朝の空気は、まだ冷たさを残していた。カーテンの隙間から差し込む光が、ぼんやりと薄い影を作っている。壁際の時計の針が七時を指しているのを、高田は無意識に確認した。大和の寝息はまだ静かに続いていて、そのリズムが心地よく部屋に満ちている。布団の中には、昨夜の余韻が微かに残っていた。熱というにはあまりに穏やかで、それでいて確かな感触。
高田は身を起こした。シーツがするりと肩を離れて、素肌が空気に触れる。少し寒い、と感じたが、それ以上にこのまま隣にい続けることの方が息苦しかった。大和の顔をちらりと見てから、そっと布団を抜け出した。
足元の床が冷たく、体がわずかにすくむ。キッチンへ向かう途中、棚の上に置かれた手帳が視界に入ったが、今はそれを開く気にはなれなかった。ココアの缶を取り出し、マグカップに粉を入れる。お湯を注ぎながら、白い湯気が立ちのぼるのをじっと見つめる。その中に、自分の感情の輪郭が混ざっているように思えた。
「……何をすれば、正しいんだろう」
小さく漏れた独り言に、誰も答えない。カップを手に取ると、両手で包み込むように持った。その熱だけが、いま自分がここにいることを知らせてくれる。
寝室から足音が聞こえたのは、それから少し経った頃だった。大和が寝癖のついた髪を片手で押さえながら、ゆっくりとリビングに現れる。
「おはよう」
その声は、掠れ気味で柔らかかった。寝起きの人間にしか出せない音色。けれどそこに、どこまでも自然なぬくもりがあった。
高田は一瞬、返事の言葉を探した。だが、うまく口が動かない。ただ、手にしていたカップを差し出した。何も言わず、大和がそれを受け取る。
「ありがとう」
その一言が、静かに場を満たした。ソファの端に腰を下ろした大和が、ひと口ココアを飲んでから、ふっと息を漏らす。
「うまいな。甘すぎへん」
その何気ない言葉に、高田の指先がわずかに揺れた。笑うべきか、返事をするべきか、それすら判断がつかなかった。けれど、その迷いを隠す術ももう持っていなかった。
「……昨日の、あとって」
言いながら、声がかすれた。咽喉が乾いていたわけではない。息が引っかかっている
朝の空気は、まだ冷たさを残していた。カーテンの隙間から差し込む光が、ぼんやりと薄い影を作っている。壁際の時計の針が七時を指しているのを、高田は無意識に確認した。大和の寝息はまだ静かに続いていて、そのリズムが心地よく部屋に満ちている。布団の中には、昨夜の余韻が微かに残っていた。熱というにはあまりに穏やかで、それでいて確かな感触。高田は身を起こした。シーツがするりと肩を離れて、素肌が空気に触れる。少し寒い、と感じたが、それ以上にこのまま隣にい続けることの方が息苦しかった。大和の顔をちらりと見てから、そっと布団を抜け出した。足元の床が冷たく、体がわずかにすくむ。キッチンへ向かう途中、棚の上に置かれた手帳が視界に入ったが、今はそれを開く気にはなれなかった。ココアの缶を取り出し、マグカップに粉を入れる。お湯を注ぎながら、白い湯気が立ちのぼるのをじっと見つめる。その中に、自分の感情の輪郭が混ざっているように思えた。「……何をすれば、正しいんだろう」小さく漏れた独り言に、誰も答えない。カップを手に取ると、両手で包み込むように持った。その熱だけが、いま自分がここにいることを知らせてくれる。寝室から足音が聞こえたのは、それから少し経った頃だった。大和が寝癖のついた髪を片手で押さえながら、ゆっくりとリビングに現れる。「おはよう」その声は、掠れ気味で柔らかかった。寝起きの人間にしか出せない音色。けれどそこに、どこまでも自然なぬくもりがあった。高田は一瞬、返事の言葉を探した。だが、うまく口が動かない。ただ、手にしていたカップを差し出した。何も言わず、大和がそれを受け取る。「ありがとう」その一言が、静かに場を満たした。ソファの端に腰を下ろした大和が、ひと口ココアを飲んでから、ふっと息を漏らす。「うまいな。甘すぎへん」その何気ない言葉に、高田の指先がわずかに揺れた。笑うべきか、返事をするべきか、それすら判断がつかなかった。けれど、その迷いを隠す術ももう持っていなかった。「……昨日の、あとって」言いながら、声がかすれた。咽喉が乾いていたわけではない。息が引っかかっている
