右耳だけにワイヤレスのイヤホンを付けて由樹の服に装着した盗聴器の音を聞いた。彼らが何をしているのか、音のみで確認しなければいけない。「二階の部屋で良いかな」イヤホンから男のキャッキャッした声が聞こえる。一人だけ楽しそうに部屋を選んでいるところのようだ。しばらくして大輔もホテルに入って四人がエレベーターに乗ったことを確認した。一人で敵地に乗り込んだ。「さあ彩花ちゃん。今日はここでお泊りですよお」男の無邪気な声が右耳のイヤホンから聞こえた。どうやら部屋に入ったようだ。先程見た男の図体と彼の言動の幼稚さがアンバランスで気持ちの悪さが倍増していた。「ほら、お姫様が眠るようなベッドがあるよお。あれ、どうしたの彩花ちゃん。そんなところで座り込まないの。早くベッドの中に入ってね」彩花は何かを直感で察しているのだろう。男から生臭い執着を感じ取り、床にしゃがみ込んでいるに違いない。大輔はホテルの二階フロアに到着した。アッと声が出た。自分の行動にミスがあったとが発覚した。下らないことだ。二階のどの部屋に入ったのか分からない。廊下でまごついていると、右耳のイヤホンから鈍い音が聞こえた。何だと思って耳に意識を集中した。女の悲鳴が一瞬聞こえたが、すぐに口を押えられたのか、モゴモゴ言う声に変わった。声の聞こえ方から由樹の叫び声だと予想した。盗聴器のすぐ傍から声が発せられたように明瞭な音だったからだ。「馬鹿なババアだ。部屋にノコノコ付いて来やがって。ま、精々俺と娘のラブラブシーンでも見てるんだな。明美、こいつを椅子に縛り付けておけ」由樹が娘を心配して入ったのだろう。だがその行為が間違いだったようだ。男は親の子を想う習性を利用して、親である由樹に嫌がらせをするつもりのようだ。最低な人間だ。無慈悲で生きる価値もない男だ。自分の娘がロリコンのデブ男に抱かれるシーンなど見るに堪えないだろう。これも明美や成子の策略かもしれない。こんな奴らにアンジェラが捕らわれていたと考えると、怒りの熱気と恐怖の寒気が同時に沸き起こる。「さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。世にも珍しい、夢か真か分からぬ、四十歳差の男女の恋愛怪奇劇場の、始まり始まりい」男の声高に喋る様子が聞き取れる。ベッドの軋む音も聞こえ
「どうしてここに由樹さんたちが来ることを知っていたの」新宿東口に言われるまま来たが、どうしてここに由樹が来ると知っていたのか。「聞いたの。私がお風呂場に閉じ込められていた時に。由樹さんが逃げたから、由樹さんと女の子連れて来てお金を稼がせようって話してた。そしたら成子さんが明美さんに新宿東口の広場に二人を連れて行けって言ってた」「お金を稼がせる?」嫌な予感がする。由樹の娘の彩花にお金を稼がせると考えた時に鳥肌が立った。まさかとは思うが、最悪の場合を考えていた方が良さそうだ。大輔は財布の中に常備してある小型の盗聴器を手に持った。絶妙なタイミングで盗聴器を三人のうち誰かに付けたい。二人は建物の陰に隠れて由樹たちの様子を観察することにした。明美が何かを見付けたらしく、都道沿いのみずほ銀行のある方を見て固まった。黄色のダウンコートを赤いダウンベストの上に羽織り、ベージュのチノパンツを穿いた小太りのオッサンが現れた。毛髪が薄くて、幾本かしかない細い前髪が額に貼り付いていた。黒黴みたいなヒゲを生やした二重顎の先から黄ばんだ汗が垂れているように見えた。もし予想したことが当たっていたらと考えると強烈な吐き気に襲われた。「ここで待っていて」アンジェラに言い残してから由樹たちの方に近付いた。何とか盗聴器を付けたい。人混みの中に紛れ込んで三人の方に近づいた。「やあ君が彩花ちゃんか。可愛いなあ。やっぱ幼稚園の子は良いなあ。小学生になったら女の子は急にババアになるからな。これくらいの子が丁度良い」細いキツネみたいな男の目がゴキブリの翅みたいに光った。見るに堪えないほどのブ男が何を言っているのか。世の中には恐ろしいほどのロリコンがいる。大輔は待ち合わせをしている人を装って、彼らの声がギリギリ聞こえる辺りに立った。彩花は由樹の背後に隠れていた。下心のある目線に初めて接して怖くなったのか。「ちょっと明美さん」由樹が明美を責めていた。明美がこの男を呼んだのか。同じ女性として彼女の正気を疑っているのだろう。「ありえない。ありえないんだけど」叫びながら彩花を必死で庇った。明美は下を向いたまま動かない。「オバサン、とっとと彩花ちゃんを寄越せよ」太った男はモッソモソ由樹の方に歩み寄った。彼女の肩を掴んでから
