LOGIN蒸し暑さで目が覚めたのは深夜だった。
祐実は布団の中で寝返りを打ったものの、なかなか眠り直せなかった。首筋に汗が滲み、胸元から顔にかけて急に熱がこみ上げてくる。掛け布団を足元へ押しやり、しばらくじっとしていると、少しずつ熱が引いていった。 けれど、ようやく落ち着いたと思った頃には目が冴えていた。時計を見ると午前三時を過ぎている。隣では光司が静かな寝息を立てていた。 祐実は起こさないようにそっと起き上がり、枕元の水を飲んだ。最近はこういう夜が増えている。日中はいつも通り動けているつもりでも、夜中に目が覚めると翌朝まで疲れが残った。 翌朝も、すっきりしない頭を抱えたまま台所に立った。朝食を用意し、洗濯機を回し、出勤の準備をする。いつもと同じ手順をこなしているのに、今日は一つ動くたびに体が重かった。 「祐実。大丈夫か?」 食卓についた光司がこちらを見ていた。 「ええ。ちょっと寝不足なだけよ」 「顔色が悪いぞ。どこか具合でも悪いんじゃないか?」 「大丈夫。昨日ちょっと寝つきが悪かったの」 祐実は味噌汁を置きながら笑ってみせた。心配してくれるのはありがたいが、詳しく説明する気力がなかった。光司はまだ何か聞きたそうにしていたものの、祐実が席につくとようやく箸を取った。 その日の仕事は普段より長く感じられた。午後になると頭がぼんやりし、同じ書類を何度も確認してしまう。帰宅してからも夕食の支度と洗濯物の片づけが待っていた。ひと通り済ませた頃には、足が重くて立っているのも億劫になっていた。 祐実はリビングのソファに腰を下ろした。冷房はついているのに、体の内側にはまだ熱がこもっている気がする。目を閉じて少し休もうとしたところで、台所から光司が顔を出した。 「祐実。冷たいお茶を持ってきたぞ」 「ありがとう。そこに置いておいて」 光司はグラスをテーブルに置いた。祐実が礼を言うと、いつものように嬉しそうな顔をしたが、すぐに眉を寄せる。 「まだ暑いのか? 冷房を下げた方がいいか?」 「ううん。このままで大丈夫」 「そうか。でも、顔が赤いぞ。熱があるんじゃないか?」 「熱はないと思うわ。ちょっと休めば平気だから」 祐実は目を閉じた。これでようやく静かに休める。そう思ったのも束の間、光司が再び動き出す気配がした。 「待ってろ。冷やすものを持ってくる」 「え? いいわよ。そこまでしなくても」 返事を待たずに光司は洗面所へ向かった。戻ってきた手には冷却シートとタオルがある。 「これ、額に貼るか?」 「大丈夫よ。そこまで具合が悪いわけじゃないから」 「でも、少しでも楽になるかもしれないだろ」 光司はテーブルに品物を並べた。祐実は断るのも面倒になり、短く礼を言った。 「ありがとう。でも、本当に平気だから」 光司は安心したように頷いたものの、ソファのすぐそばから動こうとしなかった。 「いつからこんな感じなんだ?」 「昨日の夜くらいから」 「昨日? 何か食べたものが悪かったのか? 仕事で無理をしたんじゃないか?」 「分からないわ。たぶん寝不足よ」 「病院へ行った方がいいんじゃないか?」 祐実はゆっくり目を開けた。光司の顔には心配が浮かんでいる。嘘をついているようには見えなかった。だからこそ、強く拒むのも気が引けた。 「今日は少し休めば大丈夫だと思うの。お願いだから、静かにしていてくれる?」 「分かった。何かあったらすぐに言うんだぞ」 光司はそう答えたが、数分もしないうちにまた声をかけた。 「水、もう一杯飲むか?」 祐実は返事をしなかった。目を閉じているのだから、休みたいことくらい分かるはずだ。それでも光司はソファの前に立ったまま、妻の顔を覗き込んでいる。 「祐実?」 「……何?」 「いや。大丈夫かなと思って」 「大丈夫って言ったでしょう?」 思ったより強い声が出た。光司が口を閉じる。 祐実は息を吐いた。怒りたいわけではなかった。心配してくれていることも分かっている。