「……あの?」
え、誰? どうして私の名前を知ってるの?
私は、今はコンシェルジュじゃない。 名札がないから、名前を知られるものが何も無いはずなのに……どうして?
「聞こえなかったのか? お前が波音(なみね)聖良(きよら)か、と聞いているんだ」
目の前にいるその男性は、もう一度そう言った。「えっ……。あ、はい。 私が、波音聖良ですけど……」
恐る恐る名前を口にすると。彼は私の前に腰掛けて、一言こう言った。
「……なあ。お前、俺と結婚しないか?」
「……はい?」
頭の中に繰り返されるのは、結婚というニ文字。
えっ、えっ……結婚?!
待って待って!どういうこと……?
え? い、今なんて……?
頭の中をグルグル思考回路が回っていくけど、訳が分からなくて戸惑うばかりだ。
チラつく結婚という言葉のニ文字だけが、私の頭の中をぐるぐるとかけ巡る。
「仕方ない。もう一度だけ言う。……波音聖良、俺と結婚しないか?」
「……はいっ!?」
け、け、結婚……!? な、な、なんで結婚……!?
「お前、驚きすぎじゃないか?」
「い、いや、だって! あなたがいきなり、結婚だなんて言うから……!」
待って待って? そもそも私、この人のこと知らないんだけど……!えっ、私ってもしかして……知らない相手にプロポーズされたってこと?
え、結婚ってなに……? 待って、意味が分からないっ!
「お前は俺のことを知らないかもしれないけど、俺はお前のことを知っていた」
「えっ?」
そんな発言をされたら、ますます混乱するに決まっている。 なんで突然、そんなことを言われるのかすら、私には分からないのだから。
「……お前。いや、波音聖良さん」
「は、はい」
なぜかその瞳に見つめられるだけで、ドキドキしてしまう。
「聖良、俺と結婚してほしい。 俺の妻として、鷺ノ宮グループに来てほしい」
「……え?」
えっ、待って。今なんて言ったの? 今聞き間違いでなければ……鷺ノ宮グループと聞こえたような気がしたんだけど……?
「ええっ!?」
さ、鷺ノ宮グループって……! まさかこの人、鷺ノ宮グループの……!?
「む、無理ですっ!」
「はっ?」
そんなの無理に決まってる……!
「さ、鷺ノ宮グループに関わる人、私はみんなキライです! 私はあなたたちに解雇されたんですよ!?……良くそんなことが言えますね」
この人、どうかしてるよ……!
「……だからこうして、君にプロポーズをしているんだろう?」
「はあっ!?」
な、何言ってんの……! 訳がわからないんだけど!
もしかしてこのプロポーズ、私を解雇した罪滅ぼしのつもりとか……?
いや……それなら尚更、意味が分からないし、納得が出来ない。解雇された人間に結婚を迫るなんて、この人はどうかしてる!
「君は大変優秀なコンシェルジュだと耳にした」
「……どうも」
「君をこのホテルに置いてやってもいいと思ってる」
え……? ウソ?
「え? 本当に?」
「ただし、俺の妻になると言うのならな」
「…………」な、何? それは交換条件ってこと?
ますます意味が分からない……。私が今目の前にいる彼と結婚すれば、私またコンシェルジュとして戻れるってこと?
「……どうして?」
「何がだ?」
「どうして結婚なの? どうして……私なの?」
「どうして、とは?」はあ? どうして、とはって……。
「普通、結婚するなら好きな人とするものだと思うんだけど。 なのになんで今日初めて会った人と結婚だなんて……意味が分からない」
「結婚すればお前の生活は安泰だぞ? それに、田舎に帰る必要もないしな」
「っ……!?」
それを言われたら、何も言えなくなってしまう。「お前のことを調べさせてもらった。 随分生活に苦労したみたいだな?」
「……それは、私を脅してるの?」
「脅してなんていない。……俺と結婚したら、君は必ず幸せになる。いや、幸せにすると約束しよう」どう考えても、私を脅してるとか思えない……。
「……出来もしない約束なんて、簡単に口にしないでもらえますか」
そうやって裏切られることを、私は知っている。
私はいつもそうやって裏切られてきたから。家族にも、友達にも。
「では、ここで永遠の愛を誓おうじゃないか。 君を一生かけて幸せにする、とな」
「だから、そういうことじゃ……んんっ!?」
