素羽は目の前の味噌汁をそっと押しやって言った。「うどんが食べたい」司野の顔に一瞬、微かな戸惑いが浮かぶ。彼は素羽の感謝の言葉を期待していたのに、返ってきたのは冷水を浴びせるような一言だった。森山も、その言葉を聞いて表情が少し変わる。ちらりと司野の方を窺い、場を和ませようと口を開いた。「奥様、うどんは今から作ると時間がかかってしまいます。朝食には間に合いませんが……」「大丈夫。待てるから」素羽は静かにそう答えた。森山は再び司野の顔を見る。司野は手を振って「作ってあげて」と合図した。それを見て、森山は何も言わず、静かに台所へ向かった。司野の視線が、まだギプスで固定されている素羽の足に落ちる。「今の職場には、もうしばらく行くな。家でしっかり休んで、怪我が治ってから、もしまた働きたいなら新しい仕事を用意する」これってどういう意味だ?自分の周りに異性がいるのは彼の面子に関わるから?それとも自分の交友関係を整理したいのか?司野のダブルスタンダードに、素羽はただただおかしくて仕方がなかったが、何も言わずにいた。「これまで通り、おとなしく言うことを聞いてくれれば、須藤家の奥様の座は誰にも奪われない」司野はそう言い残し、朝食を終えて出勤していった。素羽はまだ食卓に座ったまま、動かなかった。須藤家に嫁いだばかりの頃、琴子にこう言われた。「司野の残りの人生をちゃんと支えて、素直にしていれば、須藤家の奥様の座は誰にも譲らない」彼の妻であり続けること、須藤家の嫁であること。それが夢だった。あの頃、誰にも言えなかったけれど、心の中は希望で満ちていた。でも、今ではもうその熱い気持ちがどんなものだったか、思い出せない。冷めた水は、もう二度と熱くならない。一時間ほどして、素羽の希望通りうどんが運ばれてきた。しかし数口すすっただけで、箸を置いた。人の好みは、時の流れとともに変わるものだ。素羽は裏庭で日向ぼっこをしていた。揺れるロッキングチェアに身を委ね、空の雲の流れを静かに眺める。ふいに猫の鳴き声が聞こえた。声のする方に目をやると、痩せこけたキジトラの子猫がいた。小さな体、まだ乳離れもしていないように見える。一体どこから迷い込んできたのだろう?素羽が近づくと、子猫の毛が逆立ったが、逃げる様子はない。「ママと
司野は、素羽が自分と結婚したのは、身売りだとでも思っているのか?自分を何だと思っているんだ?売春女?素羽は奥歯をぎゅっと噛みしめた。心が砕ける音が聞こえた気がして、喉の奥が苦く、目を見開き、涙だけはこぼすまいと必死にこらえた。「もう、後悔してる」司野と結婚したことを、心から後悔していた。彼が自分を好きでなくてもいい。でも、こんな風に心を踏みにじられるのは、もう耐えられない。自分が愚かだった。想い続ければ、少しは届くと信じていた。けれど、彼の心は石よりも硬い。いや、鋼鉄みたいに冷たく、何も通さない。素羽の目に浮かぶ絶望の色に、司野は一瞬、動きを止めた。素羽は、かすれた声で繰り返す。「もう、後悔してるよ」司野には、その言葉の意味が分からないし、知ろうとも思っていない。ただ突然、素羽を押し倒した。遅れて状況を理解した素羽は、服を剥ぎ取られて初めて、彼が何をしようとしているのか気づき、必死に抵抗した。「やめて!嫌!」司野は彼女の手首を掴み、頭の上に押さえつけ、片足で暴れる足を封じた。「離婚なんて、無駄なことを考えるな。須藤家で離婚なんて、絶対に許されない」司野の声には、嘲るような響きが混じる。「それに、お前の父親だって、この縁談を手放すはずがないだろ?」そう言い放つと、司野は素羽の体を力づくで貫いた。「子どもが欲しいんだろ?種を蒔かなきゃ、実もならない」今の素羽は暇すぎて、余計なことばかり考えている。子どもができれば、おとなしくなるだろう。司野はそう思っていた。愛がない行為は、むしろ苦痛でしかなかった。素羽は痛みに耐え、司野も思うように進められず、どちらも苦しいだけの、冷えきった交わりだった。終わった後、素羽はうつろな目をして、何の反応も見せなかった。もし体が微かに震えていなければ、司野は本当に人形とでも寝ている気分だっただろう。司野は枕を引き抜き、素羽の腰の下に差し込み、腰を高くした。そうすれば妊娠しやすくなると、どこかで聞いたのだ。欲を満たした後の司野は、いつも通り淡々と後始末を始めた。その間、素羽は一言も発さず、彼を見ることもなかった。司野もそれ以上は何も言わず、ちょうどその時、海外から仕事の電話がかかってきた。電話を切ると、何事もなかったかのように、「ゆっくり休んでて。俺は仕
