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#17:至福の時間

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-05-24 18:59:04

 コロッセオの喧騒は、分厚い扉の向こうでまだ鳴っていた。

 エレン専用に用意された選手控室は、外の熱とは切り離されたように静かだった。石壁に囲まれた簡素な部屋。壁際には水差しと布、替えの上着が置かれ、中央には木製の長椅子がひとつだけ据えられている。

 そのベンチの上で、エレンは自分の手のひらを見つめていた。

 開く。

 握る。

 また、開く。

 細い指が、ゆっくりと形を変える。試合中、飛来する《風牙》を掴んだ手。シオンの猛攻を受け、弾き、押し返し、最後まで剣を離さなかった手。見た目に大きな傷はない。だが、指の動きには、ほんの僅かな硬さが残っていた。

『凄かったよ! エレン!』

 胸の奥から、明るい声が弾む。

「……ああ」

 エレンの返事は、短かった。

『どうしたの?』

 その明るさが、少しだけ傾く。

 エレンは手を握ったまま、しばらく黙っていた。やがて瞼を伏せ、静かに息を吐く。

「すまない。今回の戦いは、君の身体に無茶をさせてしまった」

『そ、そんな! 気にしないでよ!』

 エレナの声が、慌てたように返ってくる。

「しかし……」

 言葉はそこで途切れた。

 エレンの指が、もう一度開く。掌の中心を見下ろす紅い瞳は、試合中のような鋭さを失ってはいなかった。ただ、その刃先はもう相手ではなく、自分自身に向いている。

(私は、楽しんでしまっていた)

 あの高揚感。

 何度崩しても、何度叩き伏せても、なお迫ってくる猛攻。風を操る傭兵の技量。叩きつければ叩き返され、奪えば奪い返そうと喰らいついてくる、あの執念。

 心の底から。

 エレンは、それを楽しんでいた。

『エレン』

 今度の声は、少しだけ落ち着いていた。

『あの人は、相当強かったでしょ?』

「ああ、間違いなく」

 迷いのない答えだった。

「それこそ、好敵手と言ってもいいほどに」

『あなたがそう呼べる人って、実際のところ、あまり居ないじゃない?』

 エレナの声は、責めるものではなかった。むしろ、そっと隣に腰を下ろすような柔らかさで、エレンの沈黙に寄り添っている。

『だからそれは、彼がきっと本当に強かったってこと』

「……」

『そんな人と戦って、無事に勝利を収めちゃうんだもん。むしろ私は、あなたが誇らしいよ』

 胸の奥で、ふわりと温度がほどける。

 エレナが笑っている。姿が見えるわけではないのに、その気配だけははっきりと伝わってきた。春の陽だまりが、そっと布越しに肌へ触れるような、そういう穏やかさだった。

 エレンは伏せていた瞼を上げる。

「……ふむ」

 口の端が、わずかに上がった。

「ならばエレナ。そこまで私を褒めるのなら、なにか褒美が欲しいものだな」

『え?』

「例えば、酒。とかな」

『お、お酒はだめっ!』

 即答だった。

『あれは人を堕落させるんだよ!? 悪いことをさせちゃうんだよっ!?』

 あまりにも必死な声だった。真剣で、切実で、少しばかり過剰で、だからこそ妙に可笑しい。

 エレンの口元が、今度こそ笑みの形を作りかける。だが、それを声にする前に、エレナが少しだけ調子を整えるように続けた。

『でも、頑張ってくれたわけだし。ご褒美は必要だよね!』

「ほう」

『エレン、私の金貨袋を見てみて!』

 エレンは言われるまま、ベンチの横に置かれていた荷物袋へ手を伸ばした。布の中を探ると、すぐに小さな革袋が指に触れる。取り出した金貨袋は、いつもより明らかに重かった。

