บททั้งหมดของ 冷たい夫より、甘いシェフを選びま: บทที่ 11 - บทที่ 20

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11話. 特別な晩餐の幕開け

土曜日、午後7時。ダイニングには、大きなクリスタルのシャンデリアから金色の光が降り注いでいた。フランスの大手流通グループ、ルミエール。そのアジア統括副社長ジャン=リュックをはじめ、海外からの賓客6人が、長いテーブルを囲んでいる。上座の貴之は最高級のオーダースーツをまとい、シャンパングラスを高く掲げた。顔には、いつもの尊大で見せびらかすような笑み。「ジャン=リュック副社長、本日は皆様のために、パリのミシュラン3つ星でスーシェフを務めた料理人を、特別にお呼びしました。東京の真ん中で、パリ最高の美食をご堪能いただけます」「それは楽しみですね、結城常務。パリの伝統の味を、東京でいただけるとは」貴之は満足げに、シャンパンを飲み干した。そのとき、重い扉が開き、紗月が入ってきた。客たちの視線が集まる。濃紺のイブニングドレスは、自分で選んだものだった。その内側には、午後に弁護士と確認した、小さなピン型録音機がついている。貴之の脅しがあれば残す。紗月は自分で、録音ボタンを押していた。顔色はまだ薄い。けれど、目つきが違った。誰の許しも求めず、上座の隣、自分の席に座る。ジャン=リュックが腰を浮かせて微笑んだ。「マダム・ユウキ。お目にかかれて光栄です。とても自然なフランス語を話されますね」「ありがとうございます。お食事も会話も、どうぞくつろいでお楽しみください」紗月は流暢なフランス語で応じた。ジャン=リュックがパリの物流ストライキを話題にすると、現地の港湾事情まで、ごく自然に話をつなぐ。貴之の目が、不快げに細くなった。家では謝ってばかりの妻が、客の前では会話を引っ張っている。自分の知らない顔がある。そのことが、夫の自尊心を傷つけていた。ダイニングの扉が開き、黒いコックコートの蓮が、銀のワゴンを押して入ってきた。客の前では、表情も歩幅も崩さない。「最初のアミューズをお持ちしました」宮城県産の真牡蠣に、シャンパンのフォームとベルーガキャビアを添えた一皿。牡蠣の塩気を含んだ海の香りのあとから、シャンパンの酸味が軽やかに立つ。ひと口飲み込んだジャン=リュックが、眉を上げた。「トレビアン。牡蠣のミネラル感はそのままに、フォームの酸味を最後だけに残している。パリでいただいた、一ノ瀬シェフの皿ですね」賓客から、次々と称賛が上がった。貴之はシェフ
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12話. 乾杯の向こう側

かちり。パントリーの扉が閉まり、ダイニングの明かりと笑い声が、いっぺんに遠くなった。壁一面のワインボトル。オリーブオイルと生ハムの香りが、ひんやりした空気に混ざっている。「どうして、ここへ?」紗月は声を落とした。蓮は扉から一歩離れ、小さな陶器の皿を見せる。ワインで煮たイチジクと、温めたフォアグラのテリーヌが一切れ載っていた。「お客様にお出しする前の、最後の組み合わせの確認です。今は、紗月さんの舌がいちばん正確ですから」「外で、夫がワインを待っています」「では、ワインだけお持ちになっても」道を塞ぐことはしなかった。むしろドアノブから手を放し、脇へよける。「鍵は掛けないで」「掛けていません」蓮がノブを一度下げてみせる。いつでも開けて出られる。その確認で、紗月の肩からようやく力が抜けた。わずか3メートル先ではグラスがぶつかり、貴之の大げさな笑い声が上がっている。「ははは! 今日の契約は、何も問題ありませんよ、副社長!」「結城常務の歓待に、乾杯」紗月はドアノブを見つめ、それから皿へ目を戻した。香ばしい脂の香りのあとに、イチジクの甘い酸味が立つ。数日前なら、匂いだけで胃がむかついたはずだ。今は、味を確かめてみたいという気持ちが、先に湧いた。「一口だけ。すぐに終わりにしてください」「わかりました」「味を見るだけですから」「味の感想だけを伺います」約束するように皿を差し出し、蓮は半歩下がった。渡されたフォークを持ち、紗月は自分でフォアグラを口へ運ぶ。柔らかく溶ける脂のあとに、イチジクの酸味が広がった。眉間が、少し緩む。「いかがですか」「ジャムが、少し甘いです。ワインと合わせたら、もっと重くなりそう」蓮の目に、一瞬、満足がよぎった。「では、酸味を足しましょう。的確です」「私の舌が正確だって、どうしてわかるんですか」「甘みに隠れた脂の味を、すぐに言い当てました。訓練を受けた人でも、見逃すことがあります」紗月はフォークの先を見た。貴之には、味もわからない女だと言われた。蓮は、その女の一言で、皿を変えようとしている。「私が間違っていたら?」「もう一度味を見て、私が直せばいいだけです」間違ったからといって、侮辱しない。そんな答えが新鮮で、紗月は胸の内でもう一度なぞった。そのとき、ダイニングから夫の声が響い
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13話. ワインラックの陰で

