บททั้งหมดของ わかりすぎた私が、もう誰にも譲らない: บทที่ 1 - บทที่ 10

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第1話

空港へ向かう車内で、瑛士に電話をかけた。コール音が6回鳴ってようやく繋がった。背後には波の音。彼は声を潜めていた。「……どうした?」「ううん、ご飯食べたかなと思って」「食べたよ。今、会議中だから後でかけ直すよ」彼は電話を切ろうとした。「待って」私はひとつ息を吸い込んだ。「瑛士、去年あげた時計、まだ持ってる?」電話の向こうが、一瞬だけ静まり返った。「あるよ。どうして?」「今日、部屋を片付けていたら、保証書を見つけたんだけど、そろそろ点検に出したほうがいいかなと思って」「いいよ。時計は壊れてないから」彼の声には、焦りも動揺も感じられなかった。「もう切るね、取引先が待ってるから」電話が切れた。タクシーの後部座席にもたれ、窓の外を流れる街路樹を眺めた。子供の頃から一緒に育ってきた珠希は、私が買ったばかりの髪飾りを奪ったことがある。私は母に「大丈夫」と笑って見せた。18歳、大学入試センター試験の日。彼女は私の受験票を破り捨てた。私は試験会場で事情を説明し、仮受験票を発行してもらった。手続きに時間がかかり、危うく試験開始に間に合わなくなるところだった。それでも両親は、「珠希もまだ子供なんだから」と彼女を庇った。22歳、初めての給料で妹に誕生日プレゼントを買った。彼女は安物だと鼻で笑い、私の目の前でゴミ箱に放り投げた。24歳、瑛士を家に連れて帰った日。珠希は彼の隣に座り、やけに甘えた声で笑っていた。あの時、気づくべきだった。それでも、気づかなかった。だって彼女は珠希――私の妹だから。誰もが「珠希に譲ってあげて」と言い続け、私もこれまでずっと譲り続けてきた。「譲らない」というのがどういうことか、もうとうに忘れてしまっていた。予約できたのは一番早い午後3時発の便だった。搭乗を待つ間、珠希のインスタを開き、あの写真を拡大した。写っている男の人の手は骨ばっていて、薬指に指輪はなかった。腕の時計はIWCのポルトギーゼ。去年の瑛士の誕生日、私が海外にいる友人に頼んで買ってきてもらったものだ。ケースの側面には【E&A】の刻印があった。瑛士と亜依里、私たちふたりのイニシャルが刻まれている。その時計のために私が支払ったのは136万円。当時の私の全財産だった。瑛士がそれを腕につけた時、
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第2話

飛行機が着陸したのは午後7時半を過ぎた頃だった。南島市の空気は湿気を帯びて重く、私が深夜2時まで残業していたあの街の冷たい風とはまるで違う。ホテルへ向かうタクシーの中で、私はずっと考えていた。ホテルに着いたら、どうすればいいのか。部屋に乗り込んで問い詰めるべきか?泣きわめくか?それとも何も知らないふりをして、「偶然だね、私も遊びに来たの」と笑ってみせるか?どれも違う気がした。私、樫野亜依里は28年間生きてきて、感情をぶつけて騒いだことは一度もない。子供の頃、珠希に物を取られても騒がなかった。騒げば両親に「聞き分けがない」と言われるから。学校でいじめられても波風を立てなかった。騒いだところで事がこじれるだけだから。社会人になって上司に怒鳴られても言い返さなかった。反抗すればクビになるから。悔しさはいつも飲み込んで、その場に合わせた作り笑いを浮かべてきた。でも今日は違う。今日ばかりは飲み込めない。これは単なる悔しさなんかじゃない。4年間、彼に捧げてきた私の真心だから。タクシーはホテルの正面玄関に停まった。料金を払い、車を降りてロビーへ入る。フロントの若い女性が、笑顔で「ご予約のお客様でしょうか」と尋ねてきた。「神森瑛士という者が宿泊しているはずなんですが」私は微笑んだ。「婚約者なんです。サプライズをしたくて」女性は申し訳なさそうな表情を浮かべた。「申し訳ございませんが、ご宿泊の有無やお部屋番号はお答えできかねます。お部屋へのお取次ぎでしたら承れますが」「いいえ、結構です。ありがとうございます」私は礼を言ってフロントを離れた。実は、部屋番号には心当たりがあった。空港で珠希のインスタを見返した時、別の写真に写り込んでいたカードキーのケースに【1712】という数字が見えたのだ。エレベーターに乗り、17階のボタンを押そうとしたところで、鏡に映った自分の姿に目が留まった。髪はぼさぼさで、目の下には濃いクマが浮いている。今朝家を出る時は化粧すらせず、髪をひとつに結っただけだった。ジーンズは去年買ったもので、襟ぐりが少し伸びたTシャツを着ている。一方でインスタの中の珠希は、白い花柄のワンピースを着て髪を綺麗に巻き、愛らしく華やかな笑顔を浮かべていた。ふと、自分が滑稽に思えた
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第3話

