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あなたに二心があると聞いたから、別れに来た

あなたに二心があると聞いたから、別れに来た

By:  空からの雪Completed
Language: Japanese
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私は、西園寺玉(さんおんじ たま)の婚約者として五年を共に過ごした。 それでも、私のための結婚式は訪れなかった。 やがて彼は、私の異母妹に一目惚れし、堂々と彼女へのアプローチを始めた。 でも今回私は、泣くこともなく、文句も言わず、昔のように彼の気が変わるのをじっと待つこともしなかった。 私はただ、指にはめていた指輪を外して投げ捨て、ウェンディングドレスを細かく切り裂いた。 そして玉の誕生日、一人でこの悲しみに満ちたところをあとにした。 みんなの望み通りに、彼を手放した。 なのに、どうしてまだ私を追いかけてくるの……

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Chapter 1

第1話

氷室彩葉(ひむろ いろは)は力なくベッドに横たわり、冷たい器具が、鈍く痛む下腹部を滑っていく感触に耐えていた。

「赤ちゃんは……大丈夫ですか……?」震える声で尋ねると、医師は憐れむように溜息をついた。

「切迫流産です。残念ながら……お子さんの心音は、もう聞こえません」

その瞬間、彩葉はシーツを強く握りしめた。心臓が氷の手で鷲掴みにされたように、軋む。

「仮に心音が確認できたとしても、出産は推奨できませんでした。火災で大量の有毒煙を吸い込まれている。胎児への影響は計り知れません」

二時間前──氷室グループ傘下の新エネルギー研究室で火災が発生し、彩葉は開発中の最新チップを守るため、躊躇なく炎の中に飛び込んだ。

チップは守れたものの、彼女自身は濃い煙に巻かれて意識を失ったのだ。

救急室に運ばれた時、体は擦り傷だらけで、下半身からは血が流れ、目を覆いたくなるほどの惨状だったという。

家庭と仕事に昼夜を問わず奔走し、心身ともに疲れ果てていた彼女は、この時になって初めて、自分のお腹に新しい命が宿っていたこと──妊娠二ヶ月だったことを知った。

「あなたはまだ若い。きっとまた授かりますよ」

医師はそう慰めながら、「今は安静が第一です。ご主人に連絡して、付き添ってもらってください」と告げた。

身を起こすことすら億劫な体で、彩葉は夫である氷室蒼真(ひむろ そうま)に電話をかけるのを躊躇った。

二日前、彼は息子の氷室瞳真(ひむろ とうま)を連れてM国へ出張したばかりだ。

「プロジェクトの商談だ」と彼は言っていた。仕事中の彼が、邪魔をされることを何よりも嫌うことを、彩葉は知っていた。ここ二日間、彼からの連絡は一切ない。それほど忙しいのだろうか。

その時、携帯の短い振動が静寂を破った。

画面に表示されたのは、異母妹である林雫(はやし しずく)の名前。

震える指でメッセージを開いた彩葉は、息を呑んだ。

そこに添付されていたのは、一枚の写真。雫が息子の瞳真を抱きしめ、二人で笑顔のハートマークを作っている。そしてその隣には、眉目秀麗な夫・蒼真が静かに座っていた。

結婚写真すら「くだらない」と撮ろうとしなかった彼が、その写真の中では、薄い唇の端をわずかに上げ、滅多に見せない穏やかな笑みを浮かべていた。

その姿は、まるで幸せな三人家族そのものだった。

【お姉ちゃん、今ね、蒼真さんと瞳真くんとミュージカルを観てるの。「ナイチンゲールの歌」って、お姉ちゃんが一番好きな作品よね?お姉ちゃんの代わりに、私が先に観ちゃった!】

