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BL短編集◆愛しいきみの腕の中で
BL短編集◆愛しいきみの腕の中で
Autor: 佐薙真琴

001:不完全性定理と雨の夜の定義

Autor: 佐薙真琴
last update Última actualización: 2025-12-13 05:21:57

第一章 静定構造の均衡

 都市の輪郭が、灰色の雨に溶け出していた。

 午後八時を回り、空調の切れたオフィスには、湿度を帯びた静寂が沈殿している。大手総合建築設計事務所「アルク・デザイン」のフロアで稼働しているのは、奥まったデスクの一角だけだ。

 雨音が窓ガラスを叩く不規則なリズムと、キーボードを叩く硬質な音が、奇妙な和音を奏でている。

 日向ひなたみなとは、手元の素材サンプルから視線を上げ、斜め向かいのデスクを盗み見た。

 そこにいるのは、構造設計部のエースであり、社内でもその名を轟かせる加賀見かがみ壮一郎そういちろうだ。三十二歳という若さでチーフを任された彼は、文字通り「完璧な構造」のような男だった。

 仕立ての良いチャコールグレーのスーツには、シワ一つない。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、常に数値と力学の均衡を見据えている。彼が設計する建築物は、どんな地震や強風にも揺らがない堅牢さを誇り、その性格もまた、一切の妥協を許さない冷徹さで知られていた。

 だが、日向だけが知っている加賀見がいる。

「日向。クロスの選定、まだ迷っているのか」

 モニターから目を離さず、加賀見が声をかけてきた。低いが、よく通るバリトンボイスだ。

「あ、すみません。クライアントの要望が『温かみのあるモダン』という矛盾したオーダーなもので……。加賀見さんの方こそ、構造計算は終わったんですか?」

「躯体の応力分布に微細な偏りがある。許容範囲内だが、美しくない」

 加賀見が眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。その仕草だけで、日向はドキッとしてしまう。

 日向はインテリアデザイン部、加賀見は構造設計部。

 本来なら水と油のような職種だが、二人は入社以来、多くのプロジェクトでペアを組んできた。

 社内では「アルクの黄金比」と揶揄されるほどの阿吽の呼吸。加賀見が描く無骨で力強い骨組みに、日向が柔らかな色彩と光を吹き込む。それは、互いにないものを補完し合う、完璧な静定構造のように見えた。

「美しくない、ですか。加賀見さんの計算書は、いつだって芸術品みたいに見えますけど」

「……お前が言う『美しさ』は、住む人間の感性に訴えるものだろう。俺のは、重力に対する単なる解に過ぎない」

 加賀見がふと手を止め、日向を見た。その視線が絡み合った瞬間、オフィスの空気がわずかに熱を帯びる。

 日向はこの瞬間のために、残業をしていると言っても過言ではなかった。

 だが、この視線に「恋情」という名をつけるには、二人の関係はあまりにも構築されすぎていた。上司と部下、構造と意匠。そのバランスは、一歩踏み込めば崩壊する脆さの上に成り立っている。

 建築には「エキスパンション・ジョイント」という概念がある。

 異なる挙動をする建物同士を繋ぐ際、地震などでぶつかり合って壊れないよう、あえて設ける「隙間」のことだ。

 日向は思う。僕たちの間にあるこの数メートルの距離も、きっとそれなのだと。近づきすぎて共振を起こし、互いを壊さないための、必要な隙間。

 だから、この想いは封印しなければならない。完璧な加賀見壮一郎のキャリアに、情緒というノイズを混入させるわけにはいかないのだ。

 しかし、その均衡は、外部からの圧力によって容易く歪み始めていた。

第二章 許容応力度

 亀裂は、ささいな噂話から始まった。

 翌日のランチタイム、社員食堂のざわめきの中で、日向は同期の口からその言葉を聞いた。

「聞いたかよ日向。加賀見チーフ、ニューヨーク支社への栄転が決まったらしいぜ」

 箸を持っていた日向の手が止まった。

「……え?」

「向こうの大規模再開発プロジェクトの統括だってさ。来月には辞令が出るって噂だ。お前、一番近くにいて知らなかったのか?」

 世界が、一瞬で色を失ったようだった。

 ニューヨーク。

 あまりにも遠い場所。だが、それは加賀見の実力を考えれば当然のキャリアパスだ。彼のような天才が、国内の案件だけに留まっている方がおかしいのだ。

 心臓の奥が冷たく軋む。だが、日向の職業的理性プロフェッショナリズムが、即座に笑顔という仮面を形成した。

「すごいな……。さすが加賀見さんだ」

 邪魔をしてはいけない。

 それが、日向が導き出した唯一の解だった。自分が加賀見に抱いているこの重たい感情は、彼の輝かしい未来にとって足枷にしかならない。

 もし、この想いが露見して、彼を困らせてしまったら? あるいは、彼が情にほだされて、日本に残るなんて選択肢を微塵でも考えてしまったら?

