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夢の終わりに

作者: 中岡 始
last update 最終更新日: 2025-08-24 15:40:20

「夜明けが来る」

アミールは静かに、最後の一節を紡いだ。

「青年は、処刑台の階段を自らの足で上がりました。恋人の幻は、もう現れません。香りも声も、夢の花も…すべては夜とともに消えていたのです」

サリームはその声を聞きながら、掌の内側がじっとりと湿っていることに気づいていた。握りしめた銀杯の縁がわずかに歪んでいる。だが手を離すことができなかった。

「刃を振り下ろす者の顔も、見ませんでした。青年はただ空を見ていました。淡く白い朝靄の向こうに、ひとつだけ紅い実が揺れていたのです」

アミールは、言葉を置くように、呼吸を整える。

「それは恋人が好きだった果実。名を知らぬまま口にして、“甘くもあり、苦くもある”と言った…その実が、枝先に揺れていたのです」

王の視界に、突如としてザイードの笑顔が蘇った。

葡萄か、ざくろか、あるいはナツメヤシだったか。覚えていない。だが彼が果実を齧ったその唇の赤、光に透けた果汁の色だけが、まざまざと甦った。

「青年は、最後の瞬間にこう言いました。“忘れたくなかった”“誰よりも、お前を愛していた”と」

アミールの瞳が、そっと王を見上げる。炎でもなく氷でもなく、ただ静けさをたたえた色だった。

「そして刃が、首筋に触れたとき…彼は、微笑んでおりました」

物語は、終わった。

王の寝室は、香の煙が漂っていた。窓の向こうから朝の光が滲み、薄布を透かして床に淡い影を落としている。時間が動いていた。現実の時間が。

アミールは何も言わず、ゆっくりと跪いた。額を床に近づけ、そのまま動かない。

王サリームは盃を置いた。音はしなかった。ただ、手が宙をさまよい、やがて膝の上に落ちた。

「…終わったのか」

誰にともなく、彼は問うた。

答えはない。アミールは沈黙のまま、頭を垂れている。まるで語りの代償として、自らの命を差し出した者のように。

「処刑の時間は、三刻後だと聞いている」

サリームはそう告げた。けれどその声には、命令の重さがなかった。

「お前は…なぜそれを知っている」

問いは、声にならぬまま喉の奥に沈む。言えば、すべてが確定してしまう気がした。物語はただの虚構であると、自分に言い聞かせるための儀式が、終わってしまう。

「それは、私の物語ではない。…私の罪ではない」

そう呟いても、胸の奥の何かは、ただ静かに否定していた。あの言葉。あの朝。あの果実の味。

「命を惜しんで語ったか、それとも…」

王は立ち上がった。アミールは頭を下げたまま動かない。背中の線が美しかった。柔らかく、儚く、そして抗わずにそこに在る。

「この者を、処刑台へ送れ」

その言葉が口から出たのは、もはや反射だった。過去百人を超える男娼たちに対して、同じように命じてきた台詞。言えば、すべてが戻ると思った。

だが扉の外で控えていた侍従が、命を受けた瞬間、どこかで風鈴が鳴った。

その音は――幻だったのかもしれない。

「…待て」

言葉が、無意識に喉から漏れた。侍従が足を止める。

「この者に…朝食を与えよ」

アミールが顔を上げた。その表情には驚きも安堵もなく、ただ一つの穏やかな確信が浮かんでいた。

サリームは思った。なぜ自分は、この男を殺せなかったのか。なぜ、この語りに耳を傾けたのか。

それは、自分の中の罪を暴かれたからではない。赦しを乞われたからでもない。

――忘れたふりをしていたものを、再び思い出させられたからだ。

それが、最も苦しい罰だった。

「次の夜も…語るのか」

「はい」

アミールの声は、朝靄のように柔らかかった。

「望まれるなら、どこまでも」

サリームはその言葉に、何も返さなかった。ただ、沈黙のなかに、次の夜の気配がすでに立ち始めていた。

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