LOGIN三週間後、麗華は東京郊外の安アパートで、天井を見つめていた。
研究不正の噂は瞬く間に広がった。大学からの正式な発表はなかったが、業界内の非公式なネットワークでは、「柊麗華は信用できない」という評価が確定していた。
送った履歴書は、すべて不採用。面接にすら呼ばれない。
貯金は底を尽きかけていた。
スマートフォンが鳴る。母からの着信だった。麗華は、電話に出なかった。何を話せばいいのか分からなかった。
「娘は東京で研究者として頑張っている」と、母は親戚中に自慢していた。婚約の話も、嬉しそうに話していた。
それが全部、嘘になった。
麗華は起き上がり、冷蔵庫を開けた。中には、賞味期限切れの牛乳と、半分残った納豆のパックがあるだけだった。
スーパーの夜間アルバイトの面接が、明日ある。もう、研究者として生きることは諦めるべきなのかもしれない。
そう思った時、スマートフォンが再び鳴った。
今度は知らない番号だった。
麗華は、何の期待もせずに電話に出た。
「もしもし」
「柊麗華さんですか?」
低く、落ち着いた男性の声だった。
「はい……どちら様でしょうか」
「神宮寺隼人と申します。フェニックスバイオテック株式会社の代表です」
麗華の手が、わずかに震えた。
フェニックスバイオテック。業界では知らない人はいない、新興の生物工学企業だ。わずか五年で、時価総額一千億円を超えた。そのCEOが、なぜ自分に電話を?
「あの……何か御用でしょうか」
「三年前、あなたが『Nature Biotechnology』に発表した論文を読みました。『タンパク質フォールディング制御による細胞老化抑制メカニズムの解明』」
麗華は息を呑んだ。あれは、彼女が大学院時代に単独で書いた論文だった。達也と出会う前の、彼女自身の研究だ。
「あの論文の第三著者として名前が載っていた芦原達也氏の最近の研究を見ましたが……正直、失望しました」
「え?」
「あの論文の核心的なアイデアは、明らかにあなたのものです。芦原氏の最近の研究は、その劣化コピーに過ぎない。そして、彼が最近発表した『画期的な』新技術も……あなたの研究ノートから盗んだものではありませんか?」
麗華は、言葉を失った。
「どうして、それを……」
「私は、本物の才能を見抜く目には自信があります。そして、あなたに提案があります」
「提案?」
「うちで働きませんか。研究者として」
麗華の心臓が、激しく鳴った。
「でも、私は……研究不正の疑いを――」
「あれは、でっち上げです」
神宮寺の声は、断定的だった。
「データを見れば分かります。改ざんの痕跡とされている部分は、むしろ修正前のデータが誤っていて、あなたが正確に修正した箇所です。つまり、誰かが意図的に、あなたを陥れるために証拠を捏造した」
「なぜ、そんなことまで……」
「あなたの才能が欲しいからです。そして……」
神宮寺は、少し間を置いた。
「もし、あなたが望むなら、復讐の手伝いもします」
「復讐……?」
「芦原達也は、近いうちに壁にぶつかります。彼が盗んだあなたの技術には、致命的な欠陥がある。彼はそれに気づいていない。いずれ、彼は助けを求めてくるでしょう」
「どうして、そこまで……」
「私は、才能ある人間が不当に扱われることが許せないんです。それだけです」
麗華は、窓の外を見た。雨が降り始めていた。あの夜と同じ雨だった。
「お会いして、お話を聞かせていただけますか?」
神宮寺の声は、穏やかだった。押しつけがましさがなかった。
「明日、午後二時。渋谷のフェニックス本社ビルでお待ちしています。もちろん、来なくても構いません。でも、もし新しい人生を始めたいと思うなら……扉は開いています」
電話は切れた。
麗華は、長い間、スマートフォンを握りしめていた。
そして、初めて、涙が溢れた。
悲しみの涙ではなかった。
怒りの涙でもなかった。
それは、諦めかけていた何かが、再び燃え上がる熱さだった。
