庭園で狼と過ごした夜から一週間が経った。ロレインは毎晩あの狼のことを思い出しては、また会えるだろうかと窓から庭園を見下ろしているけれど、不思議な雰囲気を身に纏った狼がロレインの部屋を見上げていることはなかった。
「ロレイン様、お疲れのご様子ですね」
「あぁ、フィオナ……大丈夫だよ。少し寝不足なだけ」「大丈夫ですか? お食事か何かお体に合わないなどはありませんか……?」「今のところは大丈夫。食事はすごく美味しいから食べ過ぎるくらい……ドレスが入らなくなるから気をつけないとね」実際のところ、ロレインは疲れていた。アストライア帝国での生活に慣れてきたとはいえ、常に女性として振る舞い続けることの精神的な負担は想像以上だ。それに加えて、シルヴァンとの関係も微妙な距離感を保ち続けなければならず、気を抜ける時間がないのも悩みの種である。
「今日は午後から侯爵夫人方との茶会でございますね」
「そうだったな。シェリー夫人とエレノア夫人と……三人だけの茶会だっけ?」「はい。侍女仲間から聞いたのですが、お二人とも皇帝陛下の幼馴染のご令嬢だったみたいです」「へぇ……なのに陛下はこの歳まで結婚しなかったんだな」一般的に王族や貴族の子供は幼い頃に婚約者が決まったり、早くに結婚することのほうが多い。シルヴァンにそういう相手が今までいなかったのは不思議だなと、ふと考えた。もしかしたら彼もロレインと同じで『今』が忙しいからそういうのは考えられない、と断ってきたタイプかもしれない。
「皇帝陛下は政務でお忙しそうなので、これまでもそうだったのかもしれませんね。昨夜も遅くまで執務室にいらしたとか……」
「そうなのか?」「私はロレイン様の専属侍女なので詳しくは分かりませんが……。最近ヴァルモン魔国との国境で小競り合いが頻発しているそうで、頭を悩ませているようです。陛下は平和的解決を模索されているようですが、軍部からは強行城下町から帰ったロレインは、一人になると急に疲れがどっと押し寄せてきた。今日一日、『リリア』として完璧に振る舞い続けたが、特に少年に手の大きさを指摘された時は本当に心臓が止まるかと思ったことを思い出し、自室で深いため息をついた。「お疲れ様でした、ロレイン様」「ああ、フィオナ……ありがとう。でも、楽しかったよ」フィオナの手によってドレスを脱ぎ、普段着に着替えると少しだけ肩の力が抜けた。それでも心の中のもやもやは晴れない。「ジェイクさんからも、ロレイン様が楽しそうだったっておっしゃってましたよ。陛下もお優しかったとか」「……そうだね。あいつには恥ずかしいところを見せたから気まずい」フィオナの言葉に、ロレインは複雑な表情を浮かべた。確かにシルヴァンは優しかった。手の大きさを指摘された時もさりげなくフォローしてくれたし、ネックレスを買ってくれたり、ルビーベリーを5箱も注文してくれたり。でも、その優しさは全て『リリア』に向けられたものだ。もし彼がロレインの正体を知ったら、果たして同じように接してくれるだろうか。「フィオナ、今夜は一人になりたいんだ。もう休んでくれ」「でも、お着替えや髪のお手入れが……」「大丈夫。自分でやるから」「……分かりました。何かございましたらいつでもお呼びください」フィオナが部屋を出て行った後、ロレインは窓辺に座って夜の庭園を眺めた。月は少し欠けているが、それでもルナ・ブルーの花々が仄かに光っているのが見える。あの夜、ここで出会った狼のことを思い出した。あの時も心が休まらなくて庭園に降りたのだ。今夜もまた、同じような気持ちで――「あれ……?」庭園の奥で、何かが動いているのが見えた。大きな黒い影が、月明かりの下でゆっくりと歩いている。――あの時の狼だ。ロレインは思わず身を乗り出した。前回会った時と同じように、その狼はロレインの部屋を見上げ
ルビーベリーを購入したあと、二人は街歩きを続けた。次に向かったのは広場で、そこには多くの市民が集まって朝市を開いていた。「すごい人ですね……」「毎日この時間帯はこうやって市場を開いているんですよ。ただ、今日は……あなたを一目見ようと集まってきているようです」確かに、ロレインたちに気づいた市民たちがざわめき始めていた。しかしそれは敵意のあるものではなく、むしろ興味深そうな視線だった。「皇后陛下、とてもお美しいわねぇ……」「皇后陛下は人間の国からいらしたんですよね? ようこそアストライア帝国へ!」市民たちから温かい声がかけられ、ロレインは安堵した。