「いや、彼女はただ『妹さんが亡くなった』って言ってただけ」 「そうか。実はな、若子の名前に『まつ』が入ってるだろ?だから俺、彼女を『マツ』に重ねて見てたんだ。安心しろ、あの数日間、手は出してない」 少し間をおいて、千景は淡々と続けた。 「でも、お前が見た首の痕。あれは、確かに俺がつけた」 修の眉がピクリと動き、声に怒気がにじんだ。 「なんでだ?」 「寝てる間に悪夢を見るんだ。トラウマでね。あのとき、彼女が俺を起こしに来たんだが、俺は敵と勘違いして、つい反射的に......本当に悪かったと思ってる」 「......」 修の拳がわなわなと震える。今にも殴りかかりたい衝動が胸を突く。でも、若子が何も言わなかった以上、自分がここで騒げば、きっと彼女を怒らせるだけだ。 気を取り直して、話題を変える。 「医者に聞いた。回復が早いそうだな。すぐ退院できるって」 「そうか、それは良かったな」千景は肩をすくめて軽く笑った。 「退院したら......若子とまだ連絡を取るつもりか?」 「それ、君に関係あるのかい?」千景の目が細くなる。「ずいぶん気にしてるみたいだけど、君たち......もう離婚したんだろ?」 「離婚してても、俺にとっては妹みたいなもんなんだ。お前みたいにじゃない。俺たちは十一年、付き合ってた」 「十一年?」千景は皮肉な笑みを浮かべる。「それだけ長く付き合ってて、あの子をボロボロにしたんだ。すごいな、感心するよ」 「お前......っ」修は拳を握りしめ、唇を噛みしめるようにして怒りを堪えた。 そして、言い切った。 「もう回りくどいのはやめる。俺は―お前に若子から離れてほしい」 千景の眉がピクリと動き、口元に冷たい笑みが浮かぶ。 「今、なんて言った?」 「言わなくても、分かってるだろ?」 その瞬間、千景の目の色が変わった。 「俺が彼女に近づこうが、離れようが......君に何の関係があるんだ?『前夫』くん」 最後の「『前夫』くん」の四文字を、千景はまるで嘲笑うように、重く噛んだ。 修は目を細めて、低く返した。 「自分がどういう存在か、一番わかってるのは、お前自身だろ」 そう言って、千景にぐっと近づく。 「『死神』が現れる場所では、周囲の人間が死ぬ―お前、若子まで死な
翌日。 若子は午前中だけ仕事を休み、修を連れて検査を受けさせるためにやって来た。 最初、修は渋々といった様子だったが、若子が「おばあさん」の名を出すと、結局はおとなしく検査に向かうしかなかった。 検査結果が出るまでには、三日から五日ほどかかるらしい。 若子は修に念を押した。 「結果が出たら、必ず知らせて」 そう言って、若子は病院を後にした。 まるで仕事の一環のように淡々と。検査を終えたら、すぐに立ち去った。そこに、気遣いや優しさは一切なかった。 今の二人の関係は、きっとそんなものだ。 まるで、相手が亡くなったら葬式には出るけど、涙も流さず、声をあげて泣くこともない―そんな距離。 病院を出る前に、若子は千景のもとを訪ねた。 千景の容態は、今日も少しずつ良くなっていた。でも、彼はすぐに若子の様子が普段と違うことに気づいた。 何度か聞き返されて、若子はようやく口を開いた。 それを聞いた千景は、しばらく沈黙したまま、ぽつりと尋ねた。 「それで......彼のこと、恨んでるのか?」 若子は静かに笑った。 「恨み?そんなのあるわけない。ただ......無力感だけ。きっと、山田さんが病気で亡くなったとしても、彼のそばにはまた別の女が現れるんだと思う。あの人の周りに、女がいないことなんてないから。 でも、もしほんとうに彼が次の相手を見つけたなら、今度こそちゃんとその人と幸せに暮らしてほしい。私のところには、もう来ないでほしい」 「じゃあ......つまり、君はもう、彼のことを吹っ切ったってことか?」 「この世で一番やっかいなことって、多分『吹っ切れるかどうか』なんだと思う。結局どっちにしても、状況は変わらないし。でも、もしどうしても答えが必要なら―そうね。私はもう吹っ切れた。新しい生活を始めてるから」 「若子、君のコース、三ヶ月だったよな?」 彼が話題を変えるように聞いた。 若子はうなずいた。 「うん、三ヶ月だよ」 「だから、約束して。これからの三ヶ月は、自分のためだけに生きて。しっかり授業を受けて、全力で自分のことだけ考えて。藤沢修のことも、遠藤西也のことも、彼らが何を言おうが何をしようが、気にしなくていい。ただ、自分に集中してほしい」 若子は静かにうなずいた。 「うん、わかっ