「聖良、こっちへ来い。一緒に寝よう」「……はい」 その日の夜、私は棗さんの腕に抱かれながら眠りについた。棗さんの腕の中は逞しくて、温かいんだなと思った。でもそんなことを言うのは恥ずかしいから、棗さんには内緒だけど。その日から私は棗さんへの想いが、少しずつだけど変わっていくことを、自分の中で自覚し始めようとしていた。 ✱ ✱ ✱韓国に来てからちょうど今日で一週間が経った。 この一週間、私は棗さんのそばにいて思ったことがあった。それは彼が本当に、とても仕事に熱心な人だということだった。彼の仕事に対する姿勢はとても素敵だと思ったし、鷺ノ宮グループの御曹司なんて、所詮上辺だけだと思っていたけど。 彼は本当に仕事に対する姿勢が素敵な人だった。 そして韓国に来て夕来社長と打ち合わせをしていても、話を聞く姿勢もとても素敵だった。仕事にちゃんと向き合っている人だということが分かったただけでも、進歩かな?「聖良、忘れ物はないか?」「はい」「よし、じゃあ帰ろう。……日本に」 「……はい」 一週間の韓国出張が終わり、私たちは日本に帰る準備をした。 この一週間本当にあっという間で、新しい事業を開拓するという棗さんの夢を現実に向けて、走り出したばかりだ。だけど棗さんがやりたいことを実現出来るのは、私は妻として嬉しい。 だからこそ、応援したいとも思う。「聖良、どうだった?韓国は」「……すごいです。美人な方がたくさんいらっしゃいまたし。 それに、夕来社長ともお会い出来たので……もう満足です」「それはよかった。……飛行機の時間があるから、そろそろ出ようか」「……はい」 私たちは荷物を持って空港へと向かった。 日本に帰ってから、その足で私たちは一度鷺ノ宮グループの本社へと向かった。鷺ノ宮グループの社長に会うためだ。確か社長と会うのは結婚式以来だった気がする。なぜだか、すごく緊張してしまう。日本に着いたのは午後四時半すぎだった。 本社へ着くと、社長は来客中のようで、ロビーで待つことになった。「……聖良」「はい。何でしょうか」「聖良は何も話さなくてもいいからな?」「え?……でも」 本当に何も話さなくていいのかな……。 「大丈夫、話さなくてもいい。俺が話すから大丈夫だ」「……分かりました」鷺ノ宮社長に棗さんとの結婚を報告し
「結構うまそうだな?」「はい。そうですね」「よし、冷める前に食べよう、聖良」 「はい」私たちは向き合って、ルームサービスでの食事を取ることにした。韓国料理が苦手な私は、棗さんの計らいで日本料理を頼んでくれていたようだった。何もそこまでしなくてもいいのにって思う反面、気を使ってくれてるのだと知って少し嬉しかった。「いただきます」運ばれてきた料理はどれも美味しくて、私の作る料理よりも美味しく感じた。 あまり本当はそんなこと思わない方がいいのだと思うけど……。「美味しいですね、棗さん」「そうだな。……でも聖良の作る料理の方が、俺は好きだけど」「……え?」どうして棗さんがそんなことを言うのか、分からなかった。 私の料理を美味しいと言ってくれたことは、何度もあるけど……。まさかそんなことを言ってもらえるなんて……思ってもみなかった。「聖良の作る料理のほうが、俺は好みだ」 「……そんな。ムリに言わなくてもいいですよ、そんなこと」「ムリにじゃない。本心だ」 「……え?」本心? 今そう言われたような気がした。私の聞き間違い?それとも……。「俺は本当に、そう思ってる。 もちろん聖良のことも、大事にしたいと思っている」「棗……さん」 「君は俺に嫌われていると、そう思われるのも仕方ない。 俺たちは恋愛して、結婚した訳じゃないからな。……だけどお前は、俺の妻だ。 妻を大事にしたいと思うのは、当たり前のことだろう?」「……棗さん」棗さんのその言葉は、私に重くのしかかった。 そして私の瞳とその鼓動を揺らす。「聖良。俺はお前を、ずっと大事にしたいと思っている。……厳しくなることもあるかもしれない。それでも俺は、夫としてお前のそばにいたいと思ってる」「……ありがとうございます」それがもし棗さんの本心なのなら、とても嬉しい。 だけど……。どこか複雑だった。そう言われて嬉しいはずなのに。心のどこかがチクリと針が刺さったように痛いのはきっと……。私たちが偽りの夫婦だからだ。 ちゃんと分かりたいたい、そう思うこともあるけど……。結局私たちは、愛のない偽りの結婚をした偽物の夫婦だってことだ。……その事実は、どこからどう見ても変えられない。バカだなと思うけど、どうやってもその気持ちは消せない。 ううん、消すことができな
