All Chapters of 彼は義務で私を娶り、愛したのは遅すぎた: Chapter 1 - Chapter 10

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第1章

4年後――ジュリア・マルティネスは、二人の寝室にある鏡の前で、数秒間じっと立っていた。指先で、アイボリー色のドレスの生地を無意識になでる。ドレスは彼女の身体に完璧に馴染んでいた。それでも、彼女が鏡の中に見ていたのはドレスではなかった。目の下に薄く残るクマ。そして、無理に作ろうとしているのに、どうしても心から笑えない笑顔。どれだけ化粧をしても、長い間、彼女の中に積もっていた疲れを隠すことはできなかった。今日はNLEグループの創立50周年記念日だった。そこには名だたる経営者、投資家、取引先、そして多くのメディア関係者が集まる、盛大な祝賀会が開かれる。そして、いつもの公式行事と同じように、彼女は夫の隣に立つことになる。ジュリアはゆっくり息を吸い、ドアを開けた。ロドリゲス・NLEは、すでに準備を終えていた。完璧に仕立てられた黒いタキシードを身につけ、落ち着いた様子でカフスボタンを留めている。その一つ一つの動作は正確で、どこか機械的だった。整った顔立ちは相変わらず魅力的だったが、その表情は固く、何を考えているのかまったく読み取れない。ジュリアはしばらく彼を見つめた。4年。同じ屋根の下で過ごしてきた4年間。彼女は、彼の習慣なら何でも知っていた。毎朝飲む、砂糖の入っていないコーヒー。深夜を過ぎても終わらない仕事。そして、仕事仲間に向けることさえ少ない笑顔。彼女は彼のことを何でも知っていた。――ただ一つ、彼の心を除いて。結婚して4年。それなのに、彼は一度も、彼女がずっと聞きたかった三つの言葉を口にしてくれなかった。「愛している」「準備はできたか?」ロドリゲスは彼女を見ることさえせず、ジャケットを手に取りながら尋ねた。胸を締めつける痛みを飲み込み、ジュリアは小さく微笑んだ。「ええ」彼は車の鍵を手に取った。「行こう」車内は、いつものように静まり返っていた。以前のジュリアは、その沈黙を壊そうとしていた。今日あった出来事を話したり、庭で育てているバラの話をしたり、新しく作った料理を彼に食べてもらいたいと話したり。いつか一緒に訪れたい国について語ったこともあった。けれど、ロドリゲスの返事はほとんどいつも同じだった。「……うん」何年も経つうちに、ジュリアは話しかけることをやめた。本当の答えを待ち続けた末に、彼女は
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第2章

ジュリアはその場に凍りついた。周囲では会話が続き、グラスが触れ合う音が響き、カメラのシャッター音もまだ鳴り続けていた。それなのに、彼女には何も聞こえなかった。視線はロドリゲスから離れない。彼はまるで、自分の失っていた一部を取り戻したかのように、ダイアナを見つめていた。四年間。結婚してからの四年間、ジュリアは彼の表情を一つ一つ見分けられるようになっていた。冷静さ。真剣さ。人との距離を保つ態度。けれど、その笑顔だけは見たことがなかった。心からの笑顔。輝いていて、どこか優しい。「ダイアナ……」ロドリゲスがつぶやいた。その声は、普段よりずっと柔らかかった。ダイアナは迷うことなく彼に近づいた。その堂々とした姿は自然だった。まるで、二人の間に流れた年月など存在しなかったかのように。彼女は笑顔で手を差し出した。「あなた、変わったわね」ロドリゲスはしばらく彼女を見つめ、それから小さく笑った。本当の笑い声だった。「君も変わっていない」ジュリアの胸が締めつけられた。その笑い声を、彼女は何度夢見たことだろう。家で食事をしているとき。二人で話しているとき。いつか自分にも、そんな笑顔を向けてくれる日が来ると信じていた。けれど今、彼女は理解した。その笑顔は、最初から自分のためのものではなかった。彼女はただ、蘇った過去の記憶を目の前で見ているだけだった。やがてダイアナが、ようやくジュリアへ視線を向けた。その笑顔は礼儀正しいものだった。「あなたがジュリアね」「はい……初めまして」ジュリアは優しく答えた。けれど、喉は乾ききっていた。ダイアナはわずかに頭を下げた。「私がいない間、ロドリゲスの面倒を見てくれてありがとう」上品な口調だった。敵意など少しも感じられない。それなのに――ジュリアの胃がきゅっと締めつけられた。私がいない間。まるで、すべてが最初から決められていたかのようだった。まるで、自分は夫の人生に一時的に置かれていただけの存在だったかのように。それでもジュリアは待った。一言。何かの説明。ロドリゲスが「彼女は僕の妻だ」と言ってくれることを。自分は代わりの女性ではないと、彼自身の口から伝えてくれることを。しかし、彼は何も言わなかった。ただ黙って立っていた。その沈黙は、ダイアナのどんな言葉よ
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第3章

