専門書や古典を紐解くと、鬼籍という語はまず「死者の名簿」や「亡者を記す帳簿」という普通言語の意味で使われてきたことがわかります。古代中国や日本の文献では「鬼籍に入る(亡くなる)」という慣用表現があり、ここでの「鬼」は必ずしも悪霊や妖怪を指すわけではなく、あくまで「亡くなった者」「あの世に属する者」という広い意味を内包しています。私が仏教学の論考を読むと、学者たちはまずこの語の出自が仏典由来の専門用語というよりは、民間信仰や漢語文化圏の語感を取り込んだ表現であると説明しています。
学術的な解釈では、仏教の教義そのものが『鬼籍』という語を明確に定義しているわけではない、という点が強調されます。仏教が伝来する過程で、翻訳者や説教師が仏教の
輪廻観や死後の世界観を聞き手にわかりやすく伝えるために、当時の一般語や俗信を取り込んだ結果として『鬼籍』という表現が用いられるようになった、という見方が一般的です。つまり、多くの仏教学者は『鬼籍』を文字通りの教理用語ではなく、民衆的な死生観を表す言葉として捉えています。仏教の専門用語でいえば、死後の行き先は「六道」や「餓鬼道」「地獄」などの概念で説明されることが多く、これらの用語のほうが教義上は明確です。
さらに興味深いのは、学者が指摘する「鬼籍は行政的なメタファーである」という見方です。中国や日本の宗教的想像力では、天界や冥界に帳簿や戸籍のようなものが存在し、そこに生死や報いが記録されるというイメージが強く、仏教の因果応報観と重なって受け入れられました。したがって『鬼籍に記される』という言い方は、カルマとその帰結がある意味で“記録される”という観念を民衆的に表現したものだと考えられます。私はこの説明が好きで、宗教的言説がどのように生活言語と結びつくかを端的に示していると思います。
実践面では、葬儀や追善供養の文脈で『鬼籍』が頻繁に使われることが、仏教学者の議論を補強します。死者が『鬼籍』に入ることを前提に、供養や回向によって善果を回し、よりよい再生を願うという実際的な信仰行為が生まれている点に注目する研究が多いです。総じて言えば、学者たちは『鬼籍』を仏教の教理そのものから独立した、むしろ民間信仰や言語文化と交差する象徴的表現として理解しており、その解釈を通じて死や霊界に関する当時の人々の感覚を読み取ろうとしています。個人的には、この言葉が教理と言語感覚をつなぐ橋渡しをしているところに、人々の死生観の温度が見える気がします。