きい、と扉が開いた。ダイニングの物音と外の空気が、一度に流れ込む。紗月は、心臓が足元まで落ちる気がした。夫に見つかれば、実家の会社も自分の身も、どうなるかわからない。扉とワインラックの距離を見ようとしたが、脚に力が入らなかった。蓮がすぐに腰を支え、ラックの裏の狭い隙間へ導く。天井まで伸びたオークの棚と食材の箱が、視線を遮ってくれた。蓮が背後に立つ。掌が口元に触れる前、目で許しを求められた。紗月がうなずくと、手が慎重に口を覆う。もう一方の腕は、倒れないよう腰を支えるだけだった。冷たい棚の角が腕に触れ、ワインボトルが一本、かすかに揺れた。蓮は手の甲で瓶を押さえながらも、紗月の体を押しつけたりはしなかった。「どこに隠れてるんだ、あいつは」苛立った貴之の声が、狭い室内に響く。重い靴音が奥へ近づき、酒ときついアフターシェーブの匂いが広がった。紗月の膝が、細かく震える。すぐ前の棚越しに、夫のスーツの袖が見えた。顔を向けるだけで、二人に気づく距離だ。蓮は紗月の耳の後ろへ額を寄せ、動かなかった。ドレス越しに伝わる鼓動と、うなじに触れる息が、あまりにも鮮明だった。怖くて震えているのに、自分を支える男の体温まで意識している。そのことに気づいて、紗月はさらに息を浅くした。手の甲に当たる、コックコートのボタン一つまで感じられた。紗月はその感覚を頼りに、胸の中で呼吸を数える。夫の靴が一歩ずつ動くたび、蓮の腕は揺らがなかった。紗月が先に手首をつかむまでは、さらに引き寄せることもしない。貴之がぶつぶつ言いながら、棚を乱暴に探る。「ワインひとつ持ってこられずに、客の前で恥をかかせやがって。家事もできないくせに、ますます役に立たない女だ」ドレスの内側で、録音機が肋骨の近くに押し当てられた。夫の声は、今も記録されている。怖さは消えない。それでも、今度の暴言は、消されない証拠になった。聞き慣れた罵声が続くと、紗月は後ろへ手を伸ばし、蓮の手首をつかんだ。その合図を受けて、腰に回った腕に少し力が入る。倒れないだけの強さで、黙って支えてくれた。貴之の手が、棚の中央の1996年のロマネ・コンティを、乱暴につかんだ。紗月の息が、喉元まで詰まる。夫の指が、隠れているラックの角を、すれすれにかすめた。瓶がぶつかり、硬いガラスの音が耳を打つ。「あ
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14話. 耳元の熱いささやき