素羽はぼんやりと目を開けた。自分がどこにいるのか、まるで分からない。記憶はまだ、清人に家まで送ってもらうところで途切れていた。「先輩、家まで送ってくれてありがとう」素羽の口調はどこかねっとりしていて、呂律も怪しい。しかし、その甘ったるい声音は、司野にはまるで清人に甘えているように聞こえた。「先輩、もう帰って。司野に見られたら、また余計なこと言われるから……」その言葉を聞いた瞬間、司野の瞳が一層冷たくなる。「俺が余計なこと言う理由なんてあるか?」突然響いた声に、素羽のぼんやりしていた意識が少しだけ覚めた。あたりを見回してみると、自分が主寝室のベッドに横たわっていることにようやく気づく。ふらふらと頭を振り、素羽は言った。「私、お酒臭いから……今夜は隣の部屋で寝る」意識が朦朧としているのに、彼が自分の体から酒の匂いを嗅ぐのを嫌がることだけは、しっかり覚えていた。いつもそうだった。飲み会や付き合いで酔って帰るときは、司野に嫌われたくなくて、必ず部屋を分けて寝ていたのだ。ベッドから降りようとした瞬間、司野に肩を掴まれ、力任せにベッドへ押し倒された。元々足元がおぼつかない素羽は、再びベッドに倒れ込んでしまい、頭の中はさらにぐちゃぐちゃになって、もう何が何だかわからなくなっていく。数時間前、司野はようやく素羽が頼んだ代理人弁護士が誰なのか突き止めていた。夏輝だった。最初はなぜ夏輝がこの案件を引き受け、自分を敵に回すのか分からなかったが、清人の顔が浮かんだ瞬間、全て合点がいった。有瀬家と小池家は、昔からの深い縁がある。桃色に染まった素羽の顔をじっと見つめながら、司野は思う。この女は、男を惹きつけるだけの魅力を十分に持っている、と。今の素羽は、潤んだ瞳で、頬を赤く染めて、ほんの少しだけ開いた唇はまるで熟した桃のように赤く艶やかだ。どれだけ味わっても飽きることがない。司野の目は、どこまでも冷たい。そうやって、今夜もまたこの姿で清人を誘惑したのか?身を屈め、顎を掴み無理やり自分を見上げさせると、司野は氷のような声で言った。「素羽、お前、どこまで堕ちた女なんだ?」そのあまりにも近い距離で、素羽は司野の目に映る自分の色を見てしまった。まるで灰色、信じられないという顔で司野を見つめる。「私が、堕ちた女?」司野は
「素羽」素羽がぼんやりしていると、どこか懐かしい声が響いた。我に返ると、目の前には清人が立っていた。「先輩」清人が尋ねる。「こんなところで何してるの?」素羽は少し視線をそらす。「外の空気を吸いに来ただけ。先輩は?」清人は「さっき取引先と会ってきたばかり」と答え、彼女の車をちらと見やる。「それにしても、まだ怪我してるんじゃなかった?一人で運転して大丈夫?」「アクセル踏む足は無事だから」素羽は逆に聞き返した。「この後、忙しい?」「何かあった?」「ちょっと飲みに行きたくなって……一緒にどう?」清人は嫌な顔ひとつしない。「どこ行く?」二人は静かなバーへ向かった。店内は薄暗くて、素羽が纏う寂しげな雰囲気も、ほどよく闇に溶けていく。清人は本当に付き合いの良い人で、余計なことは言わず、ただ静かに隣にいてくれた。素羽は何かを吐き出したいわけじゃない。ただ、この夜の孤独が胸に重く、誰かの温もりが欲しかっただけ。何も言わなくても、清人には素羽の沈んだ気持ちが伝わっていた。そもそも、彼女は昔から口数が少ない。騒がず争わず、いつも静かに自分のペースで過ごしてきた。それでも、不思議と人を惹きつける何かがある。自然と視線が集まる、そんな存在感だ。結婚して富裕層の奥様方と同じ世界に入った今も、素羽は変わらない。今日もシンプルな白いワンピースに薄いトレンチコート。飾り気はないのに、店内の男たちの視線を独り占めにしているのに、本人はまったく気づいていない。酒に強いのも、司野に付き合わされ続けてきたせいだ。だが今夜は数杯で、頬がほんのり赤らみ、瞳が潤んでいる。清人はそれを見て「もう十分だ」と判断した。「家まで送るよ」「家?」ライトが瞳に反射して、素羽の目が潤む。「私には、家なんてないのに」本当は、ずっと家族を求めていた。でも、誰も彼女に本当の家を与えてくれなかった。どうして?自分、そんなにダメなの?完全に酔っぱらってしまった素羽は、普段なら絶対に見せない弱さを清人の前でさらけ出していた。清人も少し飲んでいたので、代行を呼ぶことにした。車は静かに景苑別荘へと到着した。「酒は人を酔わせるんじゃない。人が勝手に酔うんだ」なんて言葉があるが、素羽はすっかり意識を失っていた。清人が彼女