チケットは常に完売で、手に入れることすら困難な人気の演目。

いつか一緒に観に行きたい、と何度も蒼真に伝えたが、いつも冷たく突き放されるだけだった。

「今忙しいんだ。それに瞳真もまだ小さい。また今度だ」

……忙しいんじゃなかった。ただ、自分と行きたくなかっただけなんだ。

元々張り裂けそうだった胸に、鋭い杭を打ち込まれたような激痛が走る。

それでも諦めきれず、病室に戻った彩葉は腹部の痛みに耐えながら、蒼真に電話をかけた。

数回のコールの後、低く、それでいて芯のある冷ややかな声が鼓膜を揺らす。

「……どうした」

「蒼真……ごめんなさい、体調が悪くて、病院にいるの。少しだけ、早く帰ってきてもらえないかな……?」彼女の顔は蒼白で、声には力がなかった。

「こっちはまだ商談中だ。戻るのは二日後になる。家のことは山根に任せろ」蒼真の態度は、どこか冷めていた。

彩葉はスマホとを握りしめる。「……ねえ。もしかして、雫と一緒にいるの?」

その問いに、蒼真の声は露骨な苛立ちを滲ませた。「彩葉、そんな詮索に何の意味がある?もう五年だぞ。雫は妹のようなものだと何度も言ったはずだ。仮に一緒にいたとして、それがどうした。

最近のお前は、仮病まで使って同情を引こうとするようになったのか?」

「パパ、声大きいよ!僕と雫の邪魔しないでよ!」

電話の向こうから、瞳真の高い声が響いた。「もうママなんてほっときなよ!本当にうざいんだから!」

彩葉が何かを言う前に、通話は一方的に切られた。

ほんの少しの時間すら、彩葉のために割いてはくれない。

がらんとした病室で、彼女は布団を固く握りしめ、体の芯から冷えていくのを感じていた。

三日後、彩葉は無理を言って退院した。

研究開発部の仕事が、まだ山のように残っていたからだ。

特に今回の新製品発表会は、蒼真も期待を寄せている。そして自分にとっても、この二年間心血を注いできたプロジェクトを、成功させたかった。

夕方、疲れ切った体を引きずってブリリアージュ潮見の自宅に戻ると、リビングから楽しげな笑い声が聞こえてきた。

息子の瞳真と、雫の声だ。

胸がどきり、と嫌な音を立てる。彩葉はとっさに身を隠し、鉢植えの影からリビングの様子を窺った。

ソファには、氷室父子の間に座る雫の姿があった。テーブルの上には、バースデーケーキ。そして彼女の首には、赤いルビーのネックレスが輝いていた。それは某高級ブランドの世界限定品だ。

先月、ショーウィンドウで見かけて心惹かれたものの、目を見張るような値段に諦めた、あのネックレス。

それが今、雫の胸元を飾っている。

「蒼真さん、素敵なプレゼントをありがとう。すごく嬉しいわ」雫はペンダントに優しく触れ、潤んだ瞳で男の端整で凛々しい顔を見つめる。「でも、こんな高価なもの……これからは無理しないで。気持ちだけで十分嬉しいから」

