娘が「ママ」と呼ぶ女を、私は知らない のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

104 チャプター

第81話 ご家族の方

 受話器から聞こえる学童の指導員の声が、不規則な雑音のように耳を叩いていた。『学校の担任の先生に確認しましたところ、“今日は下校時刻に合わせて、ご家族の方が校門までお迎えに来られて、一緒に帰られましたよ”とおっしゃるんです』 ご家族の方。 真帆の手から血の気が引いていくのがわかった。玄関のドアノブを握りしめていた指先が、氷のように冷たく強張った。 真帆は家から一歩も出ていない。では、誰が七海を迎えたというのか。「……吉岡先生、その“ご家族”って、誰のことかわかりますか?」『ええと、担任の先生によると、お父様だと伺っておりますが……違いましたでしょうか?』 お父様。悠人だ。 真帆は背筋を跳ね上げ、玄関から廊下へと取って返した。 奥の書斎のドアは、さきほど真帆が家を出ようとした時と同じように、静かに閉ざされていた。隙間から漏れていた英語のミーティングの声は、いつの間にか消えている。 真帆はドアノブを回し、勢いよくドアを押し開けた。「悠人!」 静まり返った部屋。 デスクの上のノートパソコンには、オンライン会議の画面が開いたまま残されていた。だが、椅子には誰も座っていない。壁のフックに掛かっていたはずの悠人の上着も、玄関にあった革靴も、なくなっていた。 会議中のはずだった。だが、書斎から聞こえていたのは、ノートパソコンのスピーカー越しに流れる会議相手の声だったのだ。悠人は、真帆が荷物をまとめるため寝室へ入った隙に玄関から出て、小学校へ向かっていた。 真帆の手がガタガタと震え始めた。 スマートフォンを取り出し、通話履歴から悠人の番号をタップする。耳にあてた受話器の中で、呼び出し音が虚しく響いた。 一回、二回、三回。 出ない。真帆は息を詰め、爪が皮膚に食い込むほど握りしめた。 五回目の呼び出し音が途切れ、プツリと接続音がした。『あ、真帆? どうしたの?』 受話器から聞こえてきたのは、拍子抜けするほど穏やかで、何の揺
last update最終更新日 : 2026-10-03
続きを読む

第82話 あと一時間

『もうすぐ用事が終わるから、あと一時間くらいで帰るよ。七海も楽しそうにしてるからさ。じゃあ、また後でね』『あ、パパ、ジュース買って――』 遠くで七海の小さな声が聞こえた直後、プツリと通話が切れた。 画面が暗転する。 真帆は誰もいないリビングの中央で、受話器を抱えたまま立ち尽くした。 全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、膝が笑って立っていられなくなる。真帆は壁に肩を預け、ズルズルと床へ座り込んだ。 一時間。悠人は「あと一時間で帰る」と言った。 だが、今の悠人がどこへ七海を連れて行き、何をしているのか、真帆にはまったく見当がつかなかった。 沙耶のもとへ向かったのだろうか。それとも、あの『翠ヶ湖』へ向かっているのだろうか。 真帆は震える指でLINEを開き、妹の菜月へメッセージを打ち込んだ。『七海が悠人に連れ出された。学童に行かず、学校から直接。どこにいるか分からない』 送信ボタンを押すと、すぐに菜月から返信が届いた。『落ち着いて。警察に電話する?』『今、悠人と電話で話した。「あと一時間で帰る」って言ってた』『分かった。帰ってくるまで家で待って。七海ちゃんが戻ったら、隙を見てすぐに家を出るよ。私は車で近くまで向かうから、準備しておいて』 菜月の短い言葉が、真帆の狂いそうな思考をどうにか繋ぎ止めてくれた。 真帆は床から立ち上がり、自分のボストンバッグを確認した。着替え、通帳、保険証、証拠の入ったUSBメモリ。 時計の針が、刻一刻と刻まれていく。 真帆は窓際へ寄り、カーテンの隙間から、曇った街路を凝視し続けた。 それからの時間は、異様に長かった。 階段を上る足音がするたびに玄関へ顔を向け、車のブレーキ音が聞こえるたびにカーテンを開く。けれど、通り過ぎるのは宅配便のバイクや、買い物袋を提げた近所の住人ばかりだった。 ダイニングには、朝、七海が飲み残した麦茶のコップがまだ置かれていた。底に少しだけ残った薄い茶色の液体を見ていると、ほんの数時間前まで七海がここにいたという事実が、かえって現実味を失っていく。
last update最終更新日 : 2026-10-03
続きを読む

