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バグを感じる瞬間

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-19 12:21:21

洗濯機の終了音が、部屋の隅で小さく鳴っていた。静かで温度の安定した午後。窓の外では風が葉を揺らしているのが見えるが、部屋の中は淡々とした時間が流れていた。大和はリビングのローテーブルの前に座り込み、洗いあがった洗濯物を一枚ずつ丁寧に畳んでいた。Tシャツやタオル、靴下。彼の手つきは、慣れたものだった。

高田は、そのすぐそばの椅子に腰掛けていた。特に何をしているわけでもなかった。ただ、近くにいて、大和の手の動きをなんとなく目で追っていた。けれど、それもどこか落ち着かない感覚が伴っていた。目の前で繰り返される「日常の動き」が、自分の中でうまく噛み合っていない。何かの軸が少しずれている気がした。

「なあ、これ俺の?君のやっけ?」

大和がふいにそう言いながら、黒いTシャツを掲げた。柔らかく笑った顔。問いかけに悪意などなく、ただの日常の一コマ。軽い確認のつもりだったのだろう。けれど、その一言に、高田の思考は急に止まった。

即答できなかった。思わず、視線がTシャツから床へと落ちた。言葉が喉元まで出かけては戻る。その間、わずかに沈黙があった。ほんの二秒。それはきっと、大和にとってはさほど気になる長さではなかったかもしれない。けれど、高田の中では、その二秒が永遠のように思えた。

自分でも、その“間”を認識してしまった。理解するまでの時間、そして「この程度のことで詰まった」という事実に、自分自身がぎこちなくなっていくのを感じた。あまりに些細なことだ。それなのに、反応が遅れた。その瞬間、自分の中にある“恋人”という定義の不完全さが、音もなく浮かび上がった。

「たぶん……君の、だと思う」

なんとか絞り出した声は、小さく、乾いていた。語尾が曖昧に濁る。大和は、「そっか」とだけ返し、気にする様子もなく別のシャツに手を伸ばした。けれど、高田の指先は、その瞬間すでに自分の足元に落ちていた小さなタオルを、無意識にきつく握っていた。

恋人同士なら、こんなとき、自然に笑い合うのかもしれない。冗談を言ったり、ふたりで「どっちやっけな」と笑いながら洗濯物を分けるのだろう。だが、自分にはその自然がインストールされていない。

高田のまつ毛が、わずかに揺れた。感情ではなく、思考の揺ら

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  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   灰色の街と、手の震え

    アスファルトの歩道に、薄く濡れた光が反射していた。曇り空からは太陽の輪郭さえ見えなかったが、梅雨の湿気が空気に厚みをもたらし、服の内側にじわじわと熱がこもる。街は静かだった。土曜日の昼過ぎ、人の流れは緩やかで、信号の点滅音や自転車のチェーンの軋む音が、ひとつひとつくっきりと耳に届いた。高田は、まっすぐ前を見据えて歩いていた。普段よりわずかに歩幅が狭く、呼吸のリズムを意識的に整えながら進む。片手にはスマートフォン、もう片方の手はシャツの裾をそっと摘んでいた。細く握った指先に、じんわりと汗が滲んでいる。脳内で、思考のアルゴリズムが静かに動いている。歩行速度、標準より-6パーセント 心拍数、平均値より+10程度 手掌発汗、軽度反応あり 外部刺激:記憶誘発レベル=中程度そう記録をつけるように、無意識に自分の状態をスキャンしている。癖だった。感情というものがノイズとして扱われていた頃からの、防衛手段。その分析に意味があるわけではない。それでも、こうして言語化し、数値に置き換えることで、自分の足元を確かめようとしていた。けれど、今日はそれがどこか宙に浮いていた。記録しても、意味を見失う。そんな違和感があった。視線を落とすと、薄いグレーのスニーカーが、地面と等間隔で接地していくのが見えた。重力とバランスを正確に保ちながら、ただ一歩ずつ。カフェまで、あと三ブロック。右手の角を曲がると、あの店の看板が見えてくる。そのことを思い出した瞬間、心臓がひとつ、大きく打った。氷室からのメールを開いたのは、昨夜だった。短い文面だった。謝罪と再会の申し出。たった三行の言葉が、こんなにも自分の中に重く残るとは思わなかった。読み終えたあと、しばらくスマホを握ったまま固まっていた。指先がじっとりと湿っていた。「これは逃げではない、確認だ」口に出さず、心の内で呟いた。誰かに聞かせるためではなく、自分自身への応答として。これは過去から逃げるための再会ではなく、あのとき感じたものが、今の自分の中でどう変質しているかを確かめにいくもの。そうでなければ、わざわざ会いには行かない。信号が赤になり、足を止める