ジュリアの指の間で、スマートフォンが再び振動した。彼女は画面をじっと見つめたまま動かなかった。そして、届いたメッセージをもう一度読む。一度。二度。三度。何度読んでも、そこに書かれている言葉が変わることはなかった。「NLE夫人、検査結果が出ました。できるだけ早くクリニックへお越しください」喉が締めつけられた。ここ数週間、彼女の身体は無視できない変化を訴えていた。朝の吐き気。突然襲ってくるめまい。そして、身体にまとわりつくような強い疲労感。最初は、すべてストレスのせいだと思っていた。愛してくれない男のそばで暮らすだけでも、人は十分に疲れてしまう。けれど、担当医は念のため検査を受けるよう勧めていた。もし……。ジュリアは一瞬、目を閉じた。だめ。結果を聞くまでは、期待してはいけない。「ジュリア?」ロドリゲスの声に、彼女はびくっと肩を震わせた。慌てて顔を上げる。「ほとんど食べていないじゃないか」ジュリアは無理に微笑んだ。「……あまり食欲がないの」彼は数秒間、彼女を見つめた。何かを尋ねようとしているようだった。しかし、その短い時間を一人の女性の声が遮った。「ロドリゲス、少し借りてもいい?」いつもの自信に満ちた笑顔を浮かべ、ダイアナが二人のテーブルへ近づいてきた。ロドリゲスはほとんど間を置かずに立ち上がった。「もちろん」その二つの言葉だけで、ジュリアの心は再び沈んだ。彼は、彼女がどう思うかを尋ねることさえしなかった。視線も向けない。迷うこともない。ただダイアナと一緒に去っていった。まるでジュリアなど、そこにいる招待客の一人にすぎないかのように。彼女は二人の背中を目で追った。二人は驚くほど自然に並んで歩いていた。小さく笑い合っている。その姿は、まるで一度も離れたことなどなかったかのようだった。周囲では、再び会話が始まった。「二人がどれだけ愛し合っていたか、覚えてる?」「誰もが、二人は結婚すると思っていたわ」「もしかしたら、二人にはもう一度やり直すチャンスがあるのかもしれないわね……」ジュリアは静かに目を伏せた。一つ一つの言葉が、さらに彼女の心を切り裂いていく。もう聞きたくなかった。周囲の注目を集めないよう、彼女はそっと椅子を引いた。そして、誰にも何も言わず、会場を後にした。---
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第4章