蒼真は淡然とした表情で言った。「金などどうでもいい。お前が喜んでくれるなら、それが一番だ」

「ねえねえ雫、お目々閉じて!」瞳真がはしゃいだ声で言った。

雫が素直に瞳を閉じると、瞳真は小さな手で、色とりどりのクリスタルが繋がれたブレスレットを彼女の腕に通した。

「もう開けていいよ!」

「わぁ、綺麗!」雫は驚きの表情を見せた。

瞳真はへへっと笑い、頭を掻く。「これね、僕が一つひとつ選んで、糸に通したんだ。雫への誕生日プレゼント!」

「ありがとう、瞳真くん。一生大切にするわ」雫が身をかがめて瞳真の額にキスをしようとした、その時。

瞳真は自ら顔を上げ、ちゅっ、と音を立てて雫の頬にキスをした。

瞳真は父親に似て、どこか冷めた子供だった。実の母親である彩葉にさえ、ほとんど懐こうとしなかったのに。

自分が喉から手が出るほど欲しかったものを、雫はこんなにもたやすく手に入れてしまう。

嫉妬と絶望で、胸の奥がキリキリと痛んだ。

瞳真はキラキラした目で雫を見つめ、真剣な顔で言う。「雫は体が弱いから、これからは僕とパパが守ってあげる。だから安心してね」

「ふふっ……ありがとう。頼りにしてるわね」雫は恥じらうように頬を染め、ちらりと隣の男に視線を送る。

蒼真は切れ長の瞳を細め、自らケーキを一切れ切り、雫の手に渡す。

血の気が、すうっと引いていく。立っていられなくなりそうだった。

全身全霊で愛した夫は、他の女の誕生日を祝い、命がけで産んだ息子は、母親からすべてを奪った女を守ると誓う。

彩葉は、赤く染まった目で静かに笑った。そして踵を返すと、五年もの間自分を縛り付けた結婚という名の牢獄から、毅然と歩み出した。

自宅の外は、冷たい雨が降っていた。

全身ずぶ濡れになりながら、彩葉は道端に立ち、久しぶりにかける番号を呼び出す。電話の向こうから、懐かしい声が聞こえた。

「お嬢!お久しぶり!元気か?」

「えぇ、元気よ」彼女は微笑んだ。その美しい瞳には、かつてないほど冷徹な光が宿っていた。

「離婚することにしたの。だからお願い、離婚協議書を用意してちょうだい。なるべく、早くね」
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第1話
私は、西園寺玉(さんおんじ たま)の婚約者として五年を共に過ごした。それでも、私のための結婚式は訪れなかった。やがて彼は、私の異母妹に一目惚れし、堂々と彼女へのアプローチを始めた。でも今の私は、泣くこともなく、文句も言わず、昔のように彼の気が変わるのをじっと待つこともしなかった。……「裕之……前に言ってくれたプロポーズ、まだ有効?」鏡の前に立ち、自分のやつれた顔を見つめながら、私は静かに口を開いた。思っていたほど、人生の大きな決断は難しくなかった。「明空(みよく)……本当に、結婚してくれるのか?」電話の向こうから聞こえた北条裕之(ほうじょう ひろゆき)の声は、落ち着いていて低く、それでいてかすかに喜びがにじんでいた。胸の奥がふと苦しくなり、私はそっとうなずいた。「うん、結婚しよう。できるだけ早くね」「明空……すごくうれしいよ。大学の頃から、ずっとこの日を夢見てた」いつの間にか、鏡の中の私は、かすかな笑みを浮かべていた。「裕之、半月だけ待って。こっちのこと全部片づけたら、すぐにそっちへ行くから」「わかった。待ってるよ」電話を切ったちょうどその時、部屋のドアが勢いよく開かれた。「明空……」父・金泉学(かないずみ まなぶ)は気まずそうに咳払いを一つした。「桜宮ちゃんの体調があまりよくないんだ。お前の部屋は日当たりもいいし……部屋を代わってやれないか?」私は黙ったまま、父の背後に立つ継母・金泉律子(かないずみ りつこ)とその娘・姫内桜宮(ひめうち さくらみや)を見つめた。すぐに継母が口を開いた。「あなた、こんなことで明空に迷惑かけないで……」桜宮も遠慮がちに続けた。「ううん、パパ、私は平気だよ。お姉ちゃんが嫌な思いするなんて、見たくないから……」「遠慮するな。桜宮ちゃんも俺の娘だ」そう言いながら、父は私にまっすぐ視線を向けた。「明空、姉なんだから、少しは譲ってやれ」私は、黙ってそのまま父を見つめていた。きっと怒りが込み上げてくると思っていた。父が、血の繋がらない桜宮を私より大切にするなんて。けれど、不思議と何の感情も湧いてこなかった。それどころか、私は微笑みながら頷いた。「いいよ。譲ってあげる」あと半月で、この家から出ていく。もう、どの