第83話 手提げ袋の中

 七海が不思議そうに真帆の顔を覗き込む。その柔らかい体温を感じて、真帆の目元から熱いものが溢れそうになった。「ただいま、真帆」 七海の背後から、悠人が上着を脱ぎながら入ってきた。 彼の顔には、何の悪びれる様子もなく、ただ疲れたような、満足そうな微笑みが浮かんでいた。「遅くなってごめんね、真帆。思いのほか時間がかかっちゃってさ」 真帆は七海を抱きしめたまま、立ち上がらずに悠人を睨みつけた。「……どこへ行っていたの?」「写真館だよ」 悠人は玄関の棚にキーケースを置くと、何でもないことのように答えた。「写真館……?」「うん。前に話しただろ? 七海の八歳の誕生日に向けて、家族写真を撮ろうって。近所にある古い写真館でさ、昔から評判のいいところがあるんだよ。今日はその下見と、衣装の打ち合わせに行ってきたんだ」 悠人は七海の頭をぽんぽんと優しく撫でた。「七海も楽しかったろ?」「うん! ドレス着たの! おじさんがお写真撮ってくれたよ」 七海は興奮したまま、両手でスカートを広げる真似をした。「青くてね、ここがキラキラしてたの。おっきいカメラがあって、ピカッて光ったんだよ。パパも一緒に座ったの」 ただ写真を撮ってきただけなのだと、子どもの話だけを聞けば思える。真帆は笑ってやらなければと思ったが、頬の筋肉がうまく動かなかった。 七海が嬉しそうに声を弾ませる。 写真館。下見。 悠人の言動は、表面上はどこまでも「娘の節目を祝おうとする熱心な父親」の行動そのものだった。 だが、真帆の胸の奥で、冷たい不協和音が鳴り響いていた。 沙耶は同行していない。 真帆が知る限り、悠人と七海、そして沙耶の三人で会っていたわけではない。悠人はただ父娘二人で、その古い写真館へ行っていたのだ。「真帆、お腹空いたでしょ。夕飯何か作ろうか?」 悠人がエプロンを取りにキッチンへ向かう。 真帆は七海の手を引き、リビングのソファへ座らせた。七海はすっかりご機嫌で、手
last update最終更新日 : 2026-10-04
続きを読む

第84話 写真の中の違和感

 息が、喉の奥で止まった。 真帆の手の中で、紙の台紙が小さく乾いた音を立てて歪んだ。 見覚えがあった。 どこかで見たのではない。真帆の脳裏に、あの画像が鮮明に焼き付いていたのだ。 あの非表示アルバムで見つけた、九年前の古いフィルム写真。 水族館でも、遊園地でもない――あの『莉央、7歳』と手書きで記されていた、古い写真館での家族写真。 そこには、若い悠人と沙耶、そして七歳の莉央が写っていた。 古い写真の中で、莉央が座っていたソファの位置。莉央が両手を重ねていた角度。首を少し左に傾ける、独特の姿勢。 そして、悠人が右側に腰掛け、背中に回していた手の位置。 写真館の背景のセットも、ソファの革の質感も、二人の間の距離まで――今、真帆の手の中にある試し刷り写真と、完全に一致していた。 沙耶は、そこにいなかった。 今日の写真館には、沙耶は同行していないのだ。 それなのに。 なぜ、九年前の莉央の写真とまったく同じ構図、同じ立ち位置、同じ角度で、七海の写真が撮られているのか。 真帆の足元から、世界が反転していくような目眩が襲った。 これまで真帆は、沙耶自身も同じように思っているのだと考えていた。 沙耶が亡き娘・莉央の思い出にすがり、七海に同じ服を着せ、同じ場所へ連れて行き、過去を再現しようとしているのだ、と。 沙耶の喪失感と代替願望こそが、この気味悪い模倣の主因なのだと。 だが、それだけではなかった。 沙耶がいない場所で。 沙耶が関与していない写真館で。 九年前と寸分違わぬ構図を選び、七海に同じポーズをとらせていた人物が、もう一人いた。 悠人だった。 少なくとも、過去の再現を沙耶一人の願望だけで説明することは、もうできなかった。 沙耶だけが七海に莉央を重ねていたのではない。 場所を選び、写真館へ連れて行き、同じ構図を選んでいたのは悠人だった。その事実が、真帆のこれまでの理解を根底から揺さぶった。 悠人が「九年前を再現しよう」と自覚している
last update最終更新日 : 2026-10-04
続きを読む