まだ十五時だが、取り敢えず新宿方面に向かうことにして、今まで何があったのかアンジェラから聞き出すことにした。「まずね、私がツヨシと一緒に住んでいた時のこと。私、ホントにツヨシが嫌いで旦那デスノートにツヨシの悪いとこを書いていたの」旦那デスノートと聞いて、大輔は彼女の部屋のコルクボードにパスワードの書かれた紙が貼られていたのを思い出した。パスワードはスマホのメモアプリに控えてある。「でね、ずっと投稿したり、人の書いたやつを見たりしてただけなんだけどね、何か新しい機能が追加されたの。チャット機能だったの。可哀想な妻たちの交流所って名前だった」身に覚えのある名前だ。可哀想な妻たちの交流所とはパスワードの紙に一緒に書かれていた言葉だ。そこに知りたいことがあると確信した。とにかくアンジェラにログインしてもらうことにした。「俺のスマホのメモ帳にパスワード書いて来たから、これ見てログインしてくれ」「何でパスワード知っているの」「アンジェラの部屋のコルクボードに貼っておいたでしょ。心配で部屋まで探しに行ったんだ。同居人の女の子に許可貰って入ったから安心して」「そうか、ごめんね」彼女は大輔のスマホを使って、可哀想な妻たちの交流所にログインした。彼女がリカとして参加したコミュニティのやり取りを見ることができた。車を路側帯に停めてから、チャットの内容を見た。リカというユーザー名で会話しているのがアンジェラだ。店の源氏名だ。「名無しって名前の人が由樹さん。A子って名前の人が明美さん。ナルって名前の人が成子さん。五十代女性が清江さん」「清江さんって」「この人は死んじゃった」「え?」アンジェラは両手で顔を覆って泣き出した。帰って来た彼女はよく泣く。情緒がまだ不安定のままなのだろう。だが、次の言葉でただ精神が不安定なだけではないことが分かった。「私たちが殺しちゃったの」「はあ?」意味が分からなかった。どうしてアンジェラが見ず知らずの女性を殺さなければいけないのか。「どうして、そんなこと」「分からない。分からない。だけど成子さんに逆らったら駄目になっちゃうの。私、大輔と一緒に生きたかった。死んじゃ駄目だった。だから成子さんの言う通りにしないと駄目なの。でも、人を殺すなんて駄目
「そうだっ。 あれいつだったかな。確か最近のことだと思うけど。お隣の柴崎さんの奥さんがアパートの前で確か女性二人に囲まれているところを見ましたね。外で女性の嫌だって叫ぶ声が聞こえたんでね。そこの窓から覗いて見たんですよ。そしたら夜だったんではっきり見えなかったのですが、 見知らぬ女性二人が柴崎さんを囲んでいるみたいだったのですよね。私は何だか不穏なカンジがして外に出なかったのですが。でも声からして叫んだのは柴崎さんだったんじゃないかなって思ってます」扉の横に窓があった。「ちょっと、これは何かヤバいかもって思った理由なんですけど。お隣の娘さんもそこに一緒にいたんですけど、何か首輪みたいなの付けられてリードで逃げられないようにされていたんですよね」「その女性二人が娘さんに逃げられないようにしていたってことですか」「そうそう。何か人質にされているみたいなヤバいカンジになってました」「その後、柴崎さんの奥さんはどうでした」「そう考えればその日を境に見てないかもしれません。私もそんなに関心があった訳じゃないので、気付いていないだけかもしれませんが」「成子さんと明美さんだ」アンジェラが顔を上げて叫んだ。彼女には心当たりがあるようだ。明美さんという初めて聞く名前も出て来た。どうやら由樹はその女性二人に連れ去られたと考えて良さそうだった。その二人が今回の事件の黒幕ということだろうか。由樹はその女性二人のうちどちらかの家にいるのだろうか。「旦那さんも見なかったですか」「見てないですね。その日以降見てないかもしれないです」「分かりました。ありがとうございます。もう一つお願いなのですが、ここのアパートの大家さんの連絡先を教えてもらえませんか。あと大家さんはここに住んでいませんかね」女性から大家さんの電話番号を教えてもらってお礼を言った。女性は自分の部屋に戻って行った。車の中に戻ってから大家さんに電話をかけてみた。三コール目で出て来た。若干苛立っているような年嵩の女性の声が聞こえた。何か嫌なことがあったのだろうか。話し辛そうでうんざりした。「××メゾンのオーナーさんでございますか」「そうですけど。警察ですか、週刊誌ですか」苛立ちの原因を何となく察した。大家さんは今、何らかの事件の参考人と