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第2話
私はもう、玉に心を揺さぶられることなんてないと思っていた。彼に二度と傷つけられることもないと、信じていた。けれど、私は所詮、ただの人間だった。感情を持たない機械ではなかったのだ。幼い頃から一緒に育った幼なじみ。五年も恋人として過ごした相手。そんな彼が、たった数ヶ月で別の誰かを「本命」にして、私をまるで化け物みたいに扱うようになるなんて。かつては、彼にとって何よりも大事な私だったのに。それでも、涙は見せたくなかった。だから無理に笑顔を作って口を開いたけれど、喉がつまって、声がかすれていた。「玉、私たちは長く一緒にいたでしょう?私がどんな人間か、わかってるはずよ」玉は眉をわずかにひそめ、私の顔を見つめていた。何かを思い出したのか、ほんの少しだけ表情が和らいだ。そのとき。「玉くん……お姉ちゃんとケンカしないで」桜宮が口を開いた。「部屋を譲ってもらったのは私が悪かったの。お姉ちゃんが怒るのも当然だよね……」彼女の声は次第に小さくなり、まるで誰かに責められているかのような調子だった。その瞬間、玉の目から最後の信頼の色が消えた。瞳は冷たく、光を失っていた。「姉なんだから、妹に譲るのは当然だ。たかが部屋一つのことで、どうしてそんなに執着するんだ?以前のお前は純粋で優しかったのに、今はなんでこんなに狭くて嫉妬深くなったか」心が真っ二つに裂かれるようだった。ひとつはまだ痛み、彼への想いを叫んでいた。あれほど愛した人を、そう簡単には忘れられないと。でも、もうひとつの心は静かに言っていた。もう終わりにしよう、と。この家を出て、玉から離れて、お互いの人生から消え去るべきだと。玉は桜宮を抱き寄せ、彼女の怪我を気遣いながら部屋を出て行った。まるで私など、最初から存在していなかったかのように。私はぼんやりとした足取りで部屋に戻り、荷物をまとめはじめた。ここを出るなら、すべてを置いていこう。下からは、桜宮の笑い声が聞こえてきた。継母の声、父の声、玉の声。みんな、惜しげもなく桜宮に優しさを注いでいた。私は、完全に部外者だった。荷物は多くなかった。着替えと、母が遺してくれた紫檀の箱だけ。その中には、母との大切な思い出が詰まっている。スーツケースを引いて、家を出
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第3話
胸が締めつけられるような痛みが走った。また、私は指を差されるのだろう。そんな場面は、もう何度も経験してきた。桜宮は喜びの涙を浮かべながら、まるで宝物のようにネックレスを抱きしめた。「よかった……パパがくれたプレゼント、なくしてなかった……パパ、お姉ちゃんを責めないで。きっと、ちょっと考えが足りなかっただけなの。そんなつもりじゃなかったのよ……」父は鼻を鳴らし、私を見下すように言った。「考えが足りなかったからって、人の物を盗んでいいのか?俺はそんなふうにお前を育てた覚えはないぞ。どうしてこんなふうになったんだ……母さんの形見の中に盗んだ物を隠すなんて、彼女が天国から見ていたら、どれほど失望するか……」「私、盗んでない。母さんはきっと、私の味方をしてくれる。彼女は真実を知って、私がどれだけ我慢してきたか、ちゃんとわかってるから。父さんに、母さんのことを語る資格はない」母が亡くなる直前に、父は約束してくれた。これからは私を大切にしてくれると。お姫様のように、何よりも大事にしてくれると。でも今、その約束は簡単に裏切られた。実の娘である私を、まるでいらない物のように扱っている。そして、父は紫檀の箱を手に取り、床に力任せに叩きつけた。母が遺した大切な形見は、音を立てて目の前で砕けた。私は呆然とその破片を見つめた。目の前が真っ暗で、光はどこにもなかった。彼らに愛されないことは、もう慣れていた。どれだけつらくても、自分を納得させることはできた。でも、なぜ……どうして、私の最後の支えまで壊すの?震える手で、砕けた箱を拾い集めた。顔を上げると、桜宮が勝ち誇ったような目でこちらを見ていた。「パパも、お姉ちゃんのためを思って言ってるのよ。でも、盗みは絶対にダメ。これは、人としての基本の問題よ。パパ、やっぱりお姉ちゃんを外に出さない方がいいと思う。また何か起こしたら……恥をかくとかじゃなくて、お姉ちゃん自身の将来が壊れてしまうかもしれないから」「その通りだ」父は私の腕を強く引き寄せた。「さあ、上に行け。自分の部屋でしっかり反省しろ」私は玉を見た。私たちは何年も一緒にいた。彼なら、私がそんなことをする人間じゃないって知っているはずだ。でも彼は、ただ冷たい目で私を見てい
