「けがはないか?」
「あ…はい。蓮司が…あ、いえ、本部長が庇ってくださったおかげで、なんともありません」
球児が強制退場したからといって、このフロアのざわつきは収まらない。
「みんな、聞いてくれ」
蓮司は臆することなく、よく通る声で高らかに宣言した。「騒ぎを起こしてすまない。ちょっとした行き違いがあっただけで、俺や中原さんはなにもやましいことをしたわけではない。先ほども宣言したとおり、俺が一方的に中原さんに好意を寄せていて、彼女の離婚当日に結婚を申し込んだ。中原さんを説得して、今、彼女は俺の妻になってくれた。すでに婚姻届けも提出して、戸籍上、正式な夫婦となっている。しかし彼女が伴侶になったとて、業務に支障はない。今まで通りなにも変わらないから、みんなもそのつもりでいてくれ」
しん、とその場が静まり返った。
「行こう」
ぐっと手を握られ、私は蓮司に連れられてその場を去った。
わぁぁどうしよう…。これ、明日みんなから詰め寄られるよぉ……!それに、坂下君や亜由美になんて言おう…。
※
会社の騒動は解決しないまま、その日は結局お母さん(蓮司の実家)家に行って、また30分だけ修行した。蓮司も付き合ってくれて、しっかり扱かれた。だいぶできるようになってきたので、自信がついてきた。
あと、帰り際、約束だったシリウスを預かることになった。数日間のお泊りセットと共に、シリウスと一緒に蓮司のマンションへと帰った。
「ワンっ」
蓮司は時々シリウスを預かっていたらしく、住まいのことを心配したけれど、ここはペット飼育可の物件のようで、家に連れ帰ることは問題なかった。基本室内で飼いならされているようだし、シリウスはすごく大人しいから
私は《屋外のベンチに行く》と亜由美に返して正面玄関をくぐった。深呼吸ひとつ。吸って、吐いて――いける。 ビル脇の植栽の前、いつものベンチ。亜由美が手を振るなり、私の手をぎゅっと握った。「まずはひとこと。結婚おめでとう。…で、噂は放っておくと形が悪くなる。先に短く正確に、私に情報出しとこ? 結婚したのってホント? ウソ? どっち?」 亜由美のこういうサラっとしたとこ、ほんと好きだぁ~!! 隠しごとしていたのに、おめでとうって言ってくれるなんて。最高!「ありがとう。本部長と結婚したのは事実。届けも済ませたから、戸籍は御門ひかりになったよ。仕事は今まで通りちゃんとやる。心配かけてごめんね」「そっか了解。じゃ、私の口からは『本人から聞いた。仕事に支障なし。以上』って噂流し返しとく」「助かる!!」 亜由美がにやっと笑って、声を潜めた。「で、なんで本部長?」 心臓がドク
早速リビングへ向かった。ダイニングテーブルには蓮司が用意した朝食が並んでいる。温かいコーヒー、焼きたてのトースト、そして小皿に盛られたサラダ。簡単なモーニングのようで、なんとゆで卵まで置いてあった。「いただきます」 ジャムを塗って食べる。うん、おいしい。「おいしいです」「焼いただけだ」「でも、蓮司が私のために作ってくださったんですよね?」「まあ」「だから、すごく、おいしいです。ありがとうございます」「そんなに大層に褒められるようなことはしてないぞ」 食べるたびに自然と笑みがこぼれる。朝ごはんもプロテインで過ごしてきた蓮司が、私のためにトーストを焼いてくれたという事実が嬉しい。ゆで卵もおいしかった。「会社のことは心配だろうけど、俺がついてる」「はい」
うとうとしているうちに、いつの間にか深い眠りに落ちていた。 夢の続きを見ているようで、胸がふわりと暖かくなる感覚だけが残っている。 身体がふわっと軽く、穏やかな揺れに包まれていた。 夢見心地でまぶたを開けると、薄暗い寝室の天井と、隣に寄り添う温もり。シリウスの柔らかな寝息が近くで聞こえる。あれ、ここ、私の部屋じゃない―― はっと覚醒し、バッと横を見た。隣でゆっくりと目を開ける男の顔が視界に飛び込む。寝起きですら整った髪、顔。眠そうなけれど穏やかな瞳がこちらを向いた。目が合う瞬間、私の心臓は一気に跳ね上がった。「起きたのか」 蓮司は声を潜め、照明のスイッチに触れた。柔らかな間接照明が灯り、部屋がほんのり明るくなる。シリウスは私のそばで丸くなったままだ。蓮司もすぐ傍にいる。「えっと……どうしてここに——」 思い出す。ソファでうとうとして、夢を見て——? でも自分でベッドまで行った記憶はない。さっきのシーンが、まるで映画の続きのように繋がっていく。「気持ちよさそうに寝てたから、ここへそのまま運んだ」 淡々と説明する蓮司の横顔は、いつもより近く、無防備だった。私の顔が火照るのを彼は気づかないふりをしているの…?