ただ、眠れていない体で仕事をして家事まで終えた今は、誰かに話しかけられるだけでも負担だった。 「ごめん。少しだけ一人にしてくれる?」 「でも、何かあったら……」 「お願いだから、今は一人にして!」 祐実の声がリビングに響いた。 光司は目を見開いたまま立ち尽くした。手には新しいタオルを持っている。何か言い返そうとしたようだったが、妻の疲れた顔を見ると口を閉じた。 「……分かった」 小さく答え、光司はタオルをテーブルに置いた。肩を落とし、ゆっくりとリビングを出ていく。その背中には、思いがけず拒まれたことへの傷つきが見えた。 優香は廊下から一部始終を見ていた。帰宅してすぐに母の様子がおかしいことに気づき、声をかけようとしたところだった。 父は心配している。それは間違いないのだろう。飲み物を用意し、冷却グッズまで持ってきた。母を気遣って行動しているのに、結果として休む時間を奪ってしまっている。 優香はソファへ近づき、母の隣に腰を下ろした。 「お母さん、大丈夫?」 「うん……ごめんね。大きな声を出しちゃって」 「謝らなくていいよ。疲れてるんでしょ?」 祐実は少しだけ笑ったが、すぐに目を伏せた。テーブルの上には冷たいお茶と冷却シートが並んでいる。どれも父が母を心配して持ってきたものだ。それなのに、母はそれらを見ても手を伸ばす気力がないようだった。 「最近、ちょっとしたことでも疲れるの」 祐実はグラスを両手で包んだ。 「前なら仕事から帰ってきても、これくらい平気だったのにね。夜もよく眠れないし、急に体が熱くなることもあるの。何でもないときは普通なんだけど……」 「いつから?」 「少し前からよ。年齢のせいなのかしらね」 祐実は困ったように笑った。優香はその顔を見つめ、すぐに否定することはできなかった。母の体調について、これまで十分に気にかけてこなかったのかもしれない。父の異変ばかり追いかけていたが、母自身にも変化が起きている。 「無理しないでね。家事だって全部やらなくていいんだから」 「ありがとう。今日は早めに休むわ」 優香は頷き、母が立ち上がるまでそばにいた。祐実はグラスのお茶を少し飲み、ゆっくり息を吐いた。先ほどまで張り詰めていた表情が、わずかに和らいでいる。 その夜、優香は自室でノートを開いた。父の行動を記録していたページの隣に、母の体調についても書き留める。 夜中にほてりが起きて眠れない。日中も疲れやすい。父が心配して世話を焼くが、母は休息を妨げられて苛立つ。 書き終えた優香は、ペンを置いた。 父の優しさは本物なのかもしれない。けれど、相手が何を必要としているのかを考えなければ、善意だって負担になる。 そして母の疲れは、父の不自然な行動とは別に考えなければいけない問題だった。 優香はノートを閉じた。今は父の秘密を追うことだけに集中してはいられない。母が少しでも落ち着いて休めるようにすることも、自分にできることの一つだった。優香は一週間分の記録を机に並べていた。 ノートには光司の行動と、そのときの状況が細かく書かれている。母を見つめていたこと。スマホを見て笑っていたこと。菓子を買って帰り、食器を洗い、料理を褒められて舞い上がっていたこと。最初は気になった出来事を順番に記録していただけだったが、こうして見返すと、いくつかの共通点が浮かび上がってくる。 光司の機嫌は、祐実の反応によって大きく変わっていた。 優香はペンで該当する箇所に印をつけた。母が笑ったとき。礼を言ったとき。何気ない話に付き合ったとき。どの場合も父の表情は明るくなっている。反対に、母が忙しくて気づかなかったり、休みたくて会話を切り上げたりすると、光司は目に見えて元気をなくしていた。 単に妻を気遣っているだけなら、ここまで反応に差が出るだろうか。 優香は椅子の背にもたれた。 父が何かを隠しているのは確かに見える。スマホを見て笑い、近づくと画面を閉じる。