  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   夜の手帳と、自分の選択

    部屋の照明はすでに落とされていた。カーテンの隙間から入り込む街灯の光が、天井に淡い影を投げかけている。時計の秒針が静かに進む音だけが、耳に残った。高田は布団の中に身を横たえながら、枕元に置いていた手帳を取り上げた。薄く冷えたカバーの感触が指先に伝わる。それだけで、少しだけ気持ちが引き締まる気がした。明日は、氷室に会う。そう思っただけで、呼吸の奥がわずかに詰まった。喉の奥で、言葉にならない感情がゆっくりと膨らんでいく。過去の記憶が、薄いフィルムのように眼前に滲む。それでも、もう逃げないと決めたのは、自分だった。誰かに決められたのではなく、自分で選んだことだった。手帳を開き、いつものページをめくる。無地のスペースに、細いペン先が触れた。まず、いつものように感情ログを書こうとした。怖さ、不安、安堵。どの感情にも数値を割り当てる癖は、もう何年も染みついている。けれど、今日はなぜか、数字がすぐに浮かばなかった。いや、正確には、書こうとした瞬間に、手が止まったのだった。今のこの状態を、本当に「怖さ七十」だと定義してしまっていいのか。それとも「不安九十」なのか。それらは、本当に自分の感情の正しい総量なのか。答えが、出なかった。高田は、ゆっくりと視線を落とした。そして、もう一度だけ深呼吸をして、手帳の上に慎重にペンを走らせる。// 6月28日 感情ログ 感情:怖さ=20、不安=70、安心感=100(大和あり) 定義:僕が選ぶ。僕の意志で。僕が僕を守るために。書き終えた文字を見つめたまま、しばらく動かなかった。視線が定まらないまま、ページの上をなぞるように目が滑っていく。数字はあくまで便宜上のもので、感情の実体ではない。それでも、自分の中にある秩序を保つためには、こうして数式のように言葉を並べることが、必要だった。しかし今日のそれは、かつてのどのログよりも、心の中にしっくりと落ちていた。「僕が、選ぶ」それは、誰のためでもなかった。大和のためでも、氷室への対抗でもなく、自分自身の意思だった。過去に傷つけられたことを理由に、これからの選択まですべて委ねてしまってはいけない。

  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   氷室からのメール

    通知音が鳴ったのは、洗濯物をすべて畳み終えた直後だった。テーブルの隅に置かれたスマートフォンが、画面をぼんやりと光らせる。高田はそれを見た。通知欄に表示された名前に、思考が一瞬、空白になる。氷室。何度も見返したはずのその文字列が、今になって妙に濃く感じられる。タップする手の動きが、ゆっくりになった。画面を開くと、そこには短い文章が並んでいた。《突然すまない。話がしたい。会ってくれないか》たったそれだけの言葉だった。にもかかわらず、その一行が胸の奥で重くのしかかる。文字に感情はない。けれど、自分の中で湧き上がる何かが、どうしようもなく複雑で、濁っていて、ひどく温度を帯びていた。高田はそのまま、スマホを握ったまま動けなかった。まるで体の奥にある何かが、一時停止を命じたかのようだった。テーブルの木目が視界の端で歪む。すぐそばにいるはずの大和の存在も、一瞬だけ遠のいたように感じる。けれど、その気配はすぐに戻ってきた。大和が、ソファからそっと身体を乗り出してこちらを見たのが分かった。何も言わず、ただじっと見ている。そこに詮索の色はない。ただ、気配だけがそっと寄り添っていた。高田は静かに顔を上げた。そして、迷いながらもスマホの画面をそっと大和の方へ差し出す。言葉を選ぶ時間は、思ったよりも長かった。「……返事を、しない方がいい、かな」問いかけた声は小さかった。はっきりと言ったつもりなのに、自分の耳にすら届ききらないような微かな響きだった。大和は、画面をちらと見ただけで、あとは高田の顔を見ていた。その目は、揺れていなかった。「行ってこい」それはあまりにもあっさりとした言葉だった。高田は、一瞬だけ目を瞬かせた。もっと、躊躇いや疑念や、何かしらの不安のような反応を想像していた。だが、そこにあったのはただ、静かな了承だった。大和はカップを手に取り、一口飲んでから、それをそっとテーブルに戻した。その仕草すらも、いつもと変わらない。変わらないことが、逆に重く感じられる。「でも、一個だけ言うとく」その声は低く、落ち着いていて、少しだけ喉の奥で震えた。怒っているわけでは