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第4話
目が覚めたとき、もうすっかり夜になっていた。頭が割れそうに痛み、一日中何も食べておらず、手足は冷たくてだるかった。力もまったくなかった。死にたくはなかった。まだこんなに若いのに。私はなんとかドアまで這っていき、力を振り絞って叩いた。どれだけ経っただろう、ようやくドアが開いた。開けたのは玉だった。「今、間違いに気づいたか?桜宮ちゃんを好きになったのは俺だ。彼女には関係ない。何か不満があるなら、俺にぶつけろ。無関係な彼女を傷つけるな」無関係だと?桜宮は何度も私を傷つけてきた。私はずっと耐えてきた。それでどうしろというのか。「玉、頭が痛いし、お腹が空いてるんだ」争いたくなかった。ただ食べて力をつけて、ここから出たかった。玉は振り返りもせず、ドアも閉めずに去っていった。私はよろよろと台所まで行き、冷蔵庫を開けた。冷たい食べ物を口に入れたら、空腹は少し和らいだが、気分は良くなかった。食事を終えると、解熱剤を一錠見つけて飲み、部屋に戻った。ぼんやりとしていると、誰かに引っ張られる感覚があった。耳元で怒鳴る声が聞こえた。「明空、よくもそんなひどいことができたな。桜宮ちゃんがいつも使ってるコップに薬を入れるなんて、殺そうとしているのか?」目を開けると、父が怒りに満ちた目で私をにらんでいた。無遠慮に私の服を掴み上げて、怒鳴った。「お前はどんどん酷くなってる。どうして桜宮ちゃんに薬を盛ったんだ。それは除草剤だ、死に至るものだと分かってるのか」「違う」私はただ食べに出ただけで、そんなことをする力もなかった。継母は桜宮を抱きしめて泣きじゃくった。「桜宮ちゃん、本当に辛かったね。何も悪くないのに、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの?もうここにはいられない。明空が人を殺すかもしれない。私が継母として、彼女に厳しくしたことはない。むしろ桜宮ちゃんのために我慢してきたのに、この恩知らずが」継母は荷物をまとめようと立ち上がった。「桜宮ちゃん、行くわよ」泣き顔の桜宮が言った。「お姉ちゃん、私、どうしてこんなに嫌われるの?パパ、私たち、もう行くね。一人で体に気をつけてね。薬は忘れずに。血糖値が高いから、甘いものは控えてね。これから私がいなくなっても、家政婦さんに
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第5話
そんなにいろいろあった後で、もう心の痛みは少しは和らいだと思っていた。何度も涙を流して、もう枯れてしまいそうだった。それなのに、父が私を家から追い出そうとしていると聞いて、また胸が張り裂けそうになった。まるで大きな手で心臓をぎゅっと掴まれ、息もできないような苦しさだった。何度も体験したげど、やっぱり心がまだ痛むのだ。私はなんとか体を起こし、できるだけ落ち着いた表情で彼らを見つめた。継母と桜宮は抱き合っていて、私を見つめる目は得意げで隠そうともしていなかった。彼女たちは勝った。今は勝利の味を噛みしめているのだろう。私は父をじっと見て言った。「父さん、母さんにずっと私を愛して大切にするって約束したよね?本当に私を追い出すつもり?」父は呆れたような目で言った。「お前が悪いんだ。親として叱るのも当然だ。お母さんが生きていても、同じことをするだろう」「わかった」私はもう完全に諦めた。体調が悪いのを押して、荷物を引きずった。頭は割れそうに痛くても、顔には出さなかった。前は自分から出て行きたかった。今は追い出される。もうこの家には戻りたくない。