妻・希美の浮気が発覚した夜、唯史は、自分の中に空洞があることをはっきりと自覚した。 希美の不倫は、ただの裏切りではなかった。それは、唯史が自分から目を逸らしてきた「本当の自分」に気づかせるきっかけだった。 離婚を決め、地元の大阪郊外に帰郷した唯史は、十五年ぶりに佑樹と再会する。 「中学の頃から、お前だけが好きやった」 その言葉と共に重なる唇。崩れかけた心に、温度が染み込んでいく。 友情と愛情の境界、身体と心の欲望、所有と共生。 すれ違いと独占欲を重ねながら、二人は「恋人」という名前以上の関係に進んでいく。 「お前は、俺の帰る場所」 ――壊れた日常から始まる、情感と官能が交差する十五年目の恋。
View More夜のリビングは、静まり返っていた。時計の針は夜十時半を指している。初夏の湿った空気が窓の隙間からゆるやかに流れ込み、カーテンの端をわずかに揺らしていた。外は曇り空で、雨上がりの湿度が部屋の中まで入り込んでくる。肌にまとわりつくその重さが、不快というよりも、ただ鈍く心を締め付けていた。
間接照明だけが灯るリビングには、冷めきったコーヒーカップがテーブルの上に放置されている。その横には、開きっぱなしの雑誌と、希美のスマホが置かれていた。ソファのクッションには彼女の髪の毛が一本、細く落ちている。それを見つけた唯史は、何も考えずに指で摘み、そっと膝の上に置いた。
唯史はソファに深く腰を沈め、足を投げ出していた。身体は疲れているはずなのに、まぶたは重くならない。目の奥がじんわりと熱い。何も考えたくないのに、頭の中は妙に冴えている。冷めたコーヒーを一口飲んだ。口の中に広がる苦味は、今の自分にとって唯一の確かな感覚だった。
唯史は二十九歳。三年前に結婚した。中学時代から「超絶美少年」と呼ばれた過去を持ち、今もその面影を残している。黒髪、色白、切れ長の目。細身の体は昔とほとんど変わらず、時折「なんでそんな綺麗な顔してんの」とからかわれることもある。けれど、自分ではその「綺麗さ」に興味がなかった。鏡を見ても、他人事のようにしか思えない。どこか遠くから、自分を見下ろしているような感覚。それが唯史の日常だった。
結婚相手の希美は、二十八歳。昔は可愛い系だったが、最近は「女としての色気」を意識するようになった。茶髪のセミロングに、整えられた眉。柔らかい声と、きれいに手入れされた指先が特徴だ。付き合い始めた頃は、素朴でナチュラルだったのに、結婚してからはメイクも服装も少しずつ派手になっていった。その変化を、唯史は遠くから眺めていた。何も言わなかった。ただ、見ていただけだった。
希美は今、風呂に入っている。リビングには彼女の気配がない。そのことが、唯史には心地よかった。誰かと一緒にいることに、最近は疲れを感じることが多かった。結婚生活というものが、こんなにも重いとは思っていなかった。いや、重いというより、じわじわと身体の奥に染み込んでくるような違和感。それが日々積み重なっていった結果、今の状態がある。
テレビはつけっぱなしだが、音は消してある。画面だけが淡々と映像を流している。何かのドキュメンタリー番組が、字幕と映像だけで進んでいく。その無音の映像を、唯史はぼんやりと眺めていた。集中しているわけでもなく、ただ目を向けているだけだった。
テーブルの上にある希美のスマホが、ふいに光った。
「ぴろん」
通知音が、小さく鳴った。唯史の指先がぴくりと動いた。スマホの画面が一瞬だけ明るくなり、すぐに消えた。その一瞬の光に、唯史は目を細めた。何気なく、画面を見てしまった。無意識だった。そこには、LINEのポップアップが表示されていた。
「ありがとうね♡またね」
唯史のまつ毛が微かに震えた。唇の端が、わずかに上がる。それは笑みともつかない、曖昧な表情だった。ああ、やっぱりな…と心の中で呟いた。
相手は、職場の先輩だった。希美がよく名前を出していた男だ。飲み会が多い部署で、遅くまで帰ってこない日が続いていた。そのことに疑問を持たなかったわけではない。けれど、問い詰めることもせず、唯史はただ黙っていた。