クリニックを出たあと、ジュリアは階段の途中で数分間立ち止まった。胸元に医療記録の入ったファイルを強く抱きしめる。まるで、それだけが彼女を安心させてくれる唯一のもののようだった。自分のお腹の中で、小さな命が育っている。その事実を知ったばかりだった。本当なら、笑顔になっているはずだった。心が軽くなり、幸せを感じているはずだった。なのに、胸の奥には大きな空虚感が広がっていた。数分後、ジュリアはタクシーに乗り込んだ。車が走り出してからも、彼女は窓の外を流れていく街の明かりを見つめ続けていた。けれど、その光景はほとんど目に入っていなかった。車が屋敷の前に止まったとき、時刻はもう午後十一時近くになっていた。屋敷は静まり返っていた。静かすぎるほどに。ロドリゲスは、まだ帰ってきていなかった。ジュリアはゆっくりと二階へ上がった。一歩、また一歩。足取りは、進むほど重くなっていった。寝室に入ると、鏡の前で何気なくイヤリングを外した。そのときだった。彼女の視線が、ベッドの中央に置かれた上品な黒い箱に止まった。ジュリアはわずかに眉をひそめた。心臓が少し速く鼓動し始める。これは……プレゼント?自分に?結婚して四年。ロドリゲスが何かの記念日でもないのに、彼女へ贈り物をしたことなど一度もなかった。それなのに、なぜ今夜?子どものような戸惑いを抱えながら、ジュリアはゆっくりと箱へ近づいた。指先でそっと蓋に触れる。そして、慎重に開けた。中には、とても美しいネックレスが入っていた。細いホワイトゴールドのチェーン。その先には、雫の形をしたペンダントが揺れていた。中央には大きなダイヤモンドが輝き、その光が部屋の中をきらめかせている。ジュリアは言葉を失った。気づけば、唇には小さな笑みが浮かんでいた。ほんの一瞬だけ。彼女の心は、ありえない可能性を信じようとした。もしかしたら……。もしかしたら、彼は自分のことを考えてくれたのかもしれない。もしかしたら、二人の関係も少しずつ変わり始めているのかもしれない。ジュリアはうっとりしながら、そっとネックレスを手に取った。その瞬間――ドアが開いた。ロドリゲスが寝室に入ってきた。ジャケットをまだ肩に掛けたままだった。長い一日の疲れが、その顔にははっきりと浮かんでいる。しかし、ジュリア
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第5章

ジュリアが目を開けると、すでに朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。反射的に、彼女はベッドの反対側へ手を伸ばした。けれど、シーツは冷たかった。ロドリゲスは、とっくに出て行ったようだった。いつもの朝と同じように。ジュリアは数秒間、横になったまま天井を見つめていた。やがて、そっとお腹に手を添える。唇に小さな笑みが浮かんだ。「おはよう……」あまりにも小さな声だった。自分にしか聞こえないほどの声。その思いだけが、彼女の心を少しだけ慰めてくれた。しかし、その温もりはすぐに消えてしまった。ジュリアは起き上がり、静かに身支度を整えると、食堂へ降りていった。屋敷の中には、淹れたばかりのコーヒーの香りが漂っていた。家政婦のマリアが彼女の前に料理を置く。そして、心配そうにジュリアを見つめた。「奥様……最近、ますます食事の量が減っていますよ。顔色もとても悪いです」ジュリアは優しく微笑んだ。「心配しないで、マリア。私は大丈夫よ」その嘘を口にすることが、かえって彼女の胸を痛ませた。自分が今、何を抱えているのか。どうして説明できるだろう。昨日から、彼女は人生を大きく変えてしまう秘密を抱えている。お腹に手を触れるたび、胸の奥には大きな幸せが広がる。けれど、その幸せはすぐに不安へと変わってしまう。もう、彼女は一人ではない。それなのに――これほど孤独を感じたことはなかった。そのとき、テーブルの上に置かれていたスマートフォンが振動した。ロドリゲスからのメッセージだった。「昼食には戻らない。ダイアナとの会議がある」ジュリアは、数秒間その短い文章を見つめた。「元気か?」そんな言葉はない。「身体に気をつけて」そんな気遣いもない。ハートも、笑顔の絵文字さえない。ただ、事務的で冷たい一文だけ。ジュリアは何も返信せず、画面を閉じた。……返事をして、何になるのだろう。---一方、NLEグループ本社では、まったく違う空気が流れていた。ダイアナの復帰は、社内の大きな話題になっていた。彼女がエントランスを通り抜けた瞬間、何人もの社員が駆け寄ってくる。「ケイタさん、お久しぶりです! またお会いできて嬉しいです!」「以前よりさらにお綺麗になりましたね」「お帰りなさい!」ダイアナは一人一人に、完璧に整えられた笑顔を向けた。ま
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第6章

