届かない婚姻届
向井圭介(むかい けいすけ)はある組織で副部長を務めている。彼の家には、「別れるなら死別のみ、婚約破棄はなし」という不文律がある。
私の兄が戦死する前に残した願い──それは圭介に私を娶らせてほしい、というものだった。
だからたとえ幼なじみの吉田小春(よしだ こはる)に心を寄せていても、圭介は組織に私との婚姻届を提出した。
小春が、兄が遺してくれた唯一の形見である腕時計を壊してしまうまで。
圭介はまたしても小春をかばい、私は今回、喧嘩もせず、ただ遠く海外にいる先生に連絡を取って、海外特派員になる準備を始めた。
旅立つ前に、私は自分に10日間の整理期間を与えた。
初日、私は提出されるはずだった婚姻届をこっそり隠した。
三日目、組織に退職願を提出した。
旅立つ日、圭介はようやくあの腕時計のことを思い出し、「次の休みに新しいのを買いに行こう」と自ら言ってくれた。
その直後、彼は続けた。「小春が今夜、友達を連けて家で食事するから、ちゃんと料理用意しといてね」
私は笑って応えておいた──そして二度と彼の世界に現れることはなかった。
その後、メディアで私の情報を見るたび、圭介は引き出しにしまった婚姻届を眺めてはぼんやりと佇むのだった。
そこにしまわれているのは、あの未熟な秋の日々、二度と戻らぬ恋人、そして彼が渡せなかった腕時計……