【2015年9月】定時はとうに過ぎてしまっていた。百合子から受け取ったLINEに従い、慌ててステアリングタワーを出ると、エントランスで待っている彼女を見つける。「待たせて悪かった……出る直前で、急に客先から電話がきてしまって……」「もう、悠真さんったら、謝らないでいいのに」百合子はクスリと笑う。「ぜんぜん待ってないわ。スマホで読書も英会話もゲームもできるし、ドラマの消化までできちゃうもの。それに私たち、もう付き合い始めて4ヶ月よ。気兼ねなんてする必要ないじゃない」“付き合い始めて4ヶ月”というワードにドキッとし、つい周りを見回してしまう。社員の誰かが聞いていなかっただろうか。俺たちが恋愛関係にあることは、ネットでも一部で妙な噂になっていた。今さら隠そうとしても手遅れだとは思うが、こう、百合子のように明け透けにするのもどうかと考えてしまう。「行きましょ、悠真さん。それとも……ダーリンって呼んだ方が良い?」「ダーリン……は、止めてくれ……ともかく、行こうか、百合子君……」「もう、照れ屋なんだから」俺の腕に捕まりながら彼女は言う。何やら今日は一段と甘えてくる。恋人同士になったのに、いまだに変な気恥ずかしさを感じてしまうのはなぜか。何やら、遅れてきた青春の中にいるような感覚だった。これまではグループの総帥である父に従って生きてきた。百合子と付き合うということは、それと反した行動だ。初めて俺は、自分の意志で一人の女性を好きになり、「恋人」という甘酸っぱい関係になっている。ただ、そういう風に女性と付き合ったことなど今までなかった俺は、百合子に導かれるままだ。今日はドライバーにも暇を出し、夜景がきらめく東京の街を、徒歩で予約していた高級フレンチレストランへ向かう。それを提案してきたのも百合子だった。道すがら、百合子が商業ビルのショーウィンドーを指さし、「見て!」と声を上げる。そこには純白のウェディングドレスが飾られている。「ねえ、悠真さん、私に似合うかな?」その笑顔を見て、彼女が真に求めているものを思い、生唾を飲んだ。百合子との関係を続ければ当然、結婚という話も出てくるだろう。しかし、総帥――あの父親が、ダスクコーポレーションという落ち目の企業の娘との婚姻を許してくれるわけがない。だが、彼女の希望に満ちた瞳を見ていると、やはり彼女こそ運命の女性
遥花とは小学校からの幼馴染みで、高校までの腐れ縁だった。クラスでも、体育の列に並んだら一番前になるのは当たり前なくらい、背も低かった遥花。「ちっちゃくてカワイイ!」と思って、私が誰よりも先に友達申請したような記憶がある。「私、香澄っていうの! 遥花ちゃん、めっちゃかわいいね! お友達になろっ!」今でも思い出す。いくら子供だったとはいえ、よくもまぁそんな絵に描いたような陽キャな誘い方を出来たものだなと、当時の私に感心する。うん、偉いぞ香澄。遥花は血のつながらない両親と暮らし、とても厳しく躾けられているとかで、最初はなかなか心を開いてくれなかった。けれども私が多少強引にグイグイせまり、学校でも一緒に遊ぶようになって、ゆっくり、少しずつ仲良くなっていったと思う。他の友達にはなかなか心が開けず、「鋼の女王」だなんて異名を持っていたけど、私にとっては小動物みたいな? あるいはポヨポヨしたマスコットキャラみたいな愛らしさだった。そんな遥花が、いつの間にか結婚して、離婚して。だけどお腹に双子がいて、めっちゃお腹も大きくなって。大人になるって怖いことだ。けれど、凄いことだとも思う。離婚した直後の遥花と再会して、最初は「ここに子供がいるの」なんて言われてもぜんぜんピンとこなかったし。ちょっとだけポヨッとした感じのお腹が、小学生の頃の遥花の体型を思い出してカワイイなぁとすら思ってたんだけど。そのお腹もだんだん大きくなっていって、もう今では「ここに二人も入ってるんだ!」とわかるくらい。それと同時に、私の中でもだんだん不思議な愛おしさのようなものが感じられるようになっていった。ゲームに例えるなら、最初はヨワヨワで、ザコ敵にもすぐやられてたような主人公が、いつの間にか魔王と戦えるような強さに覚醒した感じ。まさに主人公! カッコイイ! って思える。でも同時に、「この人を絶対守らなきゃいけない」って、かけがえのないものになったとも感じている。魔王を倒せるのはこの人だけなんだ。だから、私がパーティの女剣士として? いや、魔法使い? 遊び人? ……わからないけど、とにかく支えてあげなきゃという強い意識が芽生えたのだ。特に離婚直後、遥花はあまり笑わなくなっていた。子宮の閉じる力が弱くて、ハイリスク妊娠だという話を聞いて、なのに支えてくれるハズのパートナーもいない。そりゃあストレス