紗月は、掌で自分の胸を押さえた。「嫌だから、こんなに脈が速いんじゃありません。見つかるのが、怖いだけ」蓮はすぐには答えず、重なっていた手をほどいた。「では、ここでやめましょう」一歩下がられると、冷たい空気が二人のあいだへ入り込んだ。紗月は呼吸を整え、もう一度コックコートの袖をつかむ。「やめてとは、言ってません」「紗月さん」「長くしないで、という意味です。また外で探されますから」蓮の瞳が深くなった。それでも返事は短かった。「わかりました」懐から小さな保温ケースを出す。キッチンであらかじめ表面を炙っておいたイチジクと、ブルーチーズの一片が、ほのかな温もりを保っていた。甘い果汁と刺激のあるチーズの香りが、冷たい空気に広がる。「さっきのフォアグラより、酸味を強くしました。一口だけ、確かめてください」「こんなときでも、味から聞くんですね」「それが仕事ですから」「私がこんな状態でも?」「こんなときほど、味は正確でなくては。甘すぎれば飽きますし、香りが強ければ、ほかの感覚を隠してしまう」「人も、そうなんですか」蓮は少しだけ、紗月を見た。「人を、勝手に味つけするつもりはありません」紗月の口元に、薄い笑みが浮かんだ。差し出されたフォーク。その手首をつかみ、向きを変える。「今回も、私が決めます」「はい。手は、どこへ?」「腰だけ」掌が、腰の線に軽く置かれた。力は込めず、紗月が近づくのを待っている。震えの中には、恐怖ではない感覚も混じっていた。自分が望んで、誰かを引き寄せている。そのことが、はっきりとわかった。紗月はイチジクをひと口かじり、残りを口にした蓮へ、自分から唇を寄せた。甘みと塩気が、唇のあいだで混ざる。蓮の手は、抱き寄せる寸前で一度止まった。紗月が自分から体を寄せて初めて、背中を支えた。ダイニングでは、グラスが触れ合い、拍手が起きている。「素晴らしいヴィンテージですね!」「フランスの大切なお客様のために、3年も取っておいたんですよ!」壁一枚の向こうで、夫の自慢が響く。それを聞いても、今度の紗月は、蓮の首に回した手を放さなかった。短い口づけが終わる頃には、二人とも、最初より息が乱れていた。「どうですか」「イチジクはいいですね。チーズは、あと2度だけ下げましょう」「本当に、どこまでもシェフですね」
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15話. 壁の向こうの靴音

紗月が席に着くと、貴之は笑顔のまま、声だけを低くした。「奥様。いったいどこで、何をしていたんです?」歯を食いしばり、赤い唇と、ドレスに移ったハーブの香りを交互に確かめる。客の前だから声を抑えているだけで、疑いは隠せていなかった。テーブルを囲む客たちの視線が、二人に集まる。ドレスの内側で、録音機が肌に触れていた。紗月は手をやって確かめる代わりに、夫の言葉を、そのまま残すことにした。短い沈黙のあと、貴之をまっすぐ見て、落ち着いた笑みで返す。「キッチンでシェフが、ブルーチーズの組み合わせに使うソースを確認していたんです。とても香りが強かったので、服にも移ったみたいですね」最後まで、言葉遣いを崩さなかった。ジャン=リュックが笑い、ワイングラスを軽く揺らす。「なるほど。奥様が、ペアリングまで確かめてくださったのですね。おかげで、ワインもひときわ印象的です」客たちが同意すると、貴之は無理に笑った。それ以上は追及できない。だが、顎の筋肉は固くこわばっていた。会食は続き、和牛フィレのローストとトリュフのジュが、テーブルに並んだ。焼き加減と肉汁に、賛辞が続く。蓮は紗月の皿だけ、量を半分にした。ソースも脇に分けてある。「香りが強ければ、ソースは残してください」「甘さは、さっきより控えめですか」「イチジクは使わず、肉汁だけを煮詰めました」紗月は小さな一切れを切り、十分に噛んだ。夫が見ていても、飲み込む速さを急がなかった。肉を飲み込み、水をひと口飲んでフォークを置くと、蓮もそれ以上勧めない。場が和んできた頃、貴之がナプキンを置き、紗月の耳元で言った。「少し、テラスへ出ろ」紗月は席を立ち、ダイニングからつながるテラス側の通路へ向かった。ガラス扉が閉まった途端、手首をつかまれ、大理石の壁に押しつけられる。「っ……!」「警告しておく。余計なことを考えるなよ。シェフと裏でこそこそ話してるところを、もう一度でも見たら、今夜中に親父の会社の手形を全部不渡りにしてやる」貴之の指が、細い手首の骨を折るほど強く締め上げた。強いワインと湿った煙草の匂いが、息と一緒に顔へかかる。吐き気がするほど不快だった。「わかったなら、大人しく笑って客の機嫌を取れ。副社長はおまえを気に入ってる。契約にサインするまで、うまく媚びろよ。おまえは俺の事業のためのトロフ
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16話. 紅に染まるイブニングドレス

