私は《屋外のベンチに行く》と亜由美に返して正面玄関をくぐった。深呼吸ひとつ。吸って、吐いて――いける。
ビル脇の植栽の前、いつものベンチ。亜由美が手を振るなり、私の手をぎゅっと握った。
「まずはひとこと。結婚おめでとう。…で、噂は放っておくと形が悪くなる。先に短く正確に、私に情報出しとこ? 結婚したのってホント? ウソ? どっち?」
亜由美のこういうサラっとしたとこ、ほんと好きだぁ~!! 隠しごとしていたのに、おめでとうって言ってくれるなんて。最高!「ありがとう。本部長と結婚したのは事実。届けも済ませたから、戸籍は御門ひかりになったよ。仕事は今まで通りちゃんとやる。心配かけてごめんね」
「そっか了解。じゃ、私の口からは『本人から聞いた。仕事に支障なし。以上』って噂流し返しとく」
「助かる!!」
亜由美がにやっと笑って、声を潜めた。
「で、なんで本部長?」
心臓がドク
給湯室の蛍光灯が彼のスーツの肩で冷たく光る。「本部長、僕は――」「勤務中に私的な詮索はやめろ、坂下。ここは会社だ。業務に関係のない“質問”は不要だ」 ぐっと一歩、近い。私と坂下くんの間に割って入るみたいに立って、真正面から射抜く。「それに――」視線が一瞬だけ私に落ちて、すぐ戻る。「彼女は俺の妻だ。話があるなら、上司であり配偶者である俺を通して欲しい。この件に関して文句や異議申し立てがあるなら、俺がすべて受けると皆には伝えてある」 はっきり言った。給湯室の奥にいた総務の先輩が、そっとカップを持って退散していく音まで聞こえる。やめて…。この場に走る緊張感がすごい。「……失礼しました。本部長。中原さん――じゃなかった、御門先輩に、ご結婚の件を確認しただけで」「確認は済んだ。以上だ」 言い切ってから、私の背に軽く手を添えた。その触れ方が独占っぽくて、心臓が跳ねる。やば、ここ会社だって。「あの、本部長…」「……悪い。語気が強かったな」 すぐ、坂下くんへ向き直る。「誤解させるつもりはない。彼女はチームの一員で、そして俺の妻だ。その事実は変わりない」「承知しました。個人的に引き留めて申しわけございません」 彼は深く頭を下げて、出ていった。残った熱だけが、給湯室に漂う。私は小さく息を吐いて、蓮司の袖口をちょん、とつまんだ。「あんなに言わなくてもいいじゃないですか」「……いや、ひかりが責められているのかと思ったら、つい」 間髪入れず。目を逸らさないの、ずるい。「業務上、不適切だ。分かっている。だが、男として、配偶者に向けられたあいつの好意的な目線は無視できなかった」 直球がきた。「お気持ちは嬉しいです。ありがとうございます」「わかってくれたらいい」 即答して、低い声をほんの少し落とす。「社外でこんなことがあったら、今みたいに遠慮はしないからな」「っ……承知しました」 顔、近い。熱い。やめて、ここは会
私は《屋外のベンチに行く》と亜由美に返して正面玄関をくぐった。深呼吸ひとつ。吸って、吐いて――いける。 ビル脇の植栽の前、いつものベンチ。亜由美が手を振るなり、私の手をぎゅっと握った。「まずはひとこと。結婚おめでとう。…で、噂は放っておくと形が悪くなる。先に短く正確に、私に情報出しとこ? 結婚したのってホント? ウソ? どっち?」 亜由美のこういうサラっとしたとこ、ほんと好きだぁ~!! 隠しごとしていたのに、おめでとうって言ってくれるなんて。最高!「ありがとう。本部長と結婚したのは事実。届けも済ませたから、戸籍は御門ひかりになったよ。仕事は今まで通りちゃんとやる。心配かけてごめんね」「そっか了解。じゃ、私の口からは『本人から聞いた。仕事に支障なし。以上』って噂流し返しとく」「助かる!!」 亜由美がにやっと笑って、声を潜めた。「で、なんで本部長?」 心臓がドク
早速リビングへ向かった。ダイニングテーブルには蓮司が用意した朝食が並んでいる。温かいコーヒー、焼きたてのトースト、そして小皿に盛られたサラダ。簡単なモーニングのようで、なんとゆで卵まで置いてあった。「いただきます」 ジャムを塗って食べる。うん、おいしい。「おいしいです」「焼いただけだ」「でも、蓮司が私のために作ってくださったんですよね?」「まあ」「だから、すごく、おいしいです。ありがとうございます」「そんなに大層に褒められるようなことはしてないぞ」 食べるたびに自然と笑みがこぼれる。朝ごはんもプロテインで過ごしてきた蓮司が、私のためにトーストを焼いてくれたという事実が嬉しい。ゆで卵もおいしかった。「会社のことは心配だろうけど、俺がついてる」「はい」