「母さんもひかりで喜んでいた。契約婚なのが惜しいくらいだな」「あ…ありがとうございます……」「あまり円満すぎるのも、期間が来て別れたら文句言われそうだな。適度な距離も必要か」「そ、そうですね……」 蓮司のまるでジェットコースターのような会話に、ドキドキしたりモヤモヤさせられた。 やっぱり彼は、私との結婚はあくまでも契約だと思っているし、どうこうなろうなんて、思ってない。 ただ、それがどうしてこんなにもショックなの? わからない。「まあでもそれはまだ先だから」 ぐい、と手を掴まれ、手を握られた。「円満夫婦は当面続行しよう」 そう言って歩き出す。 私は心の高鳴りが彼に聞こえないかどうか、心配でたまらなかった。 初散歩はドキドキで終了した。帰ってきてシリウスの足を拭いたあと、ソファに腰を下ろした。 静かな部屋に時計の針の音だけが響いている。蓮司は缶ビールを片手に、ふっと息をついた。「ひかり」「はい?」「今日のこと、気にするなよ。会社のこと。なにか言われたら俺にすぐ言ってくれ」「……はい」 本当は気になって仕方ない。あれだけ大騒ぎになったのだ。明日、同僚たちにどんな顔をして出社すればいいのか不安で仕方ない。
「けがはないか?」「あ…はい。蓮司が…あ、いえ、本部長が庇ってくださったおかげで、なんともありません」 球児が強制退場したからといって、このフロアのざわつきは収まらない。「みんな、聞いてくれ」 蓮司は臆することなく、よく通る声で高らかに宣言した。「騒ぎを起こしてすまない。ちょっとした行き違いがあっただけで、俺や中原さんはなにもやましいことをしたわけではない。先ほども宣言したとおり、俺が一方的に中原さんに好意を寄せていて、彼女の離婚当日に結婚を申し込んだ。中原さんを説得して、今、彼女は俺の妻になってくれた。すでに婚姻届けも提出して、戸籍上、正式な夫婦となっている。しかし彼女が伴侶になったとて、業務に支障はない。今まで通りなにも変わらないから、みんなもそのつもりでいてくれ」 しん、とその場が静まり返った。「行こう」 ぐっと手を握られ、私は蓮司に連れられてその場を去った。 わぁぁどうしよう…。これ、明日みんなから詰め寄られるよぉ……! それに、坂下君や亜由美になんて言おう…。 ※ 会社の騒動は解決しないまま、その日は結局お母さん(蓮司の実家)家に行って、また30分だけ修行した。蓮司も付き合ってくれて、しっかり扱かれた。だいぶできるようになってきたので、自信がついてきた。 あと、帰り際、約束だったシリウスを預かることになった。数日間のお泊りセットと共に、シリウスと一緒に蓮司のマンションへと帰った。「ワンっ」 蓮司は時々シリウスを預かっていたらしく、住まいのことを心配したけれど、ここはペット飼育可の物件のようで、家に連れ帰ることは問題なかった。基本室内で飼いならされているようだし、シリウスはすごく大人しいから
「これからだって何度も来てやるよ」「離して!」「お前が俺に金を払ったらな」「なんで私が球児にお金払わないといけないの? 私が慰謝料もらいたいくらいなのに、なけなしの貯金まで持ち逃げしたのはアンタでしょっ!」「あんな端金じゃ足りねーんだよ」「知らないわ。私には関係ないもん――きゃっ」 グイ、と強く腕を引っ張られ、球児によりかかる体制になってしまった。「俺が金づるを逃すと思うか? 今すぐ大声でお前の浮気を吹聴してもいいんだぜ?」「やめて! 浮気なんかしてないから!!」「でも~お。0日婚なんて、どう考えてもおかしいだろ~? 浮気しているとかしていないとか、そういうのを決めるのは会社の皆さんだよ」 球児は私を追い詰めてくる。耳元で醜悪に囁かれ、ぞっとした。「俺から逃げられると思うな」 どうして。 私がいったい、なにをしたの? 球児のこと、結婚してもいいと思うくらい愛していたのに。 せめて憎まずに別れたかった。 価値観が合わないから、仕方なく、と。 それなのに浮気した挙句、愛人を孕ませ、彼らの生活費が足りないと私を脅しにくる。 こんな男のなにが好きだったのか、もう思い出せない。 あまりに悔しくて、涙がでそうになる。 クズにいいように搾取され続ける人生。私、やっぱり蓮司と結婚なんかしなきゃよかった。 大事な蓮司に迷惑がかかっちゃう。「さあ、金払うのか払わないのかどっち――…ぎゃっ」 球児の顔が近づいていたので顔を背けていると、急に彼の影がなくなって視界が明るくなった。 なんと、蓮司が球児の首根っこを掴んで床に放り投げた所だった。 しりもちをついた球児が「イテテ」と顔をしかめている。