遮光カーテンの裏の狭い隙間で、二人は息を潜めた。貴之の靴が、わずか30センチ先で止まる。衣擦れまで聞こえた。「どこへ行ったんだ、あいつ……本当に面倒くさい」煙草を取り出し、くわえる音がした。紗月の膝が揺れると、蓮の手が腰の横で止まった。紗月が後ろへ体を預けてから、その重みを受け止める。彼の顎は肩のそばにあり、息だけがうなじに触れた。――お願い。そのまま、戻って。祈りながら耐えていると、ライターをつけかけた貴之が、リビングからの呼び声に舌打ちした。「結城常務! 副社長が、追加の説明をご希望です!」「ああ、はい! すぐに参ります!」テラスの扉が開き、靴音がダイニングへ遠ざかる。扉の閉じる鈍い音に、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。「ふぅ……はぁ……」紗月は、堪えていた息を長く吐いた。蓮が、襟元を直してもいいかと尋ねるように手を上げる。うなずくと、乱れたドレスを整え、痣のある手首を確かめてくれた。「出番です、マエストロ」呼吸が落ち着くのを待って、蓮が言った。「副社長には、まず白石物産のコールドチェーンの話を。貴之が割って入ったら、資料を見せてほしいと言ってください。数字と特許は、嘘をつきません」「私が話します。蓮さんは、代わりに説明しないで」「わかりました。聞かれたら、資料だけお渡しします」紗月は録音機が動いていることを指先で確かめ、小さな携帯電話を内ポケットへしまった。呼吸を整え、肩を伸ばす。ただ強くなれと言われるより、ずっと役に立つ助言だった。ダイニングの扉を開ける。入るときより、歩幅は小さくなっていなかった。濃紺の裾が揺れ、客たちの視線がまた集まる。ジャン=リュックがグラスを掲げ、紗月を迎えた。「おお、マダム。ちょうど常務と、日本での食品の独占流通権について、話していたところです」貴之が口を挟むより先に、紗月は自然なフランス語で続けた。実家の事業の話をするときは、旧姓の白石を名乗る。それも、彼女が自分で選んだことだった。「天城ホールディングスの流通網も素晴らしいのですが、フランスの最高級食材を品質を落とさずに扱える設備は、私の実家の白石物産が持つ、超低温物流網にあります。父が20年かけて築いた、国内独自のコールドチェーンの特許網です」貴之の顔が強張った。安値で奪おうとしていた会社の中核資産を、妻
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17話. 疑惑の眼差し

ピンポーン。インターホンの音が、リビングに響いた。画面には、黒いシャツを着て1階のロビーに立つ蓮が映っていた。紗月の胸ぐらをつかもうとした貴之の手が、宙で止まる。目が血走り、顎の筋肉が盛り上がった。「あいつ……帰らずに、こんな時間に何の用だ」荒く息をしながら、通話ボタンを乱暴に押す。「おい! 今さら何の用だ! パーティーが終わったなら、とっとと帰れ!」【常務。キッチンに、私物の革製ナイフケースと、フランス産トリュフオイルの箱を忘れたようです。高価な専用の道具ですので、すぐに回収したく、少しだけ上がらせていただきます】スピーカー越しの声は、冷静で抑制が利いていた。貴之は歯ぎしりした。どれほど腹が立っても、副社長が絶賛したシェフの道具を取り上げ、騒ぎを起こす理由はない。ロックを解くと、ほどなくエレベーターの扉が開いた。蓮が、長い脚で廊下を渡って入ってくる。その歩みに乱れはなかった。玄関に立つ二人を、短く見渡した。紗月の乱れた襟と、貴之の固い拳。それを見て目を細めたものの、何も言わずにキッチンへ向かった。貴之は腕を組み、執拗についていく。カウンターの上で、重い革のケースのファスナーを閉める。その手をにらんでいた貴之が、鼻を鳴らした。――……!瞳が、大きく揺れた。蓮の手首とシャツの襟から、ほのかに漂うシダーウッド。さっきテラスで、紗月のドレスについていたのと同じ香りだ。料理に使うバターの匂いとは違う。シダーウッドの香りが、二人の服に、同じように残っている。確かな証拠ではなかった。だが疑いに取りつかれた貴之には、それで十分だった。「一ノ瀬シェフ」歯を食いしばって呼ぶ。「今日の会食で、あなたの仕事は終わりだ。明日から、うちのキッチンには近づかないでもらおう。報酬は十分、振り込んでおく」蓮は鞄を肩に掛け、振り向いた。口元に、薄い笑みがよぎる。「残念ですが、それは私の一存では決められません、結城常務」「何だと?」「ジャン=リュック副社長は、月曜の午前中、こちらで最終試食と契約に関する実査を行うとおっしゃいました。本社の監査チームの日程も確定しています。契約相手が変わっても、実査は予定どおりです。キッチンの使用日程も、契約上すでに決まっています。取り消すのでしたら、常務から直接、本社にご説明いただくことになります」
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18話. 罠の奥に隠された真実

