの上のものに目が留まった。今は使っていない、古い目覚まし時計だった。 真帆は自分のスマートフォンのクラウドストレージを開き、過去の送信済み写真フォルダを遡った。 半年前の日付。 悠人から「寝室のチェストを買い替えたいから、今の配置の写真を送ってほしい」と頼まれ、真帆が自分のカメラで撮影して悠人のLINEへ送信した画像が出てきた。 真帆は二つの画像を画面上に並べ、左右の端を拡大した。 ベッドカバーのしわの寄り方。 ナイトテーブルの上に置かれた目覚まし時計の針の位置。 窓から差し込む陽光の角度。 しわの形も、時計の針も重なった。片方は端が切れていたが、同じ画像だと分かった。 二つの画像は、同じ一枚を元にしたものだった。そして元画像を真帆が送った相手は、悠人だけだった。 偶然では説明しにくい一致だった。 真帆はあまりの悪質さに、喉の奥が乾き切っていくのを感じた。 だが――。 ここで真帆は、もう一つの事実に突き当たった。 沙耶は午前中のファミレスで、こう証言していた。『一度だけ……四月の終わり頃の午後に、悠人さんから“七海が学校に持っていく絵の具セットを家に忘れて困っているから取ってきてほしい”と頼まれて、ポストの鍵で玄関に入ったことがあります。でも、言われた物を取ってすぐに出ました』 真帆は胸の奥で、重い溜め息をついた。 沙耶が実際に合鍵で家へ入ったという事実も、また紛れもない現実なのだ。 沙耶が本当に一度だけ家へ入った事実。その後、悠人自身が不在を装っ
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第76話 疑い深い妻

 背筋を冷たい刃物で撫でられたような衝撃が走る。 スマートロックの電子音がピッピッと鳴り、重い玄関ドアが静かに開いた。 靴を脱ぐ軽い気配。 今日、悠人は「夕方まで社内で外せない会議がある」と言って出社していたはずだった。帰宅予定時刻は午後六時過ぎ。 予定よりも、あまりにも早すぎる帰宅だった。 真帆は弾かれたように立ち上がろうとしたが、膝が笑って上手く力が入らない。慌ててノートパソコンの画面を閉じようと手を伸ばした。「ただいまー。真帆、いる?」 廊下から、聞き慣れた、どこまでも爽やかで穏やかな声が聞こえてきた。 足音が近づいてくる。 真帆が画面を倒しきるより早く、リビングの引き戸が静かに滑り開いた。◇ 廊下の光を背に受けて立っていたのは、悠人だった。 上着のジャケットを腕にかけ、右手には有名デパートの紙袋を下げている。 シャツの襟元は相変わらず乱れなく整えられ、その顔には、休日を家族と過ごす父親のような、優しく穏やかな笑みが張り付いていた。「急に帰ってきてびっくりした? 午後の会議が一つキャンセルになってさ。早く終わったから、七海と真帆に美味しいケーキ買ってきたよ」 悠人は足音を立てずにリビングへ入ってくると、紙袋をカウンターの上に置いた。 真帆はダイニングチェアの背もたれを強く握りしめたまま、微動だにできなかった。 目の前に立つ男。 数時間前まで調べていた偽アカウントと、不自然に欠けた防犯カメラの記録。その中心にいるのではないかと真帆が疑い始めた男。 その男が、今、手土産のケーキを持って、愛する妻へ微笑みかけている。 その圧倒的な乖離に、真帆は眩暈を覚えた。「悠人……どうして、こんなに早く……」 声が喉の奥で掠れた。「ん? 言ったじゃない、会議が早く終わったんだよ。真帆、在宅勤務お疲れ様。お茶でも淹れようか?」 悠人はごく自然な動作で真帆に近づき、テーブルの上に置かれたノートパソコンと、共用タブレットへ視線
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第77話 止められたカード

