舞台はイギリス、湖水地方のウィンダミア。 主人公、オリバー・トンプソンは、湖のほとりにある、ウィンダミア乗馬クラブで住み込みで働くことになり、ロンドン郊外から一人、やってきた。 のどかな地で出会ったのは、美しい暴れ馬、スノーケルピー。オリバーはその馬に魅せられるが……。 イギリスの湖水地方に伝わる馬の妖精、ケルピーと、傷を抱えた新米厩務員のファンタジーBL。 番外編・後日譚もあります! illustration/ぽりぽぽ様❤ design/もみあげ様❤
View Moreケルピー(kelpie)。
妖精界に存在する幻獣で、美しい馬の姿をしている。彼らは水辺で待ち伏せ、気に入った人間を見つけると、背に乗せようと誘惑する。無防備な人間が背にまたがると、たちまち
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イングリッシュ・ブルーベル(学名・Hyacinthoides non-scripta)。
花言葉は「変わらぬ心」。見た目がとても可愛らしいこの花は、実は毒性が強く、スコットランドでは「死者の鐘」という異名があるほど。このベル型の花が風に揺れ、鐘の音を鳴らせば、それは死を告げるものだと考えられている。
もしも、森や野原の茂みでブルーベルの花を見つけたら、決して摘み取らず、そうっとその場を離れること。どんなに魅惑的でも、ブルーベルが咲く場所には、必ず妖精たちが潜み、魔法が溢れているという。一度、そこへ踏み込んだ子どもは二度と家族のもとへは戻れず、おかしな世界へ連れていかれる。大人であっても油断は禁物だ。彼らの魔法はどんな人間にもかなわない。永遠に、森の中をあてどなくさまようことになるだろう。どうしよう、どうしよう……。なんにも思い出せない……。 頭の中は真っ白だ。だが、ここで大失敗をするわけにはいかない。ライルさんとハーヴィーからの信頼を失ってしまわないために、どうにか上手くやらなければ。その重圧と不安が襲いかかり、体中からは冷や汗が噴き出していた。「オリバー、どうした? 脚を入れて。馬を出すんだ」 脚……。 ライルさんの声が微かに聞こえる。だが、足が動かない。まるで、体と心がそれぞれ別人のものになってしまったかのようだった。『人間の緊張状態は、馬に自然と伝わるものだ。乗るときはリラックスして、王様になったような気持ちで乗ること。でないと、馬まで緊張して、突然走り出したりするからね』 かつて、乗馬の体験授業で習ったときの記憶だろうか。もう顔もほとんど覚えていない講師の教えが、不意に脳内に浮かんだ。僕は焦りを感じながら、グッと目を瞑る。こんなにも緊張した状態で馬に乗っていることが、本来ならどれほど危険か。そんなことばかり考えてしまう。しかし、その時だった。 ――オリバー、大丈夫だよ。 不意に、ハーヴィーの声が聞こえた。柔らかな口調と声に、僕はハッとした。「ハーヴィー……」 思わず、彼の本当の名前を呼んだ。するとまた、頭の中にハーヴィーの声が響く。 ――絶対に大丈夫。ぼくを信じて。なにもかも、うまくいくから。「でも……、僕……」 ――大丈夫。目を瞑って。 言われるまま、僕は目を瞑る。 ――そのまま、ぼくの体に触って。 やはり言われるまま、僕は手綱を握っていた右手を放し、そっとハーヴィーの首に触れた。手の平から彼の体温が伝わってくる。その温かさには、どこか硬直していた体や心臓がほぐれていくような感覚を覚えた。 あぁ、あったかい……。 冷や汗で、指の先まで冷たくなっていたというのに、手の平はどんどん温まっていく。その熱が体中に届いて、やがて胸の奥までじんわりと熱くなった。呼吸が落ち着いてきて、そのリズムは次第にハーヴィーの呼吸の音と重なった。 ――目を開けて。 また、ハーヴィーの声がした。彼に誘われるように、僕はぱち、と目を開ける。とても不思議だった。自分でも驚くほど、今、僕は落ち着きを取り戻している。さっきまで
