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#8:エレナの日常

Author: 渡瀬藍兵
last update Huling Na-update: 2025-05-19 20:13:52

「「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」」

嵐のような大歓声が、闘技場の石壁を物理的に揺るがすほどに巻き起こった。

『決まったァァァァァ!! エレン選手の勝利だァァァァァァァ!!! なんという技術! なんという鮮やかさ! 両者に盛大な拍手を送ってくれぇぇぇぇ!!!!』

頭上から降り注ぐ、割れんばかりの拍手の雨。

その熱狂の中心で、エレンは呼吸ひとつ乱さず、ゆっくりと白銀の剣を鞘に納めた。

カチン。

硬質な音が、戦いの終わりを告げる。

エレンは、まだ地に膝をついたまま呆然としているグレンの元へ、静かに歩み寄った。

彼は、砕け散った鎧の破片──かつて自分の身を守っていた魔力の結晶──を虚ろに見つめていたが、やがて顔を上げる。

そこに映ったエレンの姿を見て──ふっと、憑き物が落ちたように笑った。

「ハハ……ハハハ! 完敗だ。なんつー強さだよ……手も足も出なかったぜ!」

その笑顔は、悔しさよりも清々しさに満ちていた。

全力を出し切り、目の前に聳え立つ壁の高さを知った男の顔だ。

「いい剣だったぞ、グレン。最後の紅蓮剣、見事な気迫だった」

「……だが、溜めが大きく隙ができる。そこを工夫すれば、更に強力な武器となるだろうさ」

エレンは彼に手を差し出す。

彼は一瞬、きょとんとしてエレンの手と顔を交互に見たが、すぐにその意図を理解し、泥と煤にまみれた手で力強く握り返してきた。

「……ありがとよ。あんたに勝つために、また死ぬ気で剣を磨いてくるぜ。次はもっと、あんたをヒヤッとさせてみせる」

「今のアドバイスも、きっちり糧にしてみせるからな!」

その瞳は、すでに敗北の影を払い、新たな目標を見つけたかのように燃え上がっている。

「……ああ。楽しみに待っているよ」

万雷の拍手と歓声が降り注ぐ観客席を一瞥する。

(……“いい”試合だった。私の実力は十分に示せただろう)

エレンは観客席に向かって静かに一礼し、背を向けて歩き出した。

まだ、戦いの幕は開いたばかりだ。

『勝者は――エレンだァァァ!! 圧倒的! 魔法を使わぬ剣士、初陣を見事勝利で飾りましたァァァ!!』

地鳴りのような大歓声が背中を押す。

だが、ゲートをくぐり、薄暗い通路へと足を踏み入れると、その熱狂は急速に遠のいていった。

(……ふぅ。エレン、お疲れ様。すごい戦いだったね。……ちゃんと、満足できた?)

試合の興奮冷めやらぬ意識の奥で、労うようにエレナが静かに問いかける。

その声には、怪我なく終わったことへの心からの安堵が滲んでいた。

(ああ。初戦の相手としては申し分なかった。久々に血が騒ぐ、ヒリつくような感覚を味わえた。……実に楽しかった)

エレンは内心の昂ぶりを隠すことなく答える。

その声は、極上の獲物を仕留めた獅子のように満足げだ。

(なんだか……最後の方、ちょっとお師匠様みたいだったよ? グレンさんのこと、すごく見定めるような目で見てたから)

エレナがくすくすと楽しそうに笑うと、エレンの気配が少しだけバツが悪そうに揺らいだ。

(……ふん。磨けば光る原石だったからな)

(ふふ、そういうところもエレンらしいね)

石造りの回廊を抜け、関係者以外立ち入り禁止の区画へ。

重厚な扉を開け、あてがわれた「待機室」へと入る。

鍵をかけると、外の喧騒は完全に遮断され、静寂が満ちた。

(……さて、エレナ。名残惜しいが、そろそろ代わろうか。長居は無用だ)

(うん。わかった。ありがとう、エレン)