ドアが開いた。彼はホテルのバスローブ姿で、髪はまだ濡れている。シャワーを浴びたばかりなのは明らかだった。私を見た瞬間、ドアノブに手をかけたまま、時間が止まったかのように固まった。「……亜依里?」その声には、読み取れない感情が滲んでいた。驚きなのか、後ろめたさなのか、それとも別の何かか。「驚いた?」私は笑って尋ねた。彼の顔色が変わり、反射的に部屋の中を振り返ってから声を落とした。「なんで来たんだ」「会議中だって言ってたから、会いに来たの」私は首をかしげて彼を見た。「取引先がいるんじゃなかった?中に入って座ってもいい?」「亜依里、頼む、説明させてくれ」「何を説明するの?」中から珠希の声がした。「瑛士、誰?」珠希はすでに寝室から姿を現していた。白いビキニに、ホテルのタオルを羽織った姿で。私を見た瞬間、彼女の動きも止まった。丁寧に施された化粧でも、一瞬の動揺までは隠しきれていない。でも、ほんの一瞬で彼女は笑った。子供の頃から見慣れた、勝ち誇ったような笑み。「あら、お姉ちゃん?なんで来たの?」彼女は歩み寄り、自然な仕草で瑛士の腕に自分の腕を絡めた。甘えた口調で続ける。「瑛士が連れてきてくれたの。お姉ちゃんは仕事が忙しくて構ってくれないから、気分転換に付き合ってほしいって言われて」彼女はそれをまるで日常の些細な出来事のように語った。まるで妹が姉の代わりをしてあげただけ、とでも言うように。私は彼女の目を見た。私の目と驚くほどよく似ている。小さい頃からずっと、この目で私の物をひとつひとつ奪いながら、罪悪感など一度も見せたことがなかった。「珠希」私は静かに言った。「この前、中絶手術を受けたばかりじゃなかった?まだプールや湯船に入っちゃいけないって、お医者さんに言われなかった?」珠希の顔がさっと青ざめた。瑛士が弾かれたように彼女を見た。目の色が変わっていた。部屋の空気が凍りついた。私はそこに立ち、ふたりの表情を見つめながら、ふと、これまでの出来事を思い返していた。以前、珠希が急に入院した時のこと。両親は急性虫垂炎だと言っていた。見舞いに行くと、彼女は顔色が悪いのに、私を見るとひときわ愛想よく笑って「お姉ちゃん、仕事忙しいのに来てくれたの、すごく嬉しい」と言
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第4話