以前より身だしなみを気にし、母の予定を何度も尋ねるようになった。けれど、外出の頻度も帰宅時間も以前と大きく変わっていない。 浮気相手と会っているという仮説は、どうにも行動と噛み合わなかった。 かといって、浮気ではないと断定する材料もない。連絡だけを取り合っている可能性だってある。優香はノートの余白に疑問符を書き込み、別のページへ移った。 父が母に何かを謝りたいのだとしたら、どうだろう。 後ろめたいことがあるから急に優しくなり、母の機嫌を気にしている。そう考えれば、菓子を買ったり家事を手伝ったりする行動にも説明はつく。だが、光司が何かを隠しているように見える理由までは分からない。 そもそも、何かを償おうとしている人間が、あれほど嬉しそうに母の反応を待つものなのだろうか。 優香はペン先を止めた。 もう一つ、考えられる可能性がある。 父は母に対して、以前より強い感情を抱くようになったのではないか。 そう考えると、今までの行動が少し違って見えた。母を目で追い、目が合うと慌てて視線をそらす。何気ない言葉に喜び、褒められただけで一日中機嫌がよくなる。母が自分に関心を向けないと、あからさまに落ち込む。
その日の夕食は光司が作ることになった。 祐実の体調が少しずつ戻ってきたとはいえ、まだ疲れやすい様子が続いていたため、優香が家事を分担しようと提案したのだ。すると光司が珍しく自分から手を挙げた。「今日は俺が作るよ」 祐実は少し驚いた顔をしたものの、素直に頷いた。「じゃあ、お願いしようかしら」「任せておけ」 光司は張り切って台所に立った。冷蔵庫を開けて食材を確認し、献立を考えながら包丁を手に取る。慣れない手つきではあったが、以前よりもずっと積極的だ。優香が横を通ると、父は鍋の中を覗き込みながら得意げに笑った。「今日はちょっと頑張ってみるか」「いつもそれくらい頑張ればいいのに」「うるさいな。たまにはいいだろ」 口ではそう返しながらも、光司はどこか嬉しそうだった。 やがて食卓に料理が並んだ。焼いた肉に野菜炒め。それに味噌汁とご飯。特別な献立ではないが、光司なりに工夫したらしい。野菜の切り方もいつもより丁寧で、皿の盛りつけまで気にしていた。「いただきます」 三人が食事を始める。祐実は野菜炒めを一口食べ、少し目を見開いた。「おいしい。ありがとう」 何気ない一言だった。 ところが光司は箸を持ったまま固まった。「……そうか?」「ええ。味付けもちょうどいいわ」 祐実はもう一口食べて微笑んだ。 その瞬間、光司の顔がぱっと明るくなった。頬が緩み、目元まで嬉しそうになる。さっきまで料理の出来を気にしていた様子が嘘のようだった。「そうか。いや、よかった」 光司は照れくさそうに笑った。だが、すぐには食事に戻らず、祐実がもう一度料理を口に運ぶのを眺めている。 優香は箸を止めた。 また始まった。 母が料理を褒めただけだ。特別な言葉でもなければ、大げさに喜ぶような出来事でもない。それなのに父は、まるで長年の努力が報われたかのような顔をしている。「お父さん、そんなに嬉しいの?」 優香が尋ねると、光司は慌ててこちらを向いた。「別に。作ったも
蒸し暑さで目が覚めたのは深夜だった。 祐実は布団の中で寝返りを打ったものの、なかなか眠り直せなかった。首筋に汗が滲み、胸元から顔にかけて急に熱がこみ上げてくる。掛け布団を足元へ押しやり、しばらくじっとしていると、少しずつ熱が引いていった。 けれど、ようやく落ち着いたと思った頃には目が冴えていた。時計を見ると午前三時を過ぎている。隣では光司が静かな寝息を立てていた。 祐実は起こさないようにそっと起き上がり、枕元の水を飲んだ。最近はこういう夜が増えている。日中はいつも通り動けているつもりでも、夜中に目が覚めると翌朝まで疲れが残った。 翌朝も、すっきりしない頭を抱えたまま台所に立った。朝食を用意し、洗濯機を回し、出勤の準備をする。