10時を少し過ぎた辺りで、二人は店を出た。が、名残惜しさが瑞穂の後ろ髪を引っ張り、駅へと向かう瑞穂のその足取りはひどく重いモノであった。「どうしたの、高畑さん。ひょっとして、気分が悪いの?」次第に遅れをとる瑞穂の様子が気になったのか、和田マネージャーは歩みを止めると、振り返り、後ろを歩く瑞穂に視線を向ける。瑞穂は「はい」と、手短に言葉を返す。確かに、気分は悪かった。しかし、それはアルコールによるモノではなく、和田マネージャーとの至福の時が終わるが故に引き起こされたモノであった。「だから、言ったじゃん。飲み過ぎなんじゃないか、って。まっ、俺としては中々珍しいモノを見せてもらったけどね」「珍しい?」「店でも言ったじゃん。酔っぱらってる高畑さんは、結構レアだって。俺の中の高畑さんって、飲み会とかでもハメを外さず、自分のペースをしっかりと保って酒を飲む人、だもん。だから、今日の酔っぱらった高畑さんは、俺的には何か新鮮に見えたよ」「アレ、和田マネージャー。もしかして、アタシに対してギャップ萌えとか感じちゃったりしてます?」和田マネージャーの思わぬ発言に気を良くした瑞穂は、口角を曲げながら尋ねる。「ないよー、それはない」和田マネージャーは、手を振りながら瑞穂の弁を否定する。「高畑さんは、部下だからね。上司として、そういう感情は抱く訳にはいかないよ。あっ、これは高畑さんに魅力が無いとか、そういう話じゃないよ。単純に、上司としての心構えだからね」──また、上司と部下かよ。堅物めいた言葉を述べ続ける和田マネージャーに対し、瑞穂はため息をつく事で応えた。「どうしたの、高畑さん。もしかして、吐きそうなの?」しかし、和田マネージャーは瑞穂のため息の意味を取り違えたようで、再び歩みを止める。「……ヤバいです」和田マネージャーが作り出したその流れに瑞穂は乗ると、フラフラと電信柱に歩を進めた。が、嘔吐する訳ではなく、ただ茫乎《ぼうこ》といった様子で夜空を見上げると、心までも冷やす秋の夜風にしばらく当たっていた。「……大丈夫?」和田マネージャーは怪訝な面持ちで、瑞穂に歩み寄る。「うーん、ちょっと気分が悪いですね」瑞穂は、ふぅ、と息をつくと、視線を夜空から後ろのビルへと移した。「あの、和田マネージャー。お願いがあるんですけ
消灯し、警備会社への登録となるスティックキーを差し込むと、瑞穂と和田マネージャーの二人は足早に社屋を出た。「さてと」ジャラリ、と音を響かせ、和田マネージャーは鍵をジャケットのポケットに入れると、ゆっくりと振り返り、後ろの瑞穂を見据えた。「ところでさ、高畑さん。今日は晩ごはん、どうするの?」「えっ」思わぬ和田マネージャーの問い掛けに、瑞穂の胸は高鳴りを見せる。「……そうですね。遅くなったので、今日はお弁当でも買って帰ります。さすがに、今から帰って作ったりするのは面倒ですしね。あとは、頑張った自分へのご褒美として、ビールの一本でも買って帰りますよ」「その、ご褒美とやら。俺に出させてもらっていいかな?」「えっ?」「メシでも食いに行こうよ。今日はおごってあげるよ。もちろん、ビールもね」「えっ、いいんですか?」瑞穂は高揚した気持ちを抑えきれず、つい声が大きくなってしまった。「いいよ、メシくらい」その瑞穂の様に、和田マネージャーは微笑した。「今日の高畑さんは、結構頑張ってくれたからね。メシでもおごらなきゃ、後で俺が高畑さんに何か言われそうだよ。っていうか、俺が帰ってきた時には高畑さん、メチャクチャ恐い顔してたからね。何か、塩分間違えた味噌汁でも飲んだような顔してさ」「えっ、アタシ。そんな怒ってるの、顔に出てました?」「うん、結構。だって、扉開けて、一人仕事してる高畑さんの顔みたら、完全ヤクザみたいになってたもん」「ちょっとー、ヤクザとかさすがに言い過ぎじゃないですかぁ」ストレートな和田マネージャーの表現に、瑞穂は眉根を寄せた。「あっ、ゴメンゴメン」和田マネージャーは再び笑うと、商店街に向けて、ゆっくりと歩を向けた。「とりあえずさ、ついて来てよ高畑さん。ちょっと歩くけど、美味しくて面白い店があるんだ。今日は、そこで晩ごはんを食べようよ」「はい」瑞穂は頷くと、緩やかなスピードで歩いてくれる和田マネージャーの傍らから離れないよう、軽やかな足取りでもってついて行った。·商店街を突き抜け、繁華街に突入したトコロで、和田マネージャーは通りを左折した。瑞穂も続いて左折をすると、居酒屋やラーメン屋などが建ち並ぶ通りを、キョロキョロと見回しながら、和田マネージャーがどの店に入るのかを推察する。「この店」ボーリング場
