秀次が関白になった背景を考える時、当時の政治情勢を無視できない。1591年という年は、秀吉が九州
征伐を終え、小田原征伐も済ませ、天下統一が目前に迫っていた時期だ。そんな中で、政権の継承問題は緊急の課題として浮上していた。
秀吉には茶々(淀殿)との間に鶴松が生まれたが、この子が夭折したことで状況が一変する。急遽必要となった後継者として、姉の子である秀次が白羽の矢を立てられた。血縁的に近い存在で、既に一部の政務を任せていた実績も評価されたのだろう。
関白職は朝廷とのパイプ役としての意味もあった。秀吉は自らが築いた朝廷との関係を、秀次を通じて維持強化しようとしたのかもしれない。ただ、この人事が後に悲劇を生むことになるとは、誰も予想しなかったに違いない。