闇に沈んだ、45階のペントハウス。紗月がバルコニーの窓の鍵を外すと、隣の共用点検テラスから、低い声がした。「紗月さん。私です」ルミエールの警備チームが、管理室の協力を得て確保した、サービス用の通路だった。黒いジャケット姿の蓮が、手すりの内側の連絡デッキを渡って、部屋へ入ってくる。襟元に、秋の夜の冷たい空気が残っていた。「……蓮さん!」彼は入るとすぐ、ドアと廊下を確かめた。「今なら、出られます。下に警備チームがいますし、すぐに警察へ通報することもできます」紗月は一歩近づき、ジャケットをつかんだ。「先に、抱きしめて」蓮が、そこで初めて腕を回す。「ここにいます」低い声が、闇の中で静かに響いた。ポケットから小さな保温ボトルを出し、銀色の蓋へハーブティーを注ぐ。レモングラスと生姜、野の花の蜂蜜を入れた、温かな茶だった。「ひと口、大丈夫そうですか」手を伸ばすと、蓋を渡してくれた。甘く、ほのかに刺激のある温もりが、乾いた喉を潤して胃を温める。紗月は蓮の胸に寄りかかり、まだ荒い息をついた。厚い胸から伝わる体温が、夫の暴力に残された恐怖を、少しずつ押し戻していく。「貴之が……リビングにもキッチンにも、カメラを。スマホも壊して、私を閉じ込めて」「管理サーバーの構成は確認しました。ただ、紗月さんの同意なしには動きません。映像の確保も、通報も」「両方、してください。今度こそ、残さないと」「では、今ここを出ますか」紗月は閉じたドアと、書斎の方を交互に見た。「まだ。父の実印と、白石物産の契約書の原本が、書斎の金庫にあります。私が逃げたと知ったら、あの人は先に処分するはずです」「証拠よりも、安全が先です」「わかっています。だから、一人でやるつもりはありません。警備の人に待機してもらって、あの人が家を空けたら取り出す。すぐに通報します」蓮は数秒、紗月の顔を見つめた。「その手順でしたら、一緒に」予備の携帯電話に、管理サーバーの接続記録と施錠のログを映して見せる。それから、分厚い革の書類綴りを取り出し、紗月の手へ渡した。「これは……?」「ご実家の会社を担保にして、貴之が資金を移そうとしていた借名口座の明細。それと、天城ホールディングスの裏帳簿の原本です」紗月は目を見開いた。書類には、貴之の自筆の署名と、偽造された実印の印影が、は
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19話. 冷たい大理石に残る熱

