Mag-log in共同プロジェクトの初回ミーティングは、フェニックス本社の会議室で行われた。
麗華――R.H.――は、会議室に入る前に、深呼吸をした。
白衣の下には、シンプルな黒のブラウスとパンツ。髪はきっちりとまとめ、薄化粧。
鏡に映る自分は、一年前の柊麗華とは別人だった。
「準備はいいですか?」
神宮寺が、隣に立った。
「はい」
「では、行きましょう」
会議室のドアが開く。
そこには、三人が座っていた。
芦原達也。為末茂美。そして、見知らぬ若い男性研究員。
達也は、R.H.を見て立ち上がった。彼の視線は、麗華の顔を一瞬スキャンし――そして、何の認識の光も浮かばずに、ただ「初対面の著名な研究者」を見る目になった。
その瞬間、麗華は確信した。
目の前にいるのが、かつて五年間毎日顔を合わせていた女性だとは、まったく気づいていない。
フェニックスのラボでの共同実験が始まった。 達也、茂美、助手の田中の三人が、毎週火曜日と木曜日に訪れ、麗華の指導のもとで実験を行う。 最初の数週間、達也は明らかに居心地が悪そうだった。 自分より若く見える女性研究者に指導される。しかも、その指導が的確すぎて、反論の余地がない。「ここの手順、もう少し効率化できませんか?」 ある日、達也が提案した。「効率化? どのように?」「この工程を省略すれば、時間が半分になります」 麗華は、達也の提案を見て、首を振った。「その工程を省略すると、データの信頼性が損なわれます」「でも、大まかな傾向は分かるはずです」「科学は、『大まかな傾向』では不十分です。再現可能で、検証可能なデータが必要です」 達也は、不満そうに黙った。 麗華は、達也の姿を見て、ある種の哀れみを感じた。 彼は、本質的に研究者に向いていないのだ。 近道を探し、楽な方法を選び、細部を疎かにする。 それは、研究者としては致命的な欠点だった。 一方、為末茂美は真面目に学んでいた。「R.H.先生、この反応、どうして温度を5度上げただけで、こんなに結果が変わるんですか?」「タンパク質の立体構造は、温度に非常に敏感です。5度の差で、フォールディングのパターンが変わることもあります」「なるほど……」 茂美は、熱心にノートを取った。「先生は、どうやってこういう知識を身につけたんですか?」「経験です。何千回も実験を繰り返し、失敗から学びました」「何千回……」 茂美は、驚いたように麗華を見た。「私、まだまだですね」「いいえ。あなたは真面目に学んでいます。それが一番大切です」 麗華は、茂美に微笑んだ。 その瞬間、茂美の目に涙が浮かんだ。「先生…
共同プロジェクトは、予想以上に困難だった。 達也たちが提出したデータは、不完全で矛盾に満ちていた。実験手順は杜撰で、対照実験すら満足に行われていない。 麗華は、毎日深夜までラボに残り、彼らのデータを一から検証し直した。「これは……本当に酷いですね」 ある夜、神宮寺がラボに差し入れの夜食を持ってきた時、麗華は疲れた顔で言った。「大学院生レベルの実験です。いえ、それ以下かもしれません」「芦原達也は、あなたのアイデアを盗んだだけで、実験技術は学んでいなかったということですね」「そうみたいです」 麗華は、モニターに映し出されたグラフを指差した。「このデータ、明らかに改ざんされています」「改ざん?」「ええ。数値が不自然に揃いすぎています。本来なら、もっとばらつきがあるはずです」 神宮寺は、グラフを見て眉をひそめた。「これは……あなたが受けた研究不正の疑いと同じ手口ですね」「そうです。達也さんは、自分の研究でも同じことをしていた。そして、その罪を私に着せた」 麗華の声は、冷たかった。「彼は、研究者としての倫理を持っていません」「この証拠を公表すれば、彼の研究者生命は終わります」「でも、それはしません」 麗華は、神宮寺を見た。「それでは、私も彼と同じになってしまいます」「では、どうしますか?」「正しい方法で、プロジェクトを完成させます。そして、彼に見せつけるんです。本物の研究とは何か、を」 神宮寺は、満足そうに微笑んだ。「あなたは、本当に成長しましたね」 二ヶ月後、麗華は芦原研究所を訪問することになった。 彼らの実験設備を直接確認し、適切な実験手順を指導するためだ。 達也の研究室は、東京郊外の大学キャンパス内にあった。 麗華がその建物の前に立った時、胸が締め付けら
共同プロジェクトの初回ミーティングは、フェニックス本社の会議室で行われた。 麗華――R.H.――は、会議室に入る前に、深呼吸をした。 白衣の下には、シンプルな黒のブラウスとパンツ。髪はきっちりとまとめ、薄化粧。 鏡に映る自分は、一年前の柊麗華とは別人だった。「準備はいいですか?」 神宮寺が、隣に立った。「はい」「では、行きましょう」 会議室のドアが開く。 そこには、三人が座っていた。 芦原達也。為末茂美。そして、見知らぬ若い男性研究員。 達也は、R.H.を見て立ち上がった。彼の視線は、麗華の顔を一瞬スキャンし――そして、何の認識の光も浮かばずに、ただ「初対面の著名な研究者」を見る目になった。 その瞬間、麗華は確信した。 彼は、気づいていない。 目の前にいるのが、かつて五年間毎日顔を合わせていた女性だとは、まったく気づいていない。
