以前の一葉であれば、決してここまで毅然とした態度は取れなかっただろう。「一度死にかけたんだもの。今変わらなきゃ、もう二度とチャンスはないかもしれないわ」哲也は、一葉が崖から転落し、生死の境を彷徨ったことを思い出したのだろう。人が変わってしまうのも無理はないほどの重傷だった。彼はそれ以上、何も言わなかった。彼が背を向けて立ち去ろうとした、その時。「ありがとう」と、一葉は心からの感謝を告げた。あの、狂おしいほどの焦燥感に苛まれていた時に、彼が情けをかけてくれたこと。そして、あの決定的な手がかりを与えてくれたことへの、感謝だった。立ち去ろうとしていた哲也は、その言葉に足を止め、一葉を振り返った。一葉をじっと見つめ、その感謝が心からのものだと悟った瞬間、彼は堰を切ったように感情を爆発させた。まるで、もう耐えられない、これ以上取り繕うことなどできないとでも言うように、一葉に向かって叫んだ。「ありがとう、だと?俺に何の礼を言うんだ。俺が何かしてお前の助けになったか?」「大したもんだよな、お前は!法曹界の重鎮たちを動かして、証拠集めを手伝わせて、たったの二日余りで出てきやがって!俺みたいな小物に何ができる? お前のその『ありがとう』に、どんな価値があるって言うんだ?それとも皮肉か。何日も眠れずに葛藤して、悩んで……結局、お前が刑務所に行くのを見過ごせなくて、兄として最後に助けてやろうとした……俺が苦しんで、悩んで、自分を押し殺して差し出したあの救いの手を……お前にとっては、取るに足らないものだったってわけか!お前にあの診断書を渡して、問題の在り処に気づかせてしまったことを、俺がどれだけ後悔してるか、お前に分かるか!?なんでだよ、一葉!なんで、お前はいつも俺より上手くやるんだ!なんで、お前は何をするのもそんなに簡単なんだよ!なんでお前は、何をやってもそんなに幸運に恵まれるんだ!双子として同じ腹から生まれて、同じ遺伝子で、同じ環境で育って、何もかも同じはずなのに、なんでお前だけが、いつも上手くいくんだ!お前は大して努力しなくても成績はいいし、何もしなくてもおばあちゃんや叔母さんにかわいがられて、みんながお前に家業を継がせたがって、俺のことなんか誰も見やしない!やっと恋に目が眩んで、勘当されたろくでなしのために学業も家
哲也は、この世界で誰よりも一葉を理解している人間だった。その一言は、彼女の心の最も柔らかな部分を的確に突き刺した。一葉の祖母、青山紗江子(あおやま さえこ)には三人の子供がいたが、末の子は成人前に夭折し、その心に癒えない傷を残した。一葉が大学を卒業した年には叔母が事故で亡くなり、親が子に先立たれる悲しみに打ちのめされた紗江子は、危うく立ち直れなくなるところだった。三人の子供のうち、今では一葉の父、国雄しか残っていない。国雄は一葉には冷淡だったが、紗江子に対しては孝行息子で、日頃からその身を気遣い、意に逆らうことも滅多になかった。そして、紗江子は、国雄が一葉に取る仕打ちに憤慨してはいたものの、やはり国雄はたった一人残された我が子なのだ。気にかけていないはずがなかった。もし国雄の身に何かあれば、ご高齢の紗江子は、確かに耐えられないかもしれない。「一葉、俺たちは家族だ。普段がどうあれ、何かあった時に見捨てるようなことはしない。兄さんだって、お前を見捨てなかっただろ」哲也はそう言って、一葉の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。今日子にはその言葉の真意が分からなかったが、一葉には痛いほどよく分かった。記憶を失い、監視カメラの映像のことも全く覚えていない一葉にとって、真相の究明は困難を極めていた。恩師である桐山教授の助けが現れるまで、彼女は言いようのない不安と恐怖に苛まれ、二度と外へは出られないのではないかと怯えていた。映像の日の出来事を思い出せない焦りが、自分の頭を殴りつけたいほどの衝動に変わることもあった。狂おしいほどの焦燥感。それが鎮まったのは、兄が言吾に渡した、あの躁うつ病の診断書を目にした時だった。そこから、すべてに疑いの目が向き始め、どこから手をつければいいのか、その糸口が見えたのだ。あの診断書は、今思えば間違いなく、哲也が言吾に意図して渡したものだ。彼が言吾に「一葉は優花に対してだけ間欠的に躁うつ状態になり、回復すると何も覚えていない」と告げたのは、言吾に彼女が本当に病気だと信じ込ませるためではなかった。それは、一葉へのヒントだった。なぜ自分が記憶を失っているのか、その理由を教えようとしていたのだ。哲也は、一葉が大学で心理学を副専攻していたことを知っていた。あの診断書を見れば、彼女が何を疑うべきか、どこ