窓の外が淡いグレーに染まり始めていた。夜はもう終わろうとしている。高田は、ぼんやりと天井を見上げながら、微かな寒さを肩で感じていた。大和の腕の中で横になっている自分の背中には、まだ確かな体温が残っていた。大和は寝息を立てている。ゆったりとした呼吸が、時折、高田の首筋にあたたかく触れた。シーツの上で、二人の足が絡まっている。肌のぬくもりが、夜のあいだ中、消えずにそこにあった。高田は、そっと大和の腕の重さを感じてみた。重いはずなのに、嫌ではなかった。むしろ、この重さが自分を現実につなぎとめているように感じられた。腕のなかにいるというだけで、安心できた。これまでの人生で、こんな感覚を知ったことはなかった。眠れなかった。身体はほどよい疲労を覚えているはずなのに、神経だけが冴えていた。目を閉じると、さっきまでの感覚が鮮やかに蘇る。唇に残る熱、背中をなぞる指、絡まる脚、額を預けたあの一瞬。コードも数式も、何も思い浮かばない。頭が空っぽになるというのは、こんな感じなのかと初めて知った。枕元に手帳が置いてあるのに気づく。眠れぬまま手を伸ばし、そっと表紙を撫でた。新しいログを書くつもりで、ペンを取る。表紙をめくると、真っ白なページが目に入った。いつもなら、ここに感情値や行動ログを書き込む。どんなに眠くても、どんなに忙しくても、記録することだけは日課だった。だが、今夜は違った。ページを開いたまま、ペンを持つ手が止まる。思い浮かぶ言葉がない。何を記録すればいいのか分からない。今夜感じたことは、式にも、単語にもできなかった。身体の奥に残るあたたかさや、胸を満たす静かな幸福感は、記号では残せないものだった。手帳の上で、ペン先がかすかに震えた。何かを書こうとするたび、言葉がすべて霧散していく。自分の思考が、どれほど日々“記述すること”に支配されてきたのか、あらためて知る。今夜だけは、その記述がすべて役に立たなかった。感情を解析しようとしても、どこにも正しい形が見つからない。窓辺のカーテンの隙間から、朝の気配が差し込む。青白い光が部屋を満たし始める。高田はゆっくりと深呼吸をした。寝癖のついた髪が、頬に落ちている。素肌にはまだ、昨夜の名残が残っていた。シーツの感触も、指先のあたたかさも、全部“体験
布団のなかは、どこまでも静かだった。外の雨音も、空調の微かな低い唸りも、遠い世界の出来事のように感じられる。重なり合う布地と肌のあいだに、静かな熱がじわじわと広がっていく。高田は、ほとんど夢の中のような感覚で大和の胸元に顔を埋めていた。ふたりの身体は、無理なく寄り添っている。緊張や戸惑いよりも、ただ不思議な落ち着きがそこにあった。唇が触れ合うたび、心臓が何度も跳ねた。けれど怖くはなかった。むしろ、少しずつ身体の内側がやわらかく解かれていく感覚があった。大和の指先は乱暴に動くことなく、高田の髪や額を優しくなぞっていく。二人の呼吸が重なり合うたび、空気が少しだけ揺れる。熱がゆっくりと増していく。高田は、そのたび自分の身体が何か新しい形に作り変えられていくような気がした。大和のシャツが高田の手の中で滑り落ちていく。自分から脱がせているつもりはなかったが、いつのまにか指先が布を辿っていた。大和の肩越しにシーツが波打ち、静かな音だけが部屋に溶けていく。高田は、自分のシャツも知らぬ間に脱げていたことに気づく。大和の指が、そっと肩を撫でている。脱がされているのではない。自然と、余計なものがはがれていく。