その夜、麗華は眠れなかった。 達也と、また会う。 R.H.として。 彼は、自分が柊麗華だと気づくだろうか? ベッドから起き上がり、洗面所の鏡の前に立つ。照明のスイッチを入れると、そこに映ったのは、一年前の自分とはまるで別人だった。 髪。かつては肩までの中途半端な長さで、いつも無造作に一つに束ねていた。「研究に邪魔だから」という理由で、美容院にも年に二回しか行かなかった。今は、腰まで伸びた黒髪を、毎月プロの手でケアしている。艶やかで、重さがあり、動くたびに優雅に揺れる。 眼鏡。あの分厚いレンズの黒縁眼鏡は、もうない。達也が「地味だな」と笑った、あの眼鏡。今はコンタクトレンズで、素顔の自分を隠すものは何もない。 化粧。かつての麗華は、化粧をほとんどしなかった。日焼け止めとリップクリームだけ。「研究者に見た目は関係ない」と自分に言い聞かせていた。本当は、化粧の仕方を知らなかっただけだった
一年が経った。 R.H.の名前は、生物工学業界で伝説になりつつあった。『Science』、『Nature』、『Cell』――三大学術誌に立て続けに論文が掲載された。その全てが、従来の常識を覆す画期的な研究成果だった。 しかし、誰もR.H.の正体を知らない。 学会には決して姿を現さない。取材も一切受けない。ただ、圧倒的な研究成果だけが、匿名の著者によって発表され続けた。「R.H.は、一体何者なんだ?」 業界の重鎮たちが、そう囁き合った。「MIT? ハーバード? いや、ケンブリッジかもしれない」「いや、日本の研究者だという噂もある」「フェニックスバイオテックと関係があるらしい」 噂は噂を呼び、R.H.は「幻の天才」と呼ばれるようになった。 麗華は、そんな外部の騒ぎを気にせず、研究に没頭していた。 しかし、ある日の昼休み、神宮寺が彼女のラボにやってきて言った。「柊さん、少し外に出ませんか」「外……ですか?」「ええ。あなた、この一年で一度も休暇を取っていませんね」「研究が楽しいので」「それは良いことです。でも、人間には息抜きも必要です」 神宮寺は、有無を言わさず麗華の白衣を取り上げた。「今日は半日休みです。付き合ってください」 二人は、研究所近くの小さな公園のベンチに座っていた。 桜の木の下で、神宮寺がコンビニで買った缶コーヒーを麗華に渡す。「こういう場所に来るのも久しぶりです」 麗華は、缶を開けながら言った。「私もです」 神宮寺は、空を見上げた。「柊さん、あなたは幸せですか?」「幸せ……?」「研究ができて、成果も出せている。でも、それだけで十分ですか?」 麗華は、少し考えてから答えた。「以前は、達也さんのために研究していまし
フェニックスバイオテックの地下三階にある研究施設は、麗華が今まで見た中で最も充実していた。 最新のDNAシーケンサー、タンパク質解析装置、細胞培養システム。大学の研究室では夢のような設備が、ここでは当たり前のように揃っている。「驚きましたか?」 神宮寺が、白衣を着て現れた。「神宮寺さんも、研究を?」「私は元々研究者ですから。経営も大事ですが、やはりラボにいる時間が一番落ち着きます」 彼は、麗華に研究室の鍵を渡した。「ここがあなたの城です。誰にも邪魔はさせません」 麗華は、実験台の上に手を置いた。冷たく、清潔な感触。「何から始めればいいでしょうか」「あなたが中断していた研究を、続けてください」 神宮寺は、モニターを操作し、画面に分子構造図を映し出した。「あなたのタンパク質フォールディング制御の研究。あれは、まだ完成していませんね」「はい……最後の実証実験の段階で、研究室を追われました」「では、それを完成させましょう。必要なデータは全て、私の方で復元しました」 画面には、麗華がかつて書いた研究ノートのデジタルコピーが表示された。「どうやって……?」「企業秘密です」 神宮寺は、わずかに笑った。「柊さん、あなたには無限の可能性があります。それを、存分に発揮してください」 それから三ヶ月間、麗華は文字通り研究に没頭した。 朝七時に出社し、夜十一時まで実験を繰り返す。週末も、ラボにいることが多かった。 しかし、それは苦痛ではなかった。 むしろ、生きている実感があった。 誰にも邪魔されず、誰にも否定されず、ただ自分の直感と論理を信じて研究を進められる。これが、彼女が本当に求めていたものだった。 そして、三ヶ月後。 麗華は、タンパク質フォールディング制御の完全なメカニズムを解明した。 論文を書き上げ、『Science』誌に投稿する。著者名は「R.H.」のみ。 二週間後、論文は査読を通過し、掲載が決定した。「おめでとうございます」 神宮寺が、シャンパンのボトルを持ってラボに現れた。「あなたの論文は、間違いなく今年のトップクラスの研究成果です」「ありがとうございます……でも、これは始まりに過ぎません」 麗華は、モニターに新しい研究プランを映し出した。「次は、幹細胞の分化制御メカニズムの解明に取り組みます」