一年後の春。 フェニックスバイオテックは、さらに成長していた。 麗華の率いる研究チームは、次々と画期的な成果を発表し、世界的な注目を集めていた。 為末茂美も、独自の研究テーマを持ち、初めての単独論文を発表した。 そして、麗華と神宮寺は婚約した。 結婚式は、桜の季節に行われることになった。 ある日、麗華のもとに一通の手紙が届いた。 差出人は、芦原達也だった。 麗華は、少し迷ってから封を開けた。『柊先生 お久しぶりです。手紙を送る資格があるのか分かりませんが、どうしても伝えたいことがありました。 私は今、地方の小さな企業で、研究補助として働いています。研究者としてのキャリアは終わりましたが、それは自業自得です。 あなたの発表を見て、私は自分がどれだけ愚かだったか気づきました。 研究とは、誰かから盗むものではなく、自分の頭で考え、自分の手で形にするもの。あなたの言葉が、今でも心に残っています。 私は、あなたに謝ることしかできません。 でも、一つだけ言わせてください。 あなたと出会えて、本当に良かった。 あなたは、私に本物の研究者の姿を見せてくれました。 遅すぎましたが、私は今、それを学ぼうとしています。 あなたの幸せを、心から祈っています。 芦原達也』 麗華は、手紙を読み終えて、静かに微笑んだ。 そして、その手紙を引き出しにしまった。 過去は、もう終わった。 大切なのは、これからだ。 結婚式の日。 麗華は、純白のドレスに身を包んでいた。 鏡に映る自分を見て、彼女は思った。 五年前、達也と婚約した時、自分は本当に幸せだっただろうか。 いや、あれは幸せではなく、安心だった。 誰かに必要とされている安心。 誰かに認められている安心。 でも今
それから三ヶ月が経った。 春が来て、桜が咲いた。 麗華は、フェニックスバイオテックの新しい研究棟のバルコニーに立ち、満開の桜を見ていた。「綺麗ですね」 後ろから声がして、振り返ると神宮寺が立っていた。「はい。毎年、桜を見ると新しい始まりを感じます」「あなたにとって、今年の春は特別な始まりですね」「ええ」 麗華は、微笑んだ。 この三ヶ月で、多くのことが変わった。 為末茂美が、フェニックスの正式な研究員として加わった。 達也の研究不正が明らかになり、彼は大学を辞職した。 そして、麗華は「柊麗華」として、堂々と研究者人生を再開した。「麗華さん、一つ聞いてもいいですか」「何でしょう?」「あなたは、今、幸せですか?」 麗華は、少し考えてから答えた。「はい。幸せです」「それは良かった」 神宮寺は、麗華の隣に立った。「実は、あなたに話があります」「話……?」「ええ。三ヶ月前、私が言いかけたことです」 麗華の心臓が、激しく打ち始めた。「あの時の……」「はい」 神宮寺は、麗華を見た。「麗華さん、私はあなたを愛しています」 麗華は、言葉を失った。「最初に会った時から、あなたの強さと優しさに惹かれていました。でも、あなたが復讐に囚われている間は、何も言えなかった」「神宮寺さん……」「でも今、あなたは自由です。過去から解放され、未来を見ている。だから、私は言います」 神宮寺は、麗華の手を取った。「私と一緒に、未来を歩いてくれませんか?」 麗華の目に、涙が浮かんだ。「私……私は、恋愛が下手です。不器用で、感情表現も苦
学会の翌日、麗華は為末茂美から連絡を受けた。「柊先生、お会いできませんか?」 二人は、静かなカフェで会った。「昨日は、本当に素晴らしい発表でした」 茂美は、麗華を見て言った。「ありがとうございます」「先生……いえ、麗華さん。私、謝らなければなりません」 茂美は、深く頭を下げた。「あなたを裏切ったこと、達也さんに加担したこと、全て謝ります」「顔を上げてください」 麗華は、茂美の肩に手を置いた。「あなたは、既に謝りましたよね。それで十分です」「でも……」「為末さん、あなたはこれからどうするんですか?」 茂美は、少し考えてから答えた。「達也さんとは、別れることにしました」「そうですか」「はい。彼は、私を研究者として見ていませんでした。ただの便利な助手として」 茂美は、カップを握りしめた。「でも、先生のおかげで、私は気づきました。自分にも才能があるって」「それは良かった」「麗華さん、一つお願いがあります」「何でしょう?」「私を、あなたの研究チームに入れていただけませんか?」 麗華は、驚いた顔をした。「私の……チーム?」「はい。あなたのもとで、もう一度研究者として学びたいんです」 麗華は、茂美の目を見た。 そこには、真摯な決意があった。「分かりました。神宮寺さんに相談してみます」「本当ですか! ありがとうございます!」 茂美の顔が、明るくなった。「でも、一つ条件があります」「何でしょう?」「これからは、自分を信じてください。誰かの影に隠れるのではなく、自分の名前で研究を発表してください」 茂美は、涙を浮かべて頷いた。「は