守ろうとしていた殻も、気づけばひとつずつ外されていた。唇が、もう一度触れ合う。今度は先ほどより深く、熱い。大和の腕が高田の背を抱き寄せる。肌が直接重なり、鼓動と呼吸が混ざり合う。触れ合うたび、言葉にならない感情が身体を駆け抜ける。高田はその感覚に、ただ溺れるしかなかった。身体の奥から、何かがゆっくりと湧き上がってくる。ふたりの体温が、布団のなかに満ちていく。時折、大和の唇が首筋をなぞる。高田は、唇が触れるたびに小さく震える。けれどその震えは、不安や恐れではなかった。むしろ心地よい緊張と、満たされることへの渇望が入り混じっていた。大和の手が、ゆっくりと腰にまわる。高田は、その手の動きに身を委ねる。自分から何かを求めることは、まだ難しかった。けれど、受け入れることはできた。大和の手が背中をなぞり、腰を撫で、脚へと流れていく。ひとつずつ、丁寧に触れていくたび、高田の中の壁が静かに崩れていく。呼吸が浅くなる。大和が、そっと高田の耳元に顔を寄せた。息がかかる。その熱が、鼓膜を震わせ、全身に伝
寝室の空気は、居間よりもさらに静かだった。壁際の間接照明が、ごく薄く布団の上に柔らかな影を落としている。窓の外からかすかに雨の音が届く。規則的なリズムは、どこか遠い世界の出来事のようだった。高田は、布団の端に座っていた。大和の気配が、すぐ隣にあった。身体がふわふわと浮いているような感覚。現実味が薄れていく。なのに、指先の感覚だけが妙に鮮明だった。何を言えばいいのかわからない。呼吸は浅く、胸が波打っている。視線をさまよわせているうちに、自分の手がシャツの裾に触れていることに気づいた。ためらいがちに、でも確かな意志で、指先が布地をつまむ。大和がすぐ横で動きを止める。気配が張り詰めたようになった。高田は、その一瞬の空気を確かに感じた。奏多が自分を止めようとしたのだと、察する。だが、今は止まれなかった。止まったら、何もかもがまた元に戻ってしまう。もとに戻る世界には、もう帰りたくなかった。言葉が、唇の内側で震えた。絞り出すように、小さく、けれど明確に言う。「……君の体温で、もう一度、定義しなおしたい」その言葉を吐いた瞬間、胸の奥に熱が灯った。迷いは消えてはいなかった。けれど、それを上回るほどの渇望があった。触れたい、触れてほしい、いまここに確かな「自分」という存在を感じていたかった。大和はしばらく何も言わず、ただ高田を見つめていた。視線がぶつかる。そこには疑念も困惑もなかった。ただ、優しさと、ほんのわずかな苦しさのようなものが混じっていた。大和の手が、ゆっくりと高田の背に伸びた。指先が、ごく軽くシャツの裾に触れる。そのまま、布地の上から背中を撫でる。布越しの感触が、じんわりと肌に伝わる。まるで輪郭を確かめるように、指が静かに動いていく。高田は肩を震わせ、自然と目を閉じた。自分がいま何を感じているのか、まだ正確には分からなかった。ただ、心臓がひどく早く脈打ち、呼吸が浅くなっていく。そっと、シャツの裾が持ち上げられる。背中に直に指が触れる。高田の肌は白くて冷たい。そこへ、奏多の手のひらがやさしく滑る。指先が、肩甲骨のあたりからゆっくりと下りてくる。かつて傷つけられた場所に、そっと触れる。痛みの記憶が、微かに身体をよぎる。だが、その痛みを溶かすように
静寂が部屋を支配していた。高田は、ただ座ったまま動けなくなっていた。自分の身体が、どこか遠い場所に置き去りにされたような感覚だった。唇に残るわずかな湿り気が、時間の経過を拒んでいるように思えた。世界は静止し、けれど内側だけが絶え間なく動いている。さっきまで普通だった呼吸が、今はどうしても深く吸い込めなくなっていた。目の前には大和がいる。その存在だけが、この世界で唯一の現実だった。大和の顔がほんの少しだけ近づいて見える。照明のせいか、あるいは自分の視線がどこにも焦点を合わせられないせいか、大和の瞳にはいつもの反射がなかった。