傷ついた心も、壊れた鏡も、二度と元には戻らない。家を出た。外は真夜中の闇だった。真っ暗な夜は、私の未来のようで、どこにも光が見えなかった。数歩歩いたところで、体が持たずに倒れてしまった。大きな影が私を覆った。顔を上げると、玉だった。彼は私を嫌悪の目で見ていた。まるで汚れたものを見るかのように、愛情のかけらもなかった。かつての愛しい時間は、すべて偽物だったように思えた。「明空、今や人の命を奪うことまでできるのか。警告しておく。桜宮ちゃんは無実だ。これが最後だ。次があれば容赦しない」私は力なく笑った。「次はあったら何をするつもり?殺すの?」玉は驚いたように黙った。私がそんなことを言うとは、思わなかったのだろう。「そんなことはしない。でも苦しみは味わわせる。俺のやり方を知ってるだろう」知っている。もちろん知っている。長年ここで地位を築き、商業界の新星になれたのは、出身だけでなく自分の手段があったからだ。だからこそ、私は彼を崇拝し、愛した。強くて私を守ってくれる男だと思っていた。彼の翼の下で守ら
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第6話
近くのホテルで部屋を借りて、そのまま倒れ込むように寝た。次に目を覚ましたのは、丸一日以上経ったあとだった。こんなに長く眠るとは思わなかったが、体は少し回復していて、昨日ほどふらふらしていなかった。ホテルの下はにぎやかな市場で、明かりが煌々と灯っていた。でもその光景は、もう自分には関係なかった。適当に飲食店を選んで食事を済ませた。周りには手をつないだカップルがたくさんいて、熱い愛情を交わしていた。かつて私と玉も、あんなふうだったのに……気づけば、もう一週間が過ぎていた。誰からも連絡はなく、スマホは静かなままだった。あのときの苦しみは和らぎ、もう涙も心の痛みもなくなっていた。気分を変えようと、服を新しく着替えて化粧もした。疲れた顔を隠して、ショッピングモールへ向かった。過去にさよならを告げるなら、今から始めるしかないと思った。まずは玉からもらったものを全部外して、自分のものに変えよう。カウンターで新しい指輪を選び、彼からもらったペアリングを外した。そのとき、強く手を引っ張られた。振り返ると、玉が冷たい顔で私を見ていた。「明空、何をしてる?」私はゆっくり手を引き抜きながら答えた。「買い物よ。何か用?」彼はゴミ箱を指さした。「上から全部見てたぞ。お前が俺の指輪を捨てたのをな。今すぐ取り出せ。なかったことにしてやる。さもないと後悔するぞ」彼にとっては、その気持ちを踏みにじられたと思っているのだろう。でも、彼はこのようなことをどれだけしてきた?私は笑った。「西園寺さん、勘違いしないで。あんたは今、妹の彼氏よ。私が何をしようと関係ない。それに指輪を外したのは、あんたときっぱり縁を切るため。望んでたことでしょ?」桜宮が駆け寄ってきて、私を睨んだ。「お姉ちゃん、玉くんに不満があるのはわかるけど、これは彼が昔くれたプレゼントよ。どうしてそんなことができるの?」彼女はゴミ箱を探ろうとした。玉が彼女を制した。「明空、今すぐ取り戻せ」彼は命令口調で話す癖があった。昔の私は従っていた。愛していたから。でも今は違う。もうその愛は汚れて砕け散った。「取り戻さない」私は強く手を振りほどき、新しい指輪をはめた。「自分で買ったものをつける。誰にも愛されな
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第7話
玉が惜しげもなくお金を使うのを見て、店員は私のことなど気にも留めていなかった。私が気に入っていたワンピースは、あっさりと包まれて桜宮の手に渡った。桜宮はそれを撫でながら私を見て言った。「お姉ちゃんも好きなら、あげるよ」彼女が差し出したが、私は動かなかった。玉は顔を曇らせて言った。「明空、桜宮ちゃんは優しいんだ。譲るって言ってるんだ、早く受け取れよ」まるで物乞いに施しをするような態度だった。そんな屈辱は絶対に受け入れられない。「いらない。好きでも、汚れてしまったものは受け取れない」桜宮はようやく反撃のチャンスを得て、目に涙をためて玉に寄りかかった。「玉くん、姉ちゃんは何言ってるの?私が汚いって?でも私は何も悪くない。