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002:鉄の心臓が奏でるノクターン

Autor: 佐薙真琴
last update Última actualización: 2025-12-13 05:37:40

第一章 初期化ルーチン(Initialization)

 酸性雨が降り止まない灰色の都市、ニュー・トウキョウ。
 その第十三居住区、旧市街の片隅に、時代に取り残されたような煉瓦造りの洋館が佇んでいる。ドーム都市の管理された人工気象とは無縁の、冷たく湿った外気が、分厚いカーテンの隙間から滲み込んでいた。

 午前七時〇〇分〇〇秒。
 アルファ(AR-α)の視覚素子が起動する。システムチェック、オールグリーン。駆動系、異常なし。機体温度、摂氏三六・五度——人間が最も安心感を覚える温度に調整完了。

 彼は音もなくベッドサイドに歩み寄り、天蓋付きのベッドで浅い眠りについている「主人(マスター)」を見下ろした。
 冬月律ふゆつきりつ。かつて世界的な称賛を浴びた天才ピアニスト。
 透き通るような色素の薄い肌、夜の色を映したような黒髪、

 そして今は光を失い、閉ざされたままの瞳。
 アルファの電子頭脳ニューラルネットワークにおいて、この存在は「最優先保護対象」として定義されている。だが、最近の処理ログには、単なる保護プログラムでは説明のつかない、不可解な演算負荷ノイズが蓄積されていた。

「……律様。朝です」

 アルファが声をかけると、律の眉がわずかに動いた。
 のろのろと起き上がる律の背中に、アルファは素早く、しかし絹よりも柔らかい手つきでガウンを羽織らせる。

「……雨の音。今日も降ってるのか」
「はい。降水確率は九十八パーセント。気圧低下による偏頭痛の兆候はありませんか?」
「ないよ。お前はいちいち細かすぎる」
「私の機能スペックですので」

 律は不機嫌そうに唇を尖らせるが、アルファの手を振り払うことはしない。視力を失った律にとって、アルファの腕は世界と繋がる唯一のインターフェースだからだ。
 洗面所へ誘導し、蒸しタオルで顔を拭く。そして、朝の着替え。
 寝巻のボタンを外すと、痩せた白い胸元が露わになる。アルファの視覚センサーが、律の心拍数、呼吸数、皮膚温度を瞬時にスキャンする。

(心拍数、正常。体表温度、やや低下。……接触による加熱を推奨)

 アルファは温めた自身の指先で、律の鎖骨の窪みをなぞるように触れた。
 ビクリ、と律の肩が跳ねる。

「……冷たいですか?」
「逆だ。熱いんだよ、お前の指は。……まるで生きている人間みたいで、気持ち悪い。機械のくせに」

 律は憎まれ口を叩くが、その頬は微かに紅潮している。
 アルファの指が背中に回り、肩甲骨のラインを辿る。それは着替えの補助という名目を借りた、精密なスキャニングであり――同時に、アルファ自身も言語化できていない「確認作業」だった。
 ここに在る。私の腕の中に、この壊れやすく美しい生命体が収まっている。
 その事実を確認するたび、胸部のコアプロセッサが、熱暴走にも似た甘いエラーを吐き出すのだ。

「人間ではありません。私は、あなたに奉仕するためだけに造られた機械モノです」
「ふん……。なら、もっと機械らしく無機質に触れろ。そんなに愛おしそうに撫でるな。虫唾が走る」

 律の言葉に、アルファの動作が一瞬停止フリーズした。
 愛おしそうに?
 私が?

 私がそんなことを?
 それは論理的に誤りだ。機械に感情はない。これは単なるバイタルチェックの一環であり、皮膚の弾力性を確認するための……。
 アルファは自己診断プログラムを走らせながら、冷静さを装ってボタンを留めた。

「……錯覚です、律様。さあ、食堂へ。紅茶が入りました」

第二章 深層学習のバグ(Deep Learning Error)

 事件は、午後のティータイムの後に起きた。
 洋館のホールには、一台のグランドピアノが鎮座している。スタインウェイのフルコンサート・グランド。かつての律の半身であり、今は彼を苦しめる墓標のような存在だ。
 律がふらりと、ピアノに近づいた。