その代わり、そこには強い渇望が宿っていた。光が映らない暗い瞳なのに、なぜか惹きつけられて離せなかった。キスの余韻が、唇から頬、そして首筋へと伝播していく。皮膚が過敏に反応する。呼吸をするたび、身体の奥のどこかが熱を帯びていくのを感じた。こんな感覚は知らなかった。誰かに触れられることが、こんなにも自分を揺らすものだとは思いもしなかった。ずっと、感情は処理するものだと信じてきた。けれど今は、処理などできない波が心の底から湧き上がってくるのを、ただ感じるしかなかった。……肌が、感情に直接、触れてくる……自分の中で言葉が形を成さず、断片だけが意識の奥を浮遊していく。手帳も、ペンも、いまは思い出せなかった。触れられたままの頬から、じんわりと熱が流れ込む。心臓の鼓動が、胸の奥で暴れる。どうにか息を吸おうとするが、肺の奥にまで、その熱が染み込んでいく。大和は、ゆっくりと自分の額を高田の額へと重ねた。ごく自然な動作で、まるでそれが日常の挨拶のように、違和感なく二人の距離がゼロになった。互いの呼吸が、ほんの少しだけ交差する。吐息が混じり合い、そこだけ空気が柔らかくなったようだった。「これで、十分やろ」大和の声が、ごく低く、ほとんど囁きのように響いた。その声には、いつもの余裕や冗談っぽさはなかった。真剣で、どこか不器用な響き。触れている額から、熱が伝わってくる。言葉よりも、その体温の方が強く、高田の心に刻み込まれていく。けれど高田は、思わず小さく首を振った。ほんのわずかに。拒絶ではなく、否定でもなく、もっと他の何かを求めている自分がそこ
冷蔵庫のモーターが回る音が、一定のリズムで空気を震わせていた。照明は落としてあり、間接照明だけが居間をぼんやりと照らしている。食卓の上には、使っていないマグカップが一つ置かれたままになっていた。飲みかけのココアはもう冷えていて、表面には薄い膜が張っている。高田彗は、その前に静かに座っていた。手帳は開かれていない。ペンも、消しゴムも、すぐ手の届くところにあるのに、それに触れる気になれなかった。何かを書き残すには、今の自分はあまりに不安定すぎる。もどかしさとも違う、ただ、心が止まっている感覚。そういう静止が、今の高田を支配していた。やがて、ドアの向こうから音がした。控えめなノックの音。鍵が開いていることに気づいた大和が、少し戸惑うように声をかけながら入ってくる。「おーい、タカちゃん。…あれ、玄関鍵開いとったで?」その声を聞いて、鼓動が跳ねた。体が、一瞬だけ緊張する。反射的に反応する自分の心拍数が、嫌でも耳に届いてくる。高田はゆっくりと顔を上げた。大和の姿が、夕方よりも少しだけラフな格好で、柔らかく視界に入ってくる。「来るの…もう少し、遅いかと…」「打ち合わせ早う終わってん。急いで来たんや」そう言って、大和はいつものようにキッチンへ向かうかと思えば、今日はそのまま高田の正面に腰を下ろした。目線の高さが揃う。高田は、どこを見ればいいのかわからなくなり、目を伏せた。俯いたまま、言葉を探す。だけど、考えれば考えるほど、余計に言葉は遠のいていく。大和は、何も言わなかった。急かすような雰囲気も、問いかける素振りも見せず、ただ黙って待っていた。その沈黙が、息苦しいようで、どこか心地よくもあった。ようやく、高田は小さく口を開いた。「……好きって、どうやって……表すの?」その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけひりついた。自分が何を言ったのか、言ってしまったのかを、理解するまでに数秒かかった。言ってしまった、と思った。けれど、後悔はなかった。不思議と、誰かに聞いてほしかった。誰か、ではなく——奏多に。一瞬だけ、大和の目元から笑みが消えた。表情が、きゅっと引き締まる。そのまま彼は高田をまっすぐに見つめた。声を出