そして迎えた当日。私たちは荷造りしたキャリーバッグを持って韓国へと向かった。韓国へは一週間滞在の予定だ。予約したホテルは、同じく韓国にも企業を持つ鷺ノ宮グループの傘下にあるホテルだ。高級ホテルのスイートルームを予約したと、棗さんが言っていた。「夕来(ゆうらい)社長、お久しぶりです」「棗くん、久しぶりだね?何年ぶりだろうね?」「本当ですね。……あ、紹介します。私の妻の聖良です」「始めまして。鷺ノ宮聖良と申します。よろしくお願い致します」「よろしくお願いします。聖、良さん。 韓国で化粧品メーカー部門の担当をしている夕来(ゆうらい)と申します」「……よろしくお願い致します」この人が夕来社長……。韓国で化粧品メーカーを立ち上げた日本人で、今ではその化粧品が日本でも売れている。 CMも有名な女優さんがアンバサダー務めるほど、今人気の化粧品ブランドだ。私も愛用している化粧品だ。 まさかそのブランドを持つ社長さんとお会いできるなんて……夢見たい。「妻が、夕来社長が手がけている化粧品を愛用しているんです」「ほお? それは嬉しいね?ありがとう、聖良さん」「い、いえ!滅相もございません……」夕来社長、いい人そうだな……。さすが女性の化粧品ブランドを立ち上げた人だ。「早速だが、打ち合わせしてもいいかい?棗くん」「はい。よろしくお願いします」 打ち合わせなら、私は必要ないかな……。「……あの、私はホテルにチェックインしておきますね?」「ああ。よろしく頼むよ」 「……はい」私はキャリーバッグを持ってタクシーを呼び、ホテルにチェックインした。そのまま荷物をコンシェルジュに運んでもらい、一旦一休もうとバルコニーに出た。「……うわ、キレイ」バルコニーからの眺めは最高だった。 この景色はきっと、棗さんが連れてきてくれたおかげで、見れたものなんだと思う。感謝しないとな……。ありがとう、棗さん。韓国なんて初めてで、正直不安だった。 だけど棗さんが日本人のコンシェルジュを付けてくれていたらしく、日本語で話せるからそこはよかった。「戻ったぞ、聖良」「おかえりなさい。棗さん」 棗さんが戻ってきたのは、その後ニ時間後のことだった。きっと打ち合わせが長引いたんだと思う。「……えっ?」 「聖良、待たせて悪かった」突然棗さんが後ろから包み
「……聖良?どうした? 風呂入らないのか?」「いえ。 お風呂入ってきます」 私は着替えを持ってバスルームへと向かった。 服を脱いでシャワーを浴びて湯船に浸かると、とても気持ちいい。 この大きなお風呂に入っている時は、すごく癒やされた。 入浴剤を入れていいニオイのお風呂に入る時が、今一番の幸せだ。正直、あの人の妻になるなんて、私には荷が重過ぎる。……だけど妻になった以上、私はあの人のことを愛していかなければならない気がしていた。いつかあの人のことを、私は本気で愛していくのだろうか……。本当にそんな日が、くるのだろうか……。結婚してから二ヶ月が経ったけど、私たちの生活は何も変わらない。 それに、自分からアクションを起こすつもりなんてない。「ああ、もう……」考えたら考えただけ、分からなくなる。 そうやって私の頭を悩ませるのは、彼のことを全然知らないからだ。愛し合って結婚した人たちは訳が違うのだ。 私たちの間に愛なんてものは存在しないのだ。 お風呂に一時間くらい入ってからパジャマに着替えて寝室に行くと、棗さんは私のことを待っていたかのように、こっちに来いと手招きした。「聖良、こっちに来い」「……はい」言われた通り、棗さんの隣に腰掛けた。 すると棗さんは、私を後ろからギュッと抱きしめる。ズシッとベッドに重みが加わる。「……棗、さん?」「聖良。お前は何を考えているんだ?」そして一言、抱きしめたままそう言った。「……何をって?」「俺には分からない。 お前が何を考えているのか」 私だって、棗さんが何を考えているのか分からない。「……私にも、あなたのことが分かりません。 それは私たち、同じですよね」「俺はお前のことを理解したいと思っている。 それは本当だ」「……なぜ、ですか?」 私たちは偽りの夫婦。そこには愛なんてないのに、それなのになぜ、知る必要があるのだろうか……。「お前が俺の妻だからだ」だったら……私は知りたい。「……教えてください。なぜ私を、棗さんの妻に選んだんですか?」「それを知って、どうするんだ?」絶対に教えてくれない、私を妻にした理由を。 どんな理由であれ、私には知る権利があるのに。 それなのに、全然教えてくれない。 棗さん、あなたはずるい。 どうしてそうやってはぐらかそうとするの……?「……