第85話 大人二名

 午後八時半。 夕飯を終え、悠人が「明日のプレゼン資料の最終チェックをする」と言って書斎に入った。 書斎のドアが閉まり、キーボードの打鍵音が低く響き始める。 真帆はリビングの明かりを小さく落とし、七海に声をかけた。「七海、パジャマの上から羽織る上着、着ようね」「え? ねんねするんじゃないの?」「ううん。今から、菜月ちゃんのところにお泊まりに行くの」 七海が目を丸くした。「菜月ちゃんのおうち? いまから?」「そう。パパはお仕事が忙しいから、ママと七海で、秘密のお泊まり。静かにお靴履こうね」 七海は大人たちの間に漂う張り詰めた空気を感じ取ったのか、それ以上は何も尋ねず、コクリと頷いた。 真帆はクローゼットの奥から隠しておいたボストンバッグを取り出し、肩にかけた。 スニーカーを静かに履き、七海の靴紐を結ぶ。 ドアノブをゆっくりと回す。 金属音が鳴らないよう、慎重に、慎重に。 玄関ドアが静かに開き、夜の冷たい空気が二人の頬を撫でた。 真帆は七海の手を強く握り締め、一度も振り返ることなく、暗い廊下へと踏み出した。 マンションのエントランスを出ると、路上にハザードランプを点灯させた一台の軽自動車が停まっていた。 運転席から、妹の菜月がパッと顔を出した。「お姉ちゃん! こっち!」 真帆は七海を抱きかかえるようにして後部座席へ押し込み、自分も飛び乗ってドアを閉めた。「出して!」 菜月がアクセルを踏み込む。軽自動車が滑らかな音を立てて夜の住宅街を走り出した。 車窓の外を、街灯の光が流れていく。 あの家から、離れた。 悠人の支配の手から、ひとまず七海を連れ出すことに成功したのだ。 後部座席で、真帆は激しい動悸を抑えながら、七海の小さな頭を深く抱きしめた。 七海は不安そうに真帆の顔を見上げていたが、真帆が優しく微笑むと、少し安心したように真帆の胸に顔を埋めた。「ねえ、ママ」 七海が、真帆の服の裾をギュッと握りながら、ぽつりと呟い
last update最終更新日 : 2026-10-05
続きを読む

第86話 並べると見えるもの

 静まり返ったマンションの一室で、冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸りを上げていた。 真帆は、菜月が出してくれた深緑色のマグカップを両手で包み込んだ。温かいほうじ茶の湯気が、鼻先で白く揺れて消える。 奥の和室では、七海が小さく身悶えしながら、菜月の予備の敷布団の中で眠っていた。長いまつ毛が頬に影を作り、小さな胸が一定のリズムで上下している。あの家から連れ出す際、七海は嫌がりもせず、真帆の手を握りしめたまま車に乗り込んだ。菜月の部屋に着いて温かいホットミルクを飲ませると、緊張が解けたようにそのまま泥のように眠ってしまったのだ。「お姉ちゃん、七海ちゃん完全に寝たよ。……こっちにおいで」 菜月が和室の襖を少しだけ開けた状態にし、リビングのローテーブルの脇に腰を下ろした。 菜月の自宅は、駅から徒歩十分ほどの築浅の1LDKマンションだった。一人暮らしらしいすっきりとした室内には、真帆が自宅から持ち出したボストンバッグと、七海の小さな手提げ袋がぽつんと置かれている。 夕方から近くで待ってくれていた菜月には、家を出る直前に短いメッセージを送った。あの車が見えるまで、真帆は息を止めるようにして七海の手を引いていた。「ありがとう、菜月……急に押し寄せてごめんね」「そんなのいいよ。それより……その手提げ袋とバッグに入ってるもの、全部出してみよう」 菜月は手際よくローテーブルの上にあったリモコンや雑誌を脇へ寄せ、フローリングの床の上にスペースを作った。 真帆は頷き、ボストンバッグのファスナーを開いた。 午後、悠人が浴室にいる間に、リビングのキャビネットと脇に置かれた仕事用ファイルから、気になる紙をバッグへ移しておいた。不動産資料、学校の予定表、手帳を撮影しておいたコピー、写真のプリント。七海の手提げ袋からは、写真館の試し刷りと予約票が出てきた。 真帆と菜月は膝をつき、それらの紙切れや写真をフローリングの上に一枚ずつ広げていった。 白いフローリングの上に、ばらばらの日常の断片が敷き詰められていく。 どれも単体で見れば、どこの家庭にでもあるような、普
last update最終更新日 : 2026-10-05
続きを読む