心臓が一度だけ跳ねたが、すぐに平坦な感情が戻ってきた。怒りも、悲しみも、嫉妬もなかった。ただ、「そうか」と思っただけだった。
ソファに座ったまま、唯史は希美のスマホから目をそらした。画面はすでに消えている。指先に残るコーヒーカップの感触だけが、現実を繋ぎとめていた。
雨上がりの夜風が、窓の隙間から吹き込んでくる。カーテンが、ふわりと揺れた。その動きが、やけにゆっくりに見えた。
唯史は、ただその風景の中に溶け込んでいた。自分の心が、どこにあるのかもわからなかった。ただひとつ、確かなことは…この静寂が「何かが壊れる前の静けさ」だということだった。
「そろそろ、お開きやなあ」幹事の一言で、座敷の空気が少し緩んだ。誰かが立ち上がり、会計の話を始める。スマホで割り勘アプリを開くやつ、財布を取り出すやつ。その光景が、唯史には遠く感じられた。「唯史、外ちょっと行こか」佑樹が、唐突に声をかけてきた。その声は、周囲のざわめきとは別の場所から聞こえてくるようだった。「……ええよ」唯史は、軽く頷いた。心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。会計は他のやつらに任せて、二人は店を出た。赤提灯の灯りが、背中に揺れている。湿った夜風が、二人の間を通り抜けた。「懐かしいなあ、ここ」佑樹がそう呟きながら、駅前の通りを歩き出す。唯史も、その後をついていった。足元には、まだ雨上がりの水たまりがいくつも残っていた。靴の底が、湿ったアスファルトを踏むたび、じんわりと水気を吸う音がした。駅から少し歩いたところに、河川敷への階段がある。二人は、そこを下りた。草の匂いが、雨で湿った夜に漂ってくる。川の流れが、低い音で続いていた。「ここ、変わってへんな」佑樹がぽつりと言った。「せやな」唯史は短く返した。でも、心の奥はざわついていた。この場所に来るのは、いつぶりやろ。中学の頃、よくここで二人でだべってた。部活の帰りに、缶ジュース片手に座って、どうでもいい話をしていた。その時間が、やけに長かったような気もするし、あっという間に過ぎたような気もする。「タバコ、吸う?」佑樹がポケットから煙草を取り出した。唯史は一瞬だけ迷ったが、頷いた。「……一本だけもらおか」佑樹がライターで火をつける。オレンジ色の火が、ふっと揺れた。その火を分けてもらい、唯史も煙草に火をつける。「こんなとこで吸う
飲み会はさらに盛り上がっていた。テーブルの上には、ビールのジョッキがいくつも並び、枝豆や唐揚げの皿はすでに半分以上が空になっていた。座敷のあちこちから笑い声が響く。箸を持った手が賑やかに動き、話題は尽きなかった。「うちのガキがな、こないだ初めて自転車乗れたんや」「マジで?お前の子供、もうそんな大きいんか」「七つやからな。ほんま、早いわ」誰かがスマホを取り出して、子供の写真を見せる。画面には、補助輪なしで自転車を漕いでいる小さな子供が映っていた。それを見て、周りは「可愛いなあ」と口々に言った。「ウチもそろそろ二人目やねん」「え、マジ?はよ作らな俺も負けるわ」そんな会話が、途切れなく続く。家庭の話。子供の話。仕事の愚痴と、妻との会話。当たり前のように交わされるその言葉たちが、唯史には遠い世界のものに聞こえた。グラスの底を見つめる。氷はもう溶けかけて、薄まったハイボールの残りが揺れている。指先でグラスをくるりと回した。カランと小さな音がした。それが、やけに響いた気がした。「帰りたいな」心の中で、そう呟いた。けれど、席を立つことはできなかった。まだ時間が早い。みんなが盛り上がっている中で、自分だけ「もう帰るわ」と言うのは、なんだか悪い気がした。隣では、遥がまだ佑樹にちょっかいを出していた。「佑樹って、昔からそうやんな。女子の扱い、うまいんか下手なんか、ようわからんとこ」遥は笑いながら、佑樹の肩を軽く叩く。佑樹は苦笑して、それを受け流している。適度な距離感。それが、佑樹らしかった。「せやろか。別に意識したことないけどな」佑樹の声が、柔らかく響く。その声を聞いた瞬間、唯史の視線は自然と佑樹の方へ向かっていた。自分でも気づかないうちに、目で追っている。そんな自分に、唯史は戸惑った。
