俺、今井隆志《いまいたかし》は何処にでもいる……というには少し意見があるかもしれないけど、本当に何も自慢する事のない、容姿も地味で勉強もできる方じゃないし、運動だって人並み。100m走でクラスの中でも5番目位に速かったのが唯一自慢できることだが、それも高校生になった今になると『自慢』には既に入れることが出来ない。
そんな俺にも実は自慢できることはある。それが幼馴染達だ。
というのも俺が住んでいる地域は地方のそのまた地方で、街中へ買い物に行くにも必ず車は必要になるし、町に行く事よりも山に行く方が時間がかからない。更に言うと誇張でもなんでもなく『隣の家』なんて聞こえはいいが、実は歩いて5分程度かかる場所まで行かないとお目にかかる事が出来ない程の町……いや村かな? そんなところに住んでいる。
そんな俺の地元でも、
俺の同級生の中では飛びぬけて有名な奴らがいる。それが前もって言っていた幼馴染たちなのだ。正直に言って、俺がそいつらと幼馴染なんてことを言っても信じない奴もいる。そして……俺もそんな奴らと同じくらい信じられないのだから、自分でも笑う事しかできない。
「たーかしっ!!」 「ん?」 「何か考え事?」 「いや……うん。そうだな考え事だ」 「聞いちゃっても良い事?」 「どうだろな……」 地元でもそこそこ名のある高校へと進学した俺だが、そこには何故か幼馴染二人も一緒に合格してしまう。 まぁ地元にいて選択できる学校も少ないという理由はあるけど、俺よりも成績がいい二人がなぜか一緒にいるのだ。高校2年生になった今では更に差がついてしまっている。何より今俺に話しかけて来た幼馴染の一人で、唯一の女の子である歳内加代《さいうちかよ》は。中学時代から成績優秀と評判で、その上母親は首都圏でモデルの仕事をしていたこともあるとても美人さん。父親は地元で会社を経営している。所謂社長令嬢というやつだ。
そんな二人から生まれた加代が『普通』であるはずがない。母親に似てスタイル抜群。其の上小顔で今人気のなんとか坂グループにいてもおかしくないくらい可愛い。更にこんな俺にも未だに気さくに話しかけてくれるほど性格も良いとくれば、学校でも人気があるに決まっている。
「今日は聡はどうした?」
「聡?」 「何時も一緒だろ?」 「そんなこと無いよぉ~。今日は学校の補講が有るんだって」 「へぇ~……」 帰りのバスに揺られながら、時折その揺れで小さな「きゃっ!!」なんて可愛い声を発しながらも、俺の隣から離れない加代。会話に出て来た聡とは新岡聡《にいおかさとし》といい、同じ学校に通っているもう一人の幼馴染の一人。
因みにこの聡は学校では有名人だ。なにせ学校始まって以来初のインターハイ出場を果たしたバスケ部の主将を今年から務めているほどの実力者だ。ただし頭はそれほどよろしくない。なので本日も補講という憂き目にあっているのだ。
そして――。
ブシュ―!! がこん!!俺達の乗っていたバスが、その車体の重みを止めるためにサスペンションが鳴る音と共に、とある学校前の停留所に停まる。
「よう……」
「おう……」 「あ!! 今帰り!?」 「まぁそうだな」 乗り込んで来た一人の男子高校生。名前を桐生大河《きりゅうたいが》といい、俺が幼馴染と言える残りの一人で、加代の想い人でもある。残念なことに俺たちの中では……いや、俺達の住む町の中でもかなりのイケメンで、高身長。更に俺たちが通う高校よりも一ランク上の隣町にある高校へと進学した。成績も優秀な奴でもあるが、それで気取ったところはない。 だからこそ今でも俺たちが幼馴染としてみんな仲良くできているともいえるのだが。大河が乗り込んできて、俺達の前に座ると同時位には、それまで隣にいた加代が大河の横へと移動していく。
――まぁいつもの事だからな。
仲良く話を始める二人をしり目に、俺は窓の外をぼんやりと眺め始めた。こんな生活が既に2年に及んでいる。 「来年からはもう遊んでいられないじゃない?」 「そうだな……」 「大河は何処の大学を狙っているの?」 「俺は〇〇大学が第一志望だな」 「そっか……じゃぁ……」 加代が何かつぶやくが俺には聞こえない。いや聞こえていないふりをした。「隆志は?」
「あん?」 急に俺に大河が話を振る。「隆志は何処狙ってるんだ?」
「俺は……▽▽大学を一応第一志望にしてる」 「へぇ~。あそこはいい学校だと評判だな」 「そうなのか?」 「あぁ。良いところを狙ってると思うぞ。隆志にはいいんじゃないか?」 「……だろ?」 ウンウンと頷きながら俺の話を聞く大河。コイツは本当にそう思っているのだと思う。何より嘘を吐くのが下手で馬鹿正直なやつだからわかる。「まぁ俺はお前らとは頭の出来が違うからな。そういうところを狙うのが精一杯だ」