 それこそが、彼の人生における最大の設計ミスになる。

 その日の午後から、日向は徹底して「理想的な部下」を演じた。

 業務連絡はメールで済ませ、休憩時間の雑談を避け、視線が合いそうになればさりげなく逸らす。

 構造的な欠陥が見つかった建物を、静かに閉鎖するように。日向は自分の心にバリケードを築いていった。

 だが、その変化を加賀見が見逃すはずがなかった。

 夕刻、給湯室でコーヒーを淹れていた日向の背後に、気配が立った。

「……日向」

 振り返ると、加賀見が立っていた。いつもの冷徹な表情の奥に、見たことのない焦燥の色が滲んでいる。

「あ、お疲れ様です。加賀見さんの分も淹れましょうか? ブラックでしたよね」

「そういうことじゃない。……お前、今日、俺を避けているな」

 直球だった。加賀見は、曖昧な婉曲表現を嫌う。

 日向はポットを持つ手に力を込め、精一杯の明るい声を作った。

「まさか。プロジェクトの締切が近いので、集中していただけですよ。それに、加賀見さんもお忙しくなるでしょうし」

「忙しくなる?」

「ニューヨーク、行くんですよね? おめでとうございます。僕、自分のことみたいに嬉しいです。向こうでも、加賀見さんの設計したビルが建つなんて」

 言い切った。完璧な祝辞だったはずだ。

 しかし、加賀見は礼を言うどころか、眉間に深い皺を刻んだ。その瞳が、まるで解析不能なエラーコードを見つめるように揺れている。

「……お前は、俺に日本を離れてほしいのか」

「えっ? いや、それは加賀見さんのキャリアにとって最善の……」

論理ロジックを聞いているんじゃない。お前の、感情本当の気持ちを聞いているんだ」

 加賀見が一歩踏み出してくる。その圧迫感に、日向は思わず後ずさり、背中が給湯室のカウンターに当たった。

 いつもなら保たれている「隙間」が、消失しようとしている。

 その時、廊下の向こうから他の社員の声が聞こえ、加賀見は舌打ちをして足を止めた。

「……後で話す。今のままでは、設計が狂う」

 吐き捨てるように言って、加賀見は出て行った。

 残された日向は、震える手で自分の胸を押さえた。設計が狂う? どういう意味だ。彼は完璧な構造計算の鬼のはずだ。僕一人がいなくなったところで、彼の堅牢な世界は何一つ揺らがないはずなのに。