瑞穂が未だ心を惹かれてやまない、和田マネージャー。その彼と瑞穂が緊密になる機会は、思わぬ形で訪れた。秋も深まり、そろそろ冬の足音が聞こえてきた、10月末の事だ。瑞穂の元に、大量のFAXが送られてきた。『お忙しいところ、申し訳ありません。見積りお願い致します』定型めいたセンテンスの右上には、こちらの都合を一切考えていない「至急」という判子。10点近く品目が書かれたそのFAXは20数枚あり、単純計算しても品目は200点を超えていた。そして、回答期限は週明けである月曜の午前という事だった。今日は金曜であり、ある程度今日までに見積りを終わらせておかないと、月曜の午前に回答が出来ない公算は高い。「いや、無理っしょ……」瑞穂は独りごちると、受話器を手に取り、FAXの送信者に回答期限を伸ばしてもらえないかどうか、電話をかけようと試みた。しかし、瑞穂はかぶりを振ると、静かに受話器を電話機へと戻した。FAX送信者は、これまで電話でやり取りを行った際、小さな論拠を盾に何度も強引に事を進めてきた面倒な男である。そして、大手の取引先であるが故か、融通もきかず、誰が連絡しようとコチラが折れるケースが大半だ。そんな取引先に勤めている男が、女である自分の回答期限の引き延ばしのお願いを素直に聞くとは到底思えない。「もぅ」にっちもさっちもいかない状況に、瑞穂は眉根を寄せた。「どうしたんですか?」すると、さすがにオーバーリアクションであったらしく、隣の紗倉さんがキーボードを打つのをやめ、横目で瑞穂に視線を送った。「いや、これがね……」瑞穂はため息をつくと、大量のFAX用紙を手に取り、紗倉さんに見せるように言葉を続けた。「こんだけ、FAX送ってきておいて、月曜の朝までに返事下さい、ってさ。こんなの、出来る訳ないじゃん。それでなくても今日、ただでさえ忙しいってのにさ」「うわ、大変ですねー」紗倉さんは同調する言葉のみを吐くと、忙しいといった様子で、キーボードを叩く手を再開させた。隣の瑞穂に視線を送るのをやめ、一心不乱にキーボードを叩く紗倉さんの様は、「自分は担当ではないから関係ない」とでも言いたげな雰囲気であった。周囲を見渡すと、他の社員も忙しそうな雰囲気を醸し出しており、助っ人は期待出来ない、と思った瑞穂は、取り敢えず大量のFAX用紙を机の引き出し
「そうです、お久しぶりです」その瑞穂の様に、杉浦マイは口元に手をあて、クスクスと笑った。「いや、久しぶりって言う程でもないんだけどね。ってか、まさかこんなトコロで会えるなんて思ってもいなかった」「あっ、私の職場って、すぐそこなんですよ。それで、この店の前を通りがかったら、たまたま瑞穂さんの顔が見えたから、つい……」「あっ、そうなんだ」瑞穂は返すと、アイスコーヒーを手に持ち、杉浦マイと二人で、テーブル席へと移動した。「マイさん、仕事何してるの?」アイスコーヒーを飲みながら、瑞穂が杉浦マイに訊く。「旅行代理店です。ココの駅ビルを出て、すぐそこのホテルの下に職場があるんですね。瑞穂さんは?」「アタシは商社。職場はココじゃないんだけど、乗り換えがこの駅だから、たまに寄り道して、この店で一時間くらいコーヒーとかカフェオレを飲みながら、本を読んで帰ってるんだ。BOOK・OFFも近くにあるしね」「へー」「あっ、マイさん。なんか注文したの?」杉浦マイの前には、冷水と紙おしぼりのみが置かれているのみであった。「大丈夫です。さっき、お店に入ると同時に注文したんですよ。もう少ししたら、来ると思うんですけど」果たして、杉浦マイの言葉通り、程なくしてアイスカフェオレがウェイトレスによってテーブル席に届けられた。「あのバーベキュー、以来だね」「そうですね」杉浦マイは口元を緩めると、アイスカフェオレを一口飲んだ。「アレから、あのバーベキューで繋がった人と、連絡を取り合ったりしてる?」「……殆ど、してないですね」杉浦マイは、苦笑いを浮かばせた。「何人か男の人にLINE聞かれて教えたんですけど、殆どそれっきりです。古田さん、くらいかな?先日、ご飯を食べに行こう、って誘われて、行ったくらいですね」「へぇー」杉浦マイの言葉に瑞穂は表面上は平静を装っていたが、古田の意外な一面に驚きを覚えていた。「瑞穂さんは?」「はい?」「いえ、あのバーベキューで繋がった人と、何かしら連絡を取り合ったりしてます?」攻守交代、とばかりに、杉浦マイは同じ質問を瑞穂に対してしてきた。·「ないねー」瑞穂は苦笑しながら、首をひねった。「一人、池山って人だったかな。『俺、LINEやってないから、メアド教えて!』って言われて、その人とメアド交換させられた
