翌日。
顔を腫らした大地を見て、海が呆然と立ちすくんだ。「大地、何があったの」
「ん? ああこれか、俺もよく分からないんだ。ははっ」
覇気のない物言いで、大地が答える。
「笑いごとじゃないってば。どうしたのよ」
隣に座り、痣になってるところを撫でる。大地は「何でもないよ」と苦笑した。
「お疲れ様です大地くん。具合はどうですか」
聞き慣れた男の声に顔を上げる。そこには色白の男が、笑みを浮かべて立っていた。
「……俺に言ってますか」
「ええそうです。お久しぶりです」
誰だ? 見覚えはある。それは間違いない。
久しぶりって言ったけど、親戚か何かか? 男の顔をまじまじと見つめ、大地が考える。 しかしまた頭に靄がかかり、面倒くさい、どうでもいいといった気持ちに支配された。「ちょっと大地、何ふざけてるのよ。浩正〈ひろまさ〉さんでしょ」
「浩正さん……」
やはり聞き覚えがある。それにこの雰囲気、間近で感じてたような気がする。そう思った。
「大地……本当に大丈夫なの……」
海が顔を覗き込み、心配そうな眼差しを向ける。その視線が申し訳なくて、大地は思わず目を伏せた。
そして次の瞬間、脳裏にひとつの言葉が浮かんだ。「とまりぎ……そうだ、とまりぎの人だ!」
明るくそう言い、嬉しそうに続ける。
「知ってますよ、とまりぎ。何だっけかな……そう! 保育園の喫茶店! いいですよね、あの雰囲気。俺も何度か行ったことがあるんです」
「……」
ふざけているようには見えなかった。大地の状態はここまで悪くなっているんだ。そう思い、涙ぐみ。海は浩正に頭を下げた。
そんな二人に動揺する素振りも見せず、浩正は穏やかに頭にずっと、靄がかかっている。 死のうとしたあの日から。もっと言えば、青空姉〈そらねえ〉が死んだあの日から。 俺の脳は正常に働くことを放棄した。 * * * 何も考えたくない。 何も思い出したくない。 そう思い、気が付くと。 俺は拘束されていた。 腕も足も動かない。 陰部に不快感がある。 後で知ったのだが、尿管を突っ込まれていたらしい。 コンクリートで覆われた、何もない部屋で一人。 季節も時間も分からない。 時折自分が誰なのか、どうしてこうなっているのか分からなくなった。 看護師が、物でも見るような目で俺を見ている。 点滴を刺し、俺を監視している。 少しでも動くと、「動かないでください」そう吐き捨てやがる。 俺、一体どうなっちまったんだ? ひょっとして、ここがあの世なのか? ここが地獄なのか? そんな馬鹿げた考えが浮かんだ。 * * * しばらくして、そこから解放されて。 俺は病棟の中を自由に動ける権利を与えられた。 有難いことに、煙草も支給された。 海が置いていってくれたらしい。 助かる。ありがとな、海。 …… 海って誰だっけ? よく思い出せなかった。 俺の中ではっきり思い出せる人。それは青空姉〈そらねえ〉だった。 そして。 あのクソ親と、学生時代に俺をいじめていたやつら。 思い出したくもないクズ共なのに、どうしてかそいつらの顔が離れなかった。 そういう時は男の看護師に頼み、注射を打ってもらった。 あの注射には本当、世話になった。 しかもこの看護師、若いのに注射がやたらとうまかった。 尻を出すと、筋肉の間にすっと刺し、あっと言う間に終わった。痛みも全くなかった。 そしていつも
