藤崎お婆さんは、その瞬間、目を見開いた。心の中で何度も繰り返していた。「ありえない……絶対に、ありえない」千尋はゆっくりと彼女の前に歩み寄った。その冷ややかな瞳には、どこか皮肉めいた光が宿っていた。「じゃあ知ってる?うちの母さんがあんたの息子と付き合ってた頃、すでに神医って呼ばれてたのよ。診てもらいたい人が何千万円からスタートってレベルで並んでたの。そんな彼女が、あんたたち藤崎家のちっぽけな財産に興味持つと思う?」その言葉を聞いた藤崎お婆さんは、信じられないといった顔で聡美を見つめた。二十数年前、藤崎家はまだ名門とは言えなかった。だからこそ、彼女は清司と聡美を別れさせて、上流階級のお嬢様との政略結婚をさせようとしたのだ。だが、清司はそのことに反発して一人で酒を飲みに行き、酔った勢いで裕子と関係を持ってしまい、子どもまでできた。当時の裕子の家はそれなりの名家だったため、彼女は子どもを理由に、無理やり清司と裕子を結婚させた。もし本当に聡美が神医だったとしたら――彼女は、藤崎家に莫大な利益をもたらす嫁を自ら捨てたことになる。治療費が数千万円からって、あの時代の藤崎家の年間利益がやっとそれくらいだったのだ。今となっては、悔やんでも悔やみきれなかった。藤崎お婆さんの態度は一瞬で豹変した。涙ぐみながら聡美に向かって言った。「聡美さん、この子は清司の子なのよね?藤崎家の血を引いてるんでしょ?私の可愛い孫娘、あなたこそ本当の藤崎の家族よ。こっちに来て、顔を見せてちょうだい」そのあまりの手のひら返しに、千尋は思わず鼻で笑った。「私は聡美の娘であって、藤崎家とは一切関係がない。これ以上騒ぐなら、その口も黙らせるわよ?」その一言に、藤崎お婆さんはすっかり怯え、言葉を失った。その様子を見て、佳奈は後ろのボディガードに向かって言った。「この人を連れてって。今後、病室に一歩でも入れさせないで」「かしこまりました」ボディガードは藤崎お婆さんを引きずるようにして病室の外へと運んでいった。それでも彼女は諦めきれずに叫んでいた。「可愛い孫よ、必ずお前を藤崎家に迎え入れてみせるからね!」その言葉に、千尋はまたもや冷笑を漏らした。そして顔を上げ、清司の方を見やると、彼はすでに涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた
「彼が事故に遭ったとき、ちょうど私が近くにいてね。私が彼を病院まで運んだんだ。田森家は最高の医者を呼んだけど、それでも彼は目を覚まさなかった。それで田森お爺さんが私に協力を持ちかけてきた。俊介として表に出てほしいって。一つは、彼の代わりにあの事件の調査を続けるため。もう一つは、私自身が再起するチャンスでもあった。この二年間、調査をしながら俊介の仕草や言動を徹底的に真似てきた。だからこそ、今の私は君でさえ見分けがつかない俊介になれたんだ」その言葉を聞いた瞬間、佳奈は何かに気づいたように目を見開いた。「じゃあ……佑くんが『顔が変わる』って言ってたの、本当はあなたが智哉だって気づいてたってこと?」「そう。その子、頭がいいんだよ。どうやって気づいたのかは分からないけど……そこは君に似たのかもな」佳奈の目が一瞬、翳った。「私たち、血が繋がってないのに……どうして似るのよ」俊介は彼女のその表情に気づき、優しく頭を撫でた。「佳奈」少し掠れた声で彼は言った。「もし……あの時、赤ん坊が生きてたら、その子の安全のために誰かに預けること、できた?」その言葉に佳奈は思わず顔を上げ、目に抑えきれない感情が浮かんでいた。声も自然と低くなる。「そんな可能性、あり得ないけど……でも、もしそうだったとしても、私は絶対に手放さない。安全よりも、母親の愛情が何より大切だと思うから」その答えに、俊介の喉がごくりと鳴った。もし彼女が「預けてもいい」と言っていたら、佑くんのことを話す決心がついたかもしれない。でも、今の彼女に真実を告げれば、きっと彼女は佑くんを手放さないだろう。それは、彼女にも子どもにも、あまりにも危険すぎる。俊介は佳奈の頭を優しく撫でながらつぶやいた。「……君が俺を恨む日が来ないといいな」その言葉はあまりにも唐突で、佳奈は一瞬戸惑った。彼が何かを隠している――そんな予感が胸をよぎる。その時、俊介の携帯が鳴った。画面を見てすぐに通話ボタンを押す。「坊ちゃん、清司さんと篠原先生、無事救出しました。美誠と慶吾は誘拐容疑で警察に連行されました」俊介は佳奈を一瞥すると、電話の相手に聞いた。「清司さんの容体は?」「病院に搬送されて検査中です。篠原先生の話では、大きな問題はなさそうです」