「あの人に人を害する度胸があったら、とっくに大金持ちになってる」という母の言葉は、父が作った薬を闇市場に流す勇気さえあれば、その莫大な需要から、とうに巨万の富を築いていたはずだ、という意味だった。「あんただって知ってるでしょう、あのお父さんは違法なことなんてできないって!それに、優花ちゃんだって、絶対にあんたを陥れようとなんかしてない!さっさと訴えを取り下げなさい!」彼らは何も間違っていないという今日子の絶対的な確信を前に、一葉は目を伏せた。もはや、母親の愛情に期待など抱いていなかった。ただ、心のどこかで思っていた。あの真相を知れば……自分が優花を傷つけたことなど一度もなく、すべては父と優花の共謀による罠だったと知れば、母もさすがに、少しは罪悪感を抱いてくれるのではないか、と。最低でも、一言「ごめんなさい」と謝ってくれるはずだと。だが。今日子は、言吾と同じだった。長年、一葉を冤罪に陥れてきたことなど何とも思わず、ただ、どうやって優花を守るかしか考えていない。その姿に、先ほどの今日子の言葉が一葉の脳裏に蘇る。「実の親にも、お兄ちゃんにも、七年も愛し合った夫にさえも見放されて!少しは自分を省みたらどうなの!?なんでもかんでも人のせいにするんじゃないわよ!」思わず考えてしまう。本当は、自分が至らないからではないか。自分のやり方が、何もかも間違っているから、みんなにこんなにも嫌われるのではないか、と。だからこそ、真相が明らかになっても、なおこんな仕打ちを受けるのではないか。はっと我に返る。自分が何を考えていたのかを悟り、一葉は思わず身震いした。今の自分は……彼らへの期待を捨て、何もかもどうでもよくなった今の自分ですら、母親の言葉一つで、こうして自己不信と自責の念に囚われそうになる。ましてや、かつての自分は――彼ら全員に期待し、その愛を渇望していたかつての自分は、日々こんな言葉を浴びせられ、こんな理不尽な扱いを受けて、一体どれほど心が引き裂かれる思いだったことだろう。その思いが、かつての自分への憐憫の情が、一葉を突き動かした。過去の自分のために、せめて道理を問わねばならない。今日子に向き直り、問いかける。「たとえお父さんが臆病で、人を陥れる気はなかったとしても……本当にただ薬を試したかっただけだと
拘置所での数日間、一葉はろくに眠れていなかった。自宅に戻ると、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、睡眠薬に頼ることもなく、泥のように深く眠り込んだ。どれほどの時間が経ったのか。一葉は、ドアを叩きつけるような激しい音で目を覚ました。まだ目も開かないうちに、今日子の甲高い怒鳴り声が耳に届く。母親が訪ねてくるのは想定内のことだったため、一葉に驚きはない。ゆっくりと身を起こすと、服を整えて玄関へと向かった。しばらく叩き続けても応答がないことに、今日子はさらに怒りを募らせ、もう一度強く叩きつけようとした。その瞬間、目の前のドアが開いた。顔を出すなり、今日子は一葉に罵声を浴びせた。「あんた、死んでたの?こんなに長いこと叩いてるのに、出やしないんだから!」一葉は冷めた目で今日子を見返した。「お母さんが私に死んでほしいのは知ってる。でも残念、生きてるの。死んでたら、ドアなんて開けられないわよ」そう言い捨てると、くるりと背を向けてリビングへと戻った。今日子はかっとなった。「誰があんたの死を望んでるって言うのよ!私たちが優花ちゃんの方を可愛がるのも無理ないわ。その口の利き方!その態度は何!?あんたみたいな子、誰が好きになるもんですか。誰に好かれるっていうのよ」「実の親にも、お兄ちゃんにも、七年も愛し合った夫にさえも見放されて!少しは自分を省みたらどうなの!?なんでもかんでも人のせいにするんじゃないわよ!それであんたは、お父さんや優花ちゃんがあんたを陥れようとしたなんて訴えて!あの人たちがあんたを害してどうするのよ!何の得があるって言うの!」今日子のその問いは、そっくりそのまま一葉が聞きたいことでもあった。なぜ、あんな仕打ちをされなければならなかったのか。特に父親は、どうして実の娘である自分に……自分を陥れて、父に何の得があるというのだろう。誰かを蹴落として自分が利を得るというのなら、まだ理解できる。だが、こんな誰の得にもならない、ただ悪意のためだけの行為は、到底理解の範疇を超えていた。いくら罵られても一葉がひと言も言い返さないのを見て、今日子はますます逆上し、手を上げようと詰め寄ったが、それは同行していた兄の哲也によって阻まれた。「母さん、何しに来たか忘れたのか」拘置所にいる夫を思い出し、今日子はなん