きれいなんだよ」「桜宮ちゃん、あいつの言うことは気にしないで。桜宮ちゃんが一番きれいなんだ。本当に汚れてるのはあいつのほうだ」二人のいちゃつきを見ていたくなかったし、こんなところで辱められるのも嫌だった。私は振り返らずに歩き出した。玉がすっと立ちはだかり、大声で言った。「謝れ。すぐに桜宮ちゃんに謝れ」声が大きく、周りの視線が一気に集まった。注目されるのが嫌で、背中がぞわっとした。「どきなさい」「謝らなきゃ、帰らせない」私はスマホを取り出しながら言った。「じゃあ警察を呼ぶわ。警察がどう判断するか見せてあげる。どっちが悪いかはっきりさせましょう」私が先に見ていた服を全部買い占めておいて、さらに辱めるなんて耐えられない。怒るのは当然だ。まるで操り人形みたいに好きに扱われなければならないの?「お姉ちゃん、どうして警察呼ぶの?こんな小さなことで無駄に警察の時間を使うなんて。警察はもっと大きな事件をやるべきよ。あなたの通報で助けが必要な人が救われなかったら、間接的に人を殺したことになるのよ」なんて重い言葉だろう。玉みたいな頭のいい男がそんな嘘を信じるはずがない。でも彼は何も言わず、じっと私を見つめてこう言った。「明空、本当にがっかりだ」私は振り返らずに去った。今回は追いかけてこなかった。気分転換に好きなものを買おうと思ったのに、またあの二人に会ってしまった。運が悪すぎたのかもしれない。ずっと行きたかったけど、行けなかったレスト
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第8話
カップルが席に着くと、私に目を向けてきた。二人は隣に座り、しっかりと手を握り合っていた。私はレストランを飛び出し、目の前に止まったタクシーのドアを開けて叫んだ。「運転手さん、お願いします」どこでもいい。ただあの二人にもう会いたくなかった。運転手はアクセルを踏み、車は勢いよく走り出した。「お客さん、言っておくけど、死亡以外のことは大抵乗り越えられる。人生に越えられない壁なんてない。ただ、手放す覚悟があるかどうかだよ」なぜ急にそんな話をするのか分からなかった。顔を伏せると、袖に一滴の涙が落ちて染みになっていた。そうか、私は泣いていたのだ。結局ホテルに戻り、さっきのレストランの料理をデリバリーで頼んだ。どうしても、味だけは確かめてみたかった。だが、味は想像より少し劣っていた。まるで、今まで抱いていた期待が全部笑い話のようだった。翌日、質屋に行った。持っている価値のあるものを全部質に入れた。店主は心配そうに私を見て言った。「お客さん、大丈夫ですか?」「大丈夫。過去と決別したかっただけ」店主はほっと息をついた。私が自殺を考えているのではないかと、心配していたからだ。かつて、そういう人は見てきたのだ。最後には、あの人がお金を全て寄付して川に身を投げたこともあった。それから三日が過ぎた。スマホが鳴り、玉からだった。迷ったけれど通話ボタンを押した。低くて聞き覚えのある声が響いた。「今日が何の日か覚えてるか?」「覚えてない」長い沈黙の後、玉がまた言った。「今日は俺の誕生日だ。すぐに金泉家に帰ってこい。ここで待ってる」そう言うと電話は切れた。私が行くと思うっているのだろう。彼の誕生日はもちろん覚えている。毎年、前もって準備していた。手作りのケーキを作り、花束を包み、二人の愛の巣を飾った。すべて自分の手でやり、彼に伝えたかったのだ。だが、彼は一度も金泉家で誕生日を過ごさなかった。きっとまた桜宮のためだ。桜宮の誕生日ももうすぐで、たぶん彼女は数日前倒しで玉と一緒に祝うのだろう。私の予想は間違っていなかった。スマホがまた鳴った。今回は父からだった。「明空、帰ってこい。今日は玉さんと桜宮ちゃんの誕生日だ。めでたいことだらけだな」「行
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第9話