『むっ』

 思わず、内側へ声が漏れる。

 革紐を緩めると、淡い金色がいくつも覗いた。控室の小さな灯りを受けて、袋の中で硬貨がきらりと光る。

『じゃじゃーん!』

 エレナの声が、嬉しそうに弾んだ。

『今日ね、二回戦目だから。あなたにご褒美をあげたくて、いつもより金貨をたくさん入れておいたんだ!』

『だから……このまま、エレンの好きなピザを食べに行っていいよ!』

 ぴたり。

 エレンの動きが、完全に止まった。

「……な、な、なんだと!?」

 紅い瞳が、あからさまに見開かれる。先ほどまでの涼しげな佇まいは、もうどこにもない。ベンチの上で、わずかに背筋が伸びた。

『ふふふっ』

 エレナの笑い声が、胸の内で鈴のように跳ねる。

『二回戦の勝利、おめでとっ!  エレンっ!』

 しばしの沈黙。エレンは片手で口元を覆い、それから、低く唸るように言った。

「……遠慮は、しないぞ?」

『もちろん!』

 胸を張るような声音に、エレンの口角が、今度ははっきりと上がる。

「では——何のピザを食おうか。食べたいものが何種類もあってな」

 指を折りながら、どこか嬉しそうに呟く。チーズの濃いやつ、薄焼きで香ばしいやつ、具を山ほど盛ったやつ。普段の冷徹な戦術眼はどこへやら、献立の算段にばかり使われている。

『……あのー、エレン?』

 か細い声が、おずおずと割り込んできた。

『言っておいて申し訳ないんだけど、その、食べ過ぎは——』

「んん?」

 エレンが、わざとらしく首を傾げる。

「何を言っている?  私は先ほど、『もちろん!』という言質を、確かに取ったはずだが」

『——っ』

 言葉に詰まる気配。内側で、エレナがあわあわと慌てている。

『せ、せめて飲み物はお茶にして!!  痩せるのが、大変なことに……っ』

 悲鳴じみた訴えに、エレンは目を閉じ、ひどく鷹揚に頷いた。

「ふむ。——善処しよう」

 その、あまりにも軽やかな一言で、エレナは理解した。

 今の彼に、そんなつもりは毛頭ない。善処という言葉に含まれる余白は、限りなくゼロに近い。つまり、食べる。食べたいだけ、好きなだけ、心のままに。

 ランプの灯が、静かに揺れる。エレナは胸の内でそっと覚悟を決めた。——後日のダイエットは、頑張らないと。そう、自分に言い聞かせながら。​​​​​​​​​​​​​​​​

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 石窯の熱気と、香ばしく焦げた生地の匂い。騒がしい酒場の一角で、エレンは今まさに至福の只中にあった。

 テーブルに広げた一枚を一口齧った瞬間、内側で声が弾ける。

『美味いっ!!  やはりピザは至高だ!!』

『——わぁっ!?』

 エレナの悲鳴が、同じ頭の中で跳ね返った。

『びっくりしたぁっ!  急に頭の中で叫ばないでよ、エレンっ!』

 返事はない。というより、返ってこない。エレンは次のひと切れを手に取り、とろけたチーズが細く糸を引くのを、うっとりと見つめていた。

『このチーズ……炙られた肉の脂が絡んで、生地の塩気を押し上げている……!  疲れた戦士の身体に染みるとは、まさにこのことだ……!  やはりベルノ王国のピザに比肩する食い物は存在しないな……っ!!』

 饒舌だった。いつもの落ち着き払った口調は、どこかへ吹き飛んでいる。剣の軌道を語るときと同じ熱量で、今は生地の焼き加減とチーズの伸びを論じていた。食を語るこの戦士は、普段の数倍は流暢である。

 そして——エレナの視線が、ゆるゆるとテーブルの端に向けられた。

 空になった皿が、重ねられている。

『……いち、に……さん……』

 指折り数える声が、だんだんと小さくなる。

『三枚……』

 絶望、と呼ぶほかない響きだった。

『一枚でさえ、太るのに……!!』

 内側で頭を抱えるエレナをよそに、エレンは次のひと切れに手を伸ばしながら、悠然と言い放つ。

『いいではないか。君の身体は、少し細身が過ぎる。もう少し、油を——』

『エレンっ!!』

 ぴしゃり、と稲妻のような声が落ちた。

『その先はレディーに失礼極まりないからねっ!?  次に言ったら、ピザ抜きにするからっ!!』

『な、なに……?  私は事実を——』

『エ・レ・ンっ!!』

『……むう』

 不服そうな唸りを最後に、エレンは口をつぐんだ。代わりに、ひと切れを大事そうに頬張る。まるで今のうちに食いだめしておこうとでも言うように。

 ——そんな賑やかな応酬が、ひとつの身体の内側だけで繰り広げられていることを、周囲の客は誰ひとり知らない。知るはずもない。銀髪に紅い瞳の少女が、静かに、優雅に食事を楽しんでいる。傍目には、ただそれだけの光景だった。

 と——。

 ふっ、とテーブルの向こうに影が差した。

 ランプの灯りを遮るように立ち止まったのは、一人の男。エレンの視線が、ゆっくりとひと切れから離れ、その影の主へと持ち上がる。​​​​​​​​​​​​​​​​

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