一か月ぶりに外の空気を吸った大地。 しかし病院の敷地から出るまでに、かなりの時間がかかった。 海が肩を貸し、「大丈夫、大丈夫だから」と何度も促す。だが大地は首を振って拒んだ。 僅か一か月の隔離が、ここまで大地を追い込んでしまったんだ。海の中に後悔が渦巻いた。 浩正〈ひろまさ〉がすぐ傍まで車を移動し、海と共に支えて乗せた。 * * *「ご飯、どうしますか? 大地くん、お腹が空いてるんじゃないですか」 運転しながら浩正が話しかける。しかし大地は足元を見つめ、怯えた様子で首を振った。「じゃあ大地、宅配にしようよ。早く家に帰りたいだろうし、その方が落ち着くよね」 微妙な空気をどうにかしようと、海が必要以上にはしゃいでみせる。「そうですね、その方がいいかもしれません。じゃあ、このまま真っ直ぐ戻りましょう」「お寿司なんてどう? 今の内に注文しておくね」 そう言ってスマホを操作する海の指は震えていた。 * * *「……」 久し振りの我が家。 大地は中に入ると真っ直ぐベッドに向かい、横になった。「疲れちゃった?」 傍らに腰掛け、そう言って大地の髪に指を通す。 かなり汚れてる。油分がたまってる、そう思った。「もうすぐお寿司も来るし、とにかく食べよ? それからお風呂に入ってさっぱりして、今日はゆっくりしようね」 しかし大地は壁を向き、何の反応も示さなかった。 * * * 結局大地は何も口にしなかった。海の声掛けにも反応せず、気が付けばいびきをかいて眠っていた。「浩正さん、その……色々ありがとうございました」「いえ、これぐらいのお手伝いはさせてください。それからとまりぎ、しばらく休んでもらって大丈夫ですよ」「本当、すいません」
翌日。 顔を腫らした大地を見て、海が呆然と立ちすくんだ。「大地、何があったの」「ん? ああこれか、俺もよく分からないんだ。ははっ」 覇気のない物言いで、大地が答える。「笑いごとじゃないってば。どうしたのよ」 隣に座り、痣になってるところを撫でる。大地は「何でもないよ」と苦笑した。「お疲れ様です大地くん。具合はどうですか」 聞き慣れた男の声に顔を上げる。そこには色白の男が、笑みを浮かべて立っていた。「……俺に言ってますか」「ええそうです。お久しぶりです」 誰だ? 見覚えはある。それは間違いない。 久しぶりって言ったけど、親戚か何かか? 男の顔をまじまじと見つめ、大地が考える。 しかしまた頭に靄がかかり、面倒くさい、どうでもいいといった気持ちに支配された。「ちょっと大地、何ふざけてるのよ。浩正〈ひろまさ〉さんでしょ」「浩正さん……」 やはり聞き覚えがある。それにこの雰囲気、間近で感じてたような気がする。そう思った。「大地……本当に大丈夫なの……」 海が顔を覗き込み、心配そうな眼差しを向ける。その視線が申し訳なくて、大地は思わず目を伏せた。 そして次の瞬間、脳裏にひとつの言葉が浮かんだ。「とまりぎ……そうだ、とまりぎの人だ!」 明るくそう言い、嬉しそうに続ける。「知ってますよ、とまりぎ。何だっけかな……そう! 保育園の喫茶店! いいですよね、あの雰囲気。俺も何度か行ったことがあるんです」「……」 ふざけているようには見えなかった。大地の状態はここまで悪くなっているんだ。そう思い、涙ぐみ。海は浩正に頭を下げた。 そんな二人に動揺する素振りも見せず、浩正は穏やかに
看護師の村瀬が言った通り、大地の状態は少しずつ安定していった。 海は毎日病院を訪れ、大地に寄り添った。 そんな海に対し、大地が反応を見せることがあった。 時折笑顔も見せた。その笑顔に涙し、「また明日、来るから」そう言って大地を抱きしめたのだった。 * * * 入院生活が一か月を過ぎた、ある日の夜。 消灯時間前。大地はホールのベンチに座り、煙草を吸いながらテレビを見ていた。 あの日、岸壁で死のうとした時からの記憶があまりない。 頭に靄がかかっているようだ。 どれだけここにいるのか、脳が判断出来ない。 時間の感覚もよく分からなくなっていた。 今が冬なのか夏なのか、それすら分からない。 何もない平坦な毎日。何の為に生きているのか、そんなことすら考えられないほど、ここには変化と呼べるものがなかった。 食事を提供されて初めて、今が何時なのかを認識出来る。「……」 白い息を吐き、ぼんやり天井を見つめる。 俺にとって、何よりも大切だった青空姉〈そらねえ〉。 その青空姉〈そらねえ〉が死んで、生きる意味を失った。 