うとうとしているうちに、いつの間にか深い眠りに落ちていた。 夢の続きを見ているようで、胸がふわりと暖かくなる感覚だけが残っている。 身体がふわっと軽く、穏やかな揺れに包まれていた。 夢見心地でまぶたを開けると、薄暗い寝室の天井と、隣に寄り添う温もり。シリウスの柔らかな寝息が近くで聞こえる。あれ、ここ、私の部屋じゃない―― はっと覚醒し、バッと横を見た。隣でゆっくりと目を開ける男の顔が視界に飛び込む。寝起きですら整った髪、顔。眠そうなけれど穏やかな瞳がこちらを向いた。目が合う瞬間、私の心臓は一気に跳ね上がった。「起きたのか」 蓮司は声を潜め、照明のスイッチに触れた。柔らかな間接照明が灯り、部屋がほんのり明るくなる。シリウスは私のそばで丸くなったままだ。蓮司もすぐ傍にいる。「えっと……どうしてここに——」 思い出す。ソファでうとうとして、夢を見て——? でも自分でベッドまで行った記憶はない。さっきのシーンが、まるで映画の続きのように繋がっていく。「気持ちよさそうに寝てたから、ここへそのまま運んだ」 淡々と説明する蓮司の横顔は、いつもより近く、無防備だった。私の顔が火照るのを彼は気づかないふりをしているの…?
「母さんもひかりで喜んでいた。契約婚なのが惜しいくらいだな」「あ…ありがとうございます……」「あまり円満すぎるのも、期間が来て別れたら文句言われそうだな。適度な距離も必要か」「そ、そうですね……」 蓮司のまるでジェットコースターのような会話に、ドキドキしたりモヤモヤさせられた。 やっぱり彼は、私との結婚はあくまでも契約だと思っているし、どうこうなろうなんて、思ってない。 ただ、それがどうしてこんなにもショックなの? わからない。「まあでもそれはまだ先だから」 ぐい、と手を掴まれ、手を握られた。「円満夫婦は当面続行しよう」 そう言って歩き出す。 私は心の高鳴りが彼に聞こえないかどうか、心配でたまらなかった。 初散歩はドキドキで終了した。帰ってきてシリウスの足を拭いたあと、ソファに腰を下ろした。 静かな部屋に時計の針の音だけが響いている。蓮司は缶ビールを片手に、ふっと息をついた。「ひかり」「はい?」「今日のこと、気にするなよ。会社のこと。なにか言われたら俺にすぐ言ってくれ」「……はい」 本当は気になって仕方ない。あれだけ大騒ぎになったのだ。明日、同僚たちにどんな顔をして出社すればいいのか不安で仕方ない。
「けがはないか?」「あ…はい。蓮司が…あ、いえ、本部長が庇ってくださったおかげで、なんともありません」 球児が強制退場したからといって、このフロアのざわつきは収まらない。「みんな、聞いてくれ」 蓮司は臆することなく、よく通る声で高らかに宣言した。「騒ぎを起こしてすまない。ちょっとした行き違いがあっただけで、俺や中原さんはなにもやましいことをしたわけではない。先ほども宣言したとおり、俺が一方的に中原さんに好意を寄せていて、彼女の離婚当日に結婚を申し込んだ。中原さんを説得して、今、彼女は俺の妻になってくれた。すでに婚姻届けも提出して、戸籍上、正式な夫婦となっている。しかし彼女が伴侶になったとて、業務に支障はない。今まで通りなにも変わらないから、みんなもそのつもりでいてくれ」 しん、とその場が静まり返った。「行こう」 ぐっと手を握られ、私は蓮司に連れられてその場を去った。 わぁぁどうしよう…。これ、明日みんなから詰め寄られるよぉ……! それに、坂下君や亜由美になんて言おう…。 ※ 会社の騒動は解決しないまま、その日は結局お母さん(蓮司の実家)家に行って、また30分だけ修行した。蓮司も付き合ってくれて、しっかり扱かれた。だいぶできるようになってきたので、自信がついてきた。 あと、帰り際、約束だったシリウスを預かることになった。数日間のお泊りセットと共に、シリウスと一緒に蓮司のマンションへと帰った。「ワンっ」 蓮司は時々シリウスを預かっていたらしく、住まいのことを心配したけれど、ここはペット飼育可の物件のようで、家に連れ帰ることは問題なかった。基本室内で飼いならされているようだし、シリウスはすごく大人しいから