〈篠沢グループ〉も新年度を迎えた。 その中枢・篠沢商事の秘書室に、一人の女性新入社員が配属される。 彼女の名前は矢神麻衣(やがみまい)。何事にも一生懸命だけれど人見知りが激しく内気な彼女は絢乃や桐島などの上司からの評価も上々だが、実は大学時代の自称〝元カレ〟・宮坂耕次(みやさかこうじ)からストーキング行為を受けており、麻衣はそのことを誰に相談していいのか分からなかったのだ。 麻衣に想いを寄せ、陰ながら彼女を守っている同期入社の入江史也(いりえふみや)は彼女と宮坂の大学時代の同級生でもあり、この事態をどうにか解決しようと奮闘するけれど……。 果たして両片想いの爽やかな恋の行方は……!?
View More――四月は始まりの月。草花が芽吹き、穏やかな日差しに包まれる中、新年度が始まる。
日本屈指の大企業グループ・〈篠沢グループ〉も新しい年度を迎え、その中枢である総合商社・篠沢商事には今年も百人近い新入社員が入社した。
わたし、矢神麻衣もそのうちの一人。今日は四月一日。待ちに待った入社式の日だ。
父から入社祝いに贈られた真新しいグレーのフレッシャーズスーツに身を包み、これも母からの入社祝いである黒のパンプスを履いて、バッグを肩から提げたわたしは胸を弾ませながらメトロ丸ノ内線の東京駅の改札を抜けた。
「……はぁーー、わたしも今日から社会人か。よしっ、頑張ろ!」
地上に出ると、わたしは小さくガッツポーズをした。
篠沢商事は東京都心のオフィス街・丸ノ内に本社を構え、東証にも一部上場している一流企業。そんなすごい会社で働けることが、わたしは嬉しくて仕方がない。
入社試験に先立って行われた会社説明会で、社内の人たちが生き生きと楽しそうにお仕事をしている姿に感動した。みんなキラキラ輝いていて、「この会社の一員です!」と誇りを持っているように見えたのだ。
わたしは面接試験の時、一応は暗記したマニュアルどおりの回答をしようとしたけれど緊張して途中で忘れてしまい、ひどく焦ってしまった。
でも、落ち込むわたしを見た面接官の人事部長さんが、優しくこうおっしゃったのだ。
「マニュアルどおりの志望動機より、私はあなたの心からの言葉が聞きたいです。思ったとおりの志望動機を聞かせて頂けませんか?」
「……はい。わたしは以前、御社の会社説明会に伺った時に、社員のみなさんが楽しそうに生き生きと働いていらっしゃる姿を拝見しました。その時に思ったんです。わたしもこの中の一員になりたいな、って。この会社でぜひ働かせて頂きたいな、って。それがわたしの志望動機です」
マニュアルどおりの回答よりも、わたしの本当の志望動機を聞いた時の方が、人事部長さんは嬉しそうだった。終始ニコニコして、わたしの話に耳を傾けて下さっていた。
そこで、わたしは気づいたのだ。この会社に求められている人材は、何でもかんでもマニュアルに沿ってこなす人じゃなく、きちんと自分で考えて、自分の意見をはっきり言える人なのだと。
社員は駒なんかじゃなく、この会社では一人一人がちゃんと血の通った、感情を持った〝人〟なのだ、と。
そしてわたしは、オニのように倍率の高いこの篠沢商事の入社試験に合格し、めでたく内定をもらい、今日という日を迎えることができたのだ。
「そっか、分かった。矢神さん、もう決めてるのね? じゃあ、第二秘書の話は私から社長にお断りしとくよ。残念だけど、あなたがもう決めてるなら仕方ないよね」「はい、すみません。お願いします」「うん、任せといて」 小川先輩は本当に残念そうだったので、もしかしたら小川先輩から社長にわたしを推薦して下さったんじゃないかと思う。期待して頂いていただけに本当に申し訳ない気持ちだけれど、わたしの決心は変わらない。「でも、社長にも第二秘書がいらっしゃらないと何かと不便ですよね……」「それは心配しないで。私と室長と桐島くんの三人で相談して決めるつもりだし、中途採用で募集をかけてもいいって社長もおっしゃってるから」「そうなんですね。分かりました」 安心したところで、わたしはまた仕事に集中することにした。 社長秘書と会長秘書だけに限って言えば、何も社内の人間でなければいけないことはないらしい。それぞれ個人秘書を持つこともできるので(桐島主任だって、肩書では篠沢絢乃会長の個人秘書を兼ねているのだから)、専門職として秘書を外部から募集してもいいらしいのだ。 * * * * ――その日の終業時間の少し前。わたしは会長室から戻って来られた桐島主任に呼び止められた。「――矢神さん、今日は退勤前に会長室へ寄ってほしいんだけど」「はい、大丈夫ですけど……。主任、何かあったんですか?」「ついさっき、真弥さんから連絡があったんだよ。あのアカウントの持ち主を特定できたって。それで、もうすぐ彼女が会長室へ来るらしいから」 真弥さん、仕事が早い。絢乃さんから頼まれたのは今朝だったというのに、もう特定できてしまったなんて。「なるほど、分かりました。それじゃ、帰り支度を終えたら会長室へ伺います」「待って、矢神さん。僕も一緒に行くよ。カバンを取りに来ただけだから」 ――そして終業時間後、主任と二人で会長室へ行くと、真弥さんと内田さんの他にもう一人、意外な人物が会長室に来ていた。「…………えっ、入江くん!? どうしてここにいるの!?」「矢神さん、わざわざ寄ってもらってごめんなさいね。彼、帰ろうとしたら一階でたまたま真弥さんに出くわしたらしくてね。その時に彼女から聞いたらしいの。あのアカウントが誰のものなのか分かったって。それで真弥さんと一緒についてきたのよ」「……オレ、なんか
――絢乃さんにもう一度お礼を言ってから重役フロアーの廊下で別れ、わたしは秘書室のオフィスへ戻った。「矢神、ただいま戻りました。遅くなってしまってすみません!」「おかえりなさい、矢神さん。会長から連絡を頂いていたので大丈夫ですよ」「矢神さん、おかえりー。会長との女子会ランチ、楽しかった?」 戻るのが遅れてしまったことを申し訳なく思っていたわたしを、広田室長も小川先輩も温かく迎えて下さった。「はい、楽しかったです。ついついご厚意に甘えてデザートまでいただいちゃいました。――先輩は主任と何を召し上がってきたんですか?」「ラーメン食べてきた。色気ないけどデートってわけじゃないし」「なるほど……、いいと思います」 確かに、男女でラーメン屋さんに行くのは色気がないかもしれないけれど。まあ学生時代の先輩・後輩の関係ならそんなものじゃないかと思う。「でも、主任は会長との夕食でもラーメンを食べに行くことがあるらしいですよ。何でも会長がリクエストされるんだとか」「それなら私も聞いたことあるよ。絢乃会長って、ああ見えてけっこう感覚が庶民的でいらっしゃるから好感持てるのよねー」「分かります。何ていうか、お嬢さまお嬢さましてないんですよね。お高くとまってないというか。親近感が湧いてくるというか」「そうそう!」 仕事そっちのけで先輩とおしゃべりで盛り上がっていると、室長から注意された。「……あなたたち、いつまでおしゃべりしているのかしら? いい加減仕事に戻りなさいね?」「「はっ、はいっ! すみません!」」 室長は普段温厚でめったに怒らない人なので、たまに怒った時はすごく怖いらしいと先輩たちも桐島主任もおっしゃっていたけれど。本当に怖い! しかもブリザード化されるので余計に怖い……!「――あ、そうだ。小川先輩、こないだ伺った、わたしを社長の第二秘書にしたいっていうお話なんですけど」「うん。……で、どうするの?」 わたしと先輩は資料の整理をしながら、大事な話を始めた。これは仕事に関する話題なので、話していても室長から叱られることはないだろう。「わたし、お断りしようと思います」「……そっか。まあ、決めるのは矢神さんだからいいんだけどね。でも理由聞いていいかな?」「わたし、絢乃会長の第二秘書になろうと思って。さっきそのお話を会長にしたら、喜んで下さってい
「――実はわたし、小川先輩から『社長の第二秘書をやってみない?』ってお話を受けたんですけど。まだお引き受けするかどうか迷っていて」 オフィスへ戻る道すがら、わたしは絢乃さんに打ち明けた。本当は食事中にでも聞いて頂きたかったのだけれど……。「そうなの? ……まあ、迷うのは仕方ないよね。入社してまだ一ヶ月にもならないのに、自分の適性なんて分からないもん」「……はい」「わたしだって、会長になりたての頃は色々と悩んでばっかりいたから。でも、貴女には秘書としての適性があると思う」「ありがとうございます。……でも、助けられて社長はとてもいい方ですし、お仕えすることをためらっているわけじゃないんです。