一葉の帰宅に気づき、男――言吾は咄嗟に笑みを作ろうとした。だが、凍てついた空気は彼の端正な顔をこわばらせ、思うように動かすことさえ許さない。おそらく、苦肉の策なのだろう。以前の彼女であれば、彼のそんな痛々しい姿に耐えられなかったはずだ。彼が少しでも苦しめば、その一分の痛みを、十分の痛みとして我が身に引き受けたいと願ったことだろう。だが、今。一葉はただ、感情の抜け落ちた瞳で彼を見つめていた。胸に宿るのは、憐憫でも、未練でも、憎しみでも、愛でも、ましてや恨みでもない。ただ、冷たい虚無だけがあった。この凍てつく冬の夜気よりも、なお冷え冷えとした虚無が。その視線に射抜かれ、言吾は心臓を鷲掴みにされたかのように息が詰まった。「一葉……俺のこと、ひどく失望させたか……?」おそらく、優花のことはひとまず落ち着かせ、冷静になる時間を得て、ようやく思い至ったのだろう。自分が、彼女が優花に薬を盛ったのだと誤解していた、その事実に。「ううん、別に」そもそも、彼の存在自体を記憶から失っていたのだ。失望という感情すら、湧きようがなかった。ただ、この男との腐れ縁を、一刻も早く断ち切りたい。それだけだった。そう思うと、彼女は言吾が何かを言いかけるのを遮って、事務的に告げた。「来週の月曜日で、離婚証明書を受け取れるようになるわ。朝の八時半、市役所の前で会いましょう。時間通りに来てちょうだい。私に、離婚訴訟なんて面倒な真似はさせないでほしいわ」言い終えると、一葉は彼を避けるようにして、アパートの階段へ向かおうとした。だが、その腕を言吾が掴んだ。「一葉……お前は、俺にそこまで失望してしまったのか……?」その声は、微かに震えていた。一葉が彼に向ける眼差しは、あまりに淡々としていた。愛はおろか、憎しみさえも、そこにはない。まるで見ず知らずの他人を見るかのような、その瞳。その事実が、言吾を底知れぬ恐怖に叩き落とした。「一葉、頼むから俺を憎んでくれ。憎んでくれてもいいから……!」憎しみがあるなら、まだ愛も残っているはずだ。ほんの僅かでも愛が残っているのなら、彼女を取り戻す望みはまだある。この時、この瞬間に、言吾は初めて、真に、心の底から理解した。彼女が口にした離婚は、駆け引きでもなければ、気を引くための芝居でもない。彼女は、本
特に、監視カメラの映像に映っていた、一葉が優花の飲み物に薬を入れる場面については、まったくの初耳だと主張した!あの日、彼が一葉をあの店に連れて行き、薬を飲ませたのは事実だ。しかしそれは、改良版の薬が、被験者を無意識の状態で単独で帰宅させられるかどうかの効果を試すためだった、と。なぜ一葉があの場所で優花と鉢合わせることになったのか、彼自身も知らない。優花と共謀して、偽りの真実をでっち上げ、一葉を陥れるなど、もってのほかだ!彼は、あの日一体何が起きたのか、まったく把握していなかった。優花が彼にその映像を見せたのは、二年前、彼女が帰国してからのことだ。事件の日から、すでに五年もの歳月が流れていた。国雄はとうの昔にその日のことなど忘却しており、加えて一葉と優花が普段から折り合いが悪く、娘が優花を目の敵にしていると思っていたため、無意識のうちに一葉が優花に薬を盛ったのだと思い込んでしまったのだ。あの日、自分が娘に薬を飲ませたことなど、すっかり記憶から抜け落ちていた。要するに、国雄は実際に薬を飲ませて人体実験をしたこと以外、他のすべての事柄について一切関知していない、というのが彼の言い分だった。優花もまた、意図的にこの一件を画策し、一葉を陥れようとしたわけではないと否定した。あの日、偶然一葉に会って話をしただけだ。事件が起きた当初は、一体誰が言吾の父にあのような薬を飲ませたのか、見当もつかなかった、と。後日、何者かからあの映像が送られてきて、初めて一葉に害意を向けられたのだと信じ込んだ。しかし、彼女はこの映像を利用して一葉を陥れようなどとは、一度も考えたことはない。もし害するつもりなら、もっと早くに行動を起こしていたはずで、今まで待つことなどなかっただろう。この映像を世に放ったのも、彼女ではない。映像を公開し、一葉の投獄を要求したのは一葉の両親だ。彼女は最初から最後まで、この件を追及しないという姿勢を貫いていた。したがって、彼女は一葉を誣告したわけでも、陥れたわけでもない。どう考えても、彼女の行為は虚偽告発罪には当たらない。一葉の両親は、その言葉に同意するように、慌てて何度も頷いた。言吾もまた、優花が一葉の投獄など望んでいなかったと必死に証言する。だが、彼らがどれほど否定しようとも。どれほど