「そんなことないだろ。がんばれば――」 「いや。俺はそこでいいんだ‥‥」 大河の言葉を最後まで聞かずに俺が答えた。「そっか……隆志は……▽▽大なんだ……」
加代が小さな声でそんな事をつぶやいた。「俺の事より、お前たち二人の事を応援するわ」
「それはありがたいが……」 「ありがとう隆志!!」 「あぁ……」――大丈夫だ。お前たち二人の邪魔はしねぇよ……。
まだ続いている進路の話を、俺は二人の後ろに乗りながら、そんな事を考えつつ聞き流していた。時間が過ぎ、年が明け夏も終わりを告げる頃――。
俺たち四人は進学のための勉強を本格的に取り掛かり始めた。もちろん俺や大河そして加代は2年生の時から始めてはいたのだが、聡は部活の引退が夏だったために、一人遅れて始める事になる。
そんな聡の遅れを取り戻すべく、俺と聡は一緒に勉強をする事が多くなった。何より俺と聡の二人はできる方ではない。なので自然とできる二人からは距離を取る様になった。俺たちの所為で二人の勉強がおろそかになってしまうのも申し訳ないと聡が言いだしたためでもある。
ただそれだけじゃない。
「なぁ隆志……」
「どうした?」 「あの二人……うまくいくと思うか?」 「さぁ……こうしてお膳立てしてやってるんだから、うまくいってほしいとは思うけどな」 「だよなぁ……」 実の所、聡と二人で勉強することにしたのも、なるべくなら大河と加代を二人にさせてやろうと聡が言い出した事。これは二人には秘密にしている事だが、加代が大河に気があるというのは俺と聡は中学生時代からすでに知っていた。
俺に関して言うと小学生時代から知っていたのだが、高校生になってから二人の間の雰囲気がなんというか……そういう感じになっている事が聡も気になっていたようで、俺と共に距離を取ることを暗黙の了解としたのだ。
「どうにかしてやりたいけど……」
「こればっかりはな。俺たちは見守る事しかできないぞ」 「まぁなぁ」 「それに……」 「それに?」 「聡の成績が上がらないと、あの二人も心配しちまうだろ? そうなるとこうしてせっかく作った時間が無駄になっちまうぞ」 「あぁ!! それは言うな!! 俺も……頑張ってるんんだぞぉ~……」 「わかってる。だからこうして付き合ってやってるだろ?」 「ありがとなぁたかしぃ~」 なんて俺に甘えてくる聡だが、実は俺たち幼馴染の中で唯一恋人がいる。なんでも部活の遠征先で知り合った県内の高校の生徒らしいのだが、会いに行けない距離ではないけど簡単に合える距離でもない所に住んでいるので、実際に週末などにならないと一緒にいることが出来ない。そんな感じなので、平日はここ最近は俺と一緒にいる事が多い。
そんな日常を過ごしていたある日。
週末だという事で、聡は彼女の所へ会いに行くというので俺とは別行動をとることになったのだが、俺は一人で勉強するために図書館へと行く事にした。
街の中に行くためにバスに一人で乗って向かう。
「おう……」
「よう……」 俺が乗り込んだ次のバス停から、大河が乗り込んで来た。いつものように挨拶をすると、俺の隣へと腰を下ろす。「はかどってるか?」
「まぁまぁだな。そっちは?」 「俺もまぁまぁ……だな」 おれが手に持っていた参考書を手で示しながら大河が問いかけてくる。「一人か?」
「あぁ。今日は聡のやつは彼女さんの所だ」 「なるほど。相変わらず仲が良いんだな」 「そうだな」 大河ももちろん聡に彼女がいる事は知っている。俺達三人にわざわざ聡が合わせてくれたのだ。「隆志は?」
「あん?」 「彼女……」 「いるわけないだろ?」 「そうなのか? だって……」 「なんだよ?」 「……いや。いい」 何かを言いかけてやめる大河。 「お前の方はどうなんだよ」 「俺か? 俺もいないよ」 「……はぁ~。いい加減に気付いてやれよ……」 「何を?」 大きなため息をつきながら、俺は大河の方を向いた。「知ってるんだろ? 加代の気持ち」
「……なんだ。隆志|も《・》知ってたのか……」 「まったく。もうあんまり時間が無いんだぞ?」 「そうだな……そう言っておくよ」 「お前何言って――」 「俺、今日はここで降りるんだよ」 「はぁ?」 そんな会話をしていると、スッと立ち上がって降車ボタンを押す大河。 次の停留所が近づいてくるとバスの速度が落ちてくる。そしてバス停にバスが停まると、その停留所には加代の姿が有った。――なんだ。上手くやってるじゃねぇか……。