「オリバー? どうした?」「いえ……、なんでも」 ひと言、そう言って笑みを見せる。それからタックルームを出て、馬房に戻るまでライルさんも僕も、なにも話さなかった。だが、ハーヴィーの馬房に戻ると、ライルさんは耳打ちをするかのように、ハーヴィーに声をかける。「スノーケルピー、今日は絶対に乗せてくれよ。君の友達が乗るんだ。いいな?」「え……」 僕は驚いてライルさんを見つめるが、彼は僕を一瞥して、さらに続けた。「彼はこのクラブで一番優しい男だ。それを君もわかってる。そうだな?」「ライルさん……。まさか今日の調教……、最初から僕が乗るんですか?」「もちろん。君だってそのつもりでオレのところへ打診しにきたんじゃなかったのか?」 ライルさんは意地悪そうに笑った。無論、彼の言う通りではあるものの、僕は慌てて、かぶりを振った。「でも……、でも僕はまだ、乗馬経験が数回しか――」「大丈夫。オリバーだって、もっと馬に乗れないと仕事にならないし、慣れるのにはちょうどいいタイミングだよ」「そう……ですけど……」「大丈夫だって」 ライルさんに、馬術で使用する専用の頭絡を渡され、不安と緊張で胸がドキドキと高鳴る。半ば勢いばかりでここまで来てしまったことをほんのわずかに後悔したが、もう後戻りはできないこともわかっていた。ひとまず、一度だけ深呼吸をする。ライルさんに馬術専用の頭絡の装着方法を教わりながら、ハーヴィーの頭部にしっかりとそれを装着させ、鞍を背に乗せる。それから、しっかりと腹帯を締める。「これでよし。さぁ、馬場に出るぞ」「本当に大丈夫かな……」 しかし、やはり不安で堪らなくなって、僕はハーヴィーの顔を撫でて、そこへ額をつけた。彼の声は聞こえない。恐らくはそれこそがハーヴィーの返事なのだろう。心配ない――と、彼はそう言っているに違いなかった。ただし、そうであっても、僕の不安が消えるはずはなかった。 もちろん、ハーヴィーに乗るということ自体に恐怖はない。乗馬の経験も少しずつ、積んでいかなければならないことも理解している。それでも、ハーヴィーが本当に僕を受け入れてくれるのか。それに自信はまだなかった。いくらハーヴィーが僕を好いてくれ
「数回、あるかないか……」「君たちはきっと相性がいい。運命なのかもしれないよ」 ライルさんがそう言うと、ハーヴィーがふわりとしっぽを振った。きっと喜んでいるのだろう。そんな彼を見れば、僕もなんだか嬉しくなって、自然と笑みが零零れる。「そうなのかもしれません。でも、運命だなんて……。なんだかちょっとスピリチュアルだ」「そうとも。知らなかったのか? 馬ってのは、スピリチュアルな生き物なんだよ」 ライルさんと僕は顔を見合わせて笑う。ハーヴィーとの出会いが運命的だったか――と問われれば、それは否定できなかった。 初めて彼に会った日。視線がぶつかったあの瞬間に聞こえた声は、きっと僕にだけ聞こえていたのだ。しかも、彼はただのサラブレッドではない。ケルピーという妖精で、しかも王子様だった。こんな出会い、誰にでも訪れるものではない。人生のうちで数回どころではない。恐らく、もう二度とない。「運命かぁ……」 そう呟き、泡だらけになったハーヴィーの体を水で流しながら、ふと思う。ハーヴィーとはきっといい友達になれる。いや、最高の親友になれる。その確信が、僕にはあった。ただし、彼は妖精。ケルピーの王子。一緒に過ごす時間は限られている。もしかすると、ある日突然、別れが訪れるかもしれない。 帰り道がわかったら、ハーヴィーはきっと元の世界に戻ってしまうのだろう。いつまでもこの世界で、サラブレッドとして厩舎に飼われ、こんなふうに暮らしてはいられないはずだ。