บททั้งหมดของ 冷たい夫より、甘いシェフを選びま: บทที่ 21 - บทที่ 30

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21話. 夫の醜い裏帳簿

「放せ! 今すぐ、その手をどけろ!」貴之の怒鳴り声が、リビングに響いた。捜査員2人が腕を背中へ回し、手錠をかける。ついさっきまで玄関を蹴り開けていた勢いは、金属の噛み合う音とともにしぼんだ。「俺が誰だかわかってるのか! 天城ホールディングスの海外営業統括常務だぞ。弁護士が来るまで、一言も話さない!」捜査主任は動じず、逮捕状を示した。「結城貴之さん。業務上横領、特別背任、有印私文書偽造とその行使、外国為替関連法違反の容疑です。弁護人を選任する権利と、供述を拒む権利については、移動中にも改めて説明します」貴之の目が、ソファへ向いた。スーツ姿の紗月は、カップを置いたまま夫を見ている。蓮は、その半歩後ろに立っていた。「紗月。おまえが仕組んだんだな」「仕組んだんじゃない。あなたのしたことが、明るみに出ただけ」夫の顔が、見慣れない形に歪んだ。それを見ても、紗月は声を落とさなかった。「私に隠していた書類も、父の会社から抜いたお金も、全部記録に残っているわ」「黙れ。会社の何がわかる」「これから、わかるようになる。自分で、確かめるから」声は大きくない。けれど、揺れなかった。捜査主任が、捜索差押許可状を持つ捜査員に合図する。書斎と業務用タブレット、ホームカメラのサーバー、私用の金庫。次々と保全されていった。自分のノートパソコンが証拠袋へ入れられるのを見て、貴之は初めて言葉を失った。普段は紗月のスマートフォンも行動も支配していた男が、自分の物一つ、触れられずに立っている。蓮が、ルミエールの監査チームの作成した資料一覧を渡した。「シンガポールとケイマン諸島の法人3社の取引記録です。直近5年間で、東アジアの物流代金から消えた額は、42億円。白石物産の担保権の書類にある、署名の鑑定資料も添付しています」数字と日付の並ぶ表を見て、貴之の顔が固まった。「たかが料理人が、どうしてそれを……」ジャン=リュックがフランス語で話し、そばの通訳が落ち着いて伝えた。「一ノ瀬シェフは、ルミエールのアジア戦略ファンドの最大出資者であり、本社の特別監査権限を持つ取締役です。料理人は彼の職業。監査は、彼が行使した権限です」貴之の唇が開いた。金で雇った飯炊きだと侮辱した相手が、取引資料を握る当事者だった。ようやく、それが理解できた顔だった。「馬鹿な。こんな
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22話. 妻を差し出す密命

貴之が逮捕される、20分前。横浜から東京へ戻る車の中で、貴之は黒崎剛蔵へ音声メッセージを残した。【今日の正午までに、俺から取り消しの連絡がなければ、紗月を連れてこい。白石物産の契約書に、まず印鑑を押させろ。手段は問わない】メッセージには、白石物産の地下駐車場の動線と、紗月の車のナンバーまで添付されていた。月曜日、午後4時。品川にある白石物産の本社は、逮捕の報道を受け、一日中、電話と記者の問い合わせに追われていた。紗月は役員たちに憶測で答えないよう指示し、契約書の原本を先に施錠保管させた。最後の会議を終える頃には、昼食も食べそびれていた。父の入院に関する書類と、緊急取締役会の資料を鞄に入れ、地下駐車場へ下りる。ルミエールの警備チームは、建物の周囲を確認していた。だがエレベーターの扉が開いたとき、最初に目に入ったのは、床に倒れた会社の警備員だった。紗月は、足を止めた。扉が閉まる前に非常ボタンへ手を伸ばしたが、男が一人、隙間へ足を差し込んだ。携帯電話の電波は弱い。駐車場の奥の警備ブースは、明かりが消えている。紗月は、最寄りの柱と消火器の位置を確かめた。柱の陰から、黒い服の男が5人、姿を見せる。出口には、ナンバーを隠したワゴン車が、エンジンをかけて待っていた。「結城紗月さんですね。黒崎会長がお呼びです」先頭の男が、笑って手を差し出した。「そちらへ行く用は、ありません」紗月は後ずさらなかった。鞄の中で、車のキーの緊急ボタンを押す。ピイイッ! ピイイッ!警報音が、駐車場に響き渡った。同時に、携帯電話から緊急通報が送られる。男の顔が歪んだ。「手間をかけさせるな。乗れ」手首をつかもうと、男が飛びかかる。紗月は柱の陰へ身をかわし、壁の消火器を取った。安全ピンを抜く手は震えていた。それでも、男の顔を正面から見た。「もう一歩来たら、噴きかけます。ここのカメラも、動いているわ」思ったより、声が出た。手は震えていても、ノズルは男の顔を向いていた。「貴之に、頼まれたんでしょう」「行って、自分で聞けよ」「あの人、今は答えられるような立場じゃないけど」男の目が、一瞬揺れた。「カメラごときを怖がるくらいなら、最初からこんな仕事はしねえよ」鉄パイプを持ち上げる。そのとき、黒いSUVが2台、出口から入り込み、ワゴン車の前後を
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23話. シェフのもう一つの顔