「個人的な感情については、もう過去のことです。今はただのビジネス関係にすぎません。皆さん、関心を寄せてくださってありがとうございます。本日はここまでにさせていただきます。どうぞお引き取りください」そう言い終えると、彼女は人混みの中を通り抜けようとした。だが、こんなにおいしい話題を記者たちが簡単に手放すはずがない。マイクを握ったまま、さらに質問を重ねてきた。その時だった。黒塗りの高級車から一人の男が降りてきた。男の手には花束。黒いサングラスをかけ、シルバーグレーのオーダースーツに黒いネクタイという出で立ち。長く引き締まった脚で力強く歩きながら、佳奈の方へと向かってくる。俊介は群衆をかき分けるようにして、佳奈をそのまま抱き寄せた。そして花束を渡し、口元に笑みを浮かべながら言った。「藤崎弁護士、おめでとう」佳奈は少し驚いた。この人、こんなにすぐキャラ変するものなの?さっきまで傍聴席で真剣な顔してたのに、今やすっかりあのプレイボーイの田森坊っちゃんになってる。佳奈は花を受け取り、微笑みながら「ありがとう」と言った。その様子を見た記者たちの好奇心はますます膨らんだ。以前、佳奈に新しい恋人ができたという投稿がトレンド入りしたことがあったが、当時はどちらもノーコメントだった。ところが、今こうして堂々と一緒にいる。記者たちはたまらず追及を始めた。「藤崎弁護士、田森坊っちゃんとお付き合いされているんですか?以前の噂は本当だったんですか?」佳奈は俊介を一瞥し、その意図をようやく理解した。彼は二人の関係をはっきりさせるために、わざわざ現れたのだ。佳奈はほのかに笑みを浮かべて言った。「田森坊っちゃんは、今の私の彼氏です」俊介はその言葉を聞き、記者たちに笑顔で手を振りながら、落ち着いた声で言った。「はい、今日の質問はここまでにしましょう。これから彼女と一緒に、お祝いしに帰りますので」そう言って、彼は佳奈の肩を抱きながら人混みを抜け、あの黒い車に乗り込んだ。ドアが閉まる瞬間、彼は佳奈を強く引き寄せ、唇を重ねた。佳奈がちょうど身を引こうとしたその時、俊介の低い声が耳元で囁かれた。「動くな。あいつら撮ってる。恋人関係を確実にするには、これくらいのインパクトが必要だろ?」そう言うと、彼は再
「旦那様、麗美さんが無罪放免となり、帰国できることになりました」その言葉を聞いた瞬間、浩之の顔色が一気に曇った。「そんなはずはない……どういうことだ?」「旦那様、私たちは佳奈に騙されていたんです。彼女はとっくにM国に密かに入っていて、ABグループが高橋グループのコンピューターに侵入し、チップ技術を盗み出し、それで偽のスマホを製造して爆発事故を起こしたという証拠を手に入れたんです。さらにABグループが商業連盟を口実にして、他のグループから資金を巻き上げていた証拠も見つけました。これらの証拠があれば、ABグループは危機に陥ります。あの会社はM国のハイテク産業のトップなので、国としては潰せない。だから麗美さんに対する訴えを取り下げたんです」その説明に、浩之は怒りに震えながら車椅子の肘掛けを強く握りしめた。顔には陰鬱な怒りがますます濃く浮かび上がっていた。「佳奈……俺を弄んだな。絶対にただじゃ済まさないぞ!」そう吐き捨てた後、即座に命じた。「藤崎家に動くよう伝えろ。佳奈に裁判で勝たせてやっても、親父さんには二度と会わせねえ」だが、その言葉が終わるか終わらないうちに、再びスマホが鳴り響く。「旦那様、藤崎家に突然警察が押し入ってきて、清司さんを救出しました。それに、美誠が逮捕されました……どうやら、完全に罠だったようです」立て続けの打撃に、浩之の怒りが一気に爆発した。スマホを思い切り床に叩きつける。二つの戦で、佳奈はあまりにも鮮やかに勝利を収めた。偶然とは到底思えない。きっと最初から清司の居場所を突き止めていたのだ。だが、浩之を油断させるために、すぐには救出せず、あえて「空城の計」を演じたに違いない。これで麗美という駒は使えなくなった。手元に残るのは瀬名お爺さんのみ。一刻も早く、あの爺さんからすべてを引き出し、瀬名家の実権を手に入れなければならなかった。――一方その頃。麗美の裁判は国内外で大きな注目を集めており、裁判所の前には多くの記者が詰めかけていた。佳奈が建物から出てきた瞬間、記者たちが一斉に取り囲む。「藤崎弁護士!今回の裁判結果について、少しお話しいただけませんか?」佳奈は落ち着いた表情で答えた。「裁判は順調に進みました。麗美さんは無事に帰国できます」その言葉を聞いた瞬