ジュリアはその場に立ち尽くし、目をそらすことができなかった。 目の前にいるサム・ウィリアムは、昔と変わらない温かな笑顔を彼女に向けていた。 彼は変わっていた。 大学時代に知り合った、自由気ままで無邪気な青年はもういない。 そこにいたのは、自信に満ちた一人の男性だった。 完璧に仕立てられたスーツ。 洗練された立ち姿。 そして、目に宿る揺るぎない自信。 彼が見事に成功したことは、誰の目にも明らかだった。 サムはしばらくジュリアを見つめると、静かに笑った。 「それで……僕のこと、気づかなかったの?」 ジュリアは小さく首を横に振り、かすかな笑みを浮かべた。 「そうじゃないの……ただ、もう五年近く経っているから」 「五年と三か月と十二日」 サムは楽しそうに訂正した。 ジュリアは驚いたように彼を見つめた。 「本当に覚えてるの?」 彼は少し気まずそうに肩をすくめた。 「まあ……数えてたから」 ジュリアは何と答えればいいのか分からなかった。 二人の間に沈黙が落ちた。 けれど、それは気まずいものではなかった。 やがて、サムの表情が変わった。 彼女の顔色が悪いことに気づくと、笑顔が消えた。 「ジュリア……本当に大丈夫?」 反射的に、彼女はバッグを強く握りしめた。 その中には、お腹の赤ちゃんのエコー写真が入っていた。 彼女の秘密。 「うん……」 ジュリアは小さな声で答えた。 「ちょっと疲れているだけ」 サムは、彼女がすべてを話していないことに気づいた。 けれど、それ以上聞くことはしなかった。 代わりに、彼は車のドアを開けた。 「送っていくよ」 ジュリアは首を横に振った。 「大丈夫よ」 「お願い」 その声は穏やかで、少しも押しつけがましくなかった。 「本当に顔色がよくないから」 ジュリアは数秒間ためらった。 そして、最後には小さくうなずいた。 「分かった……ありがとう」 --- 車は人通りの多い街の通りへと入っていった。 窓の外を流れていく人々を、ジュリアはぼんやりと眺めていた。 車内を包む沈黙は、重苦しいものではなかった。 むしろ―― 心地よかった。 その静けさが、今の彼女には必要だった。 先に口を開いたのはサムだった。 「今もデザインの仕事をしてるの?」 その質問に、ジュリアの胸
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第7章

邸宅の前に、重苦しい沈黙が流れた。 ロドリゲスはサム・ウィリアムから目を離さなかった。 その視線はあまりにも冷たく、誰であっても居心地の悪さを感じるほどだった。 しかし、サムは怯むことなく、落ち着いた様子で手を差し出した。 「サム・ウィリアムです。お会いできて光栄です」 ロドリゲスは、微動だにしなかった。 彼の視線は、ジュリアがまだ指に挟んでいる名刺に向けられていた。 その表情が、さらに険しくなる。 「質問したのは僕だ、ジュリア」 低い声だった。 けれど、そこには鋭さがあった。 ジュリアは密かに息を吸い、気持ちを落ち着かせようとした。 「大学時代の昔の友人よ。クリニックを出たところで、偶然再会したの」 「偶然?」 ロドリゲスの口調から、それを信じていないことがはっきり伝わった。 「ええ」 彼はジュリアから目を離さないまま、さらに尋ねた。 「それだけ?」 ジュリアはゆっくりとうなずいた。 するとロドリゲスは、サムへ視線を移した。 「彼女を送ってくれてありがとう。もう帰っていい」 それは誘いではなかった。 命令だった。 サムは挑発することなく、わずかに微笑んだ。 「もちろん、帰ります」 短い間を置いてから、彼は穏やかに続けた。 「ですが、ジュリアは大人です。自分のことは自分で答えられます」 二人の男は、長い間見つめ合った。 空気が息苦しいほど張りつめていく。 ジュリアは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。 これ以上、事態を悪化させたくなかった。 「サム……送ってくれて、本当にありがとう」 彼女は感謝の笑顔を向けた。 「もう帰るわ」 サムは静かにうなずいた。 車に乗り込む前、彼は一瞬だけジュリアの瞳を見つめた。 「僕が言ったこと、忘れないで。何かあったら、いつでも電話して」 「ありがとう」 サムは最後にもう一度うなずくと、車に乗り込み、走り去った。 ロドリゲスは、車が通りの向こうへ消えていくまで、その後ろ姿を目で追っていた。 そしてようやく、ジュリアへ振り返った。 「入れ」 たった一言。 冷たく。 感情のない声だった。 --- 二人が邸宅の中に入り、扉が閉まった。 再び、静寂がその場を支配した。 ロドリゲスはジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた。 一方、ジュリアはすでに階
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第8章