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    洗濯機の終了音が、部屋の隅で小さく鳴っていた。静かで温度の安定した午後。窓の外では風が葉を揺らしているのが見えるが、部屋の中は淡々とした時間が流れていた。大和はリビングのローテーブルの前に座り込み、洗いあがった洗濯物を一枚ずつ丁寧に畳んでいた。Tシャツやタオル、靴下。彼の手つきは、慣れたものだった。高田は、そのすぐそばの椅子に腰掛けていた。特に何をしているわけでもなかった。ただ、近くにいて、大和の手の動きをなんとなく目で追っていた。けれど、それもどこか落ち着かない感覚が伴っていた。目の前で繰り返される「日常の動き」が、自分の中でうまく噛み合っていない。何かの軸が少しずれている気がした。「なあ、これ俺の?君のやっけ?」大和がふいにそう言いながら、黒いTシャツを掲げた。柔らかく笑った顔。問いかけに悪意などなく、ただの日常の一コマ。軽い確認のつもりだったのだろう。けれど、その一言に、高田の思考は急に止まった。即答できなかった。思わず、視線がTシャツから床へと落ちた。言葉が喉元まで出かけては戻る。その間、わずかに沈黙があった。ほんの二秒。それはきっと、大和にとってはさほど気になる長さではなかったかもしれない。けれど、高田の中では、その二秒が永遠のように思えた。自分でも、その“間”を認識してしまった。理解するまでの時間、そして「この程度のことで詰まった」という事実に、自分自身がぎこちなくなっていくのを感じた。あまりに些細なことだ。それなのに、反応が遅れた。その瞬間、自分の中にある“恋人”という定義の不完全さが、音もなく浮かび上がった。「たぶん……君の、だと思う」なんとか絞り出した声は、小さく、乾いていた。語尾が曖昧に濁る。大和は、「そっか」とだけ返し、気にする様子もなく別のシャツに手を伸ばした。けれど、高田の指先は、その瞬間すでに自分の足元に落ちていた小さなタオルを、無意識にきつく握っていた。恋人同士なら、こんなとき、自然に笑い合うのかもしれない。冗談を言ったり、ふたりで「どっちやっけな」と笑いながら洗濯物を分けるのだろう。だが、自分にはその自然がインストールされていない。高田のまつ毛が、わずかに揺れた。感情ではなく、思考の揺ら