降りてすぐに大河と加代が会話をするところが見えるが、何を話しているのかは聞こえない。ただ大河がバスの方を指差しながら何かを言っている様で、バスが走り出す前に加代がこっちの方へと顔を向け、俺が乗っていることを確認すると、大きく手をぶんぶんと振っていた。
――しっかりやれよ。加代……。
その姿を見るとちょっと力が抜けて、俺も加代に小さく手を振り返した。 秋が過ぎ、風が冷たくなってくると感じる雪の気配。そんな気配を運んでくるともうすぐ町は白い世界の中へと取り残されたような景色になる。そんな中を白い息を吐きながら学校へと向かう俺たちは、既に受験に向けて学年中がピリピリとした雰囲気へと変わる。
勉強に関して上位にいる奴らは、この時期から推薦の関係でちょっと早めに受験モードへと突入するのだけど、聡もその中の一人なのだ。何と学校からスポーツ推薦枠での入学を打診されたようで、俺の所に報告に来た。今までは成績が推薦枠に入るほどのものでは無かったために、その話もどうなるか分からないと先生方からは言われていた為、その知らせを貰って凄く喜んでいた。
一番初めに彼女に連絡をしたようで、その彼女も聡のいく予定の大学近くへと志望校を変えるらしい。本当に仲が良いようで羨ましくもなる。
そうなると俺一人が焦りだす事になるのだが、試験までの間にできる限りの事はして本番を迎えた。
――やれることはやった!! あとは……。
試験へと向けて電車で移動するため駅へと向かう俺。少し余裕がある様にと駅に向かったので、目的の電車が来るまでには時間がまだある。駅の売店で缶コーヒーを買い、バッグから参考書を取り出し、ベンチに腰掛けて読み始める。
「たぁ~かしっ!!」
下を向いて数分。参考書へ目を向ける事で集中していた俺に声を掛けてくる人が居る。まぁ長い間その呼び方を聞いている俺にはソレが誰かは分かってしまうのだが。「加代……どうして?」
「うん? もちろん隆志の応援だよ!!」 「大事な時期だろ? 良いのか?」 「大丈夫大丈夫!! 私も頑張ってるもん!!」 「……ならいいか……」 「座っていい?」 「……聞く前にもう座ってるだろ?」 「えへへへ」 そう言いながら俺の隣で笑う加代。しばらくの間、こうして加代と話す事が無かったので、電車が来るまで話し込んでしまった。
駅の中に電車が到着するという表示が出ると、俺はスッと立ち上がった。
「そろそろ……」
「うん!! がんばってね!!」 「あぁ……じゃぁな」 「行ってらっしゃい!!」――行ってらっしゃいって……お前奥さんかよ……。
加代が元気に言う言葉に少し笑いながら俺はホームへ向けて歩き出した。そして桜が咲いた。
3月1日に卒業式を迎える。
新たな進学先へ向けて俺たちは歩き出す。
今まで一緒にいた幼馴染も、数人を残してバラバラになる。寂しさもあるし喜びもあるけど、金輪際会えないわけじゃないから、皆涙を見せる事は無い。俺たち四人で卒業祝いと入学祝を兼ねたパーティをしたけど、みんなそこでも笑顔のまま。聡は隣の県へ。
大河と加代は首都圏へ。 俺は北海道へとそれぞれが旅立つ。四月も終わりに差し掛かる頃――。
俺は大学の入り口をくぐり構内へと入っていく。独り誰も知らない人達の中を縫うように歩いていく。
構内にある桜は俺達の入学を祝うように咲き始めていて、そんな薄桃色の日差しを受けながら独り黙々と歩く。 すたすた……。「たぁ~かしっ!!」
誰かが俺を呼んだような気がした。しかし同じ名前の奴なんてこの世に何人もいる。知り合いのいないこの地に俺を呼ぶような奴はいない。だから自分ではないと思いそのまま歩き続ける。
すたすた……。
タッタッタ…… 歩くたびに近づいて来る足音。「たぁ~かしっ!! もう!! 待ってよ!!」
「え? いたぁ!!」
その足音は俺の隣まで近づいてくると、俺の背中にバン!! という音と共に痛みの衝撃が走る「名前呼んでるのに!!」
「え? か、加代?」
痛みに堪えながら横を見ると、そこには少し頬を膨らませて俺の方を見る加代の姿が有った。 「え? え? な、なんで? ここに? ほ、本物か?」 「何を言ってるのよ!! 本物よ!! ていうか本物って何!?」 「いやだって……お前は大河と……」 「大河?」 「あぁ。だってお前大河と恋人に……」 「?」 ちょっと首を傾げる加代。「え? どういう事? 何大河と恋人って」
「え? 告白したんだろ?」 「告白? まだだけど……」 「どうしてしないんだよ!! せっかく俺と聡がーー」 「今からするからだよ……」 「……は?」 「今から隆志に告白するから、まだしてないんだよ」――ちょっと何言ってるかわかんない……え? どういう事?
