大徳寺の茶室でふと気付いたことがある。一般僧の修行がマニュアル化されているのに対し、高僧の修行はむしろ既存の枠を壊す方向に向かう。若い頃は『坐禅儀』の通りに坐っていた老師が、年を
経るにつれ独自の呼吸法を編み出していくようなケースを幾度か目にした。
重要なのは、高僧の修行が単に厳しいだけではない点だ。むしろ、形式的な苦行から解放され、より深い気付きを得るための方法を模索しているように見える。『臨済録』に「仏を作るな、祖を作るな」とある通り、最終的には全ての形式を
超越する境地が存在するのだろう。