わたしにはもったいないお話だというのもありますけど、それだけじゃなくて。わたしには他に、この人に付かせて頂きたいという人がいるんです」「そうなんだ……。で、貴女が仕えたい人って?」 それはわたしの中でいつの間にか芽生えていた思いだった。このストーカー問題で助けられて以来、「この人にお仕えしたい」と思った相手はただ一人しかいない。「絢乃会長です。わたし、会長の第二秘書としてあなたをお支えしたいんです。ダメ……ですか?」「ううん、ダメだなんてとんでもない! ありがとう、麻衣さん。すごく嬉しいわ。わたしも第二秘書のことはずっと考えてたから、むしろわたしの方からお願いしたいくらいだった」「よかった、お伝えして。桐島主任、絢乃さんとご結婚されたら役員になられるらしいって小川先輩から伺っていたので、もう一人秘書が居た方が会長も主任も安心されるかな、と思って。主任も、経営に携わりながら秘書のお仕事までこなされるわけにはいかなくなるでしょうし」「そこまで考えてくれてるのね。ありがとう。でもね、彼が役員になるっていうのはまだ決定事項じゃないの。彼に意思確認もしないと。彼の意思を無視して無理矢理やらせるわけにもいかないでしょ?」「そうですね」 それはごもっともだとわたしは思った。 いくらお婿さんになるからといっても、主任にだって役員になることを拒む権利はあるはずだ。それを無視して無理やりやらせたら、立派なパワハラになってしまう。 主任が以前いらっしゃった部署で、パワハラの被害に遭っていたことをご存じなはずの絢乃さんがそんなひどいことをするはずがないのだ。「もし彼が役員の
「――あの、主任のご家族も納得されてるんですか? 主任が婿入りされることと、お母さまとの同居のこと」「うん。彼は次男だから婿に出しても問題ないらしいし、わたしの母と彼のお母さまも仲よくなれそうだから。両家顔合わせを見た限りではね」「なるほど……」 わたしは絢乃さんのお母さまとお目にかかったことはないけれど、母親同士が親しくなれるなら同居にも問題はなさそうだ。「まあ、ウチみたいな家柄ならともかく、今は誰かが家を継がなきゃいけないっていう時代でもないし。お兄さまもいつかは家を出て行かれるんでしょうけど、彼のご両親はそれならそれで構わないっていうお考えみたいだから」「……そうですね」「……って言っても、わたしが家を継ぐのは義務じゃなくて、あくまで自分の意志だから。現当主である母が健在な間は甘えさせてもらうつもりでいるんだけどね」「はぁ」 わたしが間の抜けた返事をしているところへ、注文していたデザートのチョコバナナクレープが運ばれてきた。「――わぁ、美味しそう!」「でしょ? さ、いただきましょう」「はい!」 女子ふたり、美味しいクレープを味わう。甘いものを頬張って幸せそうな笑顔になる絢乃さんは本当にキュートで、主任は彼女のこういうところにも惹かれたんだなとわたしにも分かった。仕事をしている時のキリッとした姿とはまた違う、等身大の女の子としての魅力を感じた。 * * * *「――絢乃さん、今日はごちそうさまでした」 昼食を終えてお店を出たのは午後一時過ぎだった。でも、絢乃さんが室長に連絡して下さって、わたしが午後の就業時間に少し遅れて帰社することはOKを頂いていたので、堂々と社に戻れる。 支払いも絢乃さんご自身名義のクレジットカード(しかもゴールドカードだ!)で済ませて下さった。まだ十九歳という若さでゴールドカードを持っているなんてビックリ以外の何ものでもないけれど、さすがは国内トップクラスの財閥のお嬢さまという感じだ。「いえいえ、お粗末さまでした……って今時言わないか。麻衣さん、また一緒にランチしましょうね」「はい」「それじゃ、会社に戻りましょうか。広田さんと小川さん、貴女が戻るのを首を長ーくして待ってるはずよ」「そうですね。……わたし、ホントに怒られませんかね?」「だーい丈夫! 会長であるわたしがお願いしたんだもの、怒られる