部屋の中に重い沈黙が流れた。瑛士は壁にもたれ、眉をひそめて、何を考えているのかわからなかった。珠希は唇を噛み、もう涙をこぼしていた。こういう時、涙が自分にとって一番有効な武器だと知っているのだ。「ご、ごめんなさい。わざとじゃないの……」彼女の声は泣き声交じりだった。「あの日、瑛士が飲みすぎて、私がホテルまで送ったら……本当にわざとじゃないの。言えなかった、怖かったの……」「怖かった?」私はその言葉をそのまま繰り返した。「お姉ちゃんに知られたら、もう見捨てられるんじゃないかって……だってお姉ちゃんはいつも私に一番優しくしてくれたし、小さい頃からずっと何でも譲ってくれたから、今回もきっと……」「今回も、譲ってくれると思った?」珠希は涙を頬に伝わせたまま私を見つめ、唇を震わせたけれど、言葉は出てこなかった。彼女自身、わかっているのだ。まさにそのつもりだったことを。小さい頃からずっと、欲しがるものは何でも渡してきた。髪飾り、服、両親の関心、先生の褒め言葉。果てはセンター試験を受ける機会まで奪おうとした。彼女が私の受験票を破った時も、再発行を終えた後で私のほうから彼女を慰めた。「大丈夫、まだ受けられるから」私が重ねてきたその「大丈夫」のひとつひとつが、彼女に教えてしまっていたのだ。もっとひどいことをしても許されるのだと。だから、4年付き合った恋人を奪っても、彼女は悪いことだなんて微塵も思わなかったのだ。それどころか、たとえ私が知ったとしても、最後にはまた「譲ってくれる」と思っていたのだ。私は珠希の姉だから。物分かりの良すぎる姉でいなければならないから。両親に心配をかけてはいけない姉だから。誰もが「包容力がある、心が広い」と褒める姉だから。私は瑛士のほうへ目を向けた。彼は窓際に立ち、海を背にしていた。顔には、私には読み取れない表情が浮かんでいた。この男と4年間一緒にいて、一番苦しい時期を共に過ごした。会社が一番追い詰められていた頃、家賃すら払えなくなっていた彼に、6年かけて貯めた360万円を全部渡したのは私だった。彼は言った。「亜依里、成功したらお前と結婚する」それから3年間、私は待ち続けた。会社の評価額が20億を超えるまで、車を買い家を買うまで、彼にようやく時間ができるまで
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第5話

私は南島市で、同じホテルにもう1泊することにした。3階のダブルルームだった。窓からはホテルのプールが見下ろせた。夜の11時。ベランダに座り、瑛士にメッセージを送った。【今後のことは、帰ってから話そう】返事はなかった。続けて、私は珠希にも送った。【明日の昼、空港で待ってる。話そう】彼女からはすぐに返信がきた。【うん、お姉ちゃん、待ってるね】珠希はいつもこうだ。こういう時だけは、やけに返事が早い。「話し合い」の結末が、結局は私が折れることだと知っているから。泣いて謝り、「まだ子供だから」と言いさえすれば、すべてがなかったことになる。彼女はそう信じ切っているのだ。でも、今回は違う。スマホのメモアプリを開き、この数年間のお金の流れを整理し始めた。3年前、瑛士が起業した時に360万円を振り込んだ。これが最初の援助だった。その後、会社の資金繰りが苦しくなるたびに何度か振り込み、追加の援助額は合計560万円になった。「借りているだけだ、利子をつけて必ず返す」と彼は言った。私はそれを信じ、借用書すら求めなかった。去年、車を買い替えたいが資金が足りないと言われ、自分の貯金から160万円をまた渡した。全部合わせて、1080万円。決して小さな額ではない。でも、本当に引っかかっているのはそこじゃない。一番の問題は、瑛士の会社の核となる技術開発を、私が手伝ったという事実だ。大学では情報工学を専攻し、卒業後はIT企業でアルゴリズム開発の仕事をしてきた。彼が起業したのは、レコメンドシステムを開発する会社で、その中核アルゴリズムの原型は、私が残業後の時間を使い、数えきれないほどの夜を費やして彼のために書き上げたものだった。あの時、彼は言った。「亜依里、上場したら株を渡すから」株はもらえなかった。開発者として名前を載せてもらうことすらできなかった。彼は私のコードに手を加え、大学の同期をCTOに据えた。そして、それを自分の成果として扱った。私はその会社の社員ですらなかったのだ。このことを、ずっと気にしないふりをしてきた。彼を信じていたから。本気で私と結婚するつもりなのだと、ふたりの間にそこまで細かい計算は要らないのだと、信じていたから。でも今は、きちんと計算する必要がある。1080万円の貸付と、
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第6話