いつもと同じ手順をこなしているのに、今日は一つ動くたびに体が重かった。 「祐実。大丈夫か?」 食卓についた光司がこちらを見ていた。 「ええ。ちょっと寝不足なだけよ」 「顔色が悪いぞ。どこか具合でも悪いんじゃないか?」 「大丈夫。昨日ちょっと寝つきが悪かったの」 祐実は味噌汁を置きながら笑ってみせた。心配してくれるのはありがたいが、詳しく説明する気力がなかった。光司はまだ何か聞きたそうにしていたものの、祐実が席につくとようやく箸を取った。 その日の仕事は普段より長く感じられた。午後になると頭がぼんやりし、同じ書類を何度も確認してしまう。帰宅してからも夕食の支度と洗濯物の片づけが待っていた。ひと通り済ませた頃には、足が重くて立っているのも億劫になっていた。 祐実はリビングのソファに腰を下ろした。冷房はついているのに、体の内側にはまだ熱がこもっている気がする。目を閉じて少し休もうとしたところで、台所から光司が顔を出した。 「祐実。冷たいお茶を持ってきたぞ」 「ありがとう。そこに置いておいて」 光司はグラスをテーブルに置いた。祐実が礼を言うと、いつものように嬉しそうな顔をしたが、すぐに眉を寄せる。 「まだ暑いのか? 冷房を下げた方がいいか?」 「ううん。このままで大丈夫」 「そうか。でも、顔が赤いぞ。熱があるんじゃないか?」 「熱はないと思うわ。ちょっと休めば平気だから」 祐実は目を閉じた。これでようやく静かに休める。そう思ったのも束の間、光司が再び動き
優香は父の行動を記録するノートに新しい項目を追加した。 帰宅時間。休日の外出。家にいるときの様子。 浮気をしているのなら、誰かと会うために家を空ける時間があるはずだ。仕事を理由に帰宅が遅くなったり、休日に一人で出かけたりすることも考えられる。もちろん、それだけで浮気と決まるわけではないが、これまでの父の変化を考えれば確認しておきたい点だった。 優香はまず、帰宅時間から調べることにした。 光司は平日の夕方になると、ほぼ決まった時間に帰ってくる。仕事が長引いた日は少し遅れることもあるが、母が夕食の支度を終える頃には玄関の鍵が回る。帰宅してからも、特に用事がなければ外へ出ることはなかった。 以前と比べて帰りが遅くなった様子もない。 優香はノートに記録をつけながら眉を寄せた。 仕事帰りに誰かと会っている可能性はある。しかし、帰宅時間だけを見れば不審な点は見つからなかった。 次は休日だ。 土曜日の朝、優香がリビングへ行くと、光司はソファで新聞を読んでいた。テーブルには飲みかけのコーヒーが置かれ、テレビからは天気予報が流れている。いつも通りの光景だった。「お父さん、今日どこか行くの?」 新聞をめくっていた光司が顔を上げた。「いや。特に予定はないけど」「ふうん」「優香は出かけるのか?」「私は午後から買い物」「そうか。気をつけてな」 会話はそこで終わった。光司は再び新聞へ目を落とす。休日に一人で出かける予定もなく、誰かと会うために準備をしている様子もなかった。 優香は台所へ向かいながら考えた。 父は最近、身だしなみを気にするようになった。スマホを見て笑うことも増えた。母への態度も明らかに変わっている。それなのに、外出の予定は以前と変わらない。 何かを隠しているように見えるのに、行動には不自然な空白がない。 その日の午後、優香が買い物から帰ると、光司はリビングでテレビを見ていた。着替えた様子もなく、朝とほとんど同じ場所に座っている。祐実は台所で夕食の下ごしらえをしていた。「ただいま」「おかえり。買い物はどう