隅田川を見下ろす、佃のレジデンス。駐車場での襲撃のあと、紗月は警察の聴取を終え、蓮の家へ移っていた。窓の外の夜景は穏やかだった。けれど指先には、まだ消火器の取っ手の冷たさが残っている。オープンキッチンから、ナイフがまな板を叩く音が、一定の速さで聞こえた。蓮は、皮をぱりっと焼いた鴨の胸肉を薄く切っていた。オレンジの皮とタイムを使ったソースは、脂を抑えるだけの軽さに煮詰めてある。「今は、たくさん食べなくてかまいません。一切れ食べて、胃の様子を見ましょう」フォークを渡しかけ、紗月が手を伸ばすのを見て、皿の脇へ置いた。紗月は自分で、小さな一切れを取った。歯切れのいい皮のあとに、しっとりした肉汁が広がり、オレンジの酸味が短く残る。「前より、ソースが甘くないですね」「驚いたあとには、甘さが重く感じられることもありますから」「私の状態で、レシピがどんどん変わるんですね」「食べる人が変わっているのに、皿が同じままなら、料理人の怠慢です」蓮らしい返事だった。紗月は二切れ目の代わりに、温かな水を飲んだ。それ以上は勧められない。「今度こそ、話してください」リビングの壁の写真と証書に目をやる。ラ・ルミエール財団の設立式の写真で、老紳士の隣に、若い蓮が立っていた。「出張シェフが、すべてじゃなかったんですよね」蓮が向かいへ座る。「シェフは偽装ではありません。自分で選んだ、職業です」「それは信じます。料理の前では、一度も嘘をつかなかったから」「それ以外には、隠していたことがあります」「だから、今聞いているんです。隠していたほうを、話してください」紗月は、彼を見た。「お母様のお店のことも、貴之を追っていた理由も、昨夜聞きました。今、聞いているのは、それを可能にした権限です」蓮がうなずく。「祖父が、ラ・ルミエール財団を設立しました。私は持分とアジア投資部門を引き継ぎ、本社の特別監査権限も持っています」持分の証書より先に、監査の委任状の写しが出された。閲覧できる取引の範囲。監査の開始日。資料の保存責任者。日付ごとに、整理されていた。「ご自分で確認できるよう、原本の照会先と、担当の法律事務所も記載しました」紗月は法律事務所の名前と、発行日を順に確かめた。「ただ、信じてくれとは言わないんですね」「はい。確認して、判断してください」
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24話. 反撃のレシピ

