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第3話「お母さんも気づいていた」

Author: 団紡るう
last update publish date: 2026-10-30 13:51:35

夕食の支度を手伝っていた優香は、母の祐実が何度も時計を気にしていることに気づいた。父の光司はまだ帰宅していない。いつもなら仕事が終われば決まった時間に帰ってくるため、特別遅いわけでもなかった。

 祐実は味噌汁の火を弱めると、ふと手を止めた。

「ねえ、優香。最近のお父さんってどう思う?」

 思いがけない質問に優香は顔を上げた。

「どうって?」

「何だか変じゃない?」

 やはり母も気づいていたらしい。優香は手に持っていた箸を食卓へ置いた。

「やっぱりそう思う?」

「優香も気づいてたの?」

「うん。ここ数日だけど」

 祐実は少し迷ったあと、流しの縁に手を置いた。

「実はね。ここ数週間くらい前からなのよ」

 優香は母の顔を見つめた。自分が異変を意識し始めたのはつい最近だ。けれど、祐実はもっと前から夫の変化を感じ取っていたらしい。

「最初は気のせいだと思ってたの。年齢のせいかしらとか、仕事で何かあったのかしらとか。でも、ちょっとずつ変わってきて」

「例えば?」

「急に服装を気にするようになったのよ」

 祐実は洗い終えた皿を水切りかごへ置いた。

「今までは私が何を着ていこうと何も言わなかったのに、自分のシャツを選ぶときに妙に時間をかけたりするの。先週なんて、出かける前に鏡を何度も見てたのよ」

「お父さんが?」

「そう。髪まで気にしてね。何かあるのって聞いたら、別にって」

 優香の頭の中で、父の最近の様子がつながり始めた。スマホを見ては嬉しそうに笑い、誰かが近づくと慌てて画面を閉じる。母の一挙一動を目で追い、目が合うと不自然に視線をそらす。

 そこに服装へのこだわりが加わった。

「それだけじゃないのよ。私が出かけるときも、帰りは何時になるのか聞いてくるようになって」

「今までは聞かなかったの?」

「必要があれば聞いてきたけど、最近は何度も確認するの。友達と出かけるって話したら、何時に帰るのかとか、夕飯は外で食べるのかとか。そんなことまで気にする人じゃなかったのに」

 祐実は困ったように笑った。笑顔を作ってはいるが、目元には戸惑いが残っている。

「それにね。私が今日あったことを話すと、前よりずっと熱心に聞くのよ。昔から話を聞いてくれない人じゃなかったけど、適当に相槌を打って終わりだったの。ところが最近は細かいことまで聞いてくるし、私が笑うとお父さんまで嬉しそうにするの」

 優香は黙って聞いていた。

 母の話は自分が観察した内容と一致している。しかも、変化は一つではなかった。服装。帰宅時間への関心。会話への反応。そしてスマホを気にする様子。いずれもここ数週間のうちに目立ち始めたものらしい。

「この年になって、急にどうしたのかしら」

 祐実は小さく息を吐いた。

「何か心境の変化でもあったのかな。仕事がうまくいってるとか?」

「それなら、別に隠す必要はないんじゃない?」

 口にしてから、優香は少し後悔した。母の表情がわずかに曇ったからだ。

「そうよね……」

 祐実は布巾を手に取ったが、拭くものがないことに気づいたのか、すぐに置き直した。

 優香は言葉を探した。父の変化を考えれば、真っ先に浮かぶ可能性はある。けれど、それを母に告げるのは簡単ではなかった。

 光司は誰かと恋愛関係を始めたのではないか。

 スマホを見て笑う顔。家族に画面を隠す動作。服装を気にし始めたこと。母の予定を何度も尋ねるようになったこと。それらを並べると、どうしても一つの疑いに行き着いてしまう。

「お母さん」

「なあに?」

「……お父さんが、誰かと連絡を取ってる可能性ってないかな」

 祐実の手が止まった。

 優香はすぐに言葉を継いだ。

「まだ分からないよ。スマホを見て笑ってたり、誰かが近づくと慌てて画面を閉じたりしてるから。仕事の連絡だって言ってたけど、何か隠してるように見えるんだよね」

「誰かって……」

 祐実はそれきり黙り込んだ。

 優香は母の顔を見られなくなり、食卓の上に並べた箸の位置を直した。自分の疑いが間違っていればいいと思う。父が単に何か新しい趣味を見つけただけなら、それで済む話だ。

 けれど、何も知らないまま母が傷つくことになるのは避けたかった。

「私もお父さんを疑いたいわけじゃないのよ」

 祐実は静かに続けた。

「ずっと一緒に暮らしてきた人だもの。何かあるなら話してくれればいいと思う。でも、聞いても何もないって言われると……本当は何かあるんじゃないかって考えてしまうの」

 その声には怒りよりも戸惑いがあった。

 優香は母の隣へ移動した。

「だから、すぐに問い詰めるのはやめよう。まずは何が変わったのか整理してみない?」

「整理?」

「いつ頃からどんな行動をするようになったのか。もう少し分かれば、何か見えてくるかもしれないから」

 祐実はしばらく考えたあと、ゆっくり頷いた。

「そうね。私も、いきなり問い詰めて喧嘩になるのは嫌だし」

「うん。私も気づいたことがあったら話すね」

 二人はそれ以上、父の疑惑について踏み込まなかった。確かな証拠があるわけではない。今は変化を見落とさず、何が起きているのかを知ることが先だった。

 やがて玄関の方から物音がした。

「ただいま」

 光司の声が聞こえると、祐実は一瞬だけ優香を見た。さっきまでの話を思い出したのだろう。優香も小さく頷き、いつも通りに振る舞うことにした。

「おかえりなさい」

 祐実が玄関へ顔を向ける。光司は鞄を持ってリビングへ入ってきた。ネクタイを緩めながら妻の姿を確認すると、いつもより柔らかな表情になった。

「今日は疲れてない?」

 祐実が目を瞬かせた。

「え?」

「いや、今日はどうだったのかなと思って」

「別に普通だけど……」

「そうか。ならいいんだ」

 光司はほっとしたように笑った。そのまま鞄を置き、手を洗いに向かう。

 優香は母と顔を見合わせた。

 今の質問は何だったのだろう。これまでなら帰宅してすぐに、妻の体調を気遣うようなことはなかった。もちろん、夫が妻を気遣うこと自体はおかしくない。むしろ喜ばしいことのはずだ。

 けれど、ここ数週間の変化を知った今では、どうしても素直に受け取れなかった。

 祐実は食卓へ戻りながら、困ったように眉を寄せた。光司は手を洗って戻ってくると、妻の顔を確かめるように視線を向けている。

 優香はその様子を静かに見つめた。

 父が何を隠しているのかは、まだ分からない。ただ、母も同じ異変を感じていることが分かった以上、もう自分だけの好奇心では済まされなかった。

 優香は母を守るためにも、父の変化を確かめる必要があると考えていた。

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