だから俺は死のうとした。そのはずだったのに。 今、青空姉〈そらねえ〉のことを思い出しても。 何も感じなかった。 寂しさも哀しみも、絶望すら感じない。 俺、どうなっちまったんだ? 青空姉〈そらねえ〉が死んで、俺の心も死んだってことなのか? そんな思いが脳裏に浮かぶ。しかしすぐに、それ以上考えることが面倒くさくなり、打ち消した。「おい、おい」 声に顔を上げると、無精ひげをはやした男が大地を覗き込んでいた。「煙草、煙草くれ」 この男、いつもこうしてねだってくる。他の患者たちにも見境なく声をかけ、「うるさい消えろ」とつまはじきにされていた。「……」「煙草、煙草やっ
浩正〈ひろまさ〉と語り合ったことで。 心の靄が晴れていくような気がした。 海は過去を振り返るのをやめた。 今自分がするべきこと、それだけを考えていった。 一人部屋で過ごす夜は寂しい。 枕を抱きしめ、大地を感じ。 早く夜が明けてほしい、そう願った。 朝になればまた、大地に会いに行ける。 少しずつ、ゆっくりと回復していく大地に会える。そう信じた。 * * * 大地の拘束は一週間に及んだ。 若い男性看護師、村瀬の話によると、かなり落ち着いてきているとのことだった。 海は大地の頭を撫で、「早く元気になってね」そう囁くのだった。 そしてある日。 いつものように病棟に入った海は、村瀬に声をかけられた。「清水さん、拘束が解かれましたよ」 どれだけその言葉を待っただろうか。 この一週間、耐えに耐えていた涙がまた溢れていった。 涙で視界が歪む。その彼女の視界に、ホールのベンチに座る大地の姿が映った。「大地……」 隣に座り、抱きしめる。 抑えようとしても感情が昂り、嗚咽した。「大地、よく頑張ったね……偉いぞ……」 そう言って涙を拭い、照れくさそうに微笑んだ。「……」 しかしそんな海の感動は、一瞬にして凍り付いた。「大地……?」 大地は海の言葉に何の反応も示さず、虚ろな目で空を見つめていた。 手を握り、肩を揺さぶっても無駄だった。「看護師さん……大地、どうしちゃったんですか」 大地の口元から涎が落ちる。ハンカチでそれを拭い、村瀬に尋ねる。「心配ですよね。こういうのって、最初は混乱される方が多いんです。ですが安心してください。これ
「完全に……壊れる……」「薬物によって、抗う意欲を根こそぎ排除する。それは言い方を変えれば、絶望して全てを諦めることなんです。 すいません。煙草、構いませんか」 海がうなずくとライターを持ち、火をつけた。「……青空〈そら〉さんの煙草、まだ吸われてるんですね」「ええ……日常的に吸っている、というのではないのですよ。ただこうしてると、不思議と心が落ち着くんです。青空〈そら〉さんがすぐ傍にいるようで」「……」 浩正〈ひろまさ〉の言葉に海がうつむく。 大地のことがあって。自分のキャパが一杯で、すっかり失念してた。 ある意味、この人も絶望してるんだ。青空〈そら〉さんを失って。 この人があまりにも強いから。そこに思いを巡らせることが出来てなかった。「僕は別に、強くないんですよ」 心を読まれた、そう思った。「青空〈そら〉さんを失って……僕自身、進むべき道が見えなくなりました。どれだけ頑張っても、夢を実現したとしても。そこに青空〈そら〉さんはいないんですから」「……ごめんなさい……そんな当たり前のことも考えられなくて……」「いえ、海さんが自然に接してくれているからこそ、僕は正気を保ててるんだと思います。それにこう言ったら悪いですが、大地くんがこうなったことで、一人自問する暇もありませんので」 車内を煙草の煙が舞う。「ただ僕は……青空〈そら〉さんに笑われたくありませんし、失望されたくないんです。その思いがあるから、今もこうして踏みとどまっているんだと思います」「……」 一体どれだけの経験を積めば、ここまで強くなれるんだろう。 この人はこれまで、どれだけの