 クレジットカードをIC端末の奥まで差し込むと、無機質な電子音がふたつ、短く鳴った。「すみません、お客様。こちらのカード、エラーでお取り扱いできないようです」 レジの店員が申し訳なさそうに端末からカードを抜き、真帆へ差し戻した。「エラー、ですか?」「はい。『カード会社へお問い合わせください』と画面に出ておりますので……」 真帆は受け取ったカードのプラスチックの硬い感触を指先で確かめた。家計用の引き落としや日常の買い出しに使っている家族カードだ。限度額に達するような大きな買い物はしていないし、口座の残高も残っているはずだった。 真帆はバッグから別の個人用カードを取り出して支払いを済ませ、重い買い物袋を抱えてスーパーの自動ドアを出た。 外は、どんよりとした曇り空だった。 嫌な予感が胸の奥でじわじわと広がり、真帆は舗装路の脇に立ち止まってスマートフォンを取り出した。カード会社の専用アプリを開く。 ログイン画面を通過すると、赤い警告表示が小さく画面の上部に浮かんでいた。『ご家族(主会員)様の設定により、本カードのご利用が一時停止されております』 主会員。悠人だ。 真帆の指先が、スマートフォンの画面の上で凍りついた。 一昨日、リビングの共用タブレットに残っていた偽アカウントと、沙耶への送信済みメッセージを見つけ、悠人から「君、最近本当に疑い深くなったね」「沙耶に何を吹き込まれたの?」と笑われてから、家の中の空気が急速に変質していた。 悠人は怒鳴らなかったし、真帆を部屋に閉じ込めるような乱暴な真似もしなかった。相変わらず仕事から早く帰り、七海と笑顔で風呂に入り、真帆に温かいお茶を淹れてくれた。 だが、その裏で、真帆の手足となるものが、一つ、また一つと削ぎ落とされていた。 昨日の朝は、いつも玄関脇のキーフックに下がっている車の鍵が見当たらなくなっていた。悠人に尋ねると、「最近、君はボーッとして運転が危ないから、しばらく僕が預かっておくよ。事故でもしたら大変だろ?」と、完璧に真帆の身を案じる顔で鍵をポケットへ仕舞い込まれた。 そして今度は、
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第78話 妹への電話

「現金で渡すよ。必要な分だけ僕に言ってくれればいいからさ。その方が君も無駄な計算をしなくて済むだろ?」 悠人は真帆の肩にそっと手を置き、労うように撫でた。 真帆の行動範囲、移動手段、そして金銭の自由。 悠人はそれらを力ずくで奪うのではなく、「君が疲れているから」「安全のためだから」という理屈で、一つずつ丁寧に真帆の手から取り上げていっていた。 さらに、今日のお昼前には七海の習い事の教室から連絡が入っていた。『お父様からご連絡をいただきまして、七海ちゃんのピアノの振替レッスン、水曜日の夕方から土曜日の午前に変更させていただきました』 水曜日の夕方。それは、真帆が仕事を早めに切り上げ、送り迎えを兼ねて七海と買い物や散歩をする時間だった。その付き添いを、土曜日なら自分がすると、悠人は教室へ伝えていた。 真帆が何かを主張しようとするたび、その先にある選択肢が、目に見えない手によって静かに塞がれていく。 家庭という名の牢獄。 鍵はかかっていないのに、外へ出るための足がすべて奪われていくような閉塞感に、真帆の呼吸は浅くなった。◇ 買い物の片付けを終えて、昼過ぎになった頃。七海はまだ学校にいた。 悠人が「外回りで汗をかいたから」と浴室に入ったのを確認し、真帆はリビングの隅へ移動した。 スマートフォンを取り出し、LINEを開く。 頼れる身内――妹の菜月のトーク画面を開いた。しばらく前、菜月から「最近どう?」と連絡が来た際、真帆は心配をかけたくなくて「元気だよ」と嘘をついて流してしまっていた。 真帆は震える指でフリック入力を始めた。『菜月、今電話できる? ちょっと相談したいことがあって』 送信ボタンを押すと、数十秒もしないうちに画面が切り替わり、菜月から着信が入った。 真帆は慌てて通話ボタンをスワイプし、スマートフォンを耳にあてた。声を潜め、浴室の方を警戒しながら囁く。「……菜月?」『お姉ちゃん? どうしたの、急に。何かあった?』 画面の向こうから聞こえる、妹のハキハキとした現実的な声。
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第79話 今夜出る