父の光司が母の祐実に対して妙に優しくなったのは、それから数日後のことだった。 仕事から帰ってきた光司は紙袋を手にしていた。リビングでくつろいでいた優香が顔を上げると、父は袋を持ったまま台所へ向かい、夕食の支度をしている祐実のそばへ立った。「これ。好きだっただろ?」 光司が差し出したのは和菓子屋の紙袋だった。中には祐実が以前から好んでいる菓子が入っているらしい。「あら、どうしたの?」「帰りに見かけたから買ってきたんだ」「覚えててくれたの? ありがとう」 祐実が笑顔を向けると、光司の顔が一気に明るくなった。「いや、まあ。たまにはな」 照れくさそうに頭をかく父を見て、優香は手元のスマホを持ち直した。 今の反応は記録しておこう。 菓子を買ってきたこと自体は何もおかしくない。長年連れ添った妻の好みを覚えているのも自然なことだ。問題は、礼を言われた瞬間の光司の様子だった。まるで予想以上のご褒美をもらったかのように、頬が緩みきっている。 祐実が紙袋を開けて中身を確かめている間も、光司はそばを離れなかった。何かを期待するように妻の顔を見ている。「あとでお茶と一緒にいただこうかしら」「うん。そうするといいよ」 光司は満足そうに頷いた。 優香は画面に短く入力した。 十八時二十分。母の好きな菓子を購入。母がお礼を言うと非常に嬉しそうな反応。 記録を終えたところで、光司がこちらを見た。「何してるんだ?」「スマホ見てるだけ」「そうか」 父はそれ以上聞かず、再び祐実の方へ向き直った。 その視線を見て、優香は小さく息を吐いた。母に喜んでもらいたいだけなら、あんなに何度も反応を確かめる必要はないのではないか。 翌日には、さらに奇妙なことが起きた。 優香が大学時代から使っている資料を整理していると、台所から水の音が聞こえてきた。覗いてみると、光司が食器を洗っている。祐実は少し離れた場所で翌日の食材を確認していた。「お父さんが洗い物してるの?」 優香が思わず声をかけると、光司は
夕食の支度を手伝っていた優香は、母の祐実が何度も時計を気にしていることに気づいた。父の光司はまだ帰宅していない。いつもなら仕事が終われば決まった時間に帰ってくるため、特別遅いわけでもなかった。 祐実は味噌汁の火を弱めると、ふと手を止めた。「ねえ、優香。最近のお父さんってどう思う?」 思いがけない質問に優香は顔を上げた。「どうって?」「何だか変じゃない?」 やはり母も気づいていたらしい。優香は手に持っていた箸を食卓へ置いた。「やっぱりそう思う?」「優香も気づいてたの?」「うん。ここ数日だけど」 祐実は少し迷ったあと、流しの縁に手を置いた。「実はね。ここ数週間くらい前からなのよ」 優香は母の顔を見つめた。自分が異変を意識し始めたのはつい最近だ。けれど、祐実はもっと前から夫の変化を感じ取っていたらしい。「最初は気のせいだと思ってたの。年齢のせいかしらとか、仕事で何かあったのかしらとか。でも、ちょっとずつ変わってきて」「例えば?」「急に服装を気にするようになったのよ」 祐実は洗い終えた皿を水切りかごへ置いた。「今までは私が何を着ていこうと何も言わなかったのに、自分のシャツを選ぶときに妙に時間をかけたりするの。先週なんて、出かける前に鏡を何度も見てたのよ」「お父さんが?」「そう。髪まで気にしてね。何かあるのって聞いたら、別にって」 優香の頭の中で、父の最近の様子がつながり始めた。スマホを見ては嬉しそうに笑い、誰かが近づくと慌てて画面を閉じる。母の一挙一動を目で追い、目が合うと不自然に視線をそらす。 そこに服装へのこだわりが加わった。「それだけじゃないのよ。私が出かけるときも、帰りは何時になるのか聞いてくるようになって」「今までは聞かなかったの?」「必要があれば聞いてきたけど、最近は何度も確認するの。友達と出かけるって話したら、何時に帰るのかとか、夕飯は外で食べるのかとか。そんなことまで気にする人じゃなかったのに」 祐実は困ったように笑った。笑顔を作ってはいるが、目元には戸惑いが残っている。「それにね。私が今日あったことを話すと、前よりずっと熱心に聞くのよ。昔から話を聞いてくれない人じゃなかったけど、適当に相槌を打って終わりだったの。ところが最近は細かいことまで聞いてくるし、私が笑うとお父さんまで嬉しそうにするの」 優香は