エレンは長椅子に腰を下ろし、深く目を閉じると、意識の主導権を、あるべき持ち主へと譲渡する。

感覚が反転する。

研ぎ澄まされた刃のような緊張が溶け、柔らかく、温かな波が満ちていく。

視界が一度、真っ白に染まり──次に色が戻った時。

身体に感じる重みや、肺を満たす空気の匂いが、先ほどまでの「戦場の鉄錆の匂い」とは少し違って感じられた。

埃っぽい部屋の匂い。微かなお香の香り。

「よし、っと。私の身体、ただいま」

手足を軽く動かし、感覚を確かめる。

闘技場の喧騒が、一枚の薄い膜を隔てたかのように、少しだけ遠くに聞こえる。

深紅の瞳が、本来の優しい色へと戻っていた。

(ねえ、エレン。せっかくだから、他の選手の試合も少し観ていかない? 他にも面白そうな魔法を使う人がいるかもしれないし……)

ウキウキとしたエレナの提案。

だが、即座に冷静なツッコミが脳裏に響いた。

(ふむ、それも一興だが……。確か君は今日、昼過ぎから教会で外せない『務め』があったはずだ。忘れたわけではあるまいな?)

エレンの、少し呆れたような、それでいて的確な指摘。

(あ"っ……!!)

(──そうだった!!)

時が止まる。

すっかり、綺麗さっぱり、記憶の彼方へ吹き飛んでいた。

闘技場の熱気に当てられて、午後に予定していた「民衆への祈りの時間」のことが、頭から完全に抜け落ちていたのだ。

顔から血の気が引いていくのがわかる。

(わ、わぁぁ! ありがとうエレン!! 教えてくれなかったら、大変なことになるところだったよ!)

(やれやれ……。急げよ、聖女様)

エレナは心の中でエレンに感謝しつつ、弾かれたように椅子から立ち上がった。

慌てて選手控室の扉を押し開け、飛び出す。

興奮冷めやらぬ闘技場の出口を抜け、石畳を蹴る。

一路、教会へと向かって、スカートの裾を翻しながら全力で走り出した。

〜*〜*〜*〜

息を弾ませて重い扉を押し開けると、そこには既に、色彩豊かなステンドグラスの光が降り注ぐ静寂の空間が広がっていた。

聖堂に満ちるのは、長年焚き染められた蝋燭の甘い香りと、磨き上げられた古木の匂い。

その神聖で重みのある空気が、全力疾走で早鐘を打っていたエレナの鼓動を、ゆっくりと鎮めていく。

視線の先には、救いを求める多くの人々。

彼らの表情に浮かぶのは、切実な苦悩と、縋るような微かな希望だ。

「エレナ様、お待ちしておりました……。病気の妻を、どうか助けてはいただけないでしょうか……」

「聖女様……。戦地で死んだ私の息子は、今頃、どうなってしまったのでしょう……」

「あ、あの、エレナ様! 私の、その……意中の彼との恋の行方は……!」

病、死別、そして恋慕。

持ち込まれる言葉は千差万別で、けれどどれもが、彼らにとっては世界の全てを占めるほどの重荷だった。

(恋の相談は……神様というより、ご本人の勇気次第かな? なんて思っちゃうけど)

内心で小さく苦笑しつつも、エレナは彼らの言葉を一つも零さない。

話を聞き、背中を押し、前を向くための祈りを捧げること。

──エレンが、その剣で物理的な命を守るように。

エレナには、祈りでしか救えない心がある。

それは、彼女が聖女見習いとして抱く、確固たる信念だった。

その時だ。

人垣の中から、一際痩せこけた老人が進み出た。

枯れ木のように震える指先が、エレナの袖を力なく、しかし必死に掴む。その瞳に宿る悲痛な色が、エレナの胸を刺した。

「お爺さん。……奥様は、どのような経緯で、そのようなお辛い状態に?」

「あ、ああ……それが、数日前に森へ薪を取りに入った際に、なにやら得体の知れない魔獣の瘴気に当てられてしまったらしくての……。それ以来、日に日に弱っていって……」

老人の唇から、乾いた絶望がこぼれ落ちる。

(魔獣の瘴気……! それも、森で直接浴びてしまったなんて、一番厄介なパターンだ。一刻も早く浄化しないと、手遅れになる!)