プロジェクト開始から六ヶ月。 ついに、研究は完成した。 タンパク質フォールディング制御技術を用いた新しい医薬品開発の基礎理論が、完全に確立された。 その成果を発表する国際学会が、東京で開催されることになった。 R.H.も、初めて公の場に姿を現すことが決まった。「柊さん、準備はいいですか?」 学会当日の朝、神宮寺が麗華のラボを訪れた。「はい……少し緊張していますが」 麗華は、新しいスーツに身を包んでいた。黒のパンツスーツに、白いブラウス。髪は、きっちりとまとめている。「あなたは、美しいですね」 神宮寺の言葉に、麗華は顔を赤らめた。「そんな……」「本当です。内面の強さが、外見にも現れています」 麗華は、鏡に映る自分を見た。 そこには、自信に満ちた女性が立っていた。「神宮寺さん、一つ決めました」「何を?」「今日の発表で、私は正体を明かします」 神宮寺は、驚いた顔をした。「R.H.が、柊麗華だと?」「はい。もう、隠す必要はありません」 麗華は、神宮寺を見た。「私は、柊麗華として、堂々と研究者であり続けたい」 神宮寺は、長い間麗華を見つめた。 そして、微笑んだ。「分かりました。あなたの決断を、尊重します」 国際学会の会場は、東京国際フォーラムの大ホールだった。 五百人以上の研究者が集まり、R.H.の初登壇を待ち構えていた。 舞台裏で、麗華は深呼吸をした。「大丈夫ですか?」 神宮寺が、隣に立っていた。「はい。もう、迷いはありません」「では、行きましょう」 司会者が、マイクを手に取った。「それでは、本日の基調講演者をご紹介します。生物工学界の新星、数々の画期的な研究成果
プロジェクトは、順調に進んでいた。 麗華の指導のもと、実験データは着実に蓄積され、問題だった細胞毒性も解決の目処が立った。 しかし、ある日、予期せぬ事態が起きた。 為末茂美が、一人で麗華のラボを訪れたのだ。「R.H.先生、少しお時間いいですか?」 茂美の顔は、青ざめていた。「どうぞ。何かありましたか?」 茂美は、ためらいながら口を開いた。「先生に、謝らなければならないことがあります」「謝る……?」「私、達也さんから、先生の実験ノートを盗み見するように言われました」 麗華の手が、止まった。「それは……」「でも、私にはできませんでした。それは、間違っていると思ったから」 茂美は、涙を流し始めた。「私、ずっと罪悪感を抱えてきました。柊麗華さんのことも……」 麗華の心臓が、止まりそうになった。「柊麗華……?」「はい。達也さんの元婚約者です。達也さんは、彼女の研究を盗んだんです。そして、私はそれを知っていながら、黙っていました」 茂美は、顔を覆った。「私、最低です。柊さんを裏切って、達也さんと一緒に論文を発表して……でも、最近気づいたんです。達也さんは、私のことも利用しているだけだって」 麗華は、静かに茂美の隣に座った。「為末さん、顔を上げてください」 茂美は、涙で濡れた顔を上げた。「あなたは、悪くありません」「でも――」「あなたは、達也さんに利用されていただけです。かつての柊麗華さんと同じように」 麗華は、茂美の目を見た。「でも、あなたは気づいた。それだけで、十分です」「先生……」「為末さん、あなたには才能があります。ただ、自分を
フェニックスのラボでの共同実験が始まった。 達也、茂美、助手の田中の三人が、毎週火曜日と木曜日に訪れ、麗華の指導のもとで実験を行う。 最初の数週間、達也は明らかに居心地が悪そうだった。 自分より若く見える女性研究者に指導される。しかも、その指導が的確すぎて、反論の余地がない。「ここの手順、もう少し効率化できませんか?」 ある日、達也が提案した。「効率化? どのように?」「この工程を省略すれば、時間が半分になります」 麗華は、達也の提案を見て、首を振った。「その工程を省略すると、データの信頼性が損なわれます」「でも、大まかな傾向は分かるはずです」「科学は、『大まかな傾向』では不十分です。再現可能で、検証可能なデータが必要です」 達也は、不満そうに黙った。 麗華は、達也の姿を見て、ある種の哀れみを感じた。 彼は、本質的に研究者に向いていないのだ。 近道を探し、楽な方法を選び、細部を疎かにする。 それは、研究者としては致命的な欠点だった。 一方、為末茂美は真面目に学んでいた。「R.H.先生、この反応、どうして温度を5度上げただけで、こんなに結果が変わるんですか?」「タンパク質の立体構造は、温度に非常に敏感です。5度の差で、フォールディングのパターンが変わることもあります」「なるほど……」 茂美は、熱心にノートを取った。「先生は、どうやってこういう知識を身につけたんですか?」「経験です。何千回も実験を繰り返し、失敗から学びました」「何千回……」 茂美は、驚いたように麗華を見た。「私、まだまだですね」「いいえ。あなたは真面目に学んでいます。それが一番大切です」 麗華は、茂美に微笑んだ。 その瞬間、茂美の目に涙が浮かんだ。「先生…