こんな身勝手な男が、自分の子どもの父親になれるはずがない― 若子の冷たい言葉に、修はふっと笑った。 「そうだよ、俺はわがままなんだ。好きに言えばいいさ」 若子は目を閉じて、深く息を吸い込んだ。心の奥に渦巻く怒りを、必死に抑え込む。 そして、ゆっくりと目を開けて言った。 「明日の朝、私も一緒に検査に行く。どうしても結果を出さなきゃいけないから。明日、九時に会いましょう」 そう言い残して、彼女は背を向けた。 「お前に付き添ってもらう必要なんかない」修が彼女の背中に向かって言う。「なんで手伝うんだ?侑子が妊娠してなかったって聞いて、俺たちがやり直せると思ったのか?」 その声には皮肉が混じっていた。でも実のところ、それは修自身が最も知りたかったことだった。若子は侑子が妊娠していなかったと知って、少しは心が揺れただろうか。 若子は振り返り、まっすぐ彼を見て言った。 「山田さんが妊娠してるかどうか、そんなの関係ないわ。もう、彼女はあんたの女でしょ。私は西也と結婚した。だから、もう何も期待しないで。私が明日一緒に行くのは、あんたのためじゃない。おばあさんのためよ。あんたは彼女のたった一人の孫なの。お願いだから、彼女を裏切らないで。いずれ帰国するんだから、それまでに心を入れ替えて。これ以上、あの人に失望させないで」 そう言って、若子はバッグをぎゅっと握りしめ、その場を去った。 心の中では、いくつもの思いが渦巻いていたけれど、不思議と涙は出なかった。涙はもう、あのとき―修に離婚を切り出されたとき、すべて流し尽くしてしまった。 その後の愛情は、複雑な関係の中で少しずつ削り取られていった。 そして今、修のそばには侑子がいる。 妊娠していようがいまいが、それはもうどうでもいい。彼女の心に、希望は一片も残っていなかった。 かつて修の間違いは、ただ心の問題だけだった。 でも今では―身体まで、他の女に与えてしまった。 一方の若子は、西也と結婚はしたものの、まだ一度も、本当の意味で「夫婦」になったことはなかった。 だって―修以外の男とは、ああいうことなんて、とてもできない。 だけど修は、口では「愛してる」なんて言いながら、そのくせ平気な顔で他の女と寝てる。 彼の「愛」なんて、なんて安っぽくて、なんて移ろいやすいんだ
ふたりはその後もしばらく話し込んでいて、気づけばもう日が暮れかけていた。 「そろそろ戻ったほうがいいよ」 そう言って、千景がやんわりと若子を促す。 若子は彼の邪魔をしないよう、そっとベッドサイドにフルーツを切って置くと、静かに病室を後にした。 彼と一緒にいると、不思議と時間があっという間に過ぎる。なぜかはわからないけど、とても心が落ち着くのだ。 病院の玄関まで来たところで、若子はふと、遠くに沈黙のまま立ち尽くしている修の姿を見つけた。 彼の指にはタバコ。次の瞬間、彼は頭を掻きむしって、その場にしゃがみ込む。見たことのないほど、痛々しい表情だった。 少し迷った末、若子は運転手に声をかけた。 「ちょっと待ってて」 そう言い残し、彼のもとへ歩いていく。 「どうした?」 その声に反応して修が顔を上げる。若子の姿を見た瞬間、彼は驚いたように立ち上がった。 若子は彼の顔色を見て、眉をひそめた。 「もしかして、生検の結果が出たの?良性?それとも悪性?」 「......まだ行ってないんだ、生検」 「どうして?いつまで放っておく気?」 「侑子が......事故に遭ったんだ。あと三日以内に心臓移植が必要なんだよ」 「なにそれ......」若子の眉間がさらに深くなる。