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第27話:不協の残響

last update Last Updated: 2025-06-03 20:41:29
朝靄がゆるやかに晴れゆく頃、医療棟の廊下を誰かの足音が打った。

窓辺に流れる風はまだ冷たく、季節がようやく変わりつつあることを告げていた。

室内では、リリウスがベッドの上に身を起こし、膝の上で手を組んでいた。

熱は収まっていたが、その名残のように皮膚がじんわりと敏感なままだ。

ただ、それ以上に――胸の奥に残る温もりの感覚が消えなかった。

(……まだ、残ってる)

あのとき、うなじに触れた指先。

そこに走った感覚は、拒絶ではなかった。不快でも、恐怖でもない。

むしろ、安堵に似たやわらかな揺れ。

今まで誰にも向けたことのない感覚だった。

「おはようございます」

静かに入ってきたのはディランだった。

副官としての立場より、少しだけ友人に近い空気を纏っている。

「朝の診察、来てますよ。医者は外で待機中です。総帥からは“あまり話を広げるな”とのお達しですけど……」

「ありがとう。気遣わせて、ごめんなさい」

「君こそ……大丈夫ですか」

言いながら、ディランは視線を外した。

心配はしている。それはリリウスにも伝わった。だが、それ以上を詮索しない優しさが、今はありがたかった。

「ディラン殿。……質問、してもいいですか」

「なんでしょう?」

リリウスは一瞬だけ視線を伏せ、それから顔を上げた。

「“疑似契り”って、知っていますか?」

ディランの表情が、わずかに固まる。

「どこで……それを」

「昨日、カイル様と話していて。……ふと、思ったんです。僕とレオンの間に起きたことって、本当に“番の契り”だったのかって」

その言葉に、ディランはしばらく口をつぐみ、それから小さくため息をついた。

「存在はします。正式には“代替術式”って呼ばれてる。……相性の悪い番同士、あるいは番でない者同士を、強制的に繋ぐためのもの」

「強制的に……」

「ええ。見た目は同じ文様が出るし、魔術的な束縛もある。けど、本物の“番”じゃない。主従に近い一方通行の支配関係にすぎないんです」

言い終えたディランの声は、どこか怒りと憐れみが入り混じっていた。

「君、もしかして……それを」

リリウスは首を振った。

いや、振るしかなかった。

「……わからない。ただ……あの夜、薬を飲まされて、気づいたら腕に印があって。それきりレオンから何もなかった。……ずっと、変だと思ってたんです」

沈黙が落ちた。

ディランはゆっくりと深呼吸して、慎重
めがねあざらし

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  • 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される   第52話:亡命か帰還か

    王都全体がざわついていた。だがそれは、好奇の混じる野次や侮蔑ではなかった。「……本当に、お戻りになったんだ」「リリウス様にあのような仕打ちを……神に仇なす行いだ」「アルヴァレス王国に、神罰が降りますように……」集まった民衆の声には、怒りと敬意が入り混じっていた。それを聞いたカイルは、思わず足を止める。(……これが、クラウディアの“神子”か)リリウスはただの王子ではなかった。その存在自体が、“信仰”として根付いている。王家に生まれた“Ω”はこの国に取って奇跡、なのだ。感情でもなく、政治でもない。その身ひとつが、王権にも勝る“正統”なのだと──カイルは、初めて肌で感じた。(この国は……この王子を、決して手放さない)※神王アウレリウスとの謁見。王宮の大広間には、王族と高官、神殿関係者たちが並び立ち、異例の晩鐘が三度、鳴り響いた。だがその空気は、リリウスが知る“帰還”の温もりではなかった。クラウディア王国としての公式記録に記されたのは、「王子リリウスの保護」ではなく、「アルヴァレス王国からの亡命者」。──それが意味するのは、政治上の“戦争の理由”たりえる存在ということ。形式的な挨拶、重々しい儀礼、冷えた視線。それらが、リリウスの心を刺した。だが──兄王、アウレリウスの瞳だけは、変わらなかった。「我が名の下に誓う。お前を脅かす者があるなら、王国ごと潰してでも守る」静かに、だが一国を動かす重みで、彼は告げた。リリウスは、短く息を呑んだ後、わずかに首を横に振る。「……兄上、それは、なりません」空気が凍りついたように感じられた。「もしそれで戦が起きれば……血を流すのは民です。それが、僕のせいだなんて……」その声には、震えも曇りもなかった。だが、はっきりとした“拒絶”の意志がこもっていた。もとより、リリウスがこの国に戻ること自体が、戦の火種になり得る。それ以上を──国家間の対立をさらに煽るようなことは、絶対に避けたかった。「僕は、ただ守られるだけの存在でいたくない。もし僕の選択が誰かを傷つけるなら……別の方法を探します」アウレリウスはしばし沈黙した。その後、誰にも読めぬ微笑を浮かべて頷く。「ならばその意志ごと、我が王権で守ろう。リリウス=クラウディア。お前の願いがこの国にとっての正しさであるなら、それを信

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