闇の深まった寝室で、閉ざされていた重いドアが、音もなく開いた。蓮が、よく冷えたシャンパングラスと、銀のドームをかぶせた皿を手に入ってくる。ベッドの端で身を縮めていた紗月は、乾いた唾を飲み込み、顔を上げた。昼間、リビングとキッチンのあちこちに光っていた、監視カメラの赤いランプが頭をよぎる。「蓮さん……リビングのカメラが……」「心配はいりません」ベッドの前で止まり、蓮は穏やかに言った。「今は、30分前の無人のリビングの映像が繰り返されています。今の様子は、録画にも残りません」銀のドームが持ち上がった。薄く切った和牛のサーロインに、生わさびとオリーブオイル、黒トリュフを添えたカルパッチョ。肉の淡い香りのあとに、トリュフが立つ。「脂は控えめで、温度は低めにしました。今日は、一切れだけ確かめましょう」「わさびは、どのくらい?」「普段の半分です。もっと減らしますか」「もう少し、減らしてください。フォークは、蓮さんが持って」わさびを除いてから、もう一度、目で尋ねられる。紗月がうなずくと、薄い肉が唇の前に運ばれた。ためらわず、口を開いた。冷たく、なめらかな舌触りのあとに、トリュフの香りとオリーブオイルの酸味が、はっきりと感じられる。こくん。肉を飲み込むと、蓮が赤くなった唇へシャンパングラスを傾けた。泡と柑橘の香りが喉を通り、紗月の肩が小さく跳ねる。「ワインは、自分で持ちます」グラスを受け取り、ほんの一口だけ飲んだ。「お肉は大丈夫。ワインは、少し炭酸が強いです」「次は、少し泡を落ち着かせておきます」蓮はすぐにボトルを置き、グラスを下げた。「キッチンまで、行けますか」差し出された手を取ったものの、紗月は部屋の敷居で止まった。月明かりの落ちるアイランドカウンター。この3年間、侮辱と暴力が繰り返された場所だった。貴之が皿を投げた音まで、戻ってくる気がする。紗月は手を放さず、3回、呼吸を整えた。冷たい天板を見るだけで、みぞおちが強張る。だが今日この家を出たら、もう二度と、自分の意思でここへ立てないかもしれない。「入らなくても、いいんです」蓮が手をほどこうとすると、紗月は強く握り直した。「いいえ。このキッチンを、あの人の記憶だけにしたくない」自分の足で、カウンターの前まで歩いた。冷たい天板に掌を置き、蓮を振り返る。
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20話. シェフが打ち明けた理由

着信音は止まらず、暗いキッチンに響き続けた。リビングのソファの下で、タブレットに赤い文字が点滅する。【発信:横浜物流本部 結城貴之常務】紗月の呼吸が止まりかけた。冷たい天板に横たわる体へ、また恐怖が忍び寄ろうとする。蓮の目が細くなった。だが、その手は先に動いていた。頬を包み、画面から顔をそらさせる。「見なくていい。私が切ります」コックコートを羽織り、リビングへ出てタブレットの電源を落とした。続けて、ホームカメラのサーバー接続も切る。騒がしい警報が途絶え、キッチンはまた静かになった。紗月が腕を伸ばすと、蓮が抱き上げ、冷たいテーブルからベッドへ運んだ。鎖骨まで布団をかけてから、キッチンで温かい飲み物を作って戻る。牛乳に、ほのかなナツメグとバニラを加えたものだった。甘く優しい香りが、部屋を満たす。「温かいうちに。少し、落ち着くと思います」カップを持たせ、蓮が隣へ座った。紗月は両手で包み、ひと口飲む。甘く柔らかな温もりが胸を通り、強張った肩がゆっくりほどけた。「蓮さん……どうして、ここまで私を助けてくれるんですか」同情だけで、ここまで来たのではない。それは、紗月にもわかっていた。蓮が、自分のカップを置く。「昨夜、この家に来た目的はお話ししました。貴之を追うためだった、と。ただ、なぜ紗月さんのそばに残ったのかは、まだ話していません」「理由が、違うんですか」「はい」少し間を置いて、蓮が続ける。「10年前、深川で小さな定食屋を営んでいた母がいました」しばらくカップの縁を見つめてから、言葉を継いだ。「貴之と天城ホールディングスは、フランチャイズの商圏を押さえるために人を使い、母の店を不法に占拠して、無理やり廃業させました。店を失ってから母の体調は急激に悪くなり、数年後に亡くなりました」夫のしたことが、蓮の人生につながっていた。紗月は、そこで初めて知った。「私はフランスへ渡り、3つ星の厨房でスーシェフになりました。そして、貴之の取引を追う道を作った。この家へ来た、最初の目的は復讐でした」蓮の手が、紗月の手を包む。「最初は、このキッチンを拠点にして、取引を確かめるつもりでした。ですが、ご主人の暴言に怯えて、水さえ飲み込めない紗月さんを見た」紗月は手を引かなかった。けれど、すぐに寄りかかることもしなかった。「最初
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