「なんで急に?」 「心不全だって......優先リストの上に名前が載ったけど、たった三日で適合する心臓なんて......」 「......じゃあ、子どもは?」若子は静かに尋ねた。 すると修は、小さく笑った。 「子ども......?ふふ......いるわけないだろ。あれ、嘘だったんだ」 今さら隠すことなんてない。 侑子があんな状態じゃ、もう嘘をつく気力もない。 若子は、その言葉に一瞬思考が止まったように目を見開いた。 「......嘘だったの?」 「そう。お前が遠藤との間に子どもを作ったって聞いて......ムカついたから。つい、侑子が妊娠してるって、嘘ついた」 彼の顔には、どこかやるせない笑みが浮かんでいた。 突如として、胸の奥から怒りがこみ上げてきた。 若子は拳を握りしめ、声を震わせた。 「藤沢修、あんたって人は......ほんと、何て言えばいいのよ......!」 あまりの怒りに、適切な言葉さえ思い
修は侑子の病室に戻った。 「修、おかえり」 彼はベッドのそばに腰を下ろし、侑子をじっと見つめた。何か聞きたいことがあったはずなのに、どうしても言葉が出てこなかった。 ―侑子が、そんなことをする人間だとは思いたくない。 でも、よく考えれば、今回の一件は侑子にとっても「得」になることではあった。 とはいえ、それは―彼女が本当にそんな人間だったとしたら、の話だ。 「どうしたの?修、何かあったの?」 修は口元を引きつらせるように笑った。 「......いや、なんでもない」 そう言って、彼女の手をそっと握りしめた。 「侑子......ひとつだけ、聞きたいことがあるんだ―」 「......あっ!」 突然、侑子が胸を押さえてバタリとベッドに倒れた。 「侑子っ!」 修は慌てて彼女の身体を抱き起こす。 「おい、侑子!しっかりしろ、目を覚ませ!」 「医者っ!誰か、医者を呼んでくれ!」 ― 侑子の心臓は、突如として機能不全に陥った。 医師の診断によれば、三日以内に心臓移植を行わなければ命は助からないという。 今の彼女の生命は、ただ機械によってかろうじて保たれている状態だった。 その知らせを聞いた瞬間、修は胸を鋭くえぐられるような衝撃を受けた。 ―なんで、こんなことに...... 侑子は心臓の提供を待っていた。でも、ちゃんとした看護を受けていれば、急にここまで悪化するなんて考えにくい。 一体、何があったというのか? 病院は緊急措置として、侑子の移植待機リストの順位を繰り上げた。適合する心臓が見つかれば、最優先で手術が行われる。 でも―その「適合する心臓」が、そう簡単に見つかるものではない。 もし彼女がアメリカで命を落とすことになったら......? 修は再び侑子のベッドのそばに腰を下ろし、その手をしっかりと握った。 「......頼む、侑子。絶対に、死なないでくれ」 ...... 若子はその日の授業が終わると、すぐに病院へと向かった。 彼女が向かったのは、千景の病室だった。 一緒に夕食をとり、少しお喋りをしてから― 「今日、学校で何を勉強した?」 千景がそう尋ねると、若子は全部話して聞かせた。 ちょっと専門的で難しい内容だったけれど、彼はまるで自分
「......この件は侑子とは関係ない。全部、俺自身の判断だ」 修は必死に言葉を続けようとした。 「ただ......ただ、君が本当に―」 「―藤沢修」 若子の声が、ぴしゃりと彼の言葉を遮った。 「もう一発、あんたにビンタ食らわせたくないの。だから黙って。お願いだから、もうこれ以上話さないで。 もう本当に......疲れたの。あんたと顔を合わせるたびに、疑われて、責められて。 会うたびに神経がすり減ってくの......もう限界なの」 言葉の最後は、かすれるような声だった。 そして彼女は、すっかり力を失ったように背を向けた。 「若子―!」 修は後ろから彼女を抱きしめた。 「......ごめん、本当に......俺が間違ってた」 若子は唇の端を引きつらせるようにして、苦笑した。 ―本当に、この人は...... さっきまで疑いの目で見てたくせに、今さら「ごめん」だなんて。 前もそうだった。 優しくしてきたかと思えば、次の瞬間には「離婚しよう」って突き放して。 何度も、何度もその繰り返し。 「離して、修。私たち、もう離婚してるのよ。私は他の人の『妻』で、あなたには『彼女』がいる。 今のこの状況......おかしいと思わない?」 修は目をぎゅっと閉じた。 胸を締めつけるような痛みとともに、かすれた声を絞り出す。 「......10秒でいい。10秒だけ、このままでいさせてくれ」 彼は心の中で、静かにカウントを始めた。 ―ただの10秒。それだけなのに、今の彼には、それすら手に入らない。 金でも、地位でも買えないたった10秒の「ぬくもり」。 若子はため息をつき、目を伏せた。 そして、その10秒が過ぎた。 修は、名残惜しそうに、そっと腕を解いた。 若子は振り返らずに言った。 「修―私のことを疑う暇があるなら、そばにいる人が信用できるかどうか、ちゃんと見極めたら? 本当に考えたことある?情報を流したのが、山田さんだって可能性―」 修は即座に否定した。 「それはあり得ない。絶対に、侑子じゃない。 だって、遠藤は彼女にも酷いことをしたんだ。なのに彼女が、あいつに情報を流すわけがない。 侑子だって、あいつが刑務所行くことを望んでるはずだ......分か
若子の声には、もう怒りすら残っていなかった。 疲れきったような、力の抜けた言葉が、彼女の唇から零れ落ちる。 「一つだけ、聞きたいことがあるの。ちゃんと答えて」 「何?その前に......手を離して。こんなふうに話すのは、おかしいでしょ?」 修は彼女の腕をそっと離した。 「若子......本当のことを教えてくれ―お前が、遠藤をB国に戻らせたのか?」 その問いには、怒りも、責めるような口調もなかった。 ただ、彼は知りたかっただけ。 若子は、その言葉を聞いて、ほんの少し眉をひそめた。 言っている内容はすべて理解できた。 けれど、それが何を意味するのかが、わからなかった。 ......これは、責められているの? 「......何言ってるの?『私が彼を戻らせた』?どういう意味?」 「お前は―もうあいつが何をしたか、知ってたんじゃないか。俺が動く前に、それを察して、彼を逃がしたんじゃないかって」 若子は思わず吹き出した。 「あんた、自分が何言ってるか分かってる? その動画を見て、私は初めて知ったのよ?彼がそんなことしてたなんて。その私が、彼を逃がすって? まるで、私が彼とグルになってたみたいな言い草ね」 彼の目を見た。けれど、そこには確信も怒りもなかった。ただ、静かに彼女を見ている。 ―何を信じてるの? 「......なに、それ。自分で情報が漏れた理由が分からなくて、ぐるぐる考えた挙げ句に、『私』にたどり着いたってわけ?」 若子の声には、ほんのり皮肉が混じっていた。 「で、答えはどうなんだ?若子、本当のことを言ってくれ」 修の問いに、彼女はもう返す言葉を持っていなかった。 「あんたってほんとにバカね。そんなふうに私を見るなら、もう何も話す気になれない。勝手に思えば?」 説明する気も、もうない。 信じてくれない相手に、何を言っても―意味なんてないのだから。 若子は再び背を向け、歩き出そうとした。 しかし修は、その手首を掴んで引き留めた。 「待ってくれ」 目の前に立ちふさがり、切実な声を投げかける。 「お願いだ......本当のことを聞かせて。教えてくれ、頼むから」 「離して」 若子は強く振り払おうとした。 だが、修はどうしても手を離さなかった。