獣人の国に嫁いできた人間の王女を、みんなが受け入れてくれているようだ。「ありがとうございます。皆様に温かく迎えていただけて、とても嬉しいです」ロレインが丁寧にお辞儀をすると、市民たちからは拍手が起こった。「見て、皇帝陛下もあんなお顔で笑うのね」「きっと皇后陛下がお美しいからよ」シルヴァンの様子の変化は市民たちも分かるのか、ロレインの隣で微笑んでいるシルヴァンを見てコソコソと噂を立てている。ロレインにも聞こえるほどの声だから、狼の耳を持つシルヴァンにはもっと鮮明に聞こえているだろう。だからなのか、彼の顔がほんのり赤く染まっている気がした。シルヴァンの顔を見上げながらロレインは¥が自然と笑みを溢していると、群衆の中から一人の少年が走り出してきた。犬の獣人の子供で、足がもつれたのかロレインの足元に倒れ込んできた。「わっ、大丈夫? 怪我はない?」ロレインが咄嗟にしゃがんで少年を支えると、少年は涙目でロレインを見上げる。助けてくれたのが皇后陛下だと認識した彼は幼いながらもピシッと姿勢を正し、泣きながら頭を下げた。「こ、皇后陛下……すみませんでした……!」「謝ることはないわ。どこか痛いところはある?」優しく声をかけな
約束の休日、ロレインは朝から緊張していた。城下町に出るということは大勢の人に見られるということであり、女装がバレる可能性が高くなる。フィオナが選んでくれた濃紺のシンプルなドレスは確かに目立たないが、それでも不安は拭えなかった。「ロレイン様、きっと大丈夫ですわ。今日のお召し物もとてもお似合いです」「ありがとう、フィオナ。でも緊張するなぁ……」「私も一緒に参りますから、あまり緊張せずに。意識しすぎるとかえって不審ですよ」今日は護衛としてジェイクがついてきてくれると言うので、多少安心だ。事情を知っている人が近くにいれば、もし危機的な場面に遭遇しても何とかなるだろう。約束の時間に王宮の正門へ向かうと、普段の黒い正装ではなくロレインと同じ濃紺の服を着たシルヴァンが待っていた。偶然なのかフィオナを含めシルヴァンの侍女と示し合わせたのか分からないが、ロレイン自身は意図せず同じような服になってしまって恥ずかしさが込み上げてきた。「おはようございます、リリア。昨夜はよく眠れましたか?」「ごきげんよう、陛下。おかげさまで、ぐっすりと」「それはよかった。……お似合いですね」「え?」「濃い色のドレスが、あなたの白い肌を際立たせているなと思いまして」シルヴァンの褒め言葉に頬が染まる。いつもの威厳ある皇帝の姿とは違う、年相応の青年らしい彼の姿にロレインの心は躍った。「護衛は少し離れたところから見守ってもらいます。できるだけ自然に街を歩きたいので」「分かりました」「では……どうぞ」「?」「う、腕を組もうかと、思いまして……」「あ、ああ! はい、お願いします……っ」馬車から降りて、シルヴァンと腕を組みながら石畳の通りを歩き始めた。朝の城下町は活気に満ちていて、商人たちが店を開く準備をしていたり、パン屋からは香ばしい匂いが漂ってきたりと、レグルス王国とはまた違った雰囲気があった。
翌朝、ロレインはいつもより早く目が覚めた。昨夜のシルヴァンとの会話が頭から離れず、結局あまり眠れなかったのだ。特に「"リリア"と、お呼びしても?」と照れながら尋ねた時の彼の表情が脳裏に焼き付いて、思い出すたびに胸がざわついた。「ロレイン様、お目覚めですか? 朝食の時間まではまだ余裕がございますが……」「フィオナ、もう起きてるよ。あまり眠れなくて」「お疲れのご様子ですね。昨夜、皇帝陛下がいらしてから何かございましたか?」フィオナの問いかけに、ロレインは昨夜の出来事を思い返した。シルヴァンの政治的な相談に乗ったこと、そして名前で呼び合う約束をしたこと。どちらも『リリア』として経験したことなのに、なぜかロレイン自身の心が大きく動かされていた。「……政治の話を少ししただけだよ。でも、朝食を一緒にとることになったんだ」「まあ、そうなんですか……! だから使用人たちがざわついていたのですね」「ざわついてた?」「はい。リリア様の好物を料理長にしつこく聞かれたりして……」「そ、そっか、そうなんだな……」シルヴァンが『リリア』の好物を朝食に出すと言っていたから、きっと彼の指示だろう。シルヴァンが知りたがっているのはリリアであって、ロレインではないというのに彼の優しさに胸が甘く締め付けられた。「フィオナ、俺はどこまでこの嘘を続けられるかな……」「ロレイン様?」「いや、なんでもない。朝食の準備をしよう」フィオナの手によって薄いピンク色の朝食用ドレスに身を包んだロレインは、約束の時間にダイニングルームへ向かった。扉を開けるとすでにシルヴァンが席についていて、ロレインの姿を見るとパッと顔を輝かせた。「おはようございます、リリア」名前で呼ばれた瞬間、ロレインの心臓が大きく跳ねる。昨夜お願いしたばかりだというのに、もうこんなにも自然に名前を呼んでくれるなんて。た