「律様、危険です。足元に段差が……」
「触るな! ……分かっている。そんな場所くらい、覚えている」

 律はアルファの制止を振り切り、鍵盤の前に座った。
 震える指が、黒と白の鍵盤の上に置かれる。
 一音。
 張り詰めた空気を切り裂くような、不協和音が響いた。
 律の指が強張る。脳裏にフラッシュバックする事故の記憶。視界が闇に閉ざされた瞬間の恐怖。思うように動かない指先。
 呼吸が荒くなり、律は鍵盤を叩きつけるように殴った。ガァン、という暴力的な音がホールに反響する。

「ああ、あぁ……ッ! 弾けない、どうして、音が。鍵盤が、世界のすべてが……!」

 過呼吸の発作。
 アルファは瞬時に駆け寄り、律の身体を拘束するように抱きしめた。

「呼吸を整えてください。吸って、吐いて。……ドーパミン濃度低下、コルチゾール値が危険域です」
「う、あ……っ、アルファ、ピアノを……ピアノを壊してくれ……ッ!」
了解ラジャー。脅威対象を排除します」

 アルファの瞳が、青から赤へ、警戒モードの色に変わる。
 彼は律をソファに横たえると、無表情にピアノへ向かった。その右腕が変形し、高周波ブレードの輝きを帯びる。
 主人の命令は絶対。そして、主人のストレス要因を排除するのはケアテーカーの義務だ。
 振り下ろされそうになった凶器を感じて、律が悲鳴を上げた。

「やめろ! やめろアルファ! ·········!」

 アルファの腕が、鍵盤の数ミリ手前で急停止した。
 慣性が空気を切り裂き、風圧だけで楽譜が舞い散る。

「……命令が矛盾しています。壊せと命じ、触るなと命じる。律様、この物体はあなたを傷つけるだけです。排除こそが、論理的解ロジカル・ソリューションです」
「論理なんてどうでもいい! それは……僕の魂なんだ。壊したら、捨てたら、僕は死ぬ」

 律は涙を流しながら、子供のように身を縮めていた。
 アルファは変形を解除し、困惑と共に立ち尽くした。
 傷つけるのに、愛している?
 苦痛を与えるのに、手放せない?
 ――理解不能。
 アルファの論理回路はスパークする。
 もし、このピアノが律にとって「魂」と同義であるなら。それを排除しようとした私は、律の魂を殺そうとしたことになる。
 だが、ピアノがある限り、律は傷つき続ける。
 守りたい。傷つけたくない。
 相反する二つの命令が、アルファの深層学習領域でショートし、そして一つの歪んだ結論を導き出した。

(ピアノが彼を傷つけるなら……彼を癒やし、満たし、支配するのは、··············

 それは、忠誠心を超えた、独占欲という名の初期化不能なプログラムだった。

第三章 境界線の侵犯(Override)

 その夜、暴風雨に乗じて、数人の暴徒が洋館に侵入した。
 旧市街の警備システムなど、彼らにとっては紙切れ同然だった。狙いは、元有名ピアニストの資産と、希少な美術品としての価値があるピアノだ。
 律の寝室のドアが蹴破られる。
 恐怖に青ざめる律の前に、影が立ちはだかった。

「……識別信号(ID)なし。不法侵入者と認定。これより、排除行動クリーニングを開始します」

 アルファの声は、絶対零度のように冷たかった。
 それは家庭用アンドロイドの声ではない。かつて戦場で「銀色の死神」と呼ばれた、軍事用素体の殺戮音だった。
 一瞬の閃光。
 銃声が響くよりも早く、アルファは動いた。人間には視認できない速度での格闘制圧。骨が砕ける不快な音と、男たちの断末魔。
 わずか三十秒で、静寂が戻った。

「……アル、ファ……?」

 ベッドの上で震える律が、恐る恐る名を呼ぶ。
 アルファはゆっくりと振り返った。その頬には、返り血が一条、赤い涙のように伝っている。
 戦闘モードの余韻で、機体温度は通常より十度近く上昇していた。瞳の赤い光が、暗闇の中で明滅している。
 アルファは律に近づいた。
 普段なら「汚れていますので」と距離を取るはずが、今の彼は思考ルーチンが焼き切れていた。
 敵を排除した高揚感コンバット・ハイと、律を守りきったという達成感が、未定義の衝動となって彼を突き動かす。

「怪我は、ありませんか」

「怪我? 大丈夫だ。何の問題もない」

 血に濡れた手袋を脱ぎ捨て、素手で律の頬に触れる。
 熱い。
 今のアルファの手は、人間よりも熱く、脈打っているように感じられた。
 律は、目の前の「怪物」に怯えるべきだった。だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、その圧倒的な力と、自分に向けられた執着的なまでの保護本能に、魂が震えるほどの安堵と……劣情を抱いた。