『お姉ちゃん。実はね……一昨日の夜、義兄さんから私に電話があったの』 真帆の身体が硬直した。『「真帆が最近仕事のストレスでひどく不安定になっていて、存在しない不倫相手やストーカーの影に怯えている。もし真帆から妙な相談の連絡がいったら、重く受け止めずに、とにかく刺激しないように優しくなだめてやってほしい」って……すごく心配そうな声で言われたのよ』 先回り。 悠人は、真帆が外部の肉親に助けを求める可能性まで考え、先に妹へ「妻が不安定になっている」という話を入れていたのではないか。真帆には、そうとしか思えなかった。 真帆は自分の足元から血の気が引いていくのを感じた。 自分がいくらSOSを出しても、周囲からは「病んだ妻の戯言」として処理されるように、悠人の手が完璧に回されていた。「菜月……私、嘘なんてついてないの。本当に、タブレットに偽アカウントの履歴があって、車の鍵も隠されて、カードも止められて――」『分かってるよ、お姉ちゃん』 菜月の声が、真帆の焦りを遮った。 その声はどこまでも冷静で、地に足がついていた。『義兄さんの話を聞いた時も、なんか違和感があったの。だってあの人、お姉ちゃんのこと「可哀想な病人」みたいに言うんだもん。お姉ちゃんがそんな風になるわけないでしょ』「菜月……」『お姉ちゃん、今どこにいるの? 義兄さんは近くにいる?』「今、お風呂に入ってる……」『いい? 落ち着いて聞いてね』 菜月の言葉が、真帆の耳に強く打ち込まれた。『理由の証明とか、証拠を集めて義兄さんを説得しようとするのは、もうやめなさい。あの人はおかしいよ。論理で戦おうとしても、全部お姉ちゃんが悪いことにされちゃうよ』「でも……七海が……」『だから、今夜、七海ちゃんを連れてうちに来て』 菜月がきっぱりと言い切った。『荷物は最低限でいいから。鍵をかけら
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第80話 学童からの電話

 通話を切り、スマートフォンを握りしめた。続けて学童にも電話をかけ、今日は自分が迎えに行くと伝えた。 胸の奥で、冷たく固まっていた恐怖が、明確な「決意」へと姿を変えていた。 夫と戦うのではない。 娘を守るために、逃げるのだ。 風呂場からお湯が落ちる音が消え、悠人が出てくる気配がした。 真帆はスマートフォンをポケットに隠し、努めて平静な顔を作ってキッチンへ戻った。 バスタオルで髪を拭きながら出てきた悠人は、真帆の顔を見て、いつも通りの優しい笑みを浮かべた。「真帆、お茶飲む? 温かいの淹れようか」「ううん、大丈夫。今日ちょっと疲れたから、七海が帰ってきたら早めに休もうと思う」「そっか。それがいいよ。無理しちゃだめだからね」 悠人は真帆の頭をぽんぽんと優しく撫でた。 その優しい仕草さえ、いまの真帆には、相手を自分の望む場所へ戻そうとする支配の延長に感じられた。◇ 午後二時半過ぎ。 悠人が書斎に入り、オンライン会議を始めたのを見計らい、真帆は動き出した。 小さなボストンバッグを取り出し、自分と七海の数日分の着替え、保険証、通帳、そして悠人の工作の証拠が入ったスマートフォンとUSBメモリを詰め込んだ。 手持ちの現金はわずかだが、菜月の家へ行く電車賃には十分だった。 バッグをコートの下に隠すようにして肩にかけ、真帆はそっと玄関へ向かった。 悠人の書斎のドアは閉まっている。ノートパソコンから英語のミーティング音声が微かに漏れていた。今なら、静かにドアを開けて出られる。 真帆はスニーカーに足を入れ、玄関のドアノブに手をかけた。 鍵を外し、ドアを数センチ開ける。外の湿った空気が、真帆の頬を撫でた。 学童へ向かい、七海を抱きしめて、そのまま菜月の家へ向かう。 二度と、この家には戻らない。 そう強く心に誓い、ドアを押し開けようとした、その時だった。 ポケットの中で、スマートフォンがブブッと激しく震えた。 真帆はびくっと肩を跳ねさせ、廊下を振り返った。書斎のドアは開かな
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