第87話 物件資料の裏

 真帆は膝の上で両手を強く握りしめた。「髪留めも、服も、沙耶さんが選んだって七海が言っていたから。沙耶さんが莉央さんの続きを七海に求めて、同じ場所へ連れて行かせているんだと思ってた。でも……」 真帆は写真館の試し刷り写真を指差した。「今日の写真館には、沙耶さんは来ていなかったの。悠人と七海の二人だけだった。なのに、九年前と同じ写真館で、同じソファで、同じ角度で七海にポーズをとらせてた。……沙耶さんがいなくても、再現は行われていたの」 菜月が写真をじっと見つめ、静かに息を吐き出した。「じゃあ……場所を選んで、日程を決めて、七海ちゃんをそこへ連れて行ってたのは、全部義兄さんだったってことだ」「そう……悠人だったの。本人は『家族の記念写真だよ』って笑っていたけれど……」 言葉が喉の奥で詰まった。 そこにあるのは、一つずつ見ればどれも普通の選択だった。写真館を予約する。家族旅行の行き先を決める。七海の誕生日を祝う。そのたびに悠人は「家族のために」「七海のために」と笑っていた。けれど、離れていた点を並べてみると、九年前の『最初の家族』が辿った足跡の上へ、あまりにも綺麗に重なっていく。その重なり方が、真帆には何より気味悪かった。◇「これ……義兄さんの仕事用のファイルに入ってたやつ?」 菜月が、真帆がボストンバッグから取り出したクリアファイルを手にとった。 そこには、大手不動産会社に勤める悠人が集めていたと思われる、新築分譲マンションや戸建て住宅のパンフレットが何冊も挟まれていた。「うん。リビングに置いてあった仕事用のファイルに入ってた」 菜月はパンフレットのページをめくり、間にはさまれていた手書きのメモや物件概要書を検分し始めた。 間取り図、周辺環境の地図、最寄り駅からの徒歩分数。 不動産業界に身を置く悠人にとって、物件資料を持ち帰ること自体は何の不自然さもない。普段の仕事の延長として説明がつくものばかりだった
last update最終更新日 : 2026-10-06
続きを読む

第88話 一つずつなら偶然

 真帆の声がかすれた。「七海はまだ二年生だよ? どうして転校させる前提で家を探してるの……?」「ここ見て、お姉ちゃん」 菜月がメモの下部を指差した。 そこには、通勤時間に関するメモが書かれていた。『悠人:本社まで35分(乗り換え1回)』『沙耶教室:14分』 真帆の名前が、どこにもなかった。 真帆が出勤日に通っている都内のオフィスへの所要時間も、真帆の在宅勤務に必要なスペースの検討も、そのメモのどこにも記載されていなかった。 はじめから。 悠人が想定している「新しい家」の生活動線の中に、真帆という人間の存在は組み込まれていなかったのだ。「……酷い」 真帆の口から、掠れた声が漏れた。 怒りよりも先に、足元から冷たい水が押し寄せてくるような強烈な寒気が全身を包んだ。 悠人は真帆に対して「離婚しよう」と突きつけてきたわけではない。追い出そうと怒鳴り散らしたわけでもない。 ただ、日々の生活の中で、真帆の手からカードを奪い、車の鍵を奪い、仕事で多忙な印象を周囲に植え付け、「彼女は仕事が第一で家庭を捨てたがっている」という物語を沙耶に語り届けていた。 そしてその裏で、着々と真帆を排除したあとの「新しい家」と「新しい生活」の配置を整えていたのだ。◇「お姉ちゃん、こっちのスケジュール表も見て」 菜月が、真帆の勤務先から発行されていた出張予定表と、七海の学校のカレンダー、そして悠人の手帳のコピーを並べた。 真帆が先月、二泊三日で関西へ出張した日程。 その三日間の欄に、悠人の手帳には青いペンで『七海・工作』『七海・水族館』と書き込まれていた。 さらに、真帆が沙耶から聞き取った『アトリエ・みずき』の休講日と照らし合わせると、沙耶の教室が休みの日曜日に、ぴったりと合わせるようにして父娘の外出予定が組み込まれていたのだ。「全部……重なってる」 真帆は自分の指先を見つめた。「私が仕事で家を空け
last update最終更新日 : 2026-10-06
続きを読む