翌日の昼、南島空港の待合ロビーで珠希と会った。彼女はひとりで来ていた。アイボリーのワンピースに薄化粧、どこまでも従順で無垢な少女のように見えた。私を見つけると小走りに駆け寄ってきた。その目はすでに赤くなっていた。「お姉ちゃん……」手を伸ばして私に触れようとしたので、一歩後ろへ下がった。珠希は一瞬戸惑った顔をした。私が避けるとは思っていなかったのだろう。「珠希、座ろう」向かいの椅子を指し示し、私は平静な声で言った。まるでただお茶を飲みに来ただけのような口調だった。彼女は私の向かいに腰を下ろし、うつむいてスカートの裾を指でもじもじと弄んだ。子供の頃からの癖だった。何か悪いことをした後、決まってこうする。赤く潤んだ目と可哀想な表情が重なると、誰も彼女を強く責められなくなるのだ。「お姉ちゃん、聞いて。これはお姉ちゃんが誤解しているようなことじゃなくて……」彼女の声は小さく、涙声だった。「あの日、瑛士はすごく飲んでて、ずっとお姉ちゃんの名前を呼んでて。部屋まで送ったら、私のことをお姉ちゃんと間違えて……本当にわざとじゃないの、ちゃんと抵抗したもん……」私は彼女の芝居を見つめた。酔っていた。人違いだった。抵抗した。お決まりの言い訳を、よくもここまで見事に並べられるものだ。「じゃあ、次の日は?」私は聞いた。「えっ?」「翌朝、彼が酔いから覚めて、あなただと気づいた後も、どうしてまた一緒に寝たの?」珠希は涙を浮かべたまま固まった。「それで?戻ってから、何回会ったの?彼が遅くまで残業してると言ってた夜、一緒にいたのはあなたでしょ?」私は声を荒げたわけではない。でも、一言一言が釘のように彼女の胸へ打ち込まれていく。「中絶したのも、『事故』だったとでも思ってるの?」「私……」「あの日、あなたは病院の書類に私の名前を書いた。看護師さんに『樫野珠希さんの手術が終わりました』と言われた時、私が何を考えていたかわかる?」彼女の目をじっと見つめる。「あなたに何かあったんだと思って、居ても立ってもいられず駆けつけた。ドアを開けて見たのは、私の彼氏があなたに付き添って、その手を握っている姿だった。彼は私が入ってきたのに気づいて、やっとスマホを置いた。何を見ていたと思う?」珠希は何も言わず、顔を真っ
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第7話

帰りの飛行機の中でスマホを開き、瑛士の会社に関する公開情報を調べた。株主構成、資金調達の状況、中核技術の特許。大学では情報工学を学び、就職後はアルゴリズム開発の仕事をしてきた私だから、公開されている技術資料を読めば、あのシステムがどう組み上げられているか、おおよその見当はつく。彼がコードを当時とは見違えるほど書き換えていても、根底にあるデータ構造とレコメンドのロジックには、私が最初に書いたものの痕跡が依然として残っていた。そういう痕跡は、変数名をいくつか変えたくらいでは決して消えない。この数年分の振込記録も掘り起こし、1件ずつスクリーンショットを撮って保存した。LINEのやり取りの中で、彼自身が「借りている」と認めていたメッセージもスクリーンショットに収めた。それから、去年、彼のスマホで偶然見かけた意味深なメッセージ。あの時は気にも留めず、仕事関係の連絡だと思っていた。今思えば、「Tさん」とだけ登録された相手から届いていたのは、見覚えのあるパジャマ姿の自撮りだったのだ。あのパジャマは私が自分用に買って、瑛士の家のクローゼットに置いていたものだ。「このパジャマ、まだ着てないんだ。肌触りがよくて気持ちよさそう」と私が言った時、彼は笑って「うん、確かに着心地いいよな」と答えた。それを珠希が着ていたのだとは、一言も言わなかった。これらの証拠は、ひとつも無駄にするつもりはない。飛行機が着陸しても、私はスマホを機内モードから戻さず、座席にもたれてしばらく目を閉じた。頭の中で何度も再生されるのは、ホテルで珠希に問いかけた言葉だった。「今回も、譲ってくれると思った?」今回も。あの時、私が「も」という言葉を使ったのは、珠希が今回も当然のように私に譲ってもらえると信じ切っていたからだ。譲ることが私の性分で、義務で、「姉」という存在の意義そのものだと思っていたからだ。でも、彼女はひとつ忘れていることがある。私は姉だけれど、彼女よりたった2歳上なだけだ。たった2歳しか違わないのに、物心ついた頃からずっと譲り続けてきた。もう十分だ。家に着いたのは午後4時過ぎだった。ドアを開けると、玄関には瑛士の革靴が置かれていた。靴の縁には白っぽい砂が残っていた。リビングには彼が座っていて、その隣には両親も座っていた
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第8話