素羽はわかっていた。琴子のこの言葉は、何より自分に向けられているのだと。あの人から見れば、自分なんて小さな町家の娘よりも劣る存在でしかない。琴子は、美玲をかばうため、そして自分に釘を刺すため、これでもかと厳しく当たってくる。祐佳には手を出さない。あくまで他家の娘だからだ。けれど自分は違う、正式に須藤家に嫁いだ正妻なのだ。姑が嫁をこき使うなんて、世間的には当たり前のこと。けれど、正妻でありながら妾のような立場で、昼食の支度も配膳も、すべて自分がやる。腰も足も痛み、何度も立ち働くうちに、素羽の顔色はどんどん悪くなっていった。琴子は、その様子が気に入らないのか、苛立たしげに言った。「そんな死人みたいな顔して、誰に見せてるんだい?私の世話が不満なのかい?」「いえ……」そう答えた瞬間、冷や汗が額から一滴、つっと落ちた。「もういいよ、ここはあんたが居なくてもやれる」琴子はあからさまに素羽を追い払った。美宜の目は、どこか小馬鹿にしたような、楽しげな色をしている。素羽は、痛む体を引きずりながら、屋敷をあとにした。一緒に出てきたのは、祐佳だ。彼女は直接的な嫌がらせは受けていないものの、冷たい空気には十分さらされてきた。屋敷を出てホッとしたのか、ついに愚痴がこぼれる。「ほんと、あんたってどうしようもないね。ここまで情けない人も珍しいよ」まるで家の使用人よりも扱いが悪い。素羽は静かに言う。「忘れたの?私がこんな目に遭ってるのは、誰のせい?」だが、祐佳の辞書に「自責」や「罪悪感」なんて言葉はないようだ。むしろあからさまに嫌悪を示した。「うちで飯食わせてもらってきたくせに、私のために動くのは当たり前じゃない?もう、朝からずっと振り回されて、いい迷惑なんだから」「祐佳」そのとき、祐佳の友人たちが車で迎えにきた。祐佳は腰をくねらせながら、さっさと車に乗り込む。運転席の女友達が、バックミラー越しに素羽をちらりと見て言った。「へぇ、安物のお姉さんのわりに、顔立ちはいいじゃん。そりゃ須藤家に嫁げたのも分かるわ」祐佳は鼻で笑う。「嫁いだって、どうせ子どもも産めない役立たず。家では嫌われ者よ」もし健康な体だったら、何年も子どももできないなんてこと、あるわけないのに。松信が言っていた。「子どもができさえすれば、素
素羽にとって司野の優しさなんて、気まぐれそのものだった。さっきまで氷のように冷たかったくせに、次の瞬間には手のひらを返したように甘くなる。そんな極端さ、まともな人間が受け止められるわけがない。食事の支度はもうできていて、司野が素羽を抱き下ろすのを見て、森山の目にはほっとした色が浮かぶ。皆がテーブルについたので、素羽も席につくことにした。「美玲はまだ年端もいかないし、お前はお義姉さんなんだから、もう少し大目に見てやれ」その言葉に、素羽は箸を持つ手を止め、ゆっくりと顔を上げた。暖かい照明が司野の凛とした顔立ちを柔らかく照らしているのに、素羽は一片の温もりも感じられず、口の中の食べ物すら味気なくなってしまう。つまり、司野も美玲が悪いことをわかっている。ただ、善悪の区別がつかないわけじゃないが、身内には甘いのだ。素羽は箸を置き、口元を拭い、「もう、お腹いっぱい」と静かに言った。司野はほとんど手をつけていない夕食を見て、何か言いたげだったが、素羽はすでに森山を呼び、階段まで手伝わせた。何も言えない司野を見て、森山は内心でため息をつく。森山は彼の口下手さに呆れ、司野のほうは素羽が自分の顔を潰したと思っている。美玲は彼のたった一人の妹で、まだ若い。多少わがままなくらい普通だろう。たかがアクセサリー数点、取られたらまた買えばいいのに、そんな大事にしなくても……と司野は思っている。二メートルのベッドで、素羽と司野はまるで天の川を隔てるように、それぞれ端に寝ていた。翌朝。素羽が寝室を出ると、祐佳も家にいるのに気づいた。昨日の一件の後、もう帰ったのかと思っていたが、まだいたらしい。素羽はあまり祐佳に気を取られなかった。なぜなら、琴子から電話がかかってきて、祐佳を連れてくるように言われたからだ。祐佳は琴子が自分に会いたがっていると知ると、すぐに拒否した。「何しに行くの?私は行かない!」「昨日手を出したときは随分大胆だったじゃない」と素羽が淡々と言う。祐佳はむっとして、「私が手を出したのは、あんたのためでしょ?自分のためじゃないし」姉妹で何十年も一緒にいれば、祐佳には素羽の気持ちが手に取るようにわかる。自分のために怒ったわけじゃない。ただ、美玲が先に得をしたのが気に入らなかっただけ。素羽が断れない以上、祐佳も