翌朝、検察庁舎の面談室。面談の前に捜査員から説明を受けた。相手を追い詰める必要はない。身の危険を感じたら、すぐに受話器を置いていい。弁護士も隣室で、状況をリアルタイムで確認するという。紗月は、うなずいた。ここは夫を挑発して、英雄のように勝つための場所ではない。あの人が、自分で漏らす言葉を、記録するための場所だ。捜査員が見守る中、紗月と貴之は透明な仕切り越しに向かい合った。夫は収容施設の服ではなく、逮捕されたときと同じ服だった。だがネクタイはなく、シャツの襟はしわになっていた。受話器を持つ前に、紗月は蓮の言葉を思い出す。――最初から、全部出さないでください。味を見るときだって、塩を一度に全部入れたりはしません。蓮は外で、弁護士と待っていた。一人で入ると決めたのは、紗月自身だった。貴之が先に、受話器をつかむ。『よくも俺を、こんな所へ連れてきやがったな。今すぐ証言を変えろ。親父の会社が無事で済むと思ってるのか』紗月は革の書類綴りから、内容を赤く伏せた資料の写しを出した。見えるのは、表題だけ。【銀座の私用金庫に関する資産一覧】貴之の目が大きくなった。『それを、どこで手に入れた』「あなたの金庫から」実際には、捜査チームが口座の流れから見つけた、金庫の賃料の資料にすぎない。詳しい場所も、警備の仕組みも、まだわかっていなかった。貴之が鼻で笑った。『はったりを言うな。B棟地下の9番金庫は、俺の指紋と6桁の暗証番号がなけりゃ開かない。予備の鍵だって、森田しか持ってない。どうやって入ったっていうんだ』紗月は答えず、受話器の横の録画ランプを見た。赤い光がともっている。貴之の顔から、血の気が引いた。紗月には、よく知っている表情だった。自分が握る情報が漏れたときだけ、見せる恐怖。妻が病んでも、義父が倒れても、見せなかった感情だ。「私が盗んだんじゃない。今、あなたが、場所と開け方を教えてくれたの」『紗月、おまえ……!』「それに、森田室長の名前も」捜査員がすぐに部屋を出て、捜索差押許可状の請求に必要な情報を伝えた。貴之が仕切りを叩く。『俺たち、3年も夫婦だったじゃないか。全部、俺が悪かった。おまえの実家も助ける。頼むから、ここから出してくれ』卑屈な声を、紗月はしばらく聞いていた。以前なら、すまなかったという一言で、自分
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25話. 晩餐が残した証拠

東京地方裁判所。貴之の勾留の要否を判断する手続きは、非公開で進められた。傍聴人も、記者もいない。貴之はしわになったシャツ姿で、手首には手錠の痕が赤く残っていた。書類に記されているのは、肩書きのない、被疑者・結城貴之という名前だけだった。弁護人側は、分厚い意見書を提出していた。「被疑者には定まった住居と職業があり、海外事業を担う役員です。問題の資料は、離婚紛争中の配偶者と競合企業が収集したもので、違法に取得された可能性があります。逃亡や証拠隠滅の恐れもありません」その主張を確認した裁判官が、書類から目を上げた。「逮捕の直前、被害者を連れ去るよう指示した音声メッセージについては、どう説明しますか」弁護側の主張に、すぐつながる答えはなかった。貴之が声を荒らげる。「合成音声です! 今どき、声なんていくらでも作れるでしょう。紗月とあのシェフが、俺の金を狙って仕組んだんです!」検察側からは、科学捜査部門の一次鑑定書と、通信事業者のサーバー記録が提出されていた。メッセージが貴之の端末から、生体認証を経て送信された記録も含まれる。音声ファイルの作成時刻、元データのハッシュ値、クラウドへの送信履歴。それらが一つの表に整理されていた。単に声が似ているという鑑定だけを否定しても、崩せない資料だった。続いて、会食の日、紗月自身の意思でつけていた、ドレスの内側の録音機の原本が再生された。【今夜中に、親父の会社の手形を全部不渡りにしてやる】【副社長はおまえを気に入ってる。契約にサインするまで、うまく媚びろ。おまえは俺の事業のためのトロフィーなんだ】ホームカメラのサーバーからは、その夜、妻のスマートフォンを壊し、寝室を外から施錠した映像とログも復元されていた。貴之は椅子の肘掛けを握りしめた。ルミエールの監査チームが提出した取引元帳、銀行からの回答、偽造書類の鑑定結果も、順に確認される。銀座の金庫の場所について、貴之が面談で話した内容も記録にあった。裁判官が尋ねる。「金庫の場所を、なぜ被害者へ自分から話したのですか」「誘導されたんです!」「面談には弁護人の同意があり、捜査員も立ち会っていました。その経緯も含めて、記録を確認します」貴之は口を閉じた。同じ頃、庁舎内の待合室で、紗月は紙コップを指先で回していた。被害者としての意見書は、すでに検
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26話. 偽りの城が崩れるとき