  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   朝の沈黙と、“正しい返答”の迷い

    朝の空気は、まだ冷たさを残していた。カーテンの隙間から差し込む光が、ぼんやりと薄い影を作っている。壁際の時計の針が七時を指しているのを、高田は無意識に確認した。大和の寝息はまだ静かに続いていて、そのリズムが心地よく部屋に満ちている。布団の中には、昨夜の余韻が微かに残っていた。熱というにはあまりに穏やかで、それでいて確かな感触。高田は身を起こした。シーツがするりと肩を離れて、素肌が空気に触れる。少し寒い、と感じたが、それ以上にこのまま隣にい続けることの方が息苦しかった。大和の顔をちらりと見てから、そっと布団を抜け出した。足元の床が冷たく、体がわずかにすくむ。キッチンへ向かう途中、棚の上に置かれた手帳が視界に入ったが、今はそれを開く気にはなれなかった。ココアの缶を取り出し、マグカップに粉を入れる。お湯を注ぎながら、白い湯気が立ちのぼるのをじっと見つめる。その中に、自分の感情の輪郭が混ざっているように思えた。「……何をすれば、正しいんだろう」小さく漏れた独り言に、誰も答えない。カップを手に取ると、両手で包み込むように持った。その熱だけが、いま自分がここにいることを知らせてくれる。寝室から足音が聞こえたのは、それから少し経った頃だった。大和が寝癖のついた髪を片手で押さえながら、ゆっくりとリビングに現れる。「おはよう」その声は、掠れ気味で柔らかかった。寝起きの人間にしか出せない音色。けれどそこに、どこまでも自然なぬくもりがあった。高田は一瞬、返事の言葉を探した。だが、うまく口が動かない。ただ、手にしていたカップを差し出した。何も言わず、大和がそれを受け取る。「ありがとう」その一言が、静かに場を満たした。ソファの端に腰を下ろした大和が、ひと口ココアを飲んでから、ふっと息を漏らす。「うまいな。甘すぎへん」その何気ない言葉に、高田の指先がわずかに揺れた。笑うべきか、返事をするべきか、それすら判断がつかなかった。けれど、その迷いを隠す術ももう持っていなかった。「……昨日の、あとって」言いながら、声がかすれた。咽喉が乾いていたわけではない。息が引っかかっている

  • 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋   ログのない夜

    窓の外が淡いグレーに染まり始めていた。夜はもう終わろうとしている。高田は、ぼんやりと天井を見上げながら、微かな寒さを肩で感じていた。大和の腕の中で横になっている自分の背中には、まだ確かな体温が残っていた。大和は寝息を立てている。ゆったりとした呼吸が、時折、高田の首筋にあたたかく触れた。シーツの上で、二人の足が絡まっている。肌のぬくもりが、夜のあいだ中、消えずにそこにあった。高田は、そっと大和の腕の重さを感じてみた。重いはずなのに、嫌ではなかった。むしろ、この重さが自分を現実につなぎとめているように感じられた。腕のなかにいるというだけで、安心できた。これまでの人生で、こんな感覚を知ったことはなかった。眠れなかった。身体はほどよい疲労を覚えているはずなのに、神経だけが冴えていた。目を閉じると、さっきまでの感覚が鮮やかに蘇る。唇に残る熱、背中をなぞる指、絡まる脚、額を預けたあの一瞬。コードも数式も、何も思い浮かばない。頭が空っぽになるというのは、こんな感じなのかと初めて知った。枕元に手帳が置いてあるのに気づく。眠れぬまま手を伸ばし、そっと表紙を撫でた。新しいログを書くつもりで、ペンを取る。表紙をめくると、真っ白なページが目に入った。いつもなら、ここに感情値や行動ログを書き込む。どんなに眠くても、どんなに忙しくても、記録することだけは日課だった。だが、今夜は違った。ページを開いたまま、ペンを持つ手が止まる。思い浮かぶ言葉がない。何を記録すればいいのか分からない。今夜感じたことは、式にも、単語にもできなかった。身体の奥に残るあたたかさや、胸を満たす静かな幸福感は、記号では残せないものだった。手帳の上で、ペン先がかすかに震えた。何かを書こうとするたび、言葉がすべて霧散していく。自分の思考が、どれほど日々“記述すること”に支配されてきたのか、あらためて知る。今夜だけは、その記述がすべて役に立たなかった。感情を解析しようとしても、どこにも正しい形が見つからない。窓辺のカーテンの隙間から、朝の気配が差し込む。青白い光が部屋を満たし始める。高田はゆっくりと深呼吸をした。寝癖のついた髪が、頬に落ちている。素肌にはまだ、昨夜の名残が残っていた。シーツの感触も、指先のあたたかさも、全部“体験

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