翌朝、ジュリアは誰よりも早く目を覚ました。 急いで身支度を整えると、ロドリゲスが起きる前に屋敷を出る――そのことだけを考えながら、一階へ降りていった。 ここ数日、吐き気を隠すのが難しくなっていた。 それは何の前触れもなく突然襲ってきた。しかも、まったく予想していないときに限って起こることもあった。 何よりも、ロドリゲスに疑われるわけにはいかなかった。 キッチンに入った瞬間、強いコーヒーの香りが鼻を刺激した。 胃が激しく揺さぶられる。 「……だめ」 ジュリアはすぐに口元を手で覆い、シンクへ駆け寄った。 身をかがめるのとほぼ同時に、吐き気がこみ上げてきた。 「ジュリア様!」 マリアはしていた作業を放り出し、慌てて彼女のもとへ駆け寄った。 「どうされたんですか? 具合が悪いんですか?」 ジュリアは数秒間、シンクに手をついたまま動けなかった。 深く息を吸い、ゆっくりと身体を起こす。 「大丈夫……。ただ、昨夜あまり眠れなかっただけよ」 マリアは納得していないようだった。 彼女は何年もジュリアのそばにいた。 NLE家に仕えて二十年以上になり、ロドリゲスが幼い頃から成長していく姿も見てきた。 そして長い年月を共に過ごすうちに、ジュリアのちょっとした変化にも気づくようになっていた。 今朝のジュリアは、明らかにいつもと違っていた。 「奥様、一度お医者様に診てもらったほうがいいですよ」 ジュリアは無理に微笑んだ。 「もう行ってきたわ」 それ以上、何かを言う前だった。 背後から低い声が聞こえてきた。 「ここで何をしている?」 ジュリアの身体が固まった。 ゆっくりと振り返る。 キッチンの入り口には、ロドリゲスが立っていた。 すでに出勤の準備を終えており、完璧に仕立てられたスーツを身につけている。 ネクタイはきっちりと整えられ、髪もきれいにセットされていた。 ジュリアが口を開くより先に、マリアが答えた。 「奥様がここ数日、あまり体調がよくないんです」 ロドリゲスは妻を見た。 すぐに、彼女の青白い顔と、血の気を失った唇に気づいた。 数秒間、その視線はジュリアから離れなかった。 「今日は家で休んだほうがいい」 ジュリアは驚いたように顔を上げた。 そんな反応が返ってくるとは思っていなかった。 最近のロドリゲスは、彼
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第9章

