その日は、風のない、静かな日だった。庭の木々は動かず、噴水の水音だけが、やけに大きく聞こえた。私は、マルグリット夫人の授業を終えて、回廊を歩いていた。「――皇太子殿下は、何かを隠しておいでだそうよ」「まあ、何かとは」聞こえてきたのは、若い令嬢たちの声だった。回廊の陰、庭に面した東屋のあたりから、風に乗るでもなく、ひそひそと。日差しは強いのに、その声だけが、妙に冷たく耳に届いた。石造りの柱に、私は肩を寄せた。ひやりとした感触が、頬の近くにあった。私は、足を止めた。「ノクスハイム嬢との婚約、あまりに急ではなくて」「ええ。決闘の噂は聞くけれど、それだけであれほどの譲歩をなさるかしら」「兄が申しておりましたわ。教会が、何か不穏な動きを見せていると」「教会が」「詳しくは分からないけれど。ただならぬ気配だとか」私は、柱の陰で、身動きが取れなくなっていた。「もしかして」声が、さらに低くなった。「ノクスハイム嬢ご自身に、何か」「まさか。あんなにお美しい方が」「でも、あの決闘のときの様子。尋常ではなかったわ」「それは、確かに」「殿下が、何かを庇っていらっしゃるのだとしたら」沈黙が落ちた。その沈黙が、何より雄弁だった。私は、自分の心臓の音を、やけにはっきりと聞いた気がした。内容は、当たっていない。誰も、魔王だったことまでは辿り着いていない。分かっている。頭では、分かっているのに、指先が冷たくなっていくのを止められなかった。決闘のときの様子。あの言葉だけが、何度も耳の奥で繰り返された。あのとき、地面が抉れるほどの力を見せた自分を、彼女たちは、遠目にどう見ていたのだろう。畏怖だったのか、それとも――今のこの、疑いの種だったのか。庭の噴水の音が、やけに大きく
Última atualização : 2026-09-10 Ler mais