「きゃー、懐かしい顔ぶれやなあ」そんな声とともに、店の入口から遥が入ってきた。瞬間、座敷の空気が少しだけ華やいだ。視線が一斉に彼女へと向けられる。遥は、昔から目立つ存在だった。今も変わらず、いや、むしろその派手さは増していた。茶髪のセミロングを軽く巻き、目元は濃いめのアイライン。赤いネイルがグラスを持つ手元を鮮やかに彩っている。服装はカジュアルにまとめているが、胸元の開き具合が絶妙だった。男たちは、冗談交じりに「綺麗になったなあ」と囁き合い、女たちは少し距離を置くような目を向ける。遥はその全てを分かったうえで、笑っている。「私さ、最近彼氏に浮気されてさー、別れたばっかりやねん」遥は、グラスを片手に笑いながらそんな話題を投げ込んだ。その声は明るいが、目の奥は少しだけ冷めている。自分を消費することに慣れている女の目だった。「えー、また?遥ってほんま男運ないよなあ」誰かが茶化すと、遥は肩をすくめて笑った。「せやねん。まあ、私も見る目ないんやろなあ」その言葉に、場がまた笑い声に包まれる。けれど、唯史はその輪の中に入れなかった。グラスを指先で回しながら、ただ黙ってその様子を見ていた。「佑樹、久しぶりやなあ」遥が、隣に座っていた佑樹に話しかけた。声のトーンが少しだけ変わる。女が男に向ける「興味」の色が混ざった声だった。「かっこよなったなあ。バレー部のときからモテてたけど、今もすごいやろ」そう言って、遥は佑樹の肩に手を置いた。爪の赤が、佑樹のシャツの肩口にちらりと映える。その手は、軽いはずなのに、妙に目立った。「いやいや、そんなんちゃうわ」佑樹は苦笑して、遥の手をそっと外した。けれど、その仕草は決してきつくはなかった。適度に距離を保つ、昔からの佑樹らしい対応だった。「今は地元で仕事してんの?」「まあな。工場やけどな
ガラガラと入口の引き戸が開いた。湿った夜風が一瞬だけ店内に入り込み、座敷の空気を微かに揺らした。その風と一緒に、懐かしい声が耳に届く。「唯史、来とったんか」その声を聞いた瞬間、唯史の胸の奥が小さく「トン」と跳ねた。自然と顔を上げると、そこには佑樹が立っていた。バレー部のエースだった頃の面影を、そのまま大人に引き伸ばしたような姿だった。背が高い。昔から高かったが、さらに伸びた気がする。肩幅が広く、身体つきはがっしりしている。けれど、表情は変わらない。あの頃と同じ、少しだけ照れたような笑い方だった。「おー、唯史」佑樹が近づいてきた。座敷の端に座る唯史の前に立つと、自然に手を差し出してきた。唯史も、手を伸ばした。二人は握手を交わす。その瞬間、佑樹の手のひらが温かいと感じた。大きくて、包み込むような手。それが、唯史の指先から腕へ、そして胸の奥までじんわりと伝わる。「変わらんなあ、お前は」佑樹が笑いながら言った。その笑顔は、昔と同じだった。唯史は、少しだけ唇の端を上げた。「お前は変わりすぎや」そう言いながらも、目の奥では揺れが走っていた。佑樹の姿が、昔のままなのに、大人になっている。その違和感と懐かしさが混ざり合って、唯史の胸を締めつけた。「いや、そりゃ十五年も経ったらなあ」佑樹は照れたように肩をすくめた。その仕草も、あの頃と同じだった。「仕事は?こっち戻ってきたん?」「まあな。いろいろあってな」「いろいろって、離婚か」佑樹はさらっと言った。けれど、その言い方には責める感じはなかった。ただ、事実を知っているだけ、という表情だった。「まあ、そうや」唯史は短く答えた。それ以上、何も言わなかった。言いたくなかった。けれど、佑樹の目は、