俊介はその計画を聞いて、胸が締めつけられるような気持ちになった。 かつての佳奈なら、絶対にそんな選択はしなかったはずだ。 彼女は迷わず、まず父親の救出を最優先にしただろう。 だが今の彼女は、まるで軍師のように冷静沈着に全体の作戦を練っていた。 この二年間、彼女が一人でどれほどの苦悩と困難を経験してきたのか……想像するだけで俊介の胸が痛んだ。 俊介はそっと彼女を抱きしめ、慰めるように言った。 「安心して。俺が必ずお父さんの安全を守る」 佳奈は顔を上げて、俊介を真っ直ぐに見つめた。 「言葉には気をつけて。一回お父さんって口にしちゃうと、クセになって身バレするわよ」 「分かってる。それが真実を君に隠してた理由の一つでもあるんだ。感情を抑えるように努力するよ」 そう言って、彼はスマホを取り出し、藤崎家に人を向かわせるよう指示を出した。 一方その頃―― 美誠は電話を切ると、清司を見下ろしながら冷笑を浮かべた。 「清司、驚いたでしょ?本当の娘は私なのよ。あなたの財産を受け取るのは当然の権利ってわけ。安心して、佳奈が素直に従って財産を渡してくれれば、あなたには手を出さないわ」 清司の顔は怒りで真っ赤になり、首まで膨れ上がっていた。 昏睡状態にあったとはいえ、ここ最近の出来事はすべて把握していた。 唇をわななかせ、目を見開いて美誠を睨みつける。 額には怒りの血管が浮かび、両手は車椅子の肘掛けを力いっぱい握りしめていた。 だが、どれだけ力んでも、一言すら声に出すことはできなかった。 そんな清司の様子を見て、美誠は満足そうに笑みを浮かべた。 「今のあなたはただの廃人よ。私が言うことがすべて。警察が来たって、どうせ何もできないでしょ?私はただ、父親が自らの意思で財産を実の娘に渡したって言えばいいだけ。今までの償いとしてね。 二人で仲良くしてなさいよ。ちょうど昔話でもしてなさい」 そう言い残し、彼女はドアをバタンと閉め、鍵をかけて出て行った。 清司は怒りでドアを睨みつけ、車椅子の肘掛けを何度も叩いた。 その様子を見た聡美は、そっとため息をついた。 「清司、無理しないで……あなたが目を覚ましただけでも奇跡なのよ。二年も昏睡してたんだもの。舌も声
佳奈はその言葉を聞いた瞬間、表情が一気に冷え込んだ。「相続権が欲しいなら、まずは父を解放して」美誠は鼻で笑った。「私をバカだと思ってるの?あなたの父親を解放したら、もうお金なんて手に入らないじゃない。佳奈、ふざけないで。今すぐ手続きに行って。清司の全財産を私の名義に移すのよ。さもなければ、彼が生きてあなたに会える保証なんてないから」佳奈はなんとか冷静さを保とうとし、声を低く落とした。「美誠、お金が欲しいなら渡すわ。でも父の財産は、一円たりともあげない。あれは父が一生かけて築いたものよ」美誠はまた笑った。「でも私が欲しいのは、その財産だけ。あなたのお金なんて興味ないわ」その言葉に、佳奈の目がわずかに陰った。そして口を開いた。「わかった。まずは父の様子を見せて。それから手続きに行くわ」まもなくして、美誠から一本の動画が送られてきた。そこには、車椅子に座った清司の姿が映っていた。目を大きく見開き、口をパクパクと動かして、何かを佳奈に伝えようとしているようだった。だが、声はまったく出ていない。必死に何かを訴えようとしているのか、額には汗が滲んでいた。その動画を見て、佳奈はすぐに言った。「財産を移すって、そんなに簡単なことじゃない。たくさんの手続きが必要で、数日かかるわ。その間、父の安全は絶対に保証してもらう」美誠は冷たく言った。「佳奈、大人しくしてなさい。じゃないと、あなたの父親はここで死ぬことになるわよ」「父はあなたの手の中にある。私が大人しくしないはずないでしょ?毎日父の様子を動画で送って。それに、手続きの進捗も逐一報告するわ。これでお互い安心できるでしょ」美誠はニヤリと笑った。「わかってるじゃない。さっさと済ませなさいよ」そう言って、通話は切られた。佳奈は送られてきた動画を何度も再生して、じっと見つめた。何かが引っかかる――父がいる場所が、どこか見覚えのある環境だった。俊介も画面を覗き込み、清司の動く口元をじっと観察した後、口を開いた。「お父さん、藤崎家の本邸にいるよ」佳奈は目を見開いた。「唇の動きが読めるの?」「うん。この二年間、俊介として生きるために、声の真似だけじゃなく唇の動きも練習したんだ。俊介は唇の動きで会話を読むのが得意だったからね。