脳裏をよぎる最悪の想定に、エレナの背筋が粟立つ。だが、その焦りを表情には決して出さない。

目の前の彼は今、糸が切れたように崩れ落ちそうなのだから。

「……薬師も匙を投げる有様で……。もう、神にすがるしか……」

肩を震わせ、今にも泣き出しそうなほどか細い声。

彼に残された道は、もうここにしかなかったのだ。

──助けられる命なら、必ず助けてみせる。

エレナの胸の奥で、確かな使命感が熱を帯びる。

「わかりました。状況は理解いたしました。──今すぐ、奥様の元へ参りましょう」

「そ、そんな……! エレナ様自ら、わしのような者の汚い家へお呼びするなど……」

「目の前に助けられるかもしれない命があるのなら、そこに迷う理由なんて、ひとつもありませんから」

エレナはきっぱりと言い切り、強張る老人の心を解くように優しく微笑んだ。

その慈愛に満ちた表情は、彼にとって何よりの“救い”だったろう。

すると、背後から衣擦れの音が近づく。

振り返れば、司祭が穏やかな面持ちで佇んでいた。

「そうだね、エレナ君。君がそう言うのなら、それが神の御心であり、最善なのだろう。ここは他の者に任せ、すぐにお爺様の奥様の元へ行って差し上げなさい」

「司祭様……! ありがとうございます」

深く頭を下げ、エレナは再び老人の手を取る。

今度は支えるように、力強く引いて立ち上がらせた。

そして二人は並んで歩き出す。

薄暗い聖堂を抜け、眩い午後の日差しが待つ外の世界へと。

〜*〜*〜*〜

案内されたのは、王都の喧騒から少し外れた下町。

路地裏にひっそりと沈む、小さな木造家屋――まるで時間に置き忘れられたような家だった。

扉は軋み、開いた瞬間、湿った土と薬草が混じった鋭い匂いが鼻を刺す。

外の陽光とは無縁の、薄闇の世界。

エレナは小さく息を呑んで室内へ足を踏み入れた。

部屋の奥。

簡素なベッドの上で、痩せ細った老婆が身を縮めるように横たわっている。

肌は土気色に沈み、呼吸は「ヒュー…ヒュー…」と擦れた音を立て、胸の上下すらぎこちない。

そして――その肌に浮かぶ、薄紫の痣めいた文様。

瘴気に侵された者だけに刻まれる、静かな死の刻印。

進行は深い。普通なら、もう助からない領域だ。

それでも。

エレナは迷わず老婆の枕元に膝をつき、冷え切った手を包むように握りしめる。

(……冷たい。でも――まだ、灯ってる)

魂の揺らぎが消えていないことを、彼女は確かに感じていた。

「──光の根源よ。ここにある命の律動を、どうか穢れより救い上げて……」

その祈りの響きが空気に触れた瞬間、世界がわずかに澄んだ。

エレナの両手からふわりと零れたのは、溶かした黄金にも似た温かな光。

触れた者の痛みまでも溶かしてしまいそうな、慈愛に満ちた輝きだった。

陽だまりのようなその光は、老婆の弱りきった身体をそっと包み込む。

長い時間、胸の奥で淀んでいた瘴気が、朝靄を払うように静かに後退していく。

皮膚に刻まれていた紫の文様は、光に焼かれ、蒸気のように淡く消えた。

「おお……おおお……!」

背後の老爺が、胸を震わせながら声を漏らす。

“奇跡”と呼ぶには手触りがあまりに温かく、

“技術”と呼ぶにはあまりに神々しい光景。

すう……すう……。

さっきまで苦痛に歪んでいた老婆の呼吸が、穏やかな寝息へと変わっていく。

険しかった眉間の皺がほどけ、

土気色だった頬には、ひと雫の命が戻るような赤みが差した。

エレナは静かに微笑み、老爺へ向き直る。

「もう大丈夫ですよ。瘴気は完全に祓われました。

数日もすれば、いつものお姿で目を覚まされるはずです」

「……本当に、ありがとうございます……! エレナ様……!」

「このご恩は、一生……一生忘れませぬ……!」

老爺はその場に崩れ落ち、震える肩を押さえながら泣き続ける。

その姿にエレナの胸の奥がじんと熱を帯びる。

奇跡なんて言われるほど立派なものではない――

でも、この光だけは誰かの痛みを確かに救える。

「どうか顔を上げてください。お二人がこれからも健やかであるよう、私も祈っています」

そっと微笑む。

剣も槍も持てない彼女に許された、唯一の戦い方。

窓から差し込む西日が、老婆の安らかな寝顔と、

涙を拭う老爺の横顔に柔らかく降り注ぐ。

(……うん。ここが、私の戦場。

──これが、“私の”戦い方なんだ)

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