勾留が認められた直後、裁判所の正門前には、報道陣が集まっていた。貴之はうつむいたまま、護送車に乗った。さっきまで怒鳴っていた声は、もう聞こえない。シャッター音が降り注ぐ中、弁護人たちも足早に移動していく。紗月は別の出口から出たものの、ほどなく記者に見つかった。「白石委員長。担保権の偽造について、ご存じだったのですか?」「ルミエールとの独占契約は、確定したのでしょうか?」「結城さんとの離婚手続きも、進めているのですか?」前へ出ようとした蓮の腕を、紗月が軽く押さえた。「私が話します」マイクの前へ立つ。「白石物産の担保権に関する刑事手続きは、捜査機関に委ねます。当社は本日から、外部の会計事務所とともに、財務と契約の全面調査を始めます。ルミエールとは、緊急の物流維持協定のみを結びました。本契約は、実査の結果を踏まえ、取締役会が判断します」「ご自身の被害については?」紗月は短く息を整えた。「私生活での暴力も、事業上の不正も、これ以上隠すつもりはありません。必要なことは、法廷でお話しします」蓮との関係を尋ねた記者には、首を横に振った。「今日お答えするのは、会社と捜査についてだけです」私生活へ話をそらす質問を断ち、法務担当者たちと車へ向かう。問いかけが途切れるまで、同じ方針を崩さなかった。その日の午後、天城ホールディングスの本社にも、捜索が入った。ルミエールは問題のある取引の支払いを止め、損害賠償請求の方針を示した。株価は急落し、取締役会は貴之を職務から外した。総帥も海外への移動を制限され、参考人ではなく、容疑者として捜査の対象になった。だが、それで白石物産が一夜にして立ち直ったわけではない。紗月は病院の会議室で、再建案と資金計画表を広げた。「ルミエールの前払いだけを当てにしてはだめです。まず既存の取引先をつなぎ止めて、担保権の実行を止める判断が出るまでの運転資金を、別に確保しましょう」資料をめくり、続ける。「冷凍倉庫の稼働率と電力費も、今日中に計算し直してください。契約の大きさより、持ちこたえられるキャッシュフローが先です」予想以上に具体的な問いかけに、財務担当役員が座り直した。「承知しました、委員長。夕方までに、3通りの案を出します」役員たちが、うなずく。以前は奥様と呼んで礼を尽くすだけだった人たちが、今は数字と
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27話. 結婚に終止符を

6週間後。東京家庭裁判所の調停室。紗月は弁護士と並び、画面を見ていた。収容施設のビデオ面会室につながり、施設で用意された服を着た貴之が映る。顔はやつれていた。けれど目に残る所有欲は、変わっていない。調停委員が確認した。「申立人の結城紗月さんは、婚姻関係の解消、財産分与、慰謝料を求めています。お子さんはいらっしゃらず、親権や養育をめぐる争点もありません。双方のご意向を伺います」貴之が、マイクへ顔を寄せた。『離婚はしません。あの女は不倫をしておきながら、俺の財産まで奪おうとしているんです!』紗月は、画面の夫をまっすぐ見た。「婚姻中の暴言と暴行、監禁、実家の会社の担保権の偽造、第三者に私を連れ去らせようとした指示。すべて、捜査記録に残っています。これ以上、婚姻を続ける理由はありません」『おまえが、あのシェフと寝たことはどうなんだ。それは愛だとでも?』以前なら、その言葉だけで、罪悪感が先に立っただろう。紗月は少し考え、淡々と答えた。「自分の選択の責任は、自分で取ります。それで、あなたの暴力や犯罪が消えるわけではないわ」『きれいごとを言うな。結局、俺を裏切ったんだろうが!』「あなたは結婚を、忠誠を誓う契約のように思っていた。私はもう、その契約の中の物としては生きない」貴之の顔が歪んだ。『死んでも、おまえは俺の妻だ。絶対に、書類に判なんか押さない』紗月の弁護士が口を開いた。「相手方が同意しなければ、裁判による離婚を求めることになります。本日の調停が不成立となれば、暴行の診断書、監禁の記録、連れ去りの指示音声、担保権の偽造資料も、訴訟での審理対象になります」脅しではなく、手続きの説明だった。紗月は、貴之にはその違いがわからないだろうとも思っていた。力のある言葉はすべて脅し、自分に不利な事実はすべて裏切りと受け取る人だった。調停委員が、一度休憩を入れた。画面が消えると、紗月は指を開き、また握った。蓮は、裁判所の外で待っている。この部屋には、入っていなかった。20分後、画面が再びつながる。貴之の隣には、新しく選任された弁護士が座っていた。天城ホールディングスの総帥が支援を打ち切り、一族がつけた弁護団も撤退した。その知らせは、すでに届いていた。貴之側の弁護士が、低い声で言う。『相手方は、婚姻の解消に同意します。ただし、刑事事
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28話. 私だけの味覚