俺の頭の中は混乱する。「ちょっと待て!! それにどうして加代がここにいる!?」
「どうしてって……わたしもここを受けたからに決まってるでしょ?」 「いや、ちょっと待ってくれ。加代は大河と同じところに行ったんじゃ……」 「行かないよ? あの時から私が行くところは決めてたし!!」ぐるぐると頭の中で考える。何を言っているのか理解しようとしても、それ以上に混乱してしまう。
そうこう考えている間に加代は何やら気合を入れ出した。「えっと、が、頑張れわたし!!」
「…………」 「うぅん!! えっと!! 隆志!!」 「……はい」 「ずっと好きでした!! 私と付き合ってください!!」 「え?」 顔を真っ赤にしたまま俺の方を見つめる加代。「え? だって大河は……」
「大河? 大河からは早く告白しろって言われてたんだけど、ずっと勇気が出なくて言えなかったんだ」 「加代は大河の事が……」 俺達の周りを、ほのかに甘い優しい風が包み込む。 「私はずっと隆志の事が好きだよ?」 首を傾げて俺の方を見る加代。「で、返事欲しいな……」
輝く瞳を見せながら俺の事を見つめ続ける加代。物語の主人公のヒロインにしてあげたいと思っていた幼馴染。でもその物語の主人公は俺で、幼馴染は俺のヒロインだったみたいだ。
そんな俺が加代にした返事は――。 今では大学の中も町の中も、『一緒に腕を組んで歩いている』なんて言えばわかるかな?本当に小さい頃、いつも一緒に遊んでいた友達がいた。本当に仲が良くて毎日の様に夕日が山に沈んで辺りがオレンジ色の光から黒くなり、やがてうるさかった街の音も静かになる頃になって、ようやく泥や土まみれの体をお互いに自慢するようにして家路についていた。 俺、今井隆志《いまいたかし》は何処にでもいる……というには少し意見があるかもしれないけど、本当に何も自慢する事のない、容姿も地味で勉強もできる方じゃないし、運動だって人並み。100m走でクラスの中でも5番目位に速かったのが唯一自慢できることだが、それも高校生になった今になると『自慢』には既に入れることが出来ない。 そんな俺にも実は自慢できることはある。それが幼馴染達だ。 というのも俺が住んでいる地域は地方のそのまた地方で、街中へ買い物に行くにも必ず車は必要になるし、町に行く事よりも山に行く方が時間がかからない。更に言うと誇張でもなんでもなく『隣の家』なんて聞こえはいいが、実は歩いて5分程度かかる場所まで行かないとお目にかかる事が出来ない程の町……いや村かな? そんなところに住んでいる。 そんな俺の地元でも、俺の同級生の中では飛びぬけて有名な奴らがいる。それが前もって言っていた幼馴染たちなのだ。 正直に言って、俺がそいつらと幼馴染なんてことを言っても信じない奴もいる。そして……俺もそんな奴らと同じくらい信じられないのだから、自分でも笑う事しかできない。「たーかしっ!!」「ん?」「何か考え事?」「いや……うん。そうだな考え事だ」「聞いちゃっても良い事?」「どうだろな……」 地元でもそこそこ名のある高校へと進学した俺だが、そこには何故か幼馴染二人も一緒に合格してしまう。 まぁ地元にいて選択できる学校も少ないという理由はあるけど、俺よりも成績がいい二人がなぜか一緒にいるのだ。