その後、瑞穂と和田マネージャーとの関係は、殆どといっていい程、進展は無かった。例のバーベキュー以降、瑞穂と和田マネージャーとの距離は確かに縮まった。が、それも、より深い会話が出来るようになった、というのみであり、直接的な関係にまで発展するという事はなく、瑞穂と和田マネージャーとの関係は未だ「上司」と「部下」のままであった。6月に入った。待ち望んでいない、雨の季節が到来した。瑞穂は以前から周囲に言っていた通り、結婚式に参列する為、美容院の予約や友人代表のスピーチの原稿作成などに追われ、リアルに忙殺される事となった。エステの予約をし、電話を切った後「アタシ、新婦でもないのに、何張り切ってんだろな」と、一人失笑したりする場面もあった。そして、迎えた6月最終週の日曜日。瑞穂が空を見上げると、予想通りといった感じで雨が滞る事なく降ってきていた。「せっかく美容院行ったのに、これじゃあ全く意味ねぇ」まとわりつく湿気に辟易しながら、瑞穂は美容院を出ると、忙《せわ》しなくタクシーへと乗り込む。「瑞穂、久しぶりー!」待ち合わせをしていた、ホテルのカフェラウンジに入ると、瑞穂は紗季をはじめとする何人かの高校の同級生と再会した。「この間、瑞穂ちゃんの会社の上司のバーベキューに行ってねぇ」例の舌足らずな口調で語る、紗季。結婚し、子供を産んでから体重が20キロも増えたという、結衣。先日、遂に彼からプロポーズされたという、遥香。皆、個人差はあるものの、それぞれが与えられた人生をそれなりに謳歌している、といった様子であった。しかし、翻って自分はどうだろうか、と瑞穂は思った。忙《せわ》しない日常に追われながら、ただ日々を重ねていくだけの人生を過ごしているのではないだろうか。漠然と、そんな思いが瑞穂の頭をよぎったが、もちろんそんな事を口に出せる訳がなく、瑞穂は旧友との再会と、その旧友の一人によって提供される人生最大の晴れ舞台を、ただ楽しむ事のみにつとめた。式、披露宴における、新郎新郎の初々しさ。練りに練られた末、自分達の前に公開される様々な演出の数々。人生最大の晴れ舞台、という場に立っている旧友がもたらすそのどれもが、瑞穂の琴線に触れるモノであり、瑞穂は涙を流さずにはいられなかった。「本日はお足元の悪い中……」披露宴の最後、型通りの言葉を苦笑を浮かば
「さっ、乗って。狭かったらゴメンね」 和田マネージャーはアルファードのスライドドアを開けると、執事のように後部座席に瑞穂と紗希の二人を誘《いざな》った。 「お邪魔しまーす」 瑞穂は紗季と共にアルファードに乗り込むと、そのふくよかなシートに身を預ける。 肌触りの良い、ニット地のシート。 心まで包んでくれそうな包容力の、ウレタンの柔らかさ。 メタリックグレーで覆われた車内。 カーステレオから流れてくる、HYの「AM11:00」 和田マネージャーの車の中、というアドバンテージがあるからか、瑞穂は車内で目にするモノ、手に触れるモノ、その全てに心をとらわれて仕方がなかった。 「……さてと」 荷室にミニテーブルなど、残った荷物を積み込み、リアドアを閉めると、和田マネージャーはフロントドアを開け、運転席に腰掛けた。 「ゴメンね、待たせて」 そして、和田マネージャーは振り返ると、瑞穂の隣に座っている紗季に目的地を訊いた。 紗季が答えると、和田マネージャーは「あっ、意外と近いな」と独りごち、アルファードを発進させる。 「取り敢えずさ、新垣さんの方が近いから新垣さんを先に送るけど、高畑さんはそれでいいかな?」 バックミラーで後部座席にいる瑞穂に視線を送る和田マネージャーの問い掛けに、瑞穂は「はい」と返事をして頷いた。 「あー、疲れた」 数分程国道を走り、信号待ちでアルファードが停車すると、和田マネージャーはハンドルから手を離し、右手で肩を揉んだ。 「お疲れさまです」 「はは、ありがとう」 瑞穂の労《ねぎら》いに和田マネージャーは笑い、白い歯をバックミラーに写した。 「しかし、今年のバーベキューは例年にない盛り上がりを見せたよ……」 笑みを保ったまま和田マネージャーは言うと、しみじみと言葉を述べていった。 「やっぱり、若い女の子が来てるからかな? ナギーにしろ、他の奴にしろ、いつになく鼻息荒くさせてたしね。 高畑さんの友達の増田さんって人も、最高に面白い人だったし……。 あの、もしだけどさ、高畑さん。 もし高畑さんや、その友達の都合が良かったら、また来年も来てくれないかな? あの盛り上がりが今年だけ、ってのは俺的にも、他のメンバー的にも何かもったいない気がするんだ」 瑞穂は「その時は、喜んで」と、即答した。 そして、 「だ