3か月後。冬を迎えた東京。紗月は、佃の新しい家で目を覚ました。貴之と暮らしたペントハウスではない。部屋の広さも家具も、自分で選んだ。玄関の暗証番号を誰に教えるかも、紗月が決めている。毎朝、胃の調子がいいわけではなかった。前日の会議が長引いたり、裁判の連絡が入ったりすると、また喉が強張る日もある。定期的な診察と栄養相談は続けていた。食べた量より、体の反応を記録する。今日のメモは、短かった。【空腹感あり。吐き気2。温かいパンなら食べられそう】食べられなかった日の記録も、消さない。以前は、何も食べられない食事が、そのまま失敗だった。今は、体の状態を知るための資料になっていた。主治医には、体重や食べる量を急に増やそうとせず、決まった時間に安心できる食べ物を試し、不安にも一緒に向き合っていこうと言われた。リビングへ出ると、キッチンからトマトとバジルの香りがした。蓮が白いシャツの袖をまくり、材料を整えている。「おはようございます。今日の調子は?」「吐き気は2。少し、お腹が空いています」「では、冷たいチーズは最後に。まず、パンの香りを確かめてください」焼きたてのサワードウへ、顔を寄せる。香ばしい匂いは、不快ではなかった。蓮が、リネンのエプロンを持ち上げる。「今日は、ご自分で?」「はい。ただ、上から手を重ねて教えないでください。言葉だけで」「わかりました。トマトは5ミリに。指先は、刃に当たらないよう内側へ」蓮は後ろで手を組み、一歩離れた。出会った頃なら、自分でナイフを取って正確な角度を示しそうだった男が、今は紗月の望んだやり方で待っている。紗月は自分で、ナイフを持った。さくり、とトマトが割れ、赤い果汁がまな板に広がる。厚さが不揃いになると、蓮の眉がごくわずかに上がった。「今の顔。気に入らないんでしょう?」「個性的な厚みだと、思っていたところです」「嘘は、まだ下手ですね。シェフ」笑いながら、次の一切れをもう少し薄く切る。バジルを手でちぎり、モッツァレラと一緒にパンへ載せた。オリーブオイルはひと回し、バルサミコはその半分。できあがったブルスケッタを持ち、一口かじった。パンの歯応えのあとに、トマトの酸味とチーズのコクが続く。蓮が尋ねる。「味は、どうですか」紗月は、急いでおいしいとは言わなかった。十分に噛んで飲
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29話. 二人きりのレストラン