その晩、家の中は夜更けまで修羅場が続いた。珠希は泣きながら何度も「ごめんなさい」を繰り返し、瑛士もひたすら平謝りしていた。母はふたりの間でおろおろするばかりだった。父は手にしていたコップを床に叩きつけると、珠希を指さして怒鳴った。「お前というやつは、どこまで薄情なんだ!」そう言い捨てると、父は寝室のドアを荒々しく閉めた。私は自分の部屋に戻り、ドアを閉めて、廊下から聞こえる騒ぎ声を遮った。深夜1時、瑛士からLINEが届いた。【亜依里、ちゃんと話し合おう。明日の昼、いつもの場所で待ってる】いつもの場所とは、私たちがよく通っていた行きつけのイタリアンだった。喧嘩をするたびに彼はそこで私を待ち、そのたびに私のほうが折れて仲直りしてきた。今回は、返信しなかった。でも、行くつもりだった。あの店で、これまでの貸し借りをきっちりと清算するために。翌日の昼、約束どおりその店に着いた。瑛士はすでに来ていた。以前デパートで私が買ってあげた、あの紺色のシャツを着て、目の下には深いクマがあり、ろくに眠っていないことがうかがえた。私が入ってくるのを見ると、彼は立ち上がり、椅子を引いてくれた。この仕草を、彼は4年間続けてきた。今日が、最後になる。「亜依里……」彼は座り直し、掠れた声で言った。「今さら何を言っても無駄だってわかってる。でも、お前を傷つけるつもりなんて、一度もなかった」「傷つけるつもりはなかった」私は彼をまっすぐに見つめ返した。「でも、実際に傷つけた。それがどういうことかわかる?わざとじゃないなら、それだけ私のことを大切に思っていなかったってことでしょ」「気にかけてないわけじゃ……」「私を大事に思っていたなら、珠希に心を動かされたりしない。私を大事に思っていたなら、私が深夜2時まで残業して返事を待っている間、彼女と同じベッドにいたりしない。私を大事に思っていたなら、私のパジャマを彼女に着せたりしないわ」彼は口を開きかけ、また閉じた。「謝罪は聞きたくない。私が欲しいのはひとつだけ」「何?」「私のお金。それから、私のものを返してほしいの」彼はスマホを取り出し、私に画面を見せた。「1200万円ならすぐ振り込める。元金より120万円多いのは、せめてもの償いのつもりだ」私
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第9話