目の前にいるその人は私の腕をぐっと掴むと、そのまま唇を塞いで強引にキスをしてきた。「ちょ、ちょっと……。何するのっ!?」な、なんでキスなんてするの……!「これが俺の妻になる君への、愛の誓いだ。 まだ何か文句でも?」「………っ、最低っ!」こうして私は、鷺ノ宮グループの御曹司、鷺ノ宮棗(さぎのみやなつめ)と愛のない、偽りの結婚することとなった。✱ ✱ ✱「棗さん、おかえりなさい」 「ただいま、聖良」「カバン、預かります」「ありがとう」帰宅した棗さんからカバンを受け取った私は、リビングにカバンを置いた。そしてふと目にする、私たちの結婚式の写真。 白いドレスに身に纏った私と、タキシード姿の棗さんが、二人で微笑んでいる。だけどその笑顔だって偽物なんだ。 だって私たちは、偽りの夫婦だ。これはウソで固められた、偽りの結婚生活なのだから……。こんな生活を、誰が望んだのだろうか……。その写真に映っている笑顔も、全部ウソで固められている。「……聖良」「はい。……んっ」棗さんはなぜか、愛のない結婚をした私に、毎日キスをしてくれる。 どうしてキスをするのかなんて、分からない。だけど夫婦となった今、それを拒むことさえ私は許されない。 私は鷺ノ宮グループに、支配されているのだから。そんなことをしたら、この結婚をした意味がない。 あわよくば彼の子供をいつか産んで、跡取りを残すことだって、彼はきっと考えているだろう。棗さんは私よりも五歳年上だ。 結婚した以上、私は棗さんの言うことに逆らえる訳はないのだ。 「聖良、何を考えている?」「……いえ、別に。 夕飯に、しましょうか」「ああ」棗さんがいつも私に対してそう言うんだ。 何を考えているかなんて、絶対に教えてあげない。そんなこと教えたら、私は鷺ノ宮グループから去ることになってしまうだろうから。 そんなことは絶対に出来ない。この結婚だって、棗さんが私の父を説得してくれたから出来ただけで、私一人だけなら絶対に説得はムリだった。結局私は、彼と結婚してもコンシェルジュに戻ることはなかった。 コンシェルジュに戻りたいというよりも、こんなにもいい環境を与えてもらって申し訳ないくらいだし。主婦ではないけど、そのまま家のことに尽力を尽くそうと思った。 仕事のことを忘れて、家事に集中しようっている。
「……あの?」え、誰? どうして私の名前を知ってるの?私は、今はコンシェルジュじゃない。 名札がないから、名前を知られるものが何も無いはずなのに……どうして?「聞こえなかったのか? お前が波音(なみね)聖良(きよら)か、と聞いているんだ」 目の前にいるその男性は、もう一度そう言った。「えっ……。あ、はい。 私が、波音聖良ですけど……」恐る恐る名前を口にすると。彼は私の前に腰掛けて、一言こう言った。「……なあ。お前、俺と結婚しないか?」「……はい?」頭の中に繰り返されるのは、結婚というニ文字。えっ、えっ……結婚?!待って待って!どういうこと……?え? い、今なんて……?頭の中をグルグル思考回路が回っていくけど、訳が分からなくて戸惑うばかりだ。チラつく結婚という言葉のニ文字だけが、私の頭の中をぐるぐるとかけ巡る。「仕方ない。もう一度だけ言う。……波音聖良、俺と結婚しないか?」「……はいっ!?」け、け、結婚……!? な、な、なんで結婚……!?「お前、驚きすぎじゃないか?」「い、いや、だって! あなたがいきなり、結婚だなんて言うから……!」 待って待って? そもそも私、この人のこと知らないんだけど……!えっ、私ってもしかして……知らない相手にプロポーズされたってこと?え、結婚ってなに……? 待って、意味が分からないっ!「お前は俺のことを知らないかもしれないけど、俺はお前のことを知っていた」「えっ?」そんな発言をされたら、ますます混乱するに決まっている。 なんで突然、そんなことを言われるのかすら、私には分からないのだから。「……お前。いや、波音聖良さん」「は、はい」 なぜかその瞳に見つめられるだけで、ドキドキしてしまう。「聖良、俺と結婚してほしい。 俺の妻として、鷺ノ宮グループに来てほしい」「……え?」 えっ、待って。今なんて言ったの? 今聞き間違いでなければ……鷺ノ宮グループと聞こえたような気がしたんだけど……?「ええっ!?」さ、鷺ノ宮グループって……! まさかこの人、鷺ノ宮グループの……!?「む、無理ですっ!」「はっ?」 そんなの無理に決まってる……!「さ、鷺ノ宮グループに関わる人、私はみんなキライです! 私はあなたたちに解雇されたんですよ!?……良くそんなことが言えますね」 この人、どうか