いずれ、時が来れば。僕と彼は別れなければならなくなる。 お別れするのはちょっと寂しいけど、でも、ハーヴィーにとってはそれが一番の幸せだもん。……しようがないよね。 それもまた運命だ。ハーヴィーの体の泡を流したあと、僕は汗こきで彼の体の水分をよく落としていく。そうしながら、心の中で強く決意していた。限りあるハーヴィーとの時間を、大切にすること。そして、ハーヴィーが妖精界に帰れるようになるまで、リーさんから、彼を守り抜くこと。 ハーヴィー。君がこの世界にいる限り、僕は君を守るよ。 首を撫でて、心の中で語りかける。すると――。ハーヴィーの声が頭の中に響いた。 ――ありがとう、オリバー。ぼく、君が大好きだ。*** その日の午後は、これまで全くできずにいた調教に挑戦してみることになって、僕は少し緊張
「馬が緊張するから、行って」 ライルさんが声をかけると、厩務員たちはそれぞれの持ち場に戻っていく。ただ、ルークさんだけは周辺をうろうろとしながら、心配そうにこちらを気にしていた。無理もない。先月入ったばかりの未経験者の新入りが、ベテランでも手を焼く暴れ馬を担当し、一人で頭絡を付けて引き、馬房の外に出そうと言うのだから。 頼むよ……。ハーヴィー……!「まず、馬の左側に立って、無口はこうやって、右手で持つ」「こう……ですか……?」「そうそう。それから、鼻先を軽く押さえて――下に引いて……。そうだ、うまいぞ」 ライルさんに教えられるまま、僕がハーヴィーの頭に頭絡を付けようとすると、ハーヴィーは大人しく頭を下げてくれた。その様子に、ライルさんは目を丸くする。「まるで違う馬みたいだな……。いつもならここで絶対に頭を振るのに」 僕が肩をすくめ、無言で微笑むと、ライルさんは続けて無口の付け方を教えてくれた。そうして最後に、それがきつくないかどうか確認し、装着は難なく終わってしまった。僕はホッとして、ハーヴィーの首を撫でてからそこに額をこつん、と合わせ、ライルさんに目をやる。ライルさんはこれは参った、と言わんばかりに眉を上げた。「信じられないな……。普段の半分の時間もかかっていない。お前、本当にスノーケルピーか?」「ライルさん。僕、このまま彼を引いて、放牧に行きます」「ああ、頼むよ」「スノーケルピー、行こう」 僕がハーヴィーに声をかけ、引き手を取ると、ハーヴィーは歩き出した。彼とともに馬房を出て、厩舎の敷地内を歩き、放牧地へ向かう。朝の澄みきった空気が気持ちよくて、僕はハーヴィーを引きながら、思いっきり深呼吸した。「気持ちいいね、ハーヴィー」 こっそり、そう声をかけると、ハーヴィーはブルル……ッと鼻息を荒くした。これは、馬がリラックスしているときに見られる反応だ。昨晩のように妖精の姿になれたなら、きっと彼は今、「そうだね」と言って、微笑みかけてくれただろう。しかし、彼は馬の姿のまま。ただ、僕の少し後方を歩くだけ。そうして、微笑むことすらしない。それでも、彼の穏やかな眼差しや
「僕にはお金はありません……。でも、スノーケルピーが言うんです……。僕のことだけは、その――怖くないって……」「へえ?」「それに、彼はリーさんに脅されていたとも言ってました。言うことを聞いたら、迎えに来てやるけど、そうでなけりゃ、肉に……するって……」「おいおい、嘘だろ……」「本当なんです……! だからスノーケルピーは暴れるんです。彼は、リーさんのところに戻るのも、肉にされるのもどっちも嫌で、でも、どうしたらいいのかきっとわからなくて……、きっと怖くて……」「参ったな、こりゃ……」 ライルさんは髪を掻き上げて、呆れかえったように僕を見つめた。まだ新米厩務員の僕が、暴れ馬と名高いスノーケルピーの担当を申し出て、しかもスノーケルピーの声を聞いたなんて言い出したのだから無理もない。