瑛士は最終的にその合意書に署名した。けれど、即日というわけにはいかなかった。その日の午後、彼は弁護士を呼んで条項を確認させた。弁護士は、訴訟になれば不利な立場に置かれるおそれがあり、会社のバリュエーションにも深刻な影響が出かねないと告げたという。3日間悩んだ末、彼は私の案に同意した。2160万円を4回に分けて支払う。アルゴリズムのライセンス料は別途計算。最初の入金があった日、口座の残高を見つめながら、私は複雑な気持ちだった。このお金は、私の4年間の青春と、6年かけた貯金と、数えきれない深夜に書いたコードの対価だった。これは補償なんかじゃない。当然もらうべきものだった。珠希に対しては、お金の要求は一切しなかった。でも、彼女はお金では償えないほど大きな代償を払うことになった。私はこの件を、親戚中に包み隠さず打ち明けた。伯父や叔父、叔母……誰もが、珠希が何をしたかを知った。以前、珠希のことを話す時、みんな口を揃えて「珠希ちゃんは愛嬌がある」「人に好かれる子」と言っていた。今は、彼女の名前が出ると、首を振ってため息をつくだけで誰も何も言わなくなった。両親も、彼女と縁を切ったわけではないけれど、態度には微妙な変化があった。以前は珠希が何かをねだれば、両親は真っ先に与えていた。今、父は彼女がお金を無心しようとすると「お前、仕事してるんじゃないのか」と突き放すようになった。母は彼女が甘えてくると顔をそむける。その目には一瞬の憐れみがよぎるけれど、もう昔のような、手放しの溺愛には戻らなかった。珠希はそれに耐えられなかった。電話をかけてきた珠希は、泣きながら言った。「お姉ちゃん、なんで親戚みんなに言ったの?私、これからどうすればいいの?」「昔から言ってたでしょ。『人に羨ましがられる人生こそ価値がある』って」私は淡々と返した。「今はちゃんと、みんなから『羨ましがられて』るじゃない」「どうしてそんなに冷たいの?」「珠希。私の受験票を破いたとき、私が冷たいって言った?私の恋人を奪ったとき、自分がひどいことしてるって思った?」彼女は泣きながら電話を切った。これから先も彼女は何度も泣くだろう。でも、その涙に同情する人は、もう誰もいない。なぜなら、みんなが気づいてしまったからだ。涙は珠希の
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第10話

引っ越しの日、私はたくさんの思い出の品を整理した。瑛士がくれた贈り物、珠希が昔書いてくれた手紙、それから、これまで一緒に撮った写真の数々。贈り物は寄付し、手紙は燃やし、写真は細かく切ってゴミ袋に放り込んだ。最後に残ったのは、ひとつの箱だけ。中には古いデジタル腕時計が入っていた。ベルトの片方が切れて、セロハンテープでぐるぐる巻きにして留めてある。それは、両親が初めて私たち姉妹に買ってくれた、お揃いの腕時計だった。ひとつは私に、ひとつは珠希に。珠希は自分の時計をなくしてしまい、ずっと泣いていた。私は自分の時計を彼女にあげようとしたのに、彼女は「お姉ちゃんが使ってたやつなんていらない」と言った。そのあと泣き疲れて眠ってしまった彼女の枕元に、私はその時計をそっと置いた。翌朝起きると、彼女はそれを手首に巻いて、嬉しそうに笑っていた。あれが、彼女が私に向けた最後の心からの笑顔だった。それ以来、彼女が私に心から笑いかけたことは一度もない。その後、壊れて私の手元に戻ってきた時計を、私はずっとしまっていた。私はその時計を封筒に入れ、珠希の住所を書いて送った。手紙は添えず、ただ時計だけを入れた。伝えたかったのは、以前の私は何もかもあなたにあげられたけれど、今はもう無理だということ。あなたを愛していないからじゃない。あなたには、もうその資格がないから。……1年後。瑛士の会社は、中核アルゴリズムをめぐる著作権トラブルの噂が広まり、投資家が資金を引き上げ、顧客も大量に離れていった。アルゴリズムのライセンス料は支払われていたものの、悪い噂はすでに業界中に広まっていた。会社の評判は地に落ちた。私は彼を訴えなかった。業界の人たちに、このアルゴリズムを書いたのは「神森瑛士の元カノ」だと知らせるだけで十分だった。噂は時として、裁判以上に人の信用を傷つける。裁判で金銭的な決着がついたとしても、一度失った信用は簡単には取り戻せない。その後彼はお見合いをしたらしいが、お見合い相手が彼のことを調べ、「彼女の妹に手を出した男」だと知ると、二度と会ってくれなかったという。結婚もせず、恋人もできなかった。会社はかろうじて持ちこたえているものの、企業価値は20億円から4億円まで落ち込んだ。珠希は地元にいられなくなり、別の町でやり直
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