LOGIN証明書の縁には、わずかにシワが寄っていた。まるで誰かに力いっぱい握りしめられたかのようだ。日付は3日前。ファイルの下には、いくつかの品物が押し込められていた。結婚写真が入ったフォトフレーム。伏せられていたはずの写真が表向きに返され、きれいに拭き上げられた上で緩衝材に包まれていた。隣に添えられた付箋が一枚。【この写真は手元に置いておいてくれ。唯がどこにいようと、俺たちのいちばん輝いてた姿を忘れないでほしいんだ】フォトフレームの下には、小物入れのケース。109枚の領収書が詰まった、あのケースだ。彼は捨てずに送り返してきたのだ。ケースの中にも付箋が一枚入っていた。【領収書、一枚残らず目を通した。印字された日付は、唯が一人きりで歩んできた道のりそのものだ。俺には捨てる資格なんてないから、返す】ケースの一番底に、見慣れない新しい領収書が敷かれていた。今住んでいる街のタクシーの領収書だ。日付は5日前で、金額から推測するに、おそらく空港から市内まで乗ったのだろう。千広が私を探しにやってきたときのものだ。彼はたった一度乗っただけで耐えられないと弱音を吐いた。私はそれを、109回も繰り返してきたというのに。そのとき、突然スマホが鳴った。母からだ。「唯、千広くんが家に来たのよ」「何をしに?」「お父さんにって差し入れを持ってきてね。この前の入院のお見舞いに行けなかったお詫びだって。玄関の前でずっと突っ立ってたんだけど、お父さんが突っぱねて中に入れなかったの」「もう帰ったの?」「ええ。帰る間際、私に一言残していったわ」「なんて?」「『お義母さん、すみませんでした。唯を幸せにしてあげられなくて』って」母の声がかすかに湿り気を帯びている。「唯……本当にもう、千広くんとはやり直さないの?」「お母さん、私が捨てたんじゃないわ。彼が先に私を捨てたのよ。彼は4年間ずっと他の女を選び続けて、私は4年間待ち続けた。もう、うんざりよ」「そう。じゃあ、体を大切にしなさいね。耳の具合はどう?」「だいぶ良くなったわ」嘘だ。左耳の電子音は相変わらず響いており、医師からは長引くかもしれないと言われている。通話を終えると、再び画面が点灯した。千広からのメッセージだ。【離婚届もう提出した。他
3行目:【日菜の迎え】7行目:【日菜の引っ越しの付き添い】12行目:【日菜の自宅の水回り修理】23行目:【日菜の通院の付き添い】38行目:【日菜の家具の組み立て】109行目:【日菜の迎え】109回のうち、37回は日菜の迎え。残りの72回も、日菜の雑用を手伝っていたか、さもなければ眠りこけていた。【唯の迎え】と書かれたことは、ただの一度もなかった。表の最後のページに、彼の手記が添えられていた。【こうして書き並べたものを、自分で何度も何度も見返した。自分が犯したことだとは信じたくなかった。109回……一度として迎えに行ってやれず、唯を毎回一人きりにさせて、何時に着くのかさえ知ろうとしなかった。唯には手がかからないと思い込んでたんだ。愚痴ひとつこぼさず、怒りも見せなかったから……本当に気にしてないのだとばかり。けれど唯は傷ついてた。ただ口に出さなかっただけだったんだな】私はその束をデスクの上に置いた。彼は2日間を費やし、私の4年間のフライトを一回ずつ洗い出した。ついに目に入ったのだ。だが、知ることと、改めることはまったく別だ。午後、彼にメッセージを送った。【読んだ】【一度だけでいいから、会ってくれないか?】【会っても何も変わらない】【分かってる。でも、顔を見て話したいんだ】【明日の午後、会社のビル1階にある喫茶店で】……翌日の午後3時、喫茶店に入った。千広はすでに隅の席についており、テーブルには二つのカップが置かれていた。ブラックコーヒーとオーツミルクラテ。オーツミルクラテは私の好物だ。彼はようやく覚えてくれたらしい。「座ってくれ」向かいの椅子を引いてくれた。私が腰を下ろしたものの、ラテのカップには手を触れなかった。「お話って何かしら?」「すまなかった」「それはもう聞いたわ」「俺の言葉が足りなかったんだ」彼はポケットから何かを取り出し、テーブルの上に置いた。シルバーのブレスレット、あの飛行機のチャームがついた品だ。「日菜に返してもらった」「最初から人にあげるようなものじゃなかったはずよ」「ああ」「このブレスレットにどんな意味があったか、知ってる?」「『飛び立つたびに、あなたが私の着陸を待っていてくれる』、そうだ