フランス、パリ。セーヌ川沿いに建つ、オスマン様式の石造りの建物。オーベルジュ・ド・ラ・ルミエールのアーチ形の扉を開くと、低いジャズとバターの香りが流れ出してきた。窓の外には濡れた石畳と、川面ににじむエッフェル塔の光が見えた。その夜、レストランは一つのテーブルだけを残し、一般営業を休んでいた。派手な飾りはない。低いキャンドルと数輪の白いバラ、丁寧に並べられた銀のカトラリーだけだった。スタッフは最初の皿の準備をしてから帰り、厨房には蓮だけが残った。紗月は空っぽのホールを見回し、尋ねる。「こうして店を閉めたら、損になりませんか」「今日の売り上げは、私が負担します」「共同運営者になる前から、経費を確かめることになるなんて」「いい習慣です」紗月は理事会で、契約条項を3か所、修正した帰りだった。自分の決裁権。東京で働く割合。白石物産と財団のあいだの利益相反を避ける規定。すべて、書面に入れた。厨房の扉が開き、白いコックコートを着た蓮が出てきた。「交渉には、満足されましたか。白石理事」「まだ、一条残っています。シェフは私の好みを、勝手に解釈しないこと」「それは、毎回の試食で確認します」「それから、奥様という呼び方は、東京に置いてきました」「承知しています、紗月さん」蓮は頭を下げたが、口元には笑みが残っていた。椅子を引いてくれる。紗月は上座ではなく、蓮と向き合える席を選んだ。最初の皿は、ブルターニュ産のオマール海老だった。サフランはバターと長く煮ず、最後に香りだけを移し、ソースにはレモン果汁が少し多めに入っている。「東京で、初めてソースを召し上がったとき、甘さのあとにレモンが来ると、おっしゃいましたね」蓮が、海老を一切れ、紗月の皿へ置く。「今日は、酸味が先に来るよう変えました」紗月は自分のフォークで味を確かめた。弾力のある身のあとに、レモンの爽やかさが広がる。バターは重くならず、静かに余韻を残した。「覚えていてくれたんですね」「最初の感想を忘れたら、同じ間違いを繰り返します」「あれは感想というより、やっと一言、口にできただけなのに」「私には、それで十分でした」蓮は自分の皿にも、同じソースを取った。「今日は、私が先に食べました。問題がないか、確かめるために」「そういう意味の試食では、ないんでしょう?」「今は
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30話. もう飢えない、私たちの食卓

セーヌ川の上で、エッフェル塔の光が長く揺れていた。蓮はまだ指輪を取らず、先に何も持っていない手を、紗月へ差し出した。「お腹が空いたからといって、一皿を空にするよう求めたりはしません。ひと匙なら、ひと匙。何も食べられない日には、その隣にいます」声は低かった。けれど、普段より少し遅い。「私の作った味が違っていたら、直します。紗月さんが決めた食卓も、仕事も、名前も、奪いません」一度、息を整えて尋ねた。「その条件で、生涯のパートナーになっていただけますか」いつものように、答えを急がせなかった。片膝をついたまま、待っている。紗月が手紙を読み返す時間も、指輪を見る時間も、すべて彼女に委ねていた。紗月は目元の涙を、手の甲で拭った。「もう一つ、条件があります」「どうぞ」「私がつらいとき、一人で決めて、救おうとしないこと。先に話して、一緒に決めること」「契約書に入れても、守ります」「それから、私の皿の味見は、私がします」ようやく、蓮の口元に笑みが広がった。「その条項は、すでに承知しています」紗月が、手を差し出す。「それなら、はい。結婚しましょう、蓮さん」「後悔は、させません」「そうじゃなくて」紗月は手を取り、立ち上がらせた。「後悔したら、一緒に話して、直しましょう。一人で、完璧になろうとしないで」蓮が短く笑う。「はい。それも、契約に加えます」そこで初めて指輪を取り、紗月の薬指へ通した。紗月のほうから襟元を引き、唇を重ねる。キャンドルが揺れ、テーブルのイチジクのタルトの甘い香りが、二人のあいだに残った。* * *2年後の春。結城貴之は42億円規模の横領と背任、私文書偽造、誘拐の教唆などで、18年の実刑判決が確定した。隠していた資産は、追徴と被害弁償の手続きに入った。天城ホールディングスは問題の事業を整理し、債権者団の管理下で分割売却された。関わった役員も、順に起訴されていった。白石物産はルミエールと本契約を結び、超低温物流網をヨーロッパまで広げた。紗月は代表取締役として会社を率いながら、ラ・ルミエール財団の共同理事長も務めていた。父は治療を終え、名誉会長に退いて、経営には口を出さなくなった。すべての日が、順調だったわけではない。裁判の記事がまた出ると、紗月の胃は強張ることがあった。慣れない香りが強ければ、匙を
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