第89話 同じ方向

「でもね」 菜月は床の上に広げられた写真、パンフレット、メモ、スケジュール表をぐるりと手で囲んだ。「全部並べると、同じ方向を向いてない?」 静まり返ったリビングに、菜月のその一言が重く落ちた。 同じ方向。 真帆を家庭の外側へ押し出す資料。 沙耶が七海の生活圏へ入るように組まれた動線。 九年前と重なる写真や外出先。 そして、七海の八歳の誕生日へ向かって集まっていく予定。並べて見ると、真帆にはそれらが一つの方向を向いているようにしか見えなかった。 床に広げた資料のどこにも、「真帆を家から出す」とも、「沙耶を母親に戻す」とも書かれてはいなかった。 残っているのは、写真、物件資料、予定表、通勤時間のメモ。どれも単体なら、仕事や家族サービスの延長としていくらでも説明できるものばかりだ。 それなのに、通勤時間のメモから真帆だけが抜け落ち、沙耶の教室までの距離だけが記され、九年前と同じ場所へ向かう予定が七海の誕生日へ集まっている。偶然と呼ぶには、同じ方向を向くものが多すぎた。 そして何より恐ろしいのは、悠人自身がそれを悪事だと思っていないらしいことだった。「家族のため」という言葉を口にする時の、あの穏やかな顔を真帆は何度も見ている。彼の中では、誰かを押し退けることさえ「整える」ことに変わってしまうのかもしれない。 意図して九年前を再現しているのかどうかまでは、まだ分からない。 それでも、彼の選択を一つずつ積み重ねた先に、真帆のいない家と、沙耶が近くにいる生活と、九年前によく似た家族の形が現れている。 その結果だけは、床に並んだ資料がはっきりと示していた。◇「……不気味すぎるよ、義兄さん」 菜月が自分の腕を抱え、小さく身震いした。「悪気がないのが一番タチが悪いよ。自分が正しいと思ってるから、罪悪感ゼロでこんなことできるんだもん」 真帆は床の上の物件パンフレットに視線を戻した。 余白に書かれた悠人の細い筆跡。『七海の学校まで12分/造形教室まで電車+徒歩で14分』
last update最終更新日 : 2026-10-07
続きを読む

第90話 八歳になったら

 週明けの月曜日。カーテンを透かして届く朝の光は、少しだけ白く霞んでいた。 菜月のマンションの小さなキッチンで、食パンの焼ける匂いが漂っている。トースターの網が熱を持ち、小さなカチカチというタイマーの音が、静かな室内に刻まれていた。 真帆は、バターナイフを持ちながら、小さなお皿の上でパンの端を削ぐように動かしていた。避難した夜、菜月と一緒に床の上に広げたあの資料――写真、物件概要書、予定表――の光景が、まだ目の裏に焼き付いている。 悠人は、真帆を怒鳴り散らして追い出そうとしたわけではなかった。 ただ、日々の暮らしのあちこちで、カードを止め、車の鍵を預かり、「真帆は仕事が第一で家庭を捨てたがっている」という話を周囲に積み上げ、真帆のいない未来の図面を一人で引いていたのだ。「ママ、牛乳おかわり」 ローテーブルの前で、七海が小さくコップを差し出した。 週末を菜月の家で過ごし、七海は少しずつ新しい寝床にも慣れてきた。それでも、大人の顔色を伺い、空気を乱さないように振る舞う癖は、小さな体に残っていた。「はい、どうぞ。こぼさないようにね」 真帆は紙パックから冷たい牛乳を注ぎ、七海の隣にしゃがみ込んだ。 菜月は今朝、仕事のために「何かあったらすぐ電話してね」と言い残して出て行った。室内には、真帆と七海の二人だけの時間が流れている。学校には菜月が朝一番で、ひとまず欠席の連絡だけを入れてくれていた。 七海が牛乳を小さく口に含み、ごくりと飲み込む。その喉の動きを見つめながら、真帆は胸の奥で、静かに息を整えた。 確かめなければならないことがあった。 持ち出してきた物件資料やメモは、悠人の手元にあった客観的なデータだ。だが、悠人が実際に七海へどんな言葉を投げかけ、どんな未来を見せていたのか。それを知ることができるのは、七海本人しかいなかった。「七海」 真帆はできる限り声のトーンを落とし、柔らかく、包み込むような低さで呼びかけた。「なぁに、ママ」「ちょっと、お話してもいい?」 七海は持っていたコップをそっとテーブルに戻し、真帆の顔をまっすぐに見つめ返した。その大きな瞳に、微
last update最終更新日 : 2026-10-07
続きを読む
前へ
1
...
67891011
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status