第三章 崩壊現象

 季節外れの大型台風が関東を直撃したのは、その二日後の夜だった。

 暴風雨の影響で主要な鉄道網はすべて計画運休に入り、帰宅命令が出された後も、急ぎの修正案件を抱えた日向と加賀見だけがオフィスに取り残されていた。

 窓の外は轟音と閃光に支配され、世界が水の中に沈んだかのようだ。

 二人は無言で作業を続けていた。

 気まずい沈黙を破ったのは、クライアントからの差し入れだった。「休憩にしましょう」という加賀見の言葉で、日向はデスクの上の箱を開けた。

 海外ブランドの高級ボンボンショコラ。鮮やかな包み紙が、無機質なデスクの上で異彩を放っている。

「これ、アルコールが入っているみたいですけど、大丈夫ですか?」

「……少量なら問題ない。糖分が必要だ」

 加賀見は一つ摘まんで口に放り込んだ。

 それが、決定的なトリガーになるとは、日向は予想していなかった。

 加賀見は極端に酒に弱い。それを知ってはいたが、まさか菓子一つで影響が出るとは思わなかったのだ。

 十分後、加賀見がネクタイを緩め、荒い息を吐き出した時、日向は事態の異変に気付いた。

「加賀見さん? 顔、赤いですけど……」

「……計算外だ。度数が、想定より高い」

 普段の氷のような理性が溶け出し、熱を帯びた瞳が日向を捉える。その視線の強さに、日向は動けなくなった。

 その瞬間、激しい雷鳴と共に、ビルの照明が一斉に落ちた。

 停電だ。

 非常灯の頼りない緑色の光だけが、闇に浮かび上がる。空調の音も止まり、聞こえるのは窓を打つ雨音と、互いの呼吸音だけ。

 視覚情報が遮断されたことで、他の感覚が異常なほど鋭敏になる。衣擦れの音。微かな整髪料の香り。そして、近づいてくる加賀見の体温。

「日向」

 闇の中で名を呼ばれ、日向は反射的に立ち上がった。

「あ、えっと、懐中電灯を探しますね。それから、もうタクシーを呼んで帰った方が……」

 逃げなければならない。本能が警鐘を鳴らしていた。この暗闇と、加賀見の熱に囚われたら、もう二度と「ただの部下」には戻れない。

 日向がスマホを取り出し、画面をタップしようとしたその時だった。

 強い力で手首を掴まれた。

 スマホが床に落ち、硬い音が響く。

「……帰るな」

 それは命令ではなく、悲痛な懇願だった。

 壁際に追い詰められ、背中にひやりとした壁の感触が伝わる。目の前には、加賀見の影。暗がりでも分かるほど、彼は切羽詰まっていた。

「加賀見さん、酔ってますよ。離してください、これじゃ……」

「ニューヨークの話は、断った」

「……は?」

 思考が停止した。日向の言葉を遮り、加賀見が続ける。

「お前がいなければ、どんな巨大なビルを建てても意味がない。構造体スケルトンだけで建物が成立しないように、俺の人生には、お前という光が必要なんだ」

 加賀見の額が、日向の肩に押し付けられる。震えている。あの鉄骨のように強靭な加賀見が、今、崩れ落ちそうなほど震えているのだ。

「俺を避けるな。論理的に考えれば、お前の態度は拒絶だ。分かっている。だが……感情が計算できない。お前が離れていく未来をシミュレーションするだけで、俺の中の全てが崩壊するんだ」

 座屈。

 柱が、耐えられる限界を超えた荷重を受けて、ぐにゃりと折れ曲がる現象。

 日向は息を呑んだ。

 この人は、僕が思っていたよりもずっと脆く、そして深く、僕のことを想っていてくれたのか。

 ニューヨークへの栄転を蹴ってまで。論理の化け物が、その人生設計を全て投げ打ってまで。

「……バカじゃないですか、加賀見さんは」

 日向の目から、涙が溢れた。

 それは恐怖ではなく、歓喜と愛おしさによるものだった。

 日向は、震える加賀見の背中に腕を回し、そのスーツの生地を強く握りしめた。

「僕だって……加賀見さんがいなきゃ、何も描けませんよ」

第四章 新たな構造計算

 言葉にした瞬間、堰を切ったように感情が溢れ出した。

 加賀見が顔を上げ、暗闇の中で日向の瞳を探す。

「日向……」

 その呼びかけには、先ほどまでの迷いはなかった。ただ純粋な、焦がれるような熱だけがある。

 加賀見の手が、日向の頬を包み込んだ。

 職人のように無骨で、けれど驚くほど優しい指先。親指が、日向の目尻に溜まった涙をゆっくりと拭う。その触れ方があまりに大切そうで、日向は膝から力が抜けそうになった。

「キスを、してもいいか。……いや、させてくれ」

 許可を求める理性と、それを待てない本能が混ざり合っている。

 日向が小さく頷くより早く、唇が塞がれた。

 最初は触れるだけの、雨粒のようなキス。だが、次第に角度を変え、深く、貪るような口づけへと変わっていく。

 チョコレートの甘い香りと、微かなアルコールの味。そして、加賀見自身の匂いが日向の感覚を飽和させる。

 眼鏡が邪魔になり、加賀見がそれを外してデスクに放った。

 露わになった素顔の瞳が、至近距離から日向を射抜く。そこにはもう、冷徹な上司の顔はない。ただの、恋に溺れた一人の男の顔があった。

「ん……っ、加賀見、さん……」

 合間に名前を呼ぶと、加賀見の腕が日向の腰を強く引き寄せた。身体と身体の間に、隙間などミリ単位も存在しない。互いの鼓動が、骨を伝わって共鳴しているのが分かる。

 外の暴風雨など、もうどうでもよかった。

 この狭く暗いオフィスの中だけが、世界の全てだった。

 加賀見の熱い手が、シャツの裾から入り込み、日向の背骨をなぞり上げる。その熱さに、日向は甘い溜息を漏らし、自分からも加賀見の首に腕を回して、その髪に指を絡めた。

 今まで築き上げてきた「上司と部下」という論理構造は、この夜、完全に崩壊した。

 そして、その瓦礫の中から、より強固で、より有機的な、愛という名の新しい構造が生まれようとしていた。

 ***

 翌朝。

 台風一過の空は、嘘のように晴れ渡っていた。

 朝日が差し込むオフィスで、二人は並んで始業前のコーヒーを飲んでいる。

 一見すれば、昨日までと同じ風景だ。加賀見は眼鏡をかけ直し、涼しい顔でタブレットを操作し、日向はスケッチブックを広げている。

 だが、決定的に違うことが一つあった。

 デスクの下。

 死角になった足元で、加賀見の革靴の爪先が、日向の靴に触れていた。

 コツン、と当たる硬い感触。

 日向が視線を上げると、加賀見は画面を見たまま、口元だけで微かに笑った。その表情は、今までのどんな「成功」の時よりも、柔らかく、満ち足りていた。

「……今日のランチ、どこ行きます?」

「お前の好きなオムライスの店でいい。……これからは、毎日付き合ってもらうからな」

 その言葉に含まれた独占欲に、日向は耳まで赤くして、幸せそうに微笑んだ。

 不完全で、非論理的で、予測不能。

 そんな「恋」という名の新しいプロジェクトが、今、ここから始まるのだ。

(了)

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