商店街に入ってから緩やかな坂道を上る。その先に由樹の住むアパートがある。オレンジの壁の二階建てのアパートで、柴崎家の部屋は一階だ。アンジェラは焦っているようで、とても話しかけられる状態ではなかった。二人で車を降りて由樹の部屋に向かった。「あれ」二人で同時に言葉が出た。人の気配が全くしない。柴崎と書かれた表札があったところには白い板が嵌められている。インターフォンを押しても何も反応がない。「すみません」一応ノックもしたが梨のつぶてだ。いつの間にか引っ越したのか。「由樹さん。やっぱ。由樹さん。ああ、どうしよ。全部私のせいだ」隣に立っていたアンジェラが頭を抱えて泣き喚き出した。何がどうしたのか大輔にはさっぱり分からない。どうして彼女が自責の念に駆られているのか分からない。やはり話を聞いてみなければならない。おろおろしていると、由樹の部屋の左隣の扉が開く音が聞こえた。「どうかされましたか」振り向くと部屋から女性が出て来ていた。着古しているためか、首元から裾にかけてテロンデレンとしているアディダスのTシャツと、下はグレーのスウェットのパンツを穿いた二十代半ばくらいの、ショッキングピンク色の髪を伸ばした黒縁眼鏡の女性だった。「どちら様ですか。大丈夫ですか」女性は素っ頓狂な表情をしている。警戒する様子はなく高い声を出している。彼女に話を聞いてみようと試みた。「突然すみません。お隣の柴崎さんは引っ越されたのですか」女性は顎に手を当てて右上を見ながら何かを思い出しているみたいだ。「何か、突然いなくなっちゃったっていうか。私が知らない間に誰もいなくなっていたんですよね」「引っ越しの準備などをしている様子も見れなかったのですか。あと業者の方が荷物を取りに来たりとかも」「はい。私はフリーでライターの仕事をしていて殆ど部屋に引き籠った生活をしているんですけど、そういう物音は何も聞こえなかったんですよね。柴崎さん家族三人が全員お化けだったんじゃないかって思っちゃうほど忽然と消えちゃったって感じで」柴崎家は三人ともどこかに去って行ったようだ。何となく嫌な予感がした。彼女が殺人犯ではない場合、アンジェラと同様に連れ去られた可能性が高い。「柴崎さんのお隣に住んでいて。何か気付いたこととかあ
事務所の上の階に大輔が父親と一緒に暮らしている部屋がある。大輔の父である治はアンジェラとの交際を認めてくれていないが、昨夜戻ってきたアンジェラの姿を見てウチに泊めてくれることを許した。治は厳格な性格だが、常識を破りたがる性質を持っている。彼が探偵事務所を構えたきっかけは、本気でシャーロックホームズになりたいと考えていた。その考えは若気の至りではなく、六十歳を超えた今でも冗談ではないと言っている。だが治も口だけ達者な人物ではなく、捜査が難航している事件を見付ければ自ら首を突っ込んで解決に導いたことも多々ある。水川探偵事務所が軌道に乗ったのは父の実績のおかげだ。大輔はそんな父のことを尊敬しないといけないようになっていた。帰るとまずは泥水のように眠るアンジェラを布団に寝かせた。大輔と治は向かい合って座り、アンジェラの巻き込まれた事件について話し合うことになった。大輔は今までにあったことを、自分の予想も交えて治に伝えた。治は余計な言葉を挟まずに、自分の銀髪のオールバックを撫でながら最後まで話を聞いた。鋭い一重瞼の目を尖らせて大輔の話をまとめた。 「じゃあ、お前が思うにはアンジェラさんはシャレコウベダケの繁殖事件に巻き込まれていて、その柴崎由樹さんが犯行に関わっているのではないかということか」 「うん、あとアンジェラの店に来た傷だらけの顔をした女性も被害者っぽいね。今のアンジェラと全く同じ状態のようだ。あと気になるのがアンジェラが山の中から電話で伝えた、成子さんという人物も怪しいね。由樹さんと成子さんっていう人がグルの可能性が高い」 「本当にシャレコウベダケの事件に関係するかどうかは分からんが、その可能性は考慮しておいた方が良いかもな。今、日本の中で暮らしていれば、誰もが殺人犯として疑われてもおかしくない時だからな。あれは自分に関係のない話だとは思わない方が良い」治の言葉に頷いて見せた。身が引き締まる。 「大輔。お前にチャンスを与えよう」急に治は口角を片方だけ上げて意地の悪い笑みを浮かべた。息子の大輔に挑むような言葉をかけてワクワクしているようだ。 「もしアンジェラさんが巻き込まれた事件を解決して、彼女の身の安全を保障できるようになれば、お前たちの結婚を認めようじゃないか。これは大きな