昼下がりのリビングには、静かな時間が流れていた。唯史はソファに腰をかけ、パソコンの画面を睨んでいた。キーボードを打つ音だけが部屋に響く。そのリズムは一定で、時折途切れながらも続いていた。窓の外からは柔らかな陽射しが差し込み、カーテンの隙間から光の筋が床に伸びている。画面に映る文字は、書類のチェックだった。けれど、集中力は長くは続かなかった。ふと手を止め、唯史は視線を上げた。リビングのテーブルには、佑樹がいつも使っているマグカップが置かれている。底に少しだけ残ったコーヒーが、光に反射して小さく揺れた。その隣には、佑樹が昨夜脱ぎ捨てたネクタイが、きちんと畳まれずに置かれていた。いつもなら「ちゃんと片付けろよ」と文句を言っていたはずだった。けれど、今日はそのだらしなさが、なぜか愛しく思えた。唯史は、ゆっくりと背もたれに体を預けた。首筋に汗が滲むほどではないが、微かな湿度が肌にまとわりつく。パソコンの電源を切り、静かな部屋に耳を澄ました。時計の秒針の音が聞こえる。その単調なリズムが、逆に心を落ち着かせた。視線は自然と、部屋のあちこちへと移っていった。佑樹のスニーカーが玄関に並び、洗面台には佑樹の歯ブラシが立てかけられている。リビングの片隅には、佑樹が読みかけの本が開かれたまま置かれていた。「…完全に、ここは佑樹の生活やな」ぽつりと呟いた声は、誰にも聞かれないまま空気に溶けた。けれど、その言葉が自分の胸に深く響いた。昔のことを思い出す。希美と暮らしていた頃のこと。あのときも、同じように朝食を作り、夜になればテレビを見ていたはずだった。でも、今思えば、あの生活にはどこか空白があった。帰る場所は家だったけれど、心はいつも別の場所を探していた。希美の隣にいながら、自分はどこか遠くにいるような気がしていた。「…あのときは、帰る場所がなかったんやな」唯史は、ふとそんなことを思った。結婚して、家庭を持ったはずだったのに、自分の居場所はどこにもなかった。仕事に逃げ、夜遅くまで帰らずに過ごしていた日々。希美と並んで寝ても、触れることさえできなかった。触れたくても、心が拒否していた。けれど、今は違った。
午後七時。湿度を含んだ初夏の夜だった。 地元の駅前は、雨上がりの水たまりがまだところどころに残り、アスファルトの表面が薄く光っていた。 唯史は、傘を持たずに駅を出た。 空気は重たく、湿った風がシャツの裾を揺らす。 けれど、その風が頬を撫でる感覚は、どこか懐かしかった。居酒屋「やまじん」の赤提灯が、微かに揺れている。 提灯の表面には、水滴がいくつも貼りついていて、照明の光をぼやかしていた。 昔から変わらないその光景に、唯史は一歩足を止めた。 思い出の中の「やまじん」と、今目の前にある「やまじん」が重なる。 十五年経ったのに、看板も暖簾も、そのままだった。 ただ、自分たちが変わっただけ。 そんな事実が、胸の奥を静かに締めつけた。入口のガラス戸には、まだ水滴が残っている。 指で一つをなぞると、冷たい感触が指先に伝わった。 そのままガラガラと戸を引き、唯史は中へ入った。「おー、唯史やん!久しぶりやな!」座敷からいきなり声が飛んできた。 中学時代のクラスメイトたちが、すでに何人か集まっている。 皆、笑顔で手を振っていた。 丸テーブルの周りに座る顔ぶれは、懐かしさと同時に、どこかぎこちなさもあった。 それは「大人になった自分たち」と「中学時代の自分たち」が、同じ空間にいる違和感だった。「老けたなあ」「変わらんなあ」そんな言葉が飛び交う。 髪が薄くなったやつ、体型が変わったやつ、仕事の話をし始めるやつ。 でも、笑い方や表情は、あの頃のままだった。唯史は、少しだけ笑顔を作った。 形だけの笑み。 心から笑っているわけではなかった。 だが、それが同窓会というものだと分かっていた。「唯史、帰ってきたん?」誰かが声をかけてきた。「いや、まだ大阪市内住みやで」唯史はそう答えた。 言葉は簡単だったが、その裏には「離婚して」「仕事も変えて」「いろいろあって」という説明が隠れている。 けれど、
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