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9・紗加の企み

作者: 泉南佳那
last update 最終更新日: 2025-07-10 06:46:19

 ひとり取り残されたおれの胸に去来するのは、さっき見た文乃の表情だ。

 彼女の痛みがダイレクトに伝わってきて、心がむちゃくちゃにざわついた。

 後を追っかけて、思いきり抱きしめてやりたかった。

 文乃の心の痛みを全身で受けとめてやりたかった。

 紗加は、文乃がおれへの気持ちをはっきり自覚するために仕掛けたことだ、と言ったが、それはおれにとっても同じことだった。

 おれは文乃が好きなんだ。

 これまで付きあった女はみんな、胸の内に打算を秘めていた。

 おれと寝ればまた仕事にありつけるんじゃないかとか、あるいは他人に自慢しようとか。

 こっちも束縛されるのは嫌いだとうそぶいて、故意にそういう女たちを選んでいた。

 そんなGive and takeな関係では肉体的満足は得られたけど、心が満たされることはなかった。

 でも文乃は違う。

 ガキの頃の思い出の場所に連れていこうなんて思ったのも、文乃が初めてだ。

 他の女なら鼻からバカにされると思うようなことも、文乃には通じるはずだと。

 文乃の裏表のない素直さや健気(けなげ)さを大切に思う気持ちが、会うたびにおれのなかで膨らんでいくのはわかっていた。

 だが、意識的に女として見ることはセーブしていた。

 だって、どうなるというのだ。

 文乃には婚約者がいるのに。

 彼女みたいな真面目な子は、おれみたいな女にだらしないふざけた男より、勤め人の婚約者と一緒になるほうが幸せになれるに決まっている。

 そう思って、最初から諦めていた。

 それでも、傷ついた文乃に何もしてやれない自分が歯がゆくて、やりきれなかった。

 会ったばかりのときから、彼女の前では不思議と素の自分でいられた。

 最初はただの被写体。

 でもいつしか、被写体ではない文乃本人に惹かれてはじめていた。

 いや、一目見たときから、無意識のうちに彼女自身を求めていたのかもしれない。
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