「――麻衣さん、デザートも注文する?」 もうすぐゴハンを食べ終わるという頃、絢乃さんが再びメニュー表を取り上げた。本当に甘いものがお好きなんだなぁ。絢乃さんって本当に可愛くてステキだな。そういうわたしも甘いものには目がないのだけれど。 とはいえ、時刻は間もなく十二時四十分。おしゃべりしながらいつもよりゆっくりと食事をしていたので、もうこんな時間になってしまった。社食ではパパッと食べてしまうと、あとは午後の仕事に備えて早めにオフィスへ戻っているのだ。「いえ、大丈夫です。食べたいのはヤマヤマなんですけど、これ以上食べていたら午後の始業時間に間に合わなくなりそうなので……」「あー、そっか。もうこんな時間? じゃあ、会社へ戻る時間を少し遅らせましょう。会長を接待していたことにすれば、何も咎められることはないから大丈夫! 広田さんにはわたしから連絡しておくから」「そんな、接待なんて……」 むしろ、接待されていたのはわたしの方だというのに。……でも、メニュー表をめくると見た目もキレイで美味しそうなデザートが数種類あって、わたしは思わず誘惑に負けてしまった。「…………やっぱり、デザートも頂こうかなぁ。というわけで絢乃さん、広田室長に連絡お願いします」「分かった。それじゃ、わたしは電話をかけてくるから、デザートの注文お願いね。そうだなぁ……、チョコバナナクレープでいいかな?」「はい。じゃあ、わたしも同じものにします。注文しておきますね」 スマホを持った絢乃さんが席を立つと、わたしは「すみません」と給仕係の男性を呼んで二人分のデザートを注文した。 絢乃さんはほんの数分で席に戻って来られた。「――広田さんに連絡しておいたよ。デザート、注文しておいてくれた?」「はい。もうすぐ運ばれてくると思います。――真弥さんも呼べばよかったですね。なんか、わたしたち二人だけランチを楽しんじゃって申し訳ないです」「真弥さんは貴女のために調査を頑張ってくれてるから。お昼だってきっと内田さんと二人で食べてるでしょう」「……そうですね」 女子会ランチもたまにならいいけれど、やっぱり好きな人と一緒に食べるゴハンの方が美味しいかもしれない。「桐島さんも、わたしと一緒に食事できる方が楽しいみたい。ひとり暮らしだからなおさらでしょうね。でも、結婚したらウチのお婿さんになるから、食卓
「――そういえば昨日、真弥さんから聞きました。去年の秋、絢乃さんが真弥さんたちと解決されたストーカー事件のターゲットって、桐島主任だったんですよね。絢乃さんは主任を守りたくて、ご自分から行動を起こされたとか」 わたしは付け合わせのサラダを食べながら、真弥さんから聞いた話を絢乃さんに確かめた。「あら、真弥さんしゃべっちゃったんだ? ……ええ、実はそうなの。動画では彼のハイキックが目立ってたから、わたしが守られた側みたいに思われがちなんだけど、ホントはわたしが彼を守りたくて動いたのよ」「へぇ、スゴいですね……。絢乃さん、カッコいいです。女性なのにそんなふうに思えるなんて。わたしには多分真似できませんから」「ありがとう。でもね、麻衣さん。大切な人を守りたいっていう気持ちに、男も女も関係ないと思うよ。貴女だってこの先、入江さんが困ったら助けてあげたいって思うようになるはずだから。人を好きになるってそういうことだとわたしは思うな」「……そう、なんですかね?」「ええ」 わたしはちゃんと恋をしたのが初めてだから、あまりピンと来ない。でも多分、絢乃さんのおっしゃるとおりなんだろう。というより、お二人の恋愛を見ていたらその言葉が正しいというのが分かる。絢乃さんと主任は理想的な関係なんだと思う。「なんか……、絢乃さんの方がわたしより大人の恋愛をしてらっしゃいますよね。考え方が大人、というか。わたし、この年齢になってやっと入江くんが初恋なんだって分かったんです。もう二十三歳なのに、遅すぎますよね」「そんなことないと思うけどなぁ。わたしだって桐島さんが初恋だけど、恋に気づいたのは十七歳の時だよ。それでも遅いくらいだと思ってたのに」「えっ、そうだったんですか?」「うん。初恋が早い遅いとか、誰々の方がいい恋をしてるとか、そんなの比べて落ち込む必要なんてないと思う。人それぞれ、恋愛の形は違って当たり前だもの」「……そっか、そうですよね」 絢乃さんは絢乃さんなりの、小川先輩は小川先輩なりの恋愛をしているように、わたしもわたしなりの恋を楽しめばいいんだと思えた。
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