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空白のファイル

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-26 18:15:46

朝から重たい曇り空だった。オフィスの窓には水滴がついている。湿った空気のなかで、コピー機が定期的に鳴る。電話の呼び出し音も、どこかくぐもって聞こえる。誰もが自分のディスプレイに視線を落とし、最低限の会話だけで午前中が過ぎていった。

河内は自席でPCの画面を睨んでいた。タスク管理シートに、今日が締切のプロジェクト名が赤く表示されている。納品データをまとめる担当は小阪になっていた。共有フォルダの更新通知が来ている。何の気なしにクリックし、該当フォルダを開く。中身は──ラフ案だけだった。必要な要素が半分以上抜け落ちている。ファイルのタイムスタンプは、昨夜のまま止まっていた。

心臓が小さく跳ねた。だが怒りではない。むしろ、理由の分からない静かな冷たさが、手の甲を這うように広がる。

「……忘れてるわけないやろ」

独りごちる声が、低くこもった。いつもの小阪なら、仕事でこういう“抜け”を見せることはない。ここ最近の彼はむしろ、過剰なくらい期限を守ってきた。進行がギリギリでも、形だけは必ず整えて提出してくる。だから、これは忘れたのではなく、あえて残した“余白”のように思えた。

本当は、ここで詰めて問いただすべきだろう。ミスを理由に、いつも通り口調を荒らげてしまえば簡単だ。だが、その言葉が喉の奥に止まった。PCの画面に並ぶ未完成のラフ。その余白に、今のふたりの距離が滲んでいる気がして、無性に追及する気になれなかった。

メールもチャットも、全て最低限の短文で終わっている。会話の流れは、どこかで断ち切られていた。PCの隅に貼り付いたふたりだけのスレッドは、数日前から既読にも未読にもならない“無”のまま放置されていた。

そのとき、背後から小阪の気配がした。彼はノートPCを抱えて席に戻ってくる。顔は伏せたままで、長い前髪の陰に表情は隠れている。椅子を引く音も、キーを叩く音も静かすぎる。周囲はその存在を気にしないふりをしつつ、どこかで彼の気配を避けている。

河内は再度、共有フォルダのファイル一覧を見つめた。サムネイルに表示されるラフの白い余白。思えば、この“余白&rd

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