しばらくして、私は浴室に入りシャワーを浴びた。少しでもみすぼらしく見えないように身だしなみを整え、着替えて家を出た。母のブレスレットを取り戻すため、嫌でも高価なスキンケアセットを買うしかなかった。途中でスマホが鳴った。継母の声だった。「明空、来てくれて嬉しいわ。ちょっとお願いがあるんだけど、桜宮ちゃんが好きな雪解通りのケーキ、マンゴー味を買ってきてくれる?」断る間もなく電話は切れた。嫌な予感が胸に広がった。またあの母娘の策略だろう。少し考えたが、やっぱりケーキは買わないことにした。プレゼントを持って、再び金泉家の前まで戻った。久しぶりの帰宅は、まるで別の世界に来たような気分だった。足取りは重く、普段なら一分で着く道を五分もかけてやっと玄関にたどり着いた。玄関には誕生日ケーキと花束が置かれていて、とてもきれいだった。しばらくして、扉が開いた。中からは笑い声が聞こえ、温かく幸せそうな雰囲気があふれていた。「玉くん、意地悪ね。もうそんなふうにからかわないでよ」「玉さん、桜宮ちゃんをいじめちゃだめだよ」扉を開けたのは継母だった。彼女は笑顔で地面のケーキと花束を見て、大きな声で言った。「明空、よく来てくれたわね。ケーキとお花まで用意して、本当に気が利くのね」そう言うと私を押しのけて、ケーキとお花を素早く中に持ち込んだ。心臓が激しく鼓動し始めた。これは罠に違いない。どうしようか考える前に、継母が突然叫んだ。花束を外に投げ捨て、赤いバラが私に当たり、花びらが舞い散った。すぐに継母の怒声が響いた。「桜宮ちゃんはバラにアレルギーがあるの。匂いをかぐだけで呼吸困難になるのよ。明空、今日は桜宮ちゃんの誕生日なのに、どうしてこんなものを持ち込んだの?」言い訳しようとしたが、父がやって来て失望した目で私を見た。継母がケーキを切ると、断面にブルーベリーが現れた。「明空、マンゴーケーキを買うように電話したのに、なんでブルーベリーを買ったの?桜宮ちゃんはブルーベリーもダメなの。本当に、ひどいわ」この罠は最初から仕組まれていた。あの電話は私を陥れるためのものだった。継母は、私がもう何度も損をしているから今回はケーキを買わないと思い、わざと玄関にケーキを置いておいた。
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第10話
玉はもちろん辛くなかった。私が一度も彼に心配をかけたことがなかったからだ。まるで彼の世話をする家政婦のように、何から何まで面倒を見ていた。だが、今の彼は一言も私の味方になってくれなかった。「ケーキも花も買っていない。ここに来た時にはもう玄関に置いてあった。あれはその母娘の仕掛けだ」私はまだ抵抗しようとした。母の物を取り戻したいだけだった。父は怒りをあらわにスマホを取り出し、防犯カメラの映像を再生した。だが映像は真っ暗で、三十分前からずっと映っていなかった。最後に映ったのは一瞬の手だけだった。ぼんやりと指輪が見えた。私の手の指輪とまったく同じだった。「明空、まだ言い訳があるのか?」継母が玄関に現れ、防犯カメラからシールを一枚剥がした。そこには、母と一緒に見た最後のアニメのキャラクターが描かれていた。だから、私はずっとそのアニメが好きでたまらない。もう昔のアニメで、今では覚えている人も少ないけれど、私は今でもときどきそのアニメのグッズを探して集めている。「明空だけがこんなものを持ってる。よくもそんなことをして、私たちを陥れようとしたわね」継母は涙をぬぐいながら言った。「今日はいい日だったのに、全部台無しにした」桜宮は玉の胸に寄りかかり、泣きながら言った。「ママ、お姉ちゃんのことは責めないで。お姉ちゃんを入れてあげて」その言葉で、父の怒りは一層強まった。私が謝ろうとしないので、父は激しく扉を閉めた。「出て行け。明空、もう二度と会いたくない」私は呆然と玄関に立ち、自嘲気味に笑った。説明しようとしていた自分が滑稽だった。父が私を信じていたら、すぐに調べているはずだ。桜宮と継母が仕組んだことに、何の証拠も残していないはずがない。リビングでは桜宮が涙を拭い、素直に父に近づいた。「パパ、悲しまないで。お姉ちゃんも一時の気の迷いで、これから絶対に変わるから」「はあ、彼女が桜宮ちゃんみたいに素直ならよかったのに。こんなことになるなら、呼ばなきゃよかった」継母は父の腕を組みながら言った。「あなた、もういいわよ。桜宮ちゃんも無事だし。今日も玉さんの誕生日なんだから、桜宮ちゃんが主役じゃなくて、玉さんの気分を悪くしないで」桜宮は玉の腰に手を回した。「玉くん、
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