4年後の今、千広は三軒の店を駆けずり回った。けれど、109回のネックピローなしのフライトは、もう二度と取り戻せない。壊れた左耳が、これで治るはずもない。ネックピローを引き出しに仕舞い、仕事を再開した。午後5時、同僚の一人が走ってきた。「岡崎さん、ビルの入り口に男の人がずっと立っています。警備員さんが用件を聞いたら、人を待ってるって」私が窓辺へ寄って見下ろした。入り口の前に千広があごを引いて立ち、左手をポケットに入れたままずっとスマホを見つめている。「お知り合いですか?」「はい」「追い払いましょうか?」「いいえ、様子を見に行きます」エレベーターで降り、回転ドアの外へ出た。千広はハッと顔を上げた。「唯!」「どうしてここが分かったの?」「会社の人に聞き回ったんだ」私を見つめる彼の唇がかすかに動いた。溢れんばかりの言葉を用意していたのだろうが、一言も形にならなかった。「……痩せたな」結局、彼はそう呟いた。「千広もね」「俺がどうやってここまで来たか、分かるか?」彼がいきなり話を切り出した。「午前1時の深夜便だ。着いても誰も迎えに来てくれなかったから、自分でタクシーを呼んだんだ。運転手に行き先を聞かれてホテルって答えたら、『こんな遅くに一人で出張ですか』って言われて、『はい』って答えた。40分ほど走る間、道には一台の車も走っていなかった。後部座席で外を眺めていると、急に唯のことが頭に浮かんだ。唯は109回も、こんな風にして家に帰ってたんだなって」彼の声が震え始めた。「俺はたった一回乗っただけで胸が押し潰されそうだったのに……唯は109回も耐えてたのか」「千広……」「最後まで言わせてくれ」彼は私の言葉を遮った。「ホテルに着いてもちゃんと眠れなかった。唯が土砂降りの日にタクシー乗り場で何時間も並んで、結局熱まで出したって話を思い出してさ。唯があんなに辛そうにしてたのに、一人で寒さに震えてたのに……その頃、俺は何をしてたと思う?日菜のためにご飯を作ったり、掃除をしたり……彼女が自分でできることばかり手伝ってたんだ」彼の目頭が赤く染まった。「上空で酸素マスクが落ちてきたとき、唯は何を考えてたんだ?」日差しが千広の顔を照らしている。その瞳には、これま
このメッセージで日菜が話したいのは、私と千広の夫婦関係のことではない。千広が空港まで彼女を迎えに来なくなったことなのだ。【最近、忙しいのかもしれません】日菜から長文が送られてきた。【唯さん、差し出がましいことを言いますけど。千広さんは唯さんにすごく良くしてくれていますよ。あの人はただ優しすぎて、誰に対しても親切なだけなんです。私に親切にしてくれるからといって、妬くのはやめてください。私たちは本当にただの友達ですから、そんなことで離婚騒ぎを起こすなんて、本当にもったいないですよ】彼女は、私が嫉妬に狂って離婚を選んだと思っているのだ。私が大げさに騒いでいると決めつけている。【湯上さん、千広は私にどんな風に良くしてくれていたと思いますか?】5分ほど経ってから返信が来た。【唯さんの話をするときは、いつもすごくしっかりしていて仕事ができる人だって誇らしそうに言ってましたよ。すごく褒めていました】褒めていた。愛おしむわけでもなく、思い焦がれるわけでもなく、心配するわけでもなく。まるで水やりすら要らないサボテンを大切にするように。【千広が湯上さんを空港まで迎えに行った回数を知っていますか?】【3……30回くらいでしょうか】【37回ですよ。じゃあ、彼が私を迎えに来てくれた回数は知っていますか?ゼロです】メッセージはすぐに既読になったが、返事はなかなか来ない。向こうで日菜が呆然としている様子が目に浮かぶようだ。やがて長い沈黙の後、新しいメッセージが届いた。【唯さん、そんなの……本当に知りませんでした。唯さんのことも当然迎えに行っているものだとばかり思っていました】【彼が未明に湯上さんを迎えに行っていたそのとき、彼の妻もまた同じ時刻に別の空港へ降り立っていたなんて、考えたこともなかったのですか?同じように一人きりで、同じように真夜中に、同じようにタクシーを拾って帰っていました。土砂降りの日にタクシー乗り場に長い行列ができ、寒い中で待っていたら熱まで出てしまいました。飛行機が激しい乱気流に巻き込まれて、酸素マスクが落ちたことだってありました。彼はそのどれ一つとして知りませんでした。なぜなら、湯上さんを迎えに行っていたからです】日菜は長い沈黙に陥った。やがて届いた音声メッセージは