ジュリアはリビングの時計にちらりと目を向けた。19時。ロドリゲスは、まだ帰ってきていなかった。けれど、彼がどこにいるのか、ジュリアにはよく分かっていた。ダイアナと一緒なのだ。わざわざ本人に尋ねる必要さえなかった。数時間前、彼自身が答えをくれていたからだ。「ただの仕事上の夕食だ」それ以来、その言葉がずっと頭の中を巡っていた。ジュリアは、ほとんど手をつけていない自分の皿へ視線を落とした。少し離れたところで、マリアがテーブルを片付けていた。やがて、彼女はジュリアのそばまで歩み寄った。「奥様、お夕食の準備ができています。旦那様の分も取っておきましょうか?」ジュリアは小さく微笑んだ。けれど、その瞳には喜びなどなかった。「いいえ、マリア。今夜は外で食べるそうよ」家政婦はしばらく黙っていた。ジュリアの皿を見つめ、それから彼女の顔を見る。「でしたら、せめて奥様だけでもお食べください。もう食事を抜き続けることはできませんよ」ジュリアは無意識にお腹へ手を置いた。その仕草は、いつの間にかほとんど癖になっていた。「そうね。あなたの言う通りだわ」彼女はフォークを手に取り、食べようとした。一口だけ。その瞬間、胃が締めつけられるような感覚に襲われた。ジュリアはすぐにフォークを置いた。そのとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが振動した。ジュリアが顔を向ける。画面に通知が表示されていた。「ダイアナ・ケイタが新しい写真を投稿しました」胸が締めつけられた。無視することもできた。そうするべきだった。けれど、彼女の手は意思に反してスマートフォンへ伸びていた。数秒後、写真が画面に表示された。ジュリアは動かなかった。ダイアナとロドリゲスは、街で最も高級なレストランで向かい合って座っていた。テーブルには美しく盛りつけられた料理が並び、二つのシャンパングラスがキャンドルの光を受けて輝いている。そして、ロドリゲスは笑っていた。本当の笑顔だった。ジュリアが、彼と一緒にいるときにはほとんど、いや、一度も見たことがないような笑顔。喉の奥が締めつけられる。そして、写真のキャプションが目に入った。「どんな人でも、いつか必ずあなたの心へ戻ってくるものね」ジュリアは、その言葉を何秒も見つめ続けた。指先が冷たくなっていくのを感じた。
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第10章

ジュリアは夜が明けるずっと前に目を覚ました。ほとんど眠れない夜を過ごしていた。目を閉じるたびに、同じ光景が浮かんできた。ダイアナの前に座るロドリゲス。そして、まるでようやく幸せになれたかのような、彼の唇に浮かぶ笑み。ジュリアは数秒間、ベッドに横たわったまま天井を見つめていた。そして、起き上がった。黙って着替え、コートを手に取ると、誰にも見つからないうちに屋敷を出た。一時間後、ジュリアはクレメンタイン・アリエルの法律事務所の前に立っていた。ドアを押し開け、中へ入る。クレメンタインはデスクの向こうに座り、パソコンの画面を見つめていた。ドアの開く音を聞いて、顔を上げる。「――ジュリア?」その表情が一瞬で変わった。親友の顔は青ざめていた。目は涙で腫れ、ひどく疲れ切っているように見えた。クレメンタインは立ち上がった。「こっちへ来て。座って。」ジュリアは椅子まで歩き、力なく腰を下ろした。膝の上で両手を握りしめる。道中ずっと、頭の中でこの言葉を繰り返していた。それなのに、いざクレメンタインと向き合うと、声が出てこなかった。親友は黙って待った。急かすこともしなかった。やがて、ジュリアは深く息を吸い込んだ。「離婚したい。」クレメンタインはすぐには答えなかった。この四年間、彼女はジュリアが傷つき、侮辱され、何度も失望しながらも、この結婚にしがみついている姿を見てきた。何度も別れるように言いたいと思った。けれど、ジュリアはいつも残る理由を見つけていた。そして今日、ようやくその言葉を口にした。「本当に……そうしたいの?」ジュリアはゆっくりとうなずいた。「うん。」声が震えていた。彼女はうつむき、自分の指を見つめた。「頑張ったの、クレメンタイン。本当に頑張った。」目に涙が溜まる。「私がもっと彼を愛せば、いつか彼も私を愛してくれるんじゃないかって思った。だから、全部我慢した。」小さく息を吸う。「仕事も辞めた。彼の家族からの嫌味にも耐えた。彼が私に無関心なことも……見ないふりをした。」そこで言葉が途切れた。喉が締めつけられる。「でも……もう無理。」クレメンタインはデスクの周りを回り、ジュリアの隣に座った。大げさな言葉をかけようとはしなかった。ただ、両腕を広げた。ジュリアはその胸に飛び込んだ。何時間もこらえてい
last updateLast Updated : 2026-09-04
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