ただし、どうやらスノーケルピー、つまりハーヴィーの馬主、デクスター・リー氏が、良質ではなかったということだけは、彼も知っているようだった。「実をいうと、リーさんのところにいた馬は、みんな性格が荒れるって噂があるんだ。これまで彼は、スノーケルピーのほかにも何頭か馬を持っていたらしいけど、みんな折り合いがついていない。それなのに、思うように動かない馬をすぐどこかへ売り飛ばしちゃあ、また買うんだってさ」「そうなんですか……。それでその――売り飛ばされた馬たちはどこへ行ったんです?」「さあ……、そこまでは……。知り合いに安く売ったって話もあるみたいだけど……。まさかな……」 ごくり――と僕は唾を飲み込む。もしかしたら、食用に売られて、食べられてしまったのかもしれない。もちろん馬を食べる文化は、世界的に見てもいくつも存在する。食文化である以上は仕方がないことだ。だが、イギリスでは皆無。羊や鶏を食べても、犬や馬は絶対に食べない。この国で彼らを食すということは、友達を食べることと変わらないのだ。「どれも聞いた話ばかりだから、オレは信ぴょう性はないと思っていたし、なにより彼は金持ちだからね。妬みやっかみで悪い噂を流されがちなんじゃないかと思ってたんだけど……やっぱり、本当なのかな……」「僕も、この目で真実を見たわけじゃありません。でも、スノーケルピーがどんなに暴れ馬でも、嘘を吐くような子じゃないと思うんです」
その翌日――。僕はぼんやりした頭を無理やり覚まそうと、とびきり冷たい水で顔を洗った。まだ頭がうまく働かない。昨晩の記憶が、ハーヴィーとの時間が、現実だとはとても思えなくて、僕はじっと鏡の向こうの、寝ぐせ頭で寝ぼけ眼眼な自分の顔を見つめた。 夜更けの物音。青白く光り輝くスノーケルピーの馬房と、そこに現れたハーヴィー。まるで不思議な夢を見ていたかのようだ。ただし――。 夢……だとしても、すごく鮮明に覚えてる。ハーヴィーの温もりも、声も。 ぼんやりしたままの頭でぐるりと部屋の中を見渡し、頭を掻く。ふと、白いシーツの上にキラリと光る糸のようなものを見つけた。僕はなにげなくそれを指先で摘まんで、日の光にかざしてみる。まるで絹糸のように美しいそれは、長い灰色の馬の毛だった。恐らく、ハーヴィーのしっぽの毛だ。 やっぱり、昨日のことは夢じゃない。あれ――……でも、ちょっと待てよ。僕はあのとき、確か……。 昨夜はあまりの出来事に驚いたり、呆気に取られるばかりだった。そのせいですっかり忘れていたが、確か――馬房でハーヴィーを見つけたとき、彼は僕にキスをしたのではなかったか。 そうだ……。僕、あのとき……、ハーヴィーと、キス――……。 思わず、僕は手で口を覆った。たちまち頬が熱くなっていく。昨晩は気に留めなかったことだが、冷静になって思い返すとひどく恥ずかしい。そもそも、僕は誰かとキスをしたことなど一度もなかったので、あれがファーストキスでもあるのだ。 妖精とファーストキスなんて……。 全く信じられない。昨夜、自分の身に起こったことは、なにからなにまで、あまりに奇想天外だった。しかし指先で、唇をなぞりながら思う。きっとあのキスに特別な意味があったわけではないのだろう――と。ハーヴィーは妖精といえど、一応は男であるようだし、あれは想いを伝えるようなものでもなかった気がする。僕にとっては強烈な思い出として記憶に残っているが、ただ、それだけだ。 妖精にとって、キスは、挨拶みたいなもんなのかもな……。 ハーヴィーの灰色の毛をもう一度、日の光にかざし、笑みを零す。なにもかも、夢のようで夢ではない。おかしな馬の妖精に出会い、懐かれてしまったのは事実。そして、彼を助ける
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