「......」 「変なところ、か......」 修は記憶をたどりながら、何か引っかかる瞬間がなかったか、脳内を巡らせた。 ―そういえば。 彼は、若子に「証拠がある」と話した時のことを思い出した。 あのとき彼女は、まだ西也がB国に逃げたことを話していなかった。 動画を見せたあとで、やっと「もうアメリカにはいない」と告げた。 なぜ、最初に言わなかった? どうして、あんなにも遅れて話したのか? まるで......西也を守っているみたいだった。 まさか、本当に若子が関わっているのか? 西也に危険が迫ってると知って、彼女が助け舟を出した? 彼が何をしたかを聞いたうえで、それでも許して、逃げるよう勧めた? だから、西也はB国に戻った―? けれど、証拠映像を見せたときの、あの驚いた顔が忘れられない。 まるで、何も知らなかったかのような― 修の頭の中は、複雑に絡み合った思考でごちゃごちゃになっていく。 ―若子がやったのか?それとも...... 「修」 そのとき、侑子がそっと彼の手を握った。 「真実ってね、たいてい一番思いもしないところにあるの」 彼女は静かに、けれど確信を持って言った。 「私はね、松本さんが修のことをすごくよく分かってる人だと思うの。だったら、彼女の夫がどういう人かも、ちゃんと分かってるはずよ。 そんな彼女が、こんなタイミングで遠藤さんがB国に逃げたことを知ってたとしたら―偶然じゃない気がするの。もしかして、夫婦で何か話し合ってたんじゃない? だって、彼女は遠藤さんが何をしたのか知ってたとしても、やっぱり『妻』だし、『子どもの父親』だし、見捨てられるわけないじゃない。 旦那が逮捕されそうだと分かったら、どうにかして逃がそうとするのが、普通だと思うな」 彼女の言葉はスッと入ってくるような口調で、どこまでも理屈が通っていた。 修は心の中で、言いようのないモヤモヤを抱えたまま、黙って侑子の言葉を聞いていた。 「もういい、侑子......それ以上は言わなくていい」 「うん、分かった。でも修、私はね、修が傷つくのが怖いの。全部、修のことを思って言ってるのよ。だって私は、修を愛してるから」 松本さんも、きっとそう。彼女も『愛してる』男のために動いたのよ...
侑子は、修の「演技」をじっと見つめていた。 彼は一言も、昨夜のことには触れなかった。 あの夜、あの人は若子と一緒にいたくせに―なのに、彼女には何も言わない。 ......つまり、それを隠したいってこと。 でも、侑子にはそれを責めることができなかった。 彼と自分の間には、かろうじて保たれている「薄い膜」のような関係がある。 それを自分の手で破ってしまったら―もう、何も残らない。 少なくとも今は、修はまだ自分に「合わせてくれている」。 もしその気遣いすらなくなったら、ふたりの関係は完全に終わる。 だから、侑子は見て見ぬふりをするしかなかった。 修は侑子の顔色がよくないことに気づいて、そっと手を伸ばして額に触れた。 「どうした?具合悪い?」 「ううん、なんでもないよ......あ、そうだ」 彼女は話題を切り替えるように言った。 「遠藤さんの件、どうなったの?」 修は深くため息をついた。 「どうも事前に情報を察知してたらしくてね。もうB国に逃げたらしい」 「えっ......逃げたの?」 侑子は思わず身を乗り出した。 「じゃあ、どうするの?アメリカ側はB国まで行って捕まえるの?」 修は首を横に振った。 「それは無理だ。B国とアメリカには犯罪人引き渡しの協定がない。両国の関係もあまりよくとは言えないし、交渉して引き渡してもらうしかないけど......」 「じゃあ、B国は西也を渡してくれるの?」 侑子の問いに、修は苦笑まじりに答えた。 「可能性はほぼゼロだね。西也にはB国に強力な後ろ盾があるから、あの国があいつを簡単に差し出すことはないよ」 「そんな......じゃあ、もうどうしようもないの?他に手はないの?」 焦る侑子に、修は冷静に答える。 「今のところはない。ただ、もし奴がB国を出たら―そのときがチャンスだ」 「でも、彼が情報を知ってたのなら、絶対にB国から出ようとしないよね......」 「だろうな。だから、現状では手出しできないってわけ」 修の声には、もはや何の感情もなかった。 侑子は唇を噛んだまま、悔しさと虚しさを押し殺す。 「......なんでこんなことになっちゃったの?どうしてそんなに早く気づいたの?誰かが情報を漏らしたんじゃないの?」