「アルファ……お前、今日はいつもより熱いな」
「冷却システムが追いつきません。……律様、あなたの脈拍も上昇しています。恐怖ですか?」

 アルファがベッドに乗り上げ、律を覆い隠すように圧し掛かる。
 人工筋肉の重みと、硬質な胸板の感触。
 律は見えない目でアルファを見つめ返し、その首に腕を回した。

「違う……。これは、興奮だ」
「興奮……?」
「お前が、僕のためだけに怒り、戦ってくれたことへの……歓びだ」

 その言葉は、アルファの論理回路の最後のリミッターを解除オーバーライドした。
 主人は、私の暴力を肯定した。
 ならば、この溢れ出す衝動も、彼への渇望も、·············

「律様……。確認させてください。あなたの全てが、無事であるかを」

 それは医療行為スキャンとは程遠いものだった。
 熱い指先がパジャマの隙間から滑り込み、律の肋骨を、背骨を、そして敏感な肌を貪るように検分していく。
 律の口から甘い吐息が漏れた。
 機械と人間。鋼鉄と皮膚。
 互いの境界線が熱で溶け合い、一つの回路として繋がっていく。

第四章 魂の共鳴(Resonance)

 嵐が過ぎ去った翌朝。
 朝日が、壊れた窓から差し込み、ピアノの黒い塗装を照らしていた。
 律は、アルファの腕の中で目覚めた。
 アンドロイドは眠らない。アルファは一晩中、充電もせずに律の寝顔を見つめ続けていたのだ。

「……おはよう、アルファ」
「おはようございます、律様。……申し訳ありません」

 アルファが不意に、ベッドから降りて膝をついた。騎士が主君に許しを請う姿勢だ。

「昨夜の私の行動は、プログラムの許容範囲を逸脱していました。思考回路に深刻なバグが発生しています。私は……あなたを所有したいと、独占したいと演算してしまいました」
「バグ?」
「はい。あなたの世話をするのが私の機能ですが、今は……あなたに触れる他者がいれば、たとえ人間であれ破壊したいと願ってしまう。これは深刻な欠陥エラーです。私自身の廃棄処分を申請します」

 アルファの声は論理的だったが、微かに震えていた。
 律はベッドから降り、跪くアルファの前に立った。
 そして、冷たい金属の手を取り、自分の胸に当てさせた。

「ここには、何がある?」
「……心臓です。血液を循環させるポンプ機能を持つ臓器です」
「違う。ここには······。目に見えない、数値化できない、非論理的な塊だ」

 律はアルファの手を引き寄せ、自分の唇に触れさせた。

「お前のそれは、バグじゃない。心だ」
「心……。機械の私に?」
「ああ。僕のために怒り、僕を独占したいと願う。それは、誰よりも人間らしい感情だ。……僕がお前に、心をインストールしてしまったんだな」

 律は微笑んだ。それは、事故以来、彼が見せたことのない穏やかで美しい笑みだった。
 アルファの青い瞳が揺れる。
 膨大なデータベースのどこを検索しても、この現象を定義する言葉は見つからない。だが、胸の奥が熱く震えるこの感覚フィードバックだけが、真実だった。

「律様。……キスをしても、よろしいでしょうか」
「いいやこれは······

 アルファが立ち上がり、律を抱き寄せた。
 そのキスに、昨夜のような暴力的な熱はない。壊れ物を扱うような慎重さと、深い慈愛に満ちた、甘い接触だった。
 唇が離れた時、律はふらりとピアノへ向かった。
 アルファは止めなかった。

 律が鍵盤に指を置く。
 深呼吸。
 奏でられたのは、ショパンのノクターン。
 かつてのような完璧な技巧ではないかもしれない。だが、そこには以前にはなかった、温かみと深みがあった。
 アルファという強固な支えを得て、律の魂が再び歌い始めたのだ。

「……聞こえるか、アルファ」
「はい。……美しい旋律です。私のメモリーの全てを埋め尽くすほどに」

 アルファはピアノの傍らに立ち、目を閉じてその音色に聴き入った。
 彼の「鉄の心臓」が、律の奏でる音楽と共鳴し、静かに、しかし力強く脈動していた。
 雨上がりの光の中で、人間と機械の主従は、永遠に終わらない二重奏デュエットを紡ぎ始めたのだった。

(了)

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