春風に舞う薄桃色の波の中で、静かに佇む君がいた。 近年には無く少し厳しめの冬が過ぎ、もうすぐ春の到来を告げる風がまだまだ体に震えを与える頃、僕は新しい生活に疲れいつも独りきりだった。 ようやく決まった就職先。苦労して大学に進学して、苦労して就職活動を終え、今度は就職先で新しい環境になれるまで時間がかかった。勿論周りは知らない人だらけ。慣れ親しんだ場所から引っ越し、これから先の事なんて考える余裕もなく、『慣れろ』という一言を言われただけで過ごす毎日。自分の中を通り過ぎていくそんな空っぽな日々に疲れていた。 社会人として一年が過ぎ、ようやく自分の後輩が入ってくるという時になって、ようやくこのままでいいのかな? なんて考え始めた俺。 篠宮竜太《しのみやりゅうた》23歳。何も予定の無い休日に公園で独りベンチに座り、体にまとわりついて離れない風に少しだけ身震いする。――もうすぐ春が来るのか……。 ここ最近でようやくできた少しの余裕。その為に感じる事の出来なかった季節の移り変わり。いつの間にか通り過ぎていく暑さも寒さも、本当に何も感じる事無くただただ『生きていた』だけに過ぎないと気付いた。 ひゅ~―― という冷たさの乗った風がまた拭き始めたとき。「きゃっ!!」 俺の近くにあった、もう一つのベンチの側から声が上がる。 その拍子に自然とその方向へと視線を向けると、自分と同じ歳くらいの女性が長いスカートに手を当てて風で捲れるのを防いでいた。 その風によって流れて揺れる長い黒髪。さらさらとした中でもきらりと輝いて見えた。「もう!!」 そう言いながら過ぎて行ったいたずらな風に文句を言いつつ、着ているモノを直す女性。「「あ!!」」 視線を上げた女性と、その様子を見ていた俺の視線が合わさる。瞬間に「まずい!!」と思いサッと視線を逸らす俺。 一瞬しか見えなかったけど、女性は小さな卵型の顔に色白な肌で、赤い眼鏡をかけていた。女性は大きな咳払い一つして、そのま
憧れている女性がいた。 必死に頑張って、就職氷河期と呼ばれている中、自分が入りたい会社へとどうにか滑り込み入社できた。 俺は現在24歳会社員。花形と言われる営業職どころか、日陰の庶務管理課という部署で毎日雑務に追われる生活をしている。名前はあまり会社の人にも覚えられてはいないけど、三門徹《みかどとおる》という立派なものを持っている。 とはいえ、生まれた家は立派な家柄とかじゃなくて、平凡なサラリーマン両親の元に生まれただけの、本当にどこにでもいる一般人。――こんな会社に入れただけでも、満足しなくちゃいけないんだけどね……。 などと考えてはいるモノの、仕事の方が順調かと問われると、全然ダメ……とは言わないまでも其れなりにはこなせていると思う。 そういうのも、この会社に入って既に2年が経過しようとしているのだけど、一向にやる気が上がらない。 その原因になっているモノは分かっているんだけど、既に自分では対処のしようがないのだ。「徹君聞いてる?」「は、はい!! すみません!!」「まったく!! 昔からそうだったけど、もう2年目なんだからしっかりしなきゃダメよ?」「……本当にすみません……」 我が課の中に入って来て、色々な事を頼んできていた1歳年上の先輩、下条楓《しもじょうかえで》さん。 スーツを着ているからというのもあるけど、体のメリハリがよく分かる上に、少し茶色がかった腰まで伸びた長い髪。小顔と言えるほど小さな顔に整ったパーツを備えている。もちろん会社の男性陣も彼女の事をみんなが狙っている。所謂会社のマドンナ的存在。それが彼女。容姿だけでは無くて仕事の能力も高いと来ている。所属している開発部の中では次期エースとしてその名が上がるほど、会社の中では有名な人なのだ。「ちょっと!! 徹君さっき言ったのにまだやってないの!?」こげ茶色の混じった大きな瞳を俺に向けながら、驚きの声を出す下条さん。「す、すみません!!」「まったくもう……あなたは変わって無いわね。高校の時から……」 そんな事を言いながら大きなため息をついて、くすくすと笑いだした。 俺と下条さんは同じ高校の先輩後輩。なので知っている仲ではあるのだけど、それだけの関係ともいえる。――俺には憧れの先輩で有る事は変わらないけどな。 下条先輩との出会いは俺が高校へ入ってすぐの事。