【もうメッセージ送らないで、千広。離婚届に署名して】【唯、頼むから一度電話をくれ】これが千広から届いた83通目のメッセージだ。新しい街にやってきて3日目、仕事を再開した。新しいオフィスは26階にあり、一面のガラス窓からは海が見えた。同僚たちは礼儀正しく、私が結婚生活に終止符を打ったばかりだということも、左耳でずっと不快な音が鳴り続けていることも、誰も知らない。離婚届はまだ役所に提出していないものの、最初に自己紹介をするとき、旧姓の岡崎(おかさき)で名乗った。昼食のとき、聡美から再び電話がかかってきた。「唯ちゃん、千広くん昨日タクシー会社へ行ったのよ」「何をしに?」「唯ちゃんが以前タクシーに乗ったときの運転手さんたちに会いに行ったみたい」私は箸を置いた。「どうやってタクシー会社が分かったの?」「唯ちゃんが家の中に残してあった小物入れのケース、完全にひっくり返したらしいわ。中にはタクシーの領収書がたくさん入ってたでしょ。それで、タクシー会社に辿り着いたのよ」書斎の引き出しに置いてあった、あのケース。中には空港からタクシーで帰宅するたびに溜まっていった領収書。109枚。取っておこうと意識していたわけではないが、帰宅するたびに適当に放り込んでいたら、いつの間にかケースいっぱいに溜まっていたのだ。「運転手さんたちと何を話したの?」「そこまではわからないけど、ひとつだけ私に話してくれたことがあるの」「何?」「唯ちゃんのことを覚えてる運転手さんがいたのよ。何度も乗せたことがあって、決まって未明の遅い時間で、いつも一人だったって。その人が言うには、あるとき唯ちゃんは顔色が悪く、ふらつきながら乗り込んできた。どうしたのか尋ねたら、『出張で疲れて少し熱が出た』って言ってたらしいわ」出張で疲れていたのではない。あの土砂降りの日、何時間もタクシー乗り場で並び、寒さに震えていた。結局、熱が出てしまった。「それからね、その運転手さんが言うには、唯ちゃんが降りるたびに必ずある言葉を口にしてたそうよ」「言葉?」「『マンションの中に入るのを見届けてから出てもらえますか?』って」確かにそう頼んでいた。マンションの周りは深夜になると街灯がなく、車を降りてから入り口まで約50メートルあった。
【お前のスーツケースは?なんでクローゼットが空なんだ?】【テーブルの上……離婚届か?一体どういうつもりだ?】【唯、電話に出ろ!】5分おきにメッセージが送られてきた。そして、ライン通話も何度もかかってきた。届いた最後のメッセージはこうだ。【唯、本当にもう戻ってこないのか?】「唯ちゃん、本当に海外に行ったの?千広くん、狂ったように探し回ってるわよ」新しい街に到着した初日、友人の中村聡美(なかむら さとみ)から電話がかかってきた。「あいつ、唯ちゃんの会社にまで怒鳴り込んできたんだよ。上司の人から、海外へ異動したって聞いた」「ええ、もう着いたよ」「一体、二人に何があったの?私にまで6回も電話してきて、行き先を知らないかって詰め寄られてた」「なんて答えたの?」「知らないって言ったわよ。あいつ、声のトーンまで変わっちゃって……二人があんなに上手くいってたのに、どうして急に離婚なんて言い出すのかわけが分からないって」上手くいっていた、か。彼にとっては、そうなのだろう。妻が一人で109回もフライトに乗り、一人で病院に通い、午前4時に一人でスーツケースを引きずって帰宅すること。彼の目には、それが上手くいっている関係に映っていたのだ。「彼に一言だけ伝えてくれない?」「何を?」「離婚届に署名して、役所に提出してほしいって」「それだけでいいの?」「うん、それだけ」電話を切り、新しい家の片付けを始めた。1LDKの南向きで、日当たりが良い。あの高級マンションの家の半分ほどの広さしかないけれど、この空間のすべてが私のものだ。日菜のリップも、ストロベリー味のヨーグルトも、「Y.H.」の刺繍が入ったネックピローもない。夜の8時、見覚えのない番号から着信があった。「富沢唯さんでしょうか?千広の同僚の浜田(はまだ)と申します」「はい、どうされたんですか?」「今日の午後、オフィスで千広から、少し奥さんの話を伺いました」「……どんな話ですか?」「奥さんが飛行機で危険な目に遭ったって、教えられました」スマホを握りしめる手に、思わず力が入った。「千広は、奥さんが家に残していったカバンの中から、診断書を見つけたそうです。そこには、航空性中耳炎と記されていました。そして彼がネットで