ただの王女が政治的な話の助言をするなんて不審がられるかと思ったけれど、シルヴァンはロレインの言葉一つ一つを聞き漏らさないよう真剣に聞いていた。言葉遣いが『ロレイン』に戻っていたかもしれないけれど、今はそんなことよりもシルヴァンの態度がただただ嬉しかったのだ。「あなたの助言を元に策を練ってみます」「あ、陛下……グラシアル王国への打診は慎重に行う必要があります。あの国は中立を保つために、どちらかに肩入れしていると思われることを極度に嫌いますから」「なるほど。では、どのようなアプローチがいいとあなたは思いますか?」「宗教的な大義名分を前面に出すのはいかがでしょう? 『大陸の平和は神々の意志』『戦争による破壊は神殿への冒涜』といった形で、宗教会議としての仲裁を依頼するのです」「なるほど……それなら思想を重んじるグラシアル王国も断りにくいでしょうね」「あとは、交渉が成立した場合の具体的なメリットも用意しておくべきです。ヴァルモン魔国には技術協力と貿易拡大、グラシアル王国には仲裁成功の名誉と三国間貿易の利益など……」「三者にとって、争うよりも協力したほうが得だと思わせる関係を作り出す、ということか……参考になります」今までのロレインの提案を聞いたシルヴァンは話を頭の中で整理しているのか、じっと床を見つめて微動だにしない。そんな姿を見ると、ロレインはちゃんと彼に助言できたのだなと思えて頬が緩むのが分かった。「明日、早速宰相のクラウスと外務大臣に相談してみます。あなたの提案を具体的な外交戦略として練り上げてみますね」「お役に立てたのであれば幸いです」「本当はこんな話をしに来たわけじゃなかったんですが……あなたのおかげで、希望の光が見えてきました」シルヴァンが柔らかな笑みを向けて、ロレインの心臓が大きく跳ねた。そしてソファから立ち上がるシルヴァンの服の裾を、無意識にきゅっと握りしめてしまったのだ。「……どうか、な
「こんな時間にすみません、リリア殿」 「いえ、そんな……お気になさらないでください、陛下」フィオナの呼びかけ通り、開いたドアの向こうから現れたのはシルヴァンだった。何となく草臥れて見える彼は目の下にクマを作っていて、ひどく疲れた様子だ。ヴァルモン魔国との問題で連日執務室に閉じこもっていると聞いていたけれど、想像以上に疲れているのかもしれない。「どうなさいました? 最近はとてもお忙しいと聞いていましたが……大丈夫ですか?」 「ああ、ええ、はい……ただ少し、あなたの顔を一目見ようと思いまして……」 「え?」 「最近あまりお会いできていなかったので……報告は聞いていたのですが、直接顔を見たかったんです」 「そ、そうです、か……!」疲れた表情のままシルヴァンがロレインをじっと見下ろしていて、彼の視線に居心地が悪くなったロレインは思わず俯いた。だけれど、シルヴァンの視線はロレインのつむじに降り注いだ。「……ヴァルモン魔国との件でお忙しいと聞きました。大丈夫ですか……?」 「あなたは何も心配しなくて大丈夫です。レグルス王国のことも、きちんと守りますから」 「そうではなく、陛下のお体のことを心配しています」パッと顔を上げると緋色の瞳と目が合って、ロレインの言葉にシルヴァンは驚いたように呆けていた。なぜそんなに不思議な顔を?と思ったけれど、自分が何を言ったのか理解したロレインはぶわりと顔を赤くして「あの、その、えっと!」と焦っていると、シルヴァンはきゅっと手を握り締めた。「……少し、話を聞いてもらっても?」シルヴァンが切実そうに訴えるので、ロレインは彼の提案を受け入れることにした。ロレインの部屋に設置されているソファに腰掛けると、シルヴァンは額に手を当てて深くため息をつきながら項垂れた。「あなたの言うようにヴァルモン魔国との件で連日頭を悩ませていて……実は、国境での小競り合いが激化しているんです。軍部の一部からは先制攻撃すべきという意見も出ています。しかし、俺は……戦争だけは避けたいのです」 「戦争を……」 「ええ。戦争になれば、多く