【2015年8月】離婚から半年。お腹はかなり大きくなり、鏡を見るたび命の重みを痛感する。ハイリスク妊娠であることの不安は消えないが、医師の「ストレスを避けて」という言葉を守り、狭いアパートの部屋で静かな生活を心がけていた。生計は、ブログやフリマアプリの収入でなんとかして立っている。悠真の銀行カード――正式に離婚をしてからは、もう私の名義にも変更されてはいるものの、いまだ手つかずだ。あの屈辱の夜を思い出すと、ギリギリまで使う気になれなかった。彼の「浅ましい」という嘲笑や、百合子を抱きながら庇う姿……それらが、カードに手を出すたびに何度もチラつくのだ。それに離婚から数週間後、ルミナスコーポレーションの養父からLIINEでかかってきた通話の件もある。お前の離婚で信頼を失い、取引が減って株価が落ちた。ステアリンググループとの取引も減らさざるを得なくなった。新たな提携先を見つける必要があるが、どこの会社も取り合ってくれない。出てくるのはお前の離婚の話ばかりだ。お前のせいでこんなことになってる。責任を取れ――1時間近く、口やかましくいろいろ言われたが、まとめるとそんな内容だった。娘の離婚で、本人に向かって責任を取れなんて言う親がいるとは。いくら血がつながっていなくてもありえない。そもそも、株価の暴落は本当に私が関係しているのだろうか? 確かに離婚の件が週刊誌のネタになっているのは見かけたが、話題はたいして続かなかった。別に芸能人ほどの知名度があるわけでもないのだから。「一千万用意しろ」と、養父が具体的な金額を口にして怒鳴る。悠真から受け取った銀行の貯金額を思い出すと、用意できない額ではない。しかし、これは私と双子のために必要なお金だ。「もう駒にしないで!」私は、今まで養父に向かって叫んだこともないような強い口調で拒んだ。養父も呆気に取られたのか、何も言い返してこなくなった。そんなに怒鳴るとお腹の子にも障る気がしたが、通話を切ったあとはむしろすがすがしく、気持ちよく眠りに就けた。以降も何度か、養父か、時には養母から通話がかかってくることはあったが、完全に二人ともアカウントをブロックしてやった。もう彼らと話すことは何もない。ルミナスの株価は、ジリジリと下落し続けた。それが自然なことなのか、不自然なことなのか。経済というものはとにかく複雑なものだ。少なくとも、も
カップの中のコーヒーは、すでに冷たくなっていた。カフェの個室で、百合子から打ち明けられた話を頭の中でまとめながら、ズズッとすする。「やっぱり、困っちゃいますよね……こんな大昔の話をされても」彼女の目が、俺の過去を覗き込むように光る。慌てて逸らし、個室のガラス窓越しに、冷たく輝く東京のビル群を見つめる。彼女が打ち明けたのは、俺が10歳のころに遭った、誘拐事件の話だった。思い出したくもなかった恐怖と絶望の過去。あのとき、俺の人生は終わっていてもおかしくなかった。それを助け出してくれたのが、一人の少女――当時まだ6歳の、佐野百合子だったというのだ。「もう少し、詳しく聞かせてくれないか――その、思い出せる範囲でいいし、辛くなるなら、途中でやめてもいい」百合子は頷く。「大丈夫ですよ。ぜんぶ覚えていますから……それにこれは、私にとっては大切な記憶でもありますから。その、不謹慎に思われたら申し訳ないですけど」俺は首を振る。感情なんてどうでもいい。今はただ、真実が知りたかった。「あの日実は、私も誘拐されて、別の部屋に閉じ込められていたんです」「――君も?」「ええ。驚かれるでしょうが、当時、私の父が経営するダスクコーポレーションは、ステアリンググループの過去の取引先だったんです。だけど、リーマンショック以降の投資の失敗で没落してしまって」ダスクコーポレーション。遥花の養父母が経営するルミナスコーポレーションは、リーマンショックのあとで急成長していた。一方でダスクは没落。ルミナスもダスクも、どちらも運輸で財を成したステアリンググループに関係する、物流関連の企業だ。業界の明暗を分けた二つの企業が、こんな形で俺の人生に絡むとは皮肉だ。「あの日、暗闇の中で、私は一人でした。手足を縛られ、冷たいコンクリートの床に座って、ただ震えていたんです」いつもは耳障りなくらい高めの百合子の声が、強く抑え付けたようにグッと低くなる。「でも、そのとき男の子の叫び声を聞きました。私だけじゃない、他にも誘拐された子がいる。助けなきゃと、不思議な気持ちが湧いたんです。自分よりも誰かのことを優先したいという気持ちに駆られたのは、ひょっとしたらあの時が初めてかもしれません」徐々に記憶が戻ってくる。叫んでも誰も来ない。喉が枯れ、飢えと恐怖が俺を蝕んだ。父の顔も、母の声も、頭から消えて、絶望
【2015年5月】離婚から3ヶ月、俺の生活は空虚だ。ステアリングタワーの最上階に君臨する父の冷徹な目や、ガラス張りのオフィスでの会議の重圧に追われる日々。「後継者たれ」という父の命令や、書類の山、数字の羅列。それが俺のすべてとなった。俺の離婚報道は、ささやかながら世間を賑わせた。離婚のきっかけや原因は何だったのかという突撃の取材も電話で舞い込むようになり、社員達にはすべてシャットアウトするよう通達された。それでも「モラハラが原因か?」「夫の不倫か?」などの記事が書かれ、もしかして遥花や百合子が記者に情報を売ったのかと慌てて雑誌を買い漁り、読み込んだりもした。だが載っている情報はどれもデタラメで、記者の妄想の域を出ない話ばかり。SNSの反応を見ても、誰も信用してないようで胸をなでおろす。一方、ステアリンググループ企業の株価は、なぜか軒並み急騰したりもした。「総帥の息子が離婚したことで、グループとしても注目を浴びたんだろう」「これならどんどん入籍してもらって、どんどんバツを重ねてもらわないと」などと、株主たちの勝手なネットの書き込みを見ては、辟易とした。逆に遥花の養父母が経営するルミナスコーポレーションは、大きく株価を落とした。取引については離婚後も変わらず続けるという約束が交わされはしたが、その次の月には早速、出荷の枠が減らされていた。これを株価のせいだけと捉えてよいものか。会社と会社の関係性も、人間関係となんら変わることはない。信用を失えば希薄になっていくだけだ。父はさっそく、俺の次の婚姻先を考えているようだった。「心配するな。信用が絶たれたとしても、新たな信頼関係を築けば良いのだ」。珍しく優しい言葉をかけてくれながらも、太くて真っ白の眉毛は強張っていた。結局俺は、駒としか見られていなかった。また繰り返しだ。別の取引先と政略結婚が結ばれ、またグループの利益のためだけの、愛のない生活が始まる。遥花との生活の方がよほどマシだったと思うだろう。夜になると、遥花の涙が頭をよぎる。あの夜、俺は彼女を「浅ましい」と嘲り、銀行カードを投げた。妻だった女性にそんな態度を取ってしまったことが、自分でも信じられなくなる。「離婚しましょう」と突きつけられた声、去っていく彼女を載せた車のテールランプ。それらの記憶が、いまだに胸を締め付けてくる。あの時の俺は、何かに憑りつか
【2015年3月】前の客が吸ったのであろうタバコの香りが残る、安いビジネスホテルの窓から見える東京の街は、夜の光で冷たく輝いていた。こんなところに泊っているなんて悠真が知ったら、多少は気の毒に思ってくれただろうか。プチ家出の際も、贅沢はしなかった。冷たくされた腹いせに旦那の稼ぎで豪遊する妻も世の中にはいるようだが、それと同じことをするのは私のプライドが許さなかった。悠真に隠れて更新していたライフハック系ブログや、フリマアプリの収入ですべてまかなっていた。当然ながら、愛のない養父母の元へ帰るという選択肢は最初からなかった。今は悠真から渡された“報酬”でまとまったお金もあるが、すぐ手を出す気にはなれなかった――数日前のあの夜、悠真の冷たい瞳と百合子の影を背に、家を飛び出した私。スーツケース一つでこのホテルに身を寄せ、新居を探す日々を送っていた。双子を守るため、新しい人生を始めると決めたのだ。“報酬”は新生活の資金に充てたかった。だが同時に、心のどこかで、悠真への愛がまだ疼く。借り物の身分で縛られた私でも、彼を愛していたのは本当だった。彼から受け取ったお金に手を出せないでいるのは、まだ未練があるからかもしれない。それに、彼の言葉――「浅ましいよ、遥花」が、いまだに私の胸につっかえている。倹約も、その「浅ましい」という言葉を否定するための無駄な努力のように思えた。とにかく、この過渡期のような日々も、じきに終わる。新しい部屋を見つけたのだ。狭いアパートだが、双子と私の未来を築くには十分だ。翌日、契約のため、住民票を取りに区役所へ向かった。カウンターの職員が事務的な声で告げる。「道仲様――いえ、大道寺遥花様」と、いきなり旧姓で呼ばれて驚く。いや、旧姓はどちらだろう? 嫌な予感がした。「どうやらお伺いした内容と齟齬があり、あなたはまだ大道寺家の籍に入られたままのようです。離婚届、提出されてませんね」予感が的中し、心臓が止まりそうだった。悠真の怯えた瞳、最後の「離さないぞ」が頭をよぎる。あの言葉は、ただの気の迷いじゃなかったのか?それに「役所には俺の方から出しといてやる」と、彼の方が言ったのだ。そんな言葉を信じた私が浅はかだったのか。いずれにしても、私が動かなければこの借